白い厄災2
『えっ、なんで伯爵がシャロちゃんに向かって頭を下げているの』
「ラドクロス様、体調が悪いのでしたら御無理はなさらず、どこかで休みましょう」
慌てるアザレアに、ラドクロス伯爵は膝をついたまま顔を上げる。
「私は先ほどの甘い紅茶で元気いっぱいです。ところでアザレア様、ローラドの街の果樹園はご存じですか」
「昨日訪れたのは時計塔の礼拝堂とレストランだけで、ローラドの街に果樹園があるのですか?」
急に果樹園の話になって、アザレアは不思議そうに首をかしげる。
ラドクロス伯爵は、シャーロットの真正面で膝をついたまま姿勢を変えようとしない。
「そうですね、私とアザレア様は礼拝堂で神官ホプキンスと面会していたので、果樹園には入っていません」
『アザレア様、果樹園は時計塔の裏にあります。昨日シャロちゃんは果樹園で、沢山青魔トンボを捕まえたの』
シャーロットの中の人がフォローすると、ラドクロス伯爵はにっこり頷いた。
「今朝、果樹園の桃が一晩で熟しました。それになにか心当たりはありませんか、シャーロット様」
『昨日見た白魔桃の実はまだ青くて小さかったけど、一晩で完熟状態になるなんて……小魔麦畑と同じ。もしかして、それはシャロちゃんの《腐敗=成長促進》呪い?』
ラドクロス伯爵の目の前の土には、小さいけどしっかりした足跡が付いていた。
膝をついたラドクロス伯爵が立ち上がるそぶりをすると、エレナがシャーロットを庇い立ちふさがる。
「シャーロット様のメイドは気付いていた様子。我が領地は長年畑の地質改良を行い、とても柔らかく保水力の高い土を作りました。だからこのように、地面にくっきりとシャーロット様の足跡が残ります」
シャーロットの履く靴は深い森冒険仕様、先端は金属で覆われ靴底はスパイク付きで地面にしっかり食い込む。
別荘に滞在している間、一度も雨は降らないので、畑の足跡はそのまま残っている。
《腐敗》呪い範囲は半径五メートル、畑の土に残った足跡が消えるまで効果は続く。
それはシャーロットの中の人さえ驚く、予想外の出来事だった。
『《腐敗=成長促進》は植物を八倍速で成長させる。シャロちゃんが畑を駆け回ると、五日後収穫予定の小魔麦が十五時間で収穫できるようになった?』
中の人の独り言を聞いたラドクロス伯爵は、大きく頷く。
「やはり、豊穣の加護持ちはシャーロット様の方でしたか」
「ラドクロス様のおっしゃるとおり、ローラドの街の果樹園にも足跡が残っているでしょう。上級薬草も小麦畑も果樹園もシャーロットちゃんの呪い、いいえ加護の力」
そう言うとアザレアは深々と頭を下げ、ラドクロス伯爵に詫びる。
「王都聖教会は正しいのです。私はなにも力を持たない偽者、豊穣の女神ではありません」
『どうしてアザレア様、謝罪なんかしないで。アザレア様はとても綺麗で優しくて、シャロちゃん憧れの女神様です』
頭を下げ続けるアザレアに、中の人はオロオロとうろたえるばかり。
「これまでの様々な奇跡は、全てシャーロットちゃんが起こしました。私は少し女神様に似ているだけの普通の女で、シャーロットちゃんこそ女神が地上に遣わした天使」
この一年でアザレアを豊穣の女神と崇める声は大きくなり、行く先々でひと目アザレアの姿を見ようと人々が集まり熱狂する。
それがアザレアには、とても心苦しく感じるようになった。
「どうかアザレア様、頭を上げてください。私は友人の神官ホプキンスから、王都聖教会の愚痴を散々聞かされました。五十年に一度現れた貴重な聖女候補を、聖教会と王族と母親が、私利私欲のため奪い合っていると」
「ラドクロス様、それはシャーロットちゃんの妹、シルビア様のことですか?」
「十歳になったばかりの子供を、お披露目と称して毎晩深夜までパーティに参加させる。彼女を戦場の最前線に連れて行き防御結界を張らせたり、大神官の腰痛が悪化したから治せと礼拝中に連れ出される」
育児放棄されたシャーロットと違って、シルビアは母親に甘やかされて、気まぐれで我儘な性格をしていると思っていた。
だが真実は、類い希な魔力を持つシルビアを利用するため、大人達は彼女が機嫌を損ねないように、わざと甘やかしているのだ。
「そして今、聖教会はシルビア様ひとりに王領全てを覆う巨大聖結界を張らせている。あんな連中にシャーロット様の力を知られてはなりません。アザレア様、貴女がシャーロット様を守るのです」
ラドクロス伯爵は、何もない退屈な田舎と軽んじられる領地を美しいと褒め称え、天真爛漫に遊び回るシャーロットにとても好感を持った。
そして彼女は平気な顔で、第三王子フレッドの指を喰わせると言うほど破天荒だ。
王都聖教会にシャーロットの豊穣の力を知られたら、最初にやることは性格の矯正と洗脳だろう。
「でも豊穣の力を持たない私が、これからも偽女神を演じなくてはならないの」
アザレアは、哀しげな顔で宙を見る。
この世界の人々にとって豊穣の女神は絶対神、その女神に成り済ます行為は、凄まじい良心の呵責に襲われる。
『魔力が強くても卑劣で悪いヤツは大勢いる。でもアザレア様は清く正しく誇り高く、慈愛の心に満ちた尊き神。シャロちゃんにとってアザレア様こそ、真の豊穣の女神だ!!』
中の人はゲームで何度もアザレアの蘇生のお世話になって、母親の愛を知らないシャーロットはアザレアから深い愛情を与えられた。
「アザレア様、メイドの私が会話に加わるのをお許しください。私はシャーロット様の隣でずっと貴女を見てきました」
エレナは眩しそうにアザレアを見つめる。
シャーロットはエレナを姉のように慕ってくれるけど、アザレアのような慈愛に満ちた母性を与えることは出来ない。
「アザレア様の心を知らず崇める人々も、偽者と呼ぶ聖教会も全部捨て置いてください。貴女はシャーロット様だけの豊穣の女神です」
「私はシャーロットちゃんだけの女神、そう思えばいいの?」
アザレアの虚ろにさまよう瞳に光が戻る。
シャーロットの身体は嬉しくてその場で飛び跳ね、エレナは大きく頷き、ラドクロス伯爵は笑いながら拍手する。
「分かりました。今この瞬間から私は、シャーロットちゃんの豊穣の女神になりましょう」
『わーい、シャロちゃん豊穣の女神様大好き。は、離せエレナ!!』
「ゲームオ様。どさくさにまぎれて、嫁入り前のアザレア様に抱きつこうとしないでください」
シャーロットとエレナのじゃれ合いを見て、アザレアはとても久しぶりに声をあげて笑う。
ラドクロス伯爵は徐々に黄金色に染まる小魔麦畑を眺めながら、アザレアに声をかけた。
「ではアザレア様、急いで別荘に戻って準備してください。時計塔へ避難しましょう」
「そうですね、お昼過ぎには出発できるようにします」
アザレアたちは別荘に戻ろうと歩き出したが、シャーロットはその場を離れない。
青い麦の穂が風になびく広い畑の先まで、鋭い眼差しで見つめたいた。
『ここら辺一体は【白い厄災】で滅びるはずだけど、時計塔に結界を張れる神官が赴任してきた。ゲームのシナリオと少しだけ状況が違う……なんだ、足が動かない』
「どうしたのシャーロットちゃん。早く別荘に帰りましょう」
アザレアに声をかけられても、シャーロットは動かない。
これは中の人の意志ではなく、シャーロット自身の意志。
『エレナ、ローラドの街はどの方向だ』
「ここから左の方角に進むと時計塔が見えてきます」
『僕が、私が…ここから時計塔まで…走って…畑の小魔麦の穂が色付…』
中の人は慌てて自分の口を両手で塞いだ。
意識が、混同する。
強く激しいシャーロットの感情が、中の人の思考を押さえつける。
『待ってシャロちゃん!! ローラドの街まで畑の中を走って、小魔麦畑を金色にするって無理だよ。街まで馬車で二時間だから、三十キロ以上距離がある』
しかし中の人の意思を無視して、シャーロットの身体は駆け出す。
「どこに行くのですかゲームオ様!! 止まってください」
『ダメだエレナ、これは僕じゃない。シャロちゃんが、とても怒っている』
「ゲームオ、いいえシャーロット様。私エレナも一緒に走るので、少しスピードを落としてください」
併走するエレナのスピードに合わせてシャーロットは小走りになり、その間にアザレアとラドクロス伯爵が追いつく。
『僕は、私は…畑の中を走って時計塔に向かう。それからラドクロス伯爵、明日早朝までに、ローラドの街へ兵を派遣してくれ』
「シャーロット様、兵を派遣しろとは一体」
突然、子供に命令され戸惑う伯爵に、アザレアは大丈夫です。と頷いた。
『ラドクロス伯爵、シャロちゃんはここからローラドの街までの畑を金色にするつもりだ。きっと農民だけじゃ手が足りない、兵にも小魔麦収穫の手伝いをさせる』
「おおっ、ありがたい。シャーロット様は我々に豊穣を授けてくださるのですね」
ラドクロス伯爵が感嘆の声をあげている間に、シャーロットはその場を駆け抜けて後ろを振り返らない。
巨人族の血が流れるシャーロットは成人男性以上の体力を持ち、《老化=1.2倍速》呪いでマラソン選手並みの速度だろう。
『今のシャロちゃんの脚力とスタミナ・パワー・根性なら、四時間ほどでローラドの街に到着する。エレナはシャロちゃんの先を走り、もし行く手を防ぐヤツがいたら排除しろ』
「かしこまりました、シャーロット様」
青々とした小魔麦畑の中を突っ切って進むと、遙か彼方に赤煉瓦の時計塔が見えた。
三十分ほど走って上級薬草蜜入りのドリンクで水分補給、途中馬車で追いついたアザレアと一緒に昼食をとる。
『シャロちゃんが走った畑は十五時間後に色付くから、アザレア様は街の人全員に、小魔麦の収穫を手伝わせて』
「分かったわシャーロットちゃん、十五時間だと明日の明け方三時。私は豊穣の女神の祝福と告げて、街中の人間を叩き起こせばいいのね」
シャーロットはアザレアと分かれ、再び畑の中を走る。
途中何人かの農奴と出会うが、別荘に滞在している可愛らしい貴族のお嬢さんの噂を知っているので、邪魔されることなく温かく見守られた。
しかし三時間近く走った頃から、中の人に限界が来る。
『ぜぇぜぇ、ひぃひぃ、シャロちゃんちょっと休ませて。エレナ、何か飲み物をちょうだい』
シャーロットの意志に引っ張られてフルマラソンを走る中の人は、喉がカラカラで足はパンパンに腫れても、身体は倒れる事を許さず時計塔に突き進む。
「ゲームオ様、これで汗を拭いてください。靴に大きな穴が空いています、取り替えましょう」
エレナの呼びかけに、シャーロットはやっと走るのをやめた。
畑に座り込んだシャーロットの中の人に、エレナは濡れタオルを渡しゆっくりと靴紐を解いて脱がせる。
『ねぇ、シャロちゃん聞いて。マラソンにはペース配分とか水分補給とか、休憩も大切だよ』
中の人は独り言でシャーロットに語りかけるけど、裸足の指がウズウズ動く。
『えっ、シャロちゃん、休憩終わり? まだ靴履いてないけど、裸足でいいって。うっ、走りすぎて脇腹痛いっ』
超スパルタなシャーロットの意志に引きずられ、中の人は身体の痛みにヒィヒィ言いながら時計塔を目指して走る。
軟らかい土の上に刻まれた小さな足跡は、ローラドの街まで続く。
太陽が西に傾き、時計塔の鐘が十六回鳴り響いた頃、シャーロットの中の人はやっとローラドの街を取り囲む低い石壁までたどり着いた。
『はぁひぃ、やっと街に着いたぁ。もう足が動かない』
ローラドの街を取り囲む壁はシャーロットの背丈ほどで、とてもスタンピードを防げそうにない。
シャーロットは、壁の外側に並んで植えられた白魔桃の樹を見つめていた。
『シャロちゃん、桃の木が気になるの? でも身体は限界、街の中に入って休憩しよう。えっ、スタンピードまで時間が無いって、ひぃいーっ、まだ走るの!!』
そしてシャーロットは、中の人の悲鳴を無視して街の周囲をぐるりと走り始めた。




