六章 欺く人①
陰后の宮殿の一室。龍娘娘は、二階の窓から地上を見下ろしていた。
杏に気付き、ゆっくりと半身を返す。
慈愛に満ちた微笑を浮かべ、金糸の刺繍がきらめく袖を広げた。
「白杏さん。あなたも救いを求めて、ここへいらしたのですね」
「ええ。迷える私をお導きくださいますか? 龍娘娘」
入り口で、杏はぐるりと上下左右を見回した。
まさに占者の部屋といった趣だ。
窓際には絹のとばりが垂れ、昼だというのに薄暗い。
ゆらめく灯明が壁の占星盤や経巻を照らし出し、伽羅の香がむせかえるほどに漂っている。
「どうぞお掛けなさいな」
杏に席を勧めつつ、龍娘娘は高座にゆったりと腰を下ろした。
「失礼いたします」
床の上にぽつんと置かれた椅子に、杏も座る。
指先で髪を払い、高座の龍娘娘をよく観察した。
まず目につくのは、龍娘娘の証――顔の右上にあるウロコ状のアザだ。
顔立ちはくっきりとしている。鼻梁は高く通り、顔の輪郭はやや角ばっていた。宮中に残る龍公主の像と似通っていた。
「どのようなことをお聞きになりたいのですか?」
龍娘娘はかたわらの水盤に手をかざし、穏やかに問う。
「私が負った、目に見えない傷の治し方です」
杏は目線を落とした。
「私は血を見ると気絶してしまいます。
それは、子供の頃のできごとがきっかけなんです」
白く細い両手をきゅっと握り合わせる。
「母は、ウソつきで、身勝手で……本当にひどい人でした。
でも、人々は彼女を敬い、信じて疑わなかった」
唇をかすかに噛む。
「私はそれが許せなくて、彼女のウソを暴きました。
“本当のことを伝えれば、みんな目を覚ます”――そう信じていたんです」
一拍、置いて。
「でも、何も変わらなかった。だれも救われなかった。母は――」
「白杏さん」
龍娘娘はにこやかに話をさえぎった。
「本当に救われたいのでしたら、まず真実をお話しなさいませ」
「真実、とは?」
龍娘娘はまるで子に諭すようにいった。
「あなたのお母様は、玄視堂で亡くなられたでしょう? 真実を明らかにするといって、玄視堂にこもった夫と運命を共にした」
杏は長いまつ毛に縁どられた目をパシパシと瞬かせた。
「あなたは白霖太医に引き取られる前は、学者の娘でした。
父親の名は杜元伯。白家の遠縁の者ですね。若者を集めて学問を教え、書生を育てていた……」
龍娘娘は、ここではないどこか遠くを見るようにして語る。
「母親は料理上手で、面倒見が良く……親身になって書生たちの世話をしていました」
声は確信に満ち、陶酔が混じっていた。
「あなたも家名にふさわしい知識と教養、礼儀作法を身につけながら……母と一緒に立ち働いていた」
龍娘娘はいったん言葉を切り、水盤をのぞきこんだ。
「……中秋節に、月餅を囲んで笑う一家の姿が見えます。仲睦まじい親子だった。そうでしょう?」
杏はまぶたを伏せた。そっと、残念そうに肩を落とす。
「さすがですね。よく調べておられる」
思い切り椅子の背にもたれ、のけぞる。
戸口の宦官が、後ろ手に何かを隠すのが見えた。
「調べたのではありません。この身には龍の力が宿っています。私の眼はすべてを見通すことができるのです」
「毎日たくさんの人の素性を覚えるのは大変でしょう? 助け舟があっても」
龍娘娘は寛容にほほ笑んだ。
「あなたは白霖太医とよく似ていますね。曲がった物の見方をなさる」
「父に会ったことが?」
「いいえ。しかし、私のことを陰で偽物呼ばわりしていたことは、ちゃんと知っておりますわ」
一転して、龍娘娘は硬く冷たい態度になった。
唇の間からわずかにのぞく歯は、ならびが悪い。
「私の正体を疑うばかりでなく、彼は奇跡を否定していました。
だから“天罰”が下ったのです」
杏は嬉々として身を乗り出した。
「確かですか? 龍玄宗が天罰を下したと、お認めになるのですね?」
「おかしな方ですね。父親に天罰の下ったことが、そんなに嬉しいのですか?」
「死因が確定されたことが嬉しいのです。一番の収穫です」
何一つ恐れていない相手に、龍娘娘は憮然としていた。
すっと、手を持ち上げる。
「白杏さん。天をごらんなさい」
うながされるまま、杏はあごを上げた。
天井には円を描いて飛翔する天龍の姿が描かれている。
龍の頭部は、杏から三歩ほどはなれた位置にある。それなのに、ぎょろりとした大きな目は、まるで真っ直ぐに杏を射抜いているかのようだった。
「天龍様と目が合いますか?」
「ええ。見つめ合っちゃってます」
「はなれていても、目が合う――それはあなたが天龍様に諭されている証拠ですよ。心根を改めなさいと」
厳かな忠告に、杏は苦笑した。
「あなただって天龍様と目が合ってるでしょう? 龍娘娘」
「わたくしは睨まれませんわ。天龍様より力を分け与えられた存在ですもの」
「そうですか? この絵は、どの角度からでも目が合うよう、特殊な筆法で描かれているだけですから、あなたとも合っていると思うんですけどねえ」
杏は、部屋にいる女官や宦官たちに話をふった。
「みなさんも、天龍様と見つめ合ってますよね?
私、入り口からこの絵を見たときでも目が合いましたし」
だれも答えなかった。ただ、気まずそうに身じろぎするだけだ。
敵意のこもった眼差しを向けてくる龍娘娘に、杏はやれやれと肩を落とす。
「一つ申し上げておきますが。
白霖父上は別に龍玄宗を敵視していませんでしたよ。
むしろ逆。信じていました。だれより真剣に救いを求めていた」
龍娘娘は不可解そうにした。
「なら、どうして龍玄宗の“奇跡”を否定したりしたのかって?」
杏は少し意地の悪い笑みを浮かべる。
「それは私が教えずともお分かりになるでしょう? あなたはすべてを見通すのですから」
席を立つと、龍娘娘に呼び止められた。
「お待ちなさいな。占いがまだですわ」
「明日の天気でも占ってもらえれば結構ですよ」
水盤に、花びらが投げ入れられる。
龍娘娘はじっと水盤をのぞきこんだ。
「花びらが渦を巻いている……あなたには間もなく幸運が訪れることでしょう」
「おや、吉兆ですか」
「“迷医”と揶揄されるあなたを哀れみ、天龍様がお導きを授けてくださいます。
決して、逃さぬように」
挑むように、龍娘娘が笑む。
杏も同じ笑みを返した。
「それは楽しみですね。どなたかの凶兆にならなければ良いですが」
宮殿を出ると、杏は両腕を上げて伸びをした。
秋晴れの空がまぶしい。大きく息を吐く。
「お酒買うの、我慢した甲斐あった……!」
ぺちゃんこになった巾着を握りしめ、杏は目の端の涙をぬぐった。
痛い代償は充分に報われた。




