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ある男の転落

 

 パーーーッ。

 聞こえてくるのは港に入ろうとしている貨物船の汽笛だろうか。

 海鳥達も暗闇に包まれた湾内からその姿、鳴き声、羽ばたき等の行為を止めて何処かへと消えている。

 この辺りには人の気配はほぼ無い。

 無理もない、ここらの倉庫を所有している商社は数ヵ月前に倒産したのだから。

 それまではこの辺りも昼夜を問わずに倉庫に貨物を運ぶ人やそこからトラックの荷台に荷を詰め込み出荷したり、と人の出入りがひっきりなしだったのだ。



 すっかり夜の帳が落ちて暗闇に覆われた港に。

 男は姿を見せた。

 彼は自分の知り合いから連絡を受けたのだ。

 新しい標的が出来たよ、と。

 彼はそれを聞くや否や、喜び勇みつつ急ぎ足で、こうして港へと車を走らせて来たのだ。

 場所は、昨晩あの愚か者を潰した場所。

 昨晩は正直いってあまり楽しめなかった。あまりにも手応えがなさ過ぎて。

「は、ははははは」

 嬉しさがこみ上げてくるのが分かる。

 身体が震えているのが分かる。

 これから、また”お楽しみ”の時間が来るのだから当然だろう。



 彼は自分の事が嫌いであった。

 誰よりも強かった。

 ケンカで負けた事は少なくとも一対一でのタイマンでは皆無であったし、それに学力でもクラスで一番、学年でも三位以内の秀才でもあった。このままいけば間違いなく将来は一流大学に入って、そこから一流企業に入社という人生を送るはずだった。

(なのに……)

 それなのに、たった一度の失敗で全てを失ってしまった。

(ほんのちょっと、そうだあれはほんのちょっと力加減を間違えただけだ……なのに)

 人が死んでいた。

 彼は決して本気で殴ったつもり等ない。

 相手がしつこく絡んで来て少々鬱陶しかった、だから離れてくれ、というつもりで殴っただけ。 殴ったというのにも語弊があるだろう、寧ろ小突いた程度の認識だった。

 であるにも関わらず、

 その相手は死んでしまった、アッサリと。いとも容易くに。

 後ろに倒れた際にゴツン、という鈍い音。

 そして身体が脈動させ、死んだ。

 後頭部から血が滲み出していくのが見てとれた。

 どうも折り悪く、丁度後頭部の辺りには大きめの石が転がっており、この石との衝突が相手に致命傷を負わせたらしい。

 心からホッとした。

 何故なら、これはあくまでも”事故”だ。

 自分は殺人をしたのではない、単に相手に運が無いだけ、それだけの事だ。それを証明するように、彼は殺人罪には問われなかった。親が金を持っていた事もあり、裁判員をも上手く丸め込んで、執行猶予処分となった。

 さらに幸いなのは彼はまだ未成年、十六才だった。

 だからこそ、名前も世間に出る事もなく、平穏な生活に戻れるはずだった。

 なのに――――、

 何処でこうなったかは分からない。

 彼が事故で人を殺した事が何処からか洩れた。

 噂というのはあっという間に広がる。

 それが近所、それも資産家の長男であれば、醜聞を好む連中がその話しに群がり、事故の事が広がるのは早かった。

 家族は当初、その事には口をつぐんだ。

 黙っていればその内に事態も変わる、そう思ったから。

 しかし、そう上手くはいかない。

 近隣住人からの視線を日に日に冷たく感じる。

 今はかつての様に時間が問題を解決するとは限らない。

 SNSが発達した今、噂は近所だけで収まらない。街中に広がり、やがてはネット上に様々な情報が流出した。


 彼は”人殺し”と呼ばれ、蔑まれた。

 無数の何者かが、彼を弾劾した。

 彼は気にしなかった。あれはあくまでも事故なのだ。

 だが、家族は違った。

 両親は日々やつれていった。

 見るからに睡眠不足なのが、目の下の隈で容易に見て取れる。

 何をそんなに動揺する必要があるというのか?


 事故だと、判決は既に出た。なら周囲のバカが何かを喚こうが気にする必要等ない。

 だから、無視を決め込めばいい。ただそれだけの事なのだ。

 所詮は凡人だった、のだろう。

 父親は経営していた会社を倒産させる。母親は見る見る傾いていく会社と、父に愛想が尽きて離婚。

 そして父親は、自殺した。

 残った資産の大半は親戚連中に奪われ、彼は差し押さえられた実家からも追い出され、ボロアパートに半ば押し込まれた格好であった。親戚連中は何も彼には寄越さなかった。


 ”お前の親父の借金をこちらが払ったんだから”


 というのが連中の言い分。特に間違っている、とも思わない。だから追及はしないし、どうでもいい。そう、どうでも良くなっていた。

 何もかもどうでもいい。親戚連中はたまに仕送りを送ってきたし、こちらが金に困っている、と言えば金を融通もしてくれた。

 それが善意からではない事は分かっている。

 彼らからすれば、自分達の一族に犯罪者がいるのが許せないのだろう。かといって外に出したくはないのだろう。

 実際、意外と楽な生活ではあったのだ。

 働かなくてもいい、というのは楽だ。

 人生の義務の一つをしなくともいいのだから。


 だが、それは何かを奪い去った。

 その何かが一体何だったのかは分からない。

 少しずつ、死んでいった。

 肉体的な意味ではない。身体はすこぶる健康だ。

 死んでいくのは精神、だろうか。

 生きているのに生きてる実感がない。

 何もさせてはもらえない、そんな無為の日々を過ごす内に彼は”クスリ”に逃げ込んでいた。

 現実から逃げ出したい、現実を見たくない。

 お決まりの廃人への一直線。


 気が付けば彼はショック状態で倒れた。薬物の過剰摂取だと分かる、自分の心臓が止まっていく。

 心臓から血が全身へと行き届かなくなり、そうして――死んだ。


 死んだのは間違いない。

 でも、目覚めた

 気が付けば何日も眠っていた。

 妙な気分。死んだはず。心臓が止まったのだ。

 なのに身体に血が巡っていく。生きているはずもないのに。

(何があった?)

 そうした思いは日々強くなり……彼は外に出たのだった。

 なぜそうしたかは今でも分からない。部屋の中にいるのに飽きたのかも知れない。

 まだ彼は自分が何者か分かっていない。

 自分が何者になったのか、分かっていない。


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