シャーロット、ラドクロス領主を訪ねる
シャーロットは辺境伯領で十一歳の誕生日と、二度目の冬を過ごした。
春には北山脈の大要塞から辺境伯ダント・トーラスが戻り、交代でダニエル王子が大要塞に派遣される。
ダニエル王子が大要塞での半年間の実地訓練から戻れば、ふたりの結婚式が行われる予定だ。
アザレアはこの数ヶ月、結婚式の準備に忙しい。
その間シャーロットは武闘派の辺境伯ダントにとても気に入られ、一緒に昆虫採集をしたり深い森でハイゴブリンの集落を速攻で壊滅させたりした。
また二ヶ月に一回の頻度でアンドリュース公爵が辺境伯邸を訪れ、毎回シャーロットに異国の珍しい品々をプレゼントした。
プレゼントの中で最もシャーロットが喜んだのは、東の小島の沼地で育てられた小さな細長い種だった。
*
開け放たれた窓から爽やかな涼しい風が吹く頃、アザレアはシャーロットを連れてサジタリアス王国最西端にあるラドクロス領を訪れる。
「アザレア・トーラス様、それにシャーロット・クレイグ様。遠路はるばる、ようこそ我が領地へいらっしゃいました」
シャーロット達は、小高い丘の上に建てられたミントグリーンの屋根が可愛らしいラドクロス伯爵所有の別荘にいた。
別荘の周囲は広大な緑の絨毯、もうすぐ収穫を迎える小魔麦畑が広がる。
最初アザレアはラドクロス伯爵の屋敷に招かれたが、病弱な夫人にシャーロットの《老化》呪いが影響するかもしれないと断り、別荘に滞在していた。
「お久しぶりですラドクロス伯爵。その後、奥様の体調はいかがですか?」
「アザレア様から戴いた特別製ハチミツのおかげで、妻は一度も胸の痛みがなく毎日元気に過ごしております。アザレア様には感謝してもしきれません」
「私こそラドクロス伯爵のお口添えで、薔薇魔蜘蛛レース刺繍の結婚式ヴェールを作ることが出来て、とても嬉しいです」
この地域にしか生息しない薔薇魔蜘蛛の糸で作られた美しい織物は、ミスリル糸と同格の最高級品。
薔薇魔蜘蛛のヴェールをまとって結婚式を挙げるのは、全ての花嫁達の憧れだった。
応接室のテーブルの上に、まるで木々の間から差し込む木漏れ日を紡いだような光り輝く不思議な薄い布が広げられている。
複雑に編まれたレース模様は白い絵画と呼ばれる一点もので、金剛石百個より価値があった。
アザレアは触れると、薔薇魔蜘蛛のヴェールがふわりと浮き上がりシャリシャリと硝子の擦れるような音が聞こえる。
「あれ? この音、どこかで聞いたことがある」
「シャーロットちゃん、このヴェールをよく見て。キラキラ光っているのはアイスドラゴンの鱗よ」
「あっ、ほんとだ。薔薇刺繍の葉っぱがドラゴンの鱗になっている。鱗が虹色に輝いてとても綺麗です」
深い森で討伐したアイスドラゴンの身体は大きすぎて全部持ち帰ることが出来ず、貴重部位だけ素材回収された。
最高級防具素材に使われるアイスドラゴンの鱗千枚を、アザレアは薔薇魔蜘蛛レース刺繍に縫いつけてもらった。
「薔薇魔蜘蛛のレースにアイスドラゴンの鱗、これほど豪華なヴェールは王族方でも身につけられないでしょう」
「でも女神様。こんなにたくさん鱗が付いたら重たくてヴェールが破れちゃう」
「それは大丈夫、こうやって風魔法でヴェールを浮かすの」
アザレアは微笑みながら呪文を呟くと、室内に風が吹きテーブルの上に折りたたまれたヴェールが床から十センチほど浮かび上がる。
風を纏ったヴェールはアザレアの背中で大きく広がり、その姿を見たシャーロットは驚きの声をあげた。
「ふわぁ、女神様に翼が生えた」
「おおっ、なんという美しさ。まるで豊穣の女神降臨の場面だ。私はこれほど薔薇魔蜘蛛のヴェールが似合う人を見たことがない」
瞳を輝かせてアザレアを眺めるシャーロットと、おもわず両手を合わせ拝み出すラドクロス伯爵。
「シャーロットちゃん、ほら、ここにいらっしゃい」
アザレアはシャーロットに手招きすると、ふわりと頭から薔薇魔蜘蛛のヴェールで覆う。
黒髪のアザレアがヴェールをかぶると、ミステリアスで神秘的な雰囲気。
光り輝く金髪のシャーロットはとても華やかで、二人はまるで夜空に輝く月と一等星のようだ。
「シャーロットちゃんもヴェールがとても似合って、天使みたいに可愛い」
「あの小さかった、わ、私のシャーロット様が、まるで花嫁のようです」
ほぼシャーロットの保護者状態のエレナは、感極まって滂沱の涙を流す。
「でも女神様、このヴェール頭が痛くなるくらい重たいです。すぐ取ってください」
「アイスドラゴンの鱗を千枚縫いつけたので、ここに運ぶのに男三人がかりでした。普通ならヴェールに押し潰されてしまいますが、シャーロット様は平気なご様子です?」
シャーロットはこの一年で巨人族の血が顕著に表れ、豪腕に磨きがかかり成人男性以上の体力を持つようになった。
「それからあとひとつ、ラドクロス伯爵にお願いがあります。辺境伯領には小さな教会しかなくて、ラドクロス領聖教会の神官様に結婚の儀式をお頼みしたいのです」
少し困った様子でお願いするアザレアに、ラドクロス伯爵は首をかしげた。
「豊穣の女神の呼び名高いアザレア様と、初代サジタリアス王の再誕と噂のダニエル殿下との婚礼なら、王都から最高位の神官を呼べば宜しいのでは?」
「実は結婚式が豊穣祭の十日前で、豊穣祭の準備が忙しいと王都の神官に断られてしまいました」
「神官達はアザレア様の結婚式より豊穣祭を優先したのです。豊穣の女神を蔑ろにする、罰当たりな神官どもめ、許せんっ」
ダニエル王子とアザレアの婚礼日を決めたのは、王太弟アンドリュース公爵だった。
アンドリュース公爵から後見を受けるダニエル王子の結婚式と、次期国王候補最有力のフレッド王子が参加する豊穣祭。
どちらの式典に参加するか、王族の派閥争いに貴族達は頭を悩ませていた。
「私は女神様と少し姿が似て黒髪なだけで、本当の豊穣の女神ではありません」
「アザレア様がもたらした特別なハチミツ酒は、私の妻や、怪我や病に苦しんでいる人々を救いました」
「それは私の力ではありません。豊穣の聖女候補シルビア様は、負傷兵三十人をまとめて治癒するほどの魔力の持ち主」
人々に豊穣の女神のように崇められ、豊穣の聖女より女神の方が格上といわれ、アザレアはとても心苦しい。
強い声で否定したアザレアに、ラドクロス伯爵は申し訳なさそうに頭を下げる。
「私の知人で、聖教会での出世争いに破れこちらに左遷された神官がいます。とても優秀ですが偏屈な男。もし彼でよければ、アザレア様にご紹介しましょう」
「私こそ、はしたなく大声を出して申し訳ありません。ぜひその方と会わせてください」
それからアザレアは、伯爵が連れて来た職人に薔薇魔蜘蛛刺繍のヴェールの手直し箇所を指示して、夕方はラドクロス伯爵夫人から食事に招待された。
別荘の滞在は五日間。
婚礼準備に忙しかったアザレアは、久しぶりにシャーロットとゆったりした時間を過ごす。
「シャーロットちゃん、見かけだけの女神でごめんなさい。私が本物の女神なら、辺境伯領に魔獣は現れないわ」
「女神様、魔物がいるからグリリン(グリフォン)とも会えたの。それに私は魔獣の美味しいお肉が大好きだから、魔獣がいなくなったら困ります」
シャーロットが本気で言っている様子に、アザレアは微笑んだ。
その日ラドクリス領までの馬車の旅で疲れたシャーロットは、夜中一度も起きず朝までぐっすり眠った。
翌日朝早く目覚めると、収穫前の緑の麦の穂が風にそよぐ緑の中を、虫網を手に駆けずり回る。
エレナが別荘の庭師に尋ねると、害魔虫退治になるので昆虫採集は大歓迎と言われた。
二日目の夜、シャーロットの中の人はちょっとだけ現れて、二時間ほどおやつのクッキーを焼いて引っ込んだ。
三日目の朝。
普段より寝坊をしたシャーロットは、別荘周囲から聞こえる人々の賑やかな声に目を覚ます。
「おはようエレナ、なんだか外が騒がしいわ。お祭りでも始まったの?」
「シャーロット様おはようございます。屋敷周囲の小魔麦が色づいたので、農民達が収穫を行っています」
「小魔麦の収穫? でもみんな大きな声で楽しそうに歌をうたっている」
「普段より一週間も早く小魔麦が実ったので、喜んだ農民達が収穫歌をうたっているのです」
シャーロットは二階の寝室の窓から外を眺めると、不思議なことに遠くの小魔麦はまだ緑なのに、別荘周囲の小魔麦畑だけ黄色く色づいている。
シャーロットは寝間着を着替えて一階の食堂へ向かうと、テーブルにパンや果物や野菜が山のように積まれ、アザレアが戸惑った顔で紅茶を飲んでいた。
「おはようございます女神様。わぁ、焼きたての丸い白パンと甘い香りの白と赤のフルーツが沢山。それに木箱一杯の魔人参と紫鬼カボチャ」
「それが朝早く、農民達が私に差し入れを持ってきたの。この地の収穫物はラドクロス伯爵に収めないといけないのに困ったわ」
差し入れた農民達は、別荘の周囲だけ小魔麦が実ったのは豊穣の女神の奇跡だと言っていた。
「アザレア様、これは農民達から豊穣の女神様への捧げ物です。どうか受け取ってやってください」
下級騎士の家に生まれ平民と同じ生活をしていたエレナは、農民たちの気持ちがよく分かる。
豊穣の聖女候補シルビアから奇跡を授かるには、大神官か王子フレッドの口利きが必要で、平民には手の届かない存在。
しかし豊穣の女神アザレアの特別なハチミツ酒は、冒険者ギルドに少し高めの依頼料を払えば平民でも手に入る。
豊穣の女神の化身アザレアの噂は。辺境の冒険者から平民へ広がり、聖教会が危惧するほど人気が跳ね上がった。
「女神様、白い果物はシャキシャキした歯ごたえで甘酸っぱくて、赤い果物は中の小さい種がプチプチして面白いです」
困るアザレアをよそに、シャーロットは手際よく果物をカットすると焼きたての白パンにミルククリームと果物を挟み、フルーツサンドにして食べる。
夜中に中の人が手際よく料理するので、シャーロット自身も簡単な料理が出来るようなった。
「でもこんなに沢山の食べ物、辺境まで持って帰れないわ。そうだわ、お昼に神官様にお会いするから、聖教会に引き取ってもらいましょう」
アザレアたちは農民達からもらった大量の食料を馬車に積み、別荘から一時間ほどの距離にあるラドクロス領聖教会へ向かう。
シャーロットはいつも通り、虫網と虫かごをばっちり常備していた。
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サジタリアス王国の東南にある名も無き山脈の頂上に、寂れた巨大な廃神殿が立つ。
祭られた神は捨てられ、がらんどうの祭壇の裏から白い煙が立ちのぼる。
祭壇の裏の床に空いた大きな穴。
穴の底には濁った水が溜まり、小さな羽虫が湧いていた。
最初数匹の羽虫が十匹百匹千匹と増え続け、その大集団はまるで白い煙のように湧き続けると、瞬く間に空を覆い尽くす。
ダンジョン化した廃神殿から魔昆虫の群れが溢れ暴走する、スタンピードの始まりだった。




