六章 欺く人④
「白杏医官は、今後この宮で起居せよ。陰后様は大切な時期だ。侍医が常に控えるのは当然であろう」
仇信は悠然と、手を後ろで組む。その表情は実に愉しげだ。
長居は危険、と杏は直感した。陰后に何か処方する際に、微量の毒物でも混ぜられたら一巻の終わりだ。
「ああ、そうだ。失態の責は、そなただけでなく白家全体に及ぶと思え」
ますます愉快そうにされ、杏はぐっと奥歯を噛んだ。
叔父の顔が浮かぶ。父の死後、親身に行く先を案じてくれた白家の人々も。
元よりそのつもりだったが、相手の筋書きを壊す決意をより固くする。
緊張で冷える手を、ぎゅっと握った。
「……陰后様は、龍娘娘の力で身籠られたとおっしゃいましたね」
深呼吸の後、杏は口火を切る。
存在しない赤子を取り上げることはできない。
ならば后の妄信を晴らし、自分から妊娠していないと認めさせるしかない。
「では、その龍娘娘の力がウソだとしたら、どうなさいますか?」
陰后のあいまいな面持ちが変化した。はっきりと不快を表す。
「気を付けなさい。龍娘娘への侮辱は、わたくしへの侮辱でもありますよ」
「龍娘娘がどんな“奇跡”を起こしてみせたか、教えていただけませんか?
もし何の説明も付けられなければ、私も龍娘娘を信じます」
「……あなたも、ですか。陛下も最後には黙してしまわれたのに」
陰后は肩を落とし、億劫そうに語り出した。
「真冬に、龍娘娘はやってきました。龍の力で咲かせた蓮の花をもって」
「温暖な地方では、冬に蓮が咲くこともございますからね」
「翌日には青い菊を」
「花びらは色水で染められます。二色に染め分けた菊も作れますよ」
どちらも即座に切り返され、陰后は少し鼻白む。
「素足で熱い炭の上を歩くなんてことは、徒人にできるわけがありません」
「いえ、だれでもできます。炭の上に、熱を伝えにくい松の板をおきましてね。足裏には塩をすりこむんです。そうすると平気で歩けます」
こともなげに説明され、后は眉間に薄くしわを刻んだ。
「なら、池の上で浮いて見せたのは? 池の中には、本当に何もなかったのですよ」
「手をお入れになりましたか? 中に、大きな氷の塊はありませんでしたか?」
「いくら透けているといっても、それなら見えるはずです」
「ある濃さにした砂糖水の中に氷を入れると、見えなくなるのですよ。光の屈折、というもので起こる現象なのですが」
「そんなバカげたことがありますか!」
陰后は声を荒げた。
「小さいとはいえ池ですよ。どれだけ砂糖がいると」
「はい。滑稽でしょう? 貴重なお砂糖をそんなことに使うなんて。
でも、だれもしないと思うことをやるから、だれも気づかないんです」
陰后の顔に、焦りが浮かんだ。
その場にいる全員が、身じろぎ一つせずこの問答を見守っている。
「し、死んだ人間を生き返らせました」
「死んだ、というのは? 脈がない人間を蘇らせた、でしょうか。脇を圧迫すれば、手首の脈は止められますが」
「そんな稚拙なものではありません! 鼓動も息も止まった人間が、龍娘娘の力で蘇ったのです!」
杏が眉をひそめると、后はさらに畳みかけた。
「しかも、一人だけではないのですよ。十人も生き返りました」
周囲で女官たちもうなずく。陰后に促されると、確かに死んでいたこと、生き返って会話したことなどを、口々に語った。
「どうです? 信じる気になりましたか?」
「いえ――ますます龍玄宗に落胆しております」
杏は悲しそうにまぶたを伏せた。
「陰后様、十人同時には、生き返らなかったのでは?」
「え――? ええ、まずは三人だけでした」
「他の七人が生き返ったかどうかは、確認していないのですよね」
后は冷や水を浴びせられたように、硬直する。
「一時的に死んだ状態にできる薬というものがあるのですが、それはいつも成功するとは限らないのですよ」
「そんな……七人も。そんなこと」
「先ほど申し上げた通りです。まさかと思うことをするから、だれもが騙される」
陰后はさすがに青ざめた。すがるように、となりを見やる。
「――すべて、仮定の話ではありませんか」
龍娘娘は親指の爪を噛んだ。
「今さら確かめようのないこと。私の奇跡がウソという証明になりませんわ」
「では、次は龍玄宗のウソも暴きましょうか」
仇信の手の動きに気付き、杏はさっとふり返った。
にらまれて、宦官たちがピタリと動きを止める。
荒事で勝負されては、杏に勝ち目はない。
取り押さえられないうちに、高らかに宣言する。
「私は今から玄視堂にこもります!」
正面をもどすと、仇信は笑っていた。目に嬉々とした光を宿して。
「そう、龍の力が満ち、正気ではもどれぬと恐れられている玄視堂です。
私は一晩そこに籠り、またここへ帰ってきましょう」
大胆な宣戦布告に、周囲がざわめく。
龍娘娘は口にそでを当て、ほほっと声に出して笑った。
「なんと愚かな。思い止まるのなら今のうちですよ」
「そちらこそ、ずいぶんな自信ですね?
あそこの不思議のタネなんて、私はもう分かっているんですよ。ええ、全部」
紅を刷いた唇が、不気味なほど完璧な弧を描いた。
「ふふ……見抜いただけで、どうにかなると?」
「白霖といい、そなたといい。龍玄宗に喧嘩を売るとは、つくづく愚か者よな」
仇信が勝ち誇った顔で、くっと笑う。
「気の毒に。父娘そろって、死んでも治らぬ“バカ”を患っている。医者の不養生とはこのことだ!」
仇信の嘲笑に、宦官たちも倣う。
杏は何も言わず、ただじっと哂われるままでいた。




