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三章 商う人⑤

 杏の前で、供を引き連れた少年が立ち止まった。客たちが一斉に道を開ける。


「ご機嫌うるわしく、李星皇子。市を楽しまれていますか?」

「うむ。余は市でこのような品を手に入れたが。そなた、遊び方を心得ておるか?」


 皇子の手元をのぞきこみ、杏はほほ笑んだ。


独楽コマ、でございますね。では、本日の“治療”はそれで」

「頼んだぞ」


 李星皇子は嬉しそうに、おもちゃを懐にしまいこんだ。


「――して。そちはここで何をしておるのだ?」


 皇子は怪訝そうに、市の往来に立つ医官を見やる。


「とうとう売り子に職を転じたのか」

「いえいえ、これも医官の仕事の一環でございます」


 白粉の鉛毒について説明すると、聡明な李星皇子はすべてを語る前に了解した。


「それは聞いたことがある。母が知っておってな、余の乳母には化粧をさせなんだ」

「さすが李妃様でございますね。赤子は大人より少量で鉛の影響を受けますから」


 言って、杏は思い出した。数カ月前に皇子を出産した金妃のことだ。

 侍女の張明に八彩を勧めがてら、鉛の毒について伝えておくべきだろう。


「ちなみに、皇子。李妃様はどちらの白粉をお使いですか?」

「さあ。七宝の器で、フタに金の飾りがついておったのは覚えておるが」


 それだけで、どの品か察しがついた。青澄の店で売られている鳳凰白粉だ。


 後宮で扱われる白粉には、それぞれの銘柄に応じた専用の容器が用意されている。

 化蝶白粉なら絵付の陶壺、珠姫白粉なら香炉を模した瑠璃製の器だ。


 鳳凰白粉は、七宝をほどこした陶製の壺。フタのつまみとして金細工の鳳凰が飾られている。ひと目でそれと分かる絢爛さだ。

 容器だけでも相当な高値だが、白粉と共に求める者は後を絶たない。


「皇子、李妃様に八彩白粉を贈りませんか?

 この白粉は鉛無し。安全において、これに勝るものはございません」

「ふむ……母上には健やかであって欲しいからな。見せてもらおう」


 皇子は店の露台をのぞきこんだ。八角形に折られた紙包みを見回し、渋い顔になる。


「他に、何かないのか?」

「何か、と申しますと?」

「もっと豪華なものが欲しい。良い物だとは分かっておるが、がっかりさせぬか不安じゃ」


 杏は皇子の高雅な装いと、簡素な紙包みを見比べた。

 たしかに、皇子からの贈り物にするには見た目がさみしい。


「申し訳ありません、うちには――」

「少々お待ち下さい、李星皇子」


 高鉄雄の断り文句を、杏はさえぎった。


「もちろんございます。妃嬪様のために特別にご用意した、選りすぐりの品を取って参ります!」


 杏は店を飛び出した。市場を全力疾走しながら、泣き言を吐く。


「来世はっ、走らなくていいものに生まれ変わりたい……っ!」


 陶器屋で、杏はとびきり豪華な器を買った。

 人目につかない場所で白粉を詰め替え、皇子に差し出す。


「皇子、いかがでしょう? 特上品でございます」

「おお! 母上のお喜びになる顔が目に浮かぶようじゃ」


 皇子は七色にかがやく壺を手に、ほおをゆるめた。


「して、値は?」


 高鉄雄がそろばんを弾く。

 実直に商品代と器代を足した値を示すと、皇子はまた不安そうにした。


「こんな値で良いのか? 母上は『良いものほど値が張る』とおっしゃられていた。

 体に良いものなら、もっと高いものではないのか?」


 杏ははっと、李妃の過剰に華美な装いを思い出した。


「もう、高鉄雄さんったら。計算を間違えてますよ!」


 相棒からそろばんを取り、一桁足す。


「皇子、いかがでしょう? 鳳凰白粉と同じくらい、値が張るのですが……」

「構わぬ。父上が申しておった、『化粧品の値の半分は、女が夢を見るためのもの』と」


 皇子は鷹揚にうなずく。


「……正直、余にはまだよく分からぬが。女が美しさを保つには、とかく財が必要なのであろう」

「ご立派です、皇子! その広い御心、全男性が見習うべきと存じます!」


 皇子は言い値を支払い、満足そうに帰っていった。


「ダ、ダメよ、白杏ちゃん……」


 大金を手にした高鉄雄は、肩を震わせていた。慚愧に堪えない顔をしている。


「こんなこと……白粉の職人さんも、きっと喜ばないわ!」

「でも、お客さんは喜びます!」


 負けじと、杏も強く言い返す。


「さっきの皇子のお顔、思い出してください。満足そうだったでしょう?」

「そうだけど……」

「人の心は不思議なものです。中身と値段の釣り合いだけで、物を選ぶわけではありません」


 杏は妃たちが住まう格式ある宮殿を見回した。


「李妃様も李星皇子も、身分あるお方です。

 いくら良い物でも、安価すぎる贈り物では体面が保てません。

 容器を改め、体裁を整える必要があったんです」


 高鉄雄は納得したように身を引いたが、それでもお金を持て余していた。


「でも、高すぎるわ。鳳凰白粉と同じ値段にするなんて、やりすぎよ」

「わかっています。しかし、李妃様に使っていただくには、そのくらいでないといけないんです」


 それは理屈では説明しきれない、感情の問題だ。杏は小さく嘆息する。


「……どういうこと?」

「李妃様はおそらく“高いものこそ良い”と信じておられます。

 お部屋もお召し物もきらびやか。お菓子にまで金箔を貼らせるようなお方です」


 李妃の豪勢な暮らしぶりを思い返しながら、杏は語る。


「だとすると、安ければ――?」

「……悪い物だと思ってしまう?」


「はい。安いというだけの理由で、八彩白粉を鳳凰白粉より劣った品と見なされてしまうんです」

「それは……嫌だわ」


 高鉄雄は唇をきゅっと噛み締めた。


「私たちは、白粉と一緒に“体面”と“自尊心”という、目に見えない商品もお売りしたんですよ」


 反論はなかったが、相棒の表情は晴れない。

 大金に見合うだけの物を提供したという自信が持てないのだ。まだ後ろめたそうにしている。


「高鉄雄さん。今度、李妃様がいらしたら、ご愛顧に感謝して白粉を余分に差し上げるのはどうでしょう?」 


 妥協案に、高鉄雄の抱えていた陰が少し薄れた。


「罪悪感は減るけど……そんなに白粉ばかり、要らないでしょう?」

「要らなかったら、他の方にゆずると思いません?」


 あっ、と高鉄雄は手を打った。


「そうね。女官やお知り合いにゆずれば、李妃様も顔が立って嬉しいはずよね」

「それに、八彩白粉を知ってもらうきっかけにもなります」


 杏はそでで口元を覆い、うふふ、と笑う。


「きっと、張り切って配ってくださいますよ。李妃様はこの白粉の安全性を語って、“聡明な選択”を自慢なさるでしょうから」


「白杏ちゃんったら。悪い顔。李妃様を宣伝役に使う気?」


「『息子が心をこめて選んだ贈り物』というお話まで添えられるんですよ? 楽しくて仕方がないと思いますね」


 杏は肩をすくめた。茶目っ気たっぷりに付け足す。


「そう考えると、私たちは“自慢の種”までお売りしたんですね。

 あの値段でも、安いくらいだったかもしれません」

「もう。すっかり商人ね!」


 高鉄雄は晴れやかに笑い、ひじで相棒を小突いた。

 手元に目を落とす。


「このお金は、ありがたく受け取ることにするわ。

 これがあれば、ちゃんと妃嬪様向けの白粉も作れるものね」

「ええ。いい使い道だと思います」


 高鉄雄は大事にお金をしまいこんだ。

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