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六章 欺く人③

 陰后は、線の細い女性だった。

 肌は白を通りこして青みがかり、腰かけた姿は柳の葉のように頼りない。

 上品な瓜実顔だが、印象は薄い。夢見心地のあいまいな表情で、一心に腹をなでている。


 人が現れても気づかないその姿に、杏は静かに礼をとった。


「陰后様、白杏医官にございます。一言、お声がけを」


 かたわらにいる宦官が、上目遣いに注意をうながした。


 濃紫の袍をまとった小柄な男。内侍監の仇信だ。くりくりとした黒目は愛嬌があるが、どこか薄気味悪かった。笑っていても、目に光がないのだ。

 内侍監でありながら宮殿に身を置き、ことさら腰を低くしている姿には卑屈さがにじんでいた。


「……なんでしたかしら。わたくしの新しい侍医、でしたか?」


 その一言で、杏は悟る。陰后の生活は、すべて仇信の手に委ねられているのだと。


「さようでございます。前任の侍医が、後任には白杏医官をと強く推挙していきましたゆえ」


 陰后は億劫そうに、杏の方を向いた。不安げにする。


「若いのですね。大丈夫なのですか?」

「白霖太医の娘とのことです」

「あの? 一年後の病を予見し、三年後の病を防ぐと評判だった」


 陰后の狭かった眉間がゆるんだ。


「白杏医官、まもなく公にいたしますが、わたくしは身籠っております」


 杏は息を詰めた。なんとか祝いの言葉を口にする。


「それは、その――誠におめでとうございます。ご懐妊は何ヶ月目で?」

「半年です。くれぐれも間違いのないよう頼みますよ」


 杏は大量の冷や汗を流した。現実感の希薄な陰后は、目の前の医官が金妃の出産で倒れたということを知らないらしい。


 后の出産でも恥をかかせることが目的なのか。

 ならばいっそ、自分から血が苦手なことを告白してしまうか。

 杏は悶々と思い悩む。


「陰后様、龍娘娘でございます。今日もお子のために参りましたよ」


 しずしずと、龍娘娘がお供を引き連れて入室してきた。

 陰后は表情を生き生きとさせ、自分の座っている長椅子へと招く。


「さあ、いつもの通り頼みますよ」

「心得ておりますわ。お腹の子に、私の持つ“龍の力”をお分けいたします」

「ええ、ええ! 龍の力を宿した皇子が生まれるように!」


 龍娘娘は仰々しく手を動かし、后の腹部へ触れた。

 その様子を醒めた目でながめていて、杏はふと違和感を覚えた。


 腹が、平らすぎる。


 身籠って半年にしては、龍娘娘の手はふんわりとした衣に深く沈みすぎていた。


「龍娘娘、そなたの儀式を受けて正解でした。一人目を流産して以来、なかなか次を授かれませんでしたが……ようやく」

「申し上げましたでしょう。陰后様は、天子を産むお方だと。これは定めにございます」


 龍娘娘は、さも当然と落ち着き払っていた。


「実は半年前、儀式の夜に龍の夢を見たのです」

「まあ! それは明らかに吉兆ですわ」


「あれは子を授かった夢だったのでしょう。それ以来、月の道は途絶え、熱っぽい日が続いています。食も細くなって……一人目のときと同じです」


 平たい腹に、后は慈愛に満ちた眼差しを注ぐ。

 疑いの眼差しを注ぐ杏は、うやうやしく申し出た。


「陰后様、お身体を診させていただいてもよろしいでしょうか?」

「許します」


 杏は、后の手首に指を当てた。脈はやや速いが、妊婦特有というほどではない。熱っぽいと言うわりに、手先は冷えている。


 食欲不振はこのころなら落ち着いているはずで、月の道が途絶えたのも妊娠のせいとは限らない。それは、強い思いこみによっても起こるのだ。


 ――想像妊娠。


 膨らみのない腹に手を当て、杏は確信した。


「白杏医官、あなたも感じるでしょう? 鼓動を」


 無いとは答えず、杏は疑問を投げかけた。


「身籠られて六ヶ月にしては御子がいささか小さいように存じます。

 前任の侍医より、そのようなお話はございませんでしたか?」


 陰后は質問を不快そうにした。

 まったく現実が見えていない訳ではないらしい。


「それは元の侍医も心配していました。身籠ってこれだけ月日が経ったのなら、もっとお腹が大きくなるはずだと」


 でも、と龍娘娘に向かって微笑む。


「龍の力を宿す子ですもの。きっと育つのに時間がかかっているだけでしょう」

「その通りです、陰后様。古代の聖王は母親の胎内で二十年過ごしたと聞きますから。半年など、まだ始まりにすぎませんわ」


 二人は陶然とうなずきあう。周りの女官たちもそれに追随している。

 ここには“奇跡”を疑う者など、最初からいなかった。

 杏は、前の侍医はサジを投げたのだろうと察した。


「白杏医官よ」


 仇信が苛立たしげに声を発する。

 彼は、后と龍娘娘の二人を苦々しげにしていた。


「月満ちて御子が生まれねば、そなたの責任だ。良いな!」


 ――つまり、自分は生贄か。


 杏は自分が呼ばれた理由を悟った。


 仇信も妊娠は妄想でしかないと分かっているのだ。しかし、懐妊の事実は欲しい。龍玄宗の名声を高める格好の材料だ。


 問題は、生まれるはずのない赤子をどうするか。

 そこで、思いついた。女医官が誤って流産させてしまうという筋書きを。

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