第二十八話 前兆
菊花たちが植林作業を終え、王都へ戻る馬車の中でうつらうつらとしていた、ちょうどその頃――。
ヴァロンタンの執務室で明日以降の予定を確認をしていた香樹は、自国の臣下たちへ掛ける時よりも数段低い声で言った。
「戌の国の貴族は、馬鹿揃いなのか……?」
言い訳のしようもなく、ヴァロンタンは項垂れた。
その顔には、「まさか自国の貴族がここまで阿呆だとは思いもしなかった」と書いてある。
「暴言の次は、盗用とは……。我が国のほうがまだ良いように思えてきたぞ」
あまりにも滑稽だからだろうか。
不憫そうに見てくる香樹に、ヴァロンタンはうめき声を上げて頭を抱えた。
「おっしゃるとおりです……」
菊花への暴言に対する損害賠償請求がようやく終わり、明日からはようやく予定通りに過ごせると、互いに気を抜いていた。
香樹から夫婦円満の秘訣を尋ねられて、意気揚々と答えていた――その最中。
駆け込んできたのは、リリーベルに同行していた護衛の一人。
まさか妻になにかあったのか⁉︎と詰め寄ったヴァロンタンに、護衛は言った。
曰く、とんでもない領主がエルナトにいる、と。
護衛が菊花たちより一足早く戻ってきたのは、その報告のためだった。
エルナトの酒場で行われていた賭博に引っかかりを覚えたリリーベルは、密かに護衛に頼んで調べさせたらしい。
結果、エルナトの領主がある施策を実施していることが分かった。
四害駆除と名付けられたその施策は、領内に存在する四種の害獣害虫――ネズミ、スズメ、蚊、ハエ――を駆除することで、病気の蔓延を阻止するというものであるらしい。
なるほど、確かに良い案だ――と香樹は思った。
事前に予防できるに越したことはない。
とはいえ。とはいえ、だ。
やり方が、菊花の提案に酷似している。
原因となる害虫を買い取ることで、お互いに利益が生まれる。
それは、蝗害を収束させるために菊花が呈してくれた案である。
似ているなんてものではない。
まったく同じなのだ。
「……愚かな。王都から離れていれば、発覚しないとでも思ったか?」
護衛から差し出された報告書を奪うように受け取ると、香樹は凍てつくようなまなざしで目を通す。
リリーベルの証言によれば、その領主は王弟にこう言っていたそうだ。
巳の国の正妃が提案したという、蝗害収束のために飛蝗を買い取る案。そこから思いついた策なのです――と。
その領主は、王弟に忠告されたにもかかわらず無視したようだ。
あまつさえ、自領では自らが一から考えた施策だと吹聴しているらしい。
「…………」
沈黙が恐ろしい。
香樹の影がむくりと起き上がり、蛇になって牙を剥いてきそうだ。
獣人同士、それなりに耐性はあるほうだが、さすがのヴァロンタンもこれには恐怖した。
もしも彼が犬の姿であったなら、尻尾を丸めてキュンキュンと許しを請うていただろう。
幸いにも成人している彼はそのように無様な姿を見せることはなかったが、犬の本能とでも言おうか、腹を見せて降伏したい気持ちになった。
「申し訳ない……」
報告書を胸に、ソファへ沈み込むヴァロンタン。
その顔は、真っ青である。
「おい、ヴァロンタン。もう次はないからな。私のやり方でやらせてもらう」
「あ、ああ、任せるよ。好きにしてくれ」
もうお手上げです。
そう言って、ヴァロンタンは白旗を揚げるように力なく手を振った。
死してなお、復讐せんとする蛇の獣人。
そのように強い執着を持つ者を、ヴァロンタンが止められるはずもないのだ。
おそらく、国王さえ目を瞑るだろう。
香樹を止められるのは、彼の番である菊花と竜の獣人くらいのものである。
「そうか。では心置きなくやらせてもらおう」
クククと笑う香樹は、目ばかりギラギラしていて死体妖怪のようである。
側に控えていた花林が手慰みになればと綿花糖を渡したが、おぞましさは増すばかり。
香樹から受け取った報告書を改めて確認していた花林も、みるみる間に表情を険しくさせた。
「またしても王弟殿下がらみですか。王弟殿下は菊花様へ確認しなさいと言ったのに、領主は聞かなかったと……。ならば、手加減する必要はございませんね、陛下」
「さよう」
しれっと恐ろしいことを言い放つ花林を、咎める者はこの場にいない。
報復方法というより呪詛に聞こえる二人の会話を右から左へ受け流しながら、ヴァロンタンは「リリィに会いたい」と力なく訴えた。




