揺野さんと卒業
生きていて、誰かと何かの関係に至るなんて、正直思ってもみなかった。ドラマや映画で「好きだよ」なんて言い合うのを見て自分の世界にはないものだと思っていたし、だからこそのフィクションで、流行りの歌詞にあるような「愛してる」とか「守りたい」なんて、自分が言う姿を想像するだけでどうにかなりそうになる。周りは結婚とかもっといけば子供がいますみたいな人間も現れてきて、結婚は地獄とか言うわりに街中の家族は幸せそうで見ていると、楽しそうと思えど羨ましいのかなんなのか分からない、そこまでの責任は持ちたくないという気の重さに占められる。
女の子と何かしらするより、孤独死のイメージのが正直、出来る。
そうして三十歳を超え、いよいよもう自分の世界に恋愛はないという諦めと、いやもしかしたらという希望の比率が安定し始めた矢先、転職先で出会ったのが、年下の上司──揺野宵澄だった。
黒のジャケットとスラックスを纏い、低めのヒールで社内を早足で巡り、せっせと指示を出す。叱るときには叱り、褒めるときには褒めるけど、わざとらしさがない。休憩時間は上下関係なく談笑し、男性社員女性社員問わず社交性を持ちながら、すごく明るいとも落ち着いてるとも言い難い絶妙な雰囲気を持つ。
浮いてもいないし嫌われてもいないしむしろ好かれてるだろうに、キラキラした人気者という感じもない。役職問わず、年上年下関係なく、どんなに仲が良くても全員敬語。礼儀正しいのではなく「めんどうくさいから」という理由で、それを明け透けに公言する。
一言であらわすならば、一言で紹介しづらい女。
容姿もそうだった。ここがこう、と言い難い。表情があるときは、若くて人当たりが良さそうで、老人に印象を聞けば孫に欲しいと言いそうだし、子供に印象を聞けば先生っぽいと言われそうな、無防備と受容性がありつつも、無心で仕事をしているときは、全部シャットダウンしてそうな冷たそうな雰囲気がある。
そんな、僕と世界が違う彼女が、僕を狙っている。
簡単に言えば好きだかららしいが、僕に好かれるところはない。好きなところを言っても納得しない、というのが彼女の言い分で、実際その通りなのでずっと考えている。
答えは出ない。
何も僕のほうで彼女への気持ちがなければストーカーとして扱えるのだろうが、正直、気持ちがちゃんとある。
なので「質感とか色々、好みを私に把握されたくなければ、ご自身で購入いただき、持っていて頂きたいんですけど」と現金を差し出してくる揺野の凶行を断りつつも、ドラックストアであれかこれかと購入した。
実際どうなのか練習までして、その後、「買いました?」とストレートに聞かれ困惑しつつも頷けば、「私とすることに同意してくださったんですね」と笑みを浮かべられたので僕には逃げ場がない。立つ瀬もない。年上だからとか男だからという前提が全て崩されるし、なんなら童貞であることも知られているので色々駄目だった。
そして恐ろしいのは、露骨なアプローチをするわりに、揺野は処女であり男と付き合ったことが無いという事実だ。
揺野は僕を騙している、からかおうとしていると思おうにも、僕を騙すメリットが無い。実は見た目がいいとか全くそんなことは無く、なんならステップアップした転職ではなく前職のパワハラから逃げるようにランクダウンした転職をしているし、普通に30過ぎても童貞で彼女がいたことがない人間だった。なので揺野からのアプローチについても正直、戸惑うことのほうが多く、自分の価値についてなんど内省したか分からないし、自意識の暴走で何度死にたくなったか分からない。
そのため、付き合うとか彼氏彼女になるとかそういう名前のついた関係ではなく、僕に好きな人が出来たりしたら揺野に言い、そうしたら揺野が離れるといった曖昧な関係で月日が流れたわけだけど、普通に、関わり触れられるうちに、僕から触れてみたいと思う瞬間も、じりじりと増えてきたわけで。
何より、こんな僕を待ってくれていた揺野に何か返したい──それが自分の童貞というのもおかしな話だし自分の童貞にそんな価値があるとは思えないけど、一応、心づもりが固まってきた。
ただ、どうしていいか分からない。カップルはそういう雰囲気になるみたいなのをネットで見るけど普通に怖いし、今なんかネットでは性的同意みたいな話が増えてるし、捕まりたくないという気持ちが強い。揺野は僕の心の準備ができるまで待ってると言ってくれて、それはものすごく助かった面があるけど、いざ……もうそろそろと思った時、正直揺野に何とかしてもらいたいというか、普通に、自分からは無理だろ……とすべての手順が白紙化する最悪が訪れていた。普通に向こうから言ってほしい。勘弁してほしい。男ならとか色々な前置詞が都合のいい時だけ降りかかってくること、本当にしんどい。
「……今日飲み会、泊まりませんか。長い日ですよ、接待付きご機嫌取り」
午後、昼のチャージ分が切れたらしい喫煙者がそそくさと姿をくらます頃、共有フロアの自販機で飲み物を買おうとしていると、揺野が横に立った。僕が買おうとしている飲み物のボタンを勝手に押しスマホで会計を行うと、視線だけで取れと言ってくる。「ありがとうございます……」と部下らしくお礼を言いつつ、少し苦笑した。
揺野は表面上誰に対してもそつがなく丁寧で親切だが、慣れてくるというか──僕の前では若干黒いような面が滲む。取引先との打ち上げを接待付ご機嫌取りと言ったり、おごってくれるけど、「どうぞ」とかじゃなく視線で誘導してくるし。部長から貰ったものを後輩にさりげなく渡したりだ。それを指摘すると「シッ」って言ってくる。その後、「そちらから頂いたものはきちんと受け取ってますけど、誰からでも餌付けされるような女がお好みで?」と試すように見てくるので勝てない。
勝てないし、正直、悪い気がしない。
「で、どうするんです? お泊り」
揺野は自分の分を購入し、僕を横目で見た。気恥ずかしくて頷くと、揺野は優しく笑う。こういう時、見下すように笑ってくれるなら、誑かされてるとか転がされてると定義付け出来て楽になれるのに、子供みたいな顔をするので、難しい。
「じゃあ、飲み会のあとお持ち帰りできるってことですね」
そして、子供みたいな表情から、また大人っぽい表情に変えた揺野が軽口を言う。今なら大丈夫かもしれない──と、僕は「はい」と頷いた。気付いてくれないかと祈りながら。いつもなら、「いやいや」と否定する。「お持ち帰りって」と突っ込んだりしてはぐらかし、流れで、日帰りも出来るスパに一緒にいって、何もせず朝を迎える。それが、いつも。
でも、今日は違う。気付いてくれないかなと祈る。
「さっさと終わるといいですけどねえ、今日」
駄目だった。察してもらえなかった。情けないけど直接は言えない。表面上平静を取り繕いつつ、自業自得とはいえショックだった。どうにか気付いてもらえないかと思うけど打開策が浮かばない。
「ですね」
僕はぼんやりしながら相槌をうつ。「じゃあ戻りましょうか」とスタスタ歩く揺野の後をついていく。その時だった。
「やっと、ご卒業ですか」
揺野が呟く。
「え」
「まぁ私もですけど」
気付いた……?
信じられない気持ちで、思わず足を止める。僕の前を歩いていた揺野は、まるで僕の行動も心も見透かすようにこちらを振り返った。
「勇気、感謝します」
不敵な笑みを浮かべてそう言うと、彼女は歩いていく。
僕の言葉が、届いた。
◇◇
揺野と朝を迎えた出勤日。僕は絶望していた。
女を知れば自信になるとか、お前は女を知らないからとか前職で死ぬほど言われたけど、揺野とそういうことをしたからといって堂々と街を歩こうなんて到底思えなかった。
電車の中では普通に色々恵まれてそうな男が視界に入り劣等感を刺激してくるし、普通に真正面から歩いてくる老人たちは僕を見るなり突っきってきて、舐められているのがヒシヒシと伝わってくるし、女は女で避けてくるしで、馬鹿にされてるんだろうな、見下されてるんだろうな、そもそも認識すらされてないかと被害者意識に苛まれる。そして自己嫌悪に陥る。
そのまま揺野とよく遭遇するコンビニに向かい、別に約束もしてないけどその姿が無かったことで、僕の気分は地の底に達した。
会いたいとかじゃなく、自分の人生終わりだという確信だ。終業間際か残業中に仕事でミスをして絶対に怒られたくない、怒られると面倒になる上司に怒られ目をつけられたと確信し、それから帰宅後も寝る前も朝起きた後も悶々として出社するみたいな、そういう気分。朝会社で揺野に馬鹿にされていたらとか、色々バレて職を失うことになったらとか、バレはしないまでも左遷されて腫物扱いされたらとか。
ありとあらゆるまだ起きてもない最悪を抱えながら出社すると、オフィスには普通に揺野がいた。最後に見たのは、早朝、そういう場所を出て始発で帰る背中だ。朝ごはんに誘うべきだったか、とか色々考えたけど疲れたので家でも寝たいという気持ちと、一緒にいて欲しいみたいな纏わりつく感じの重さを出したくなくてサッサと別れた。
その後は、泥のように寝た。起きたのは夕方で、一応風呂に入り、そこから一睡もしてない。ずっと出社の瞬間について悩んでいた。童貞を卒業したとかそういう感慨なんて一切なく、とんでもないことをしでかしてしまったのではと吐きそうだった。食事も出来てない。
にもかかわらず揺野は素知らぬ顔で「おはようございます」と挨拶してきて、僕は「おはようございます」と感情を極力削減した挨拶で返した。今日の彼女は普通の、どこにでもいるようなスーツ姿だ。襟のない紺のジャケットに同じ色のスラックス。中には白い……名前もよく分からない服。駅で色違いを無限に見た。彼女はそのまま、派遣の女や自分の上司と淫らさなんて感じさせない表情で笑っていた。
言ってやりたい。
ふつ、と魔が差すような思考が浮かぶ。
この場で。揺野のこと。どんな風にすると、どんな反応を示すか、とか。
どんな空気になるんだろう。いや、僕が勝手に盗撮して見たとか覗いたとかで責められる、犯罪者扱いされるなと自戒する。自分の立場をわざわざ悪くする必要なんかない。
でも、もし信じられたら?
あんな男とでも出来る女だって彼女は見下されるだろう。迷惑かけたくないし別に揺野に恨みなんてないけど、ぐっと胸の下のあたりが疼き、奇妙な愉快さがこみあげてくる。
そんなこと言えば自分でも手が届くんじゃないかと揺野の競争率を上げかねないのに、想像が止まらない。絶対言わないけど余計ないことを口走ってしまいそうで、僕はそっとその場を離れ、自販機に向かった。飲み物をコンビニで買おうと思ってたけど、色々気もそぞろだったせいでパンしか買ってない。
ポケットに入れてあった小銭を入れようとすると、押そうと思っていたボタンを後ろから伸びてきた手にピッと押された。
「なんだよー」
揺野だった。
彼女は自分のパスケースで決済すると、僕の腰を小突いてきた。バレるんじゃないか。いや、腰を小突くくらい誰でもするか。でも誰でも小突くのは嫌だな。そんな我がままに苛まれながら、僕は「なんです?」と、感情を殺し応答する。というかこの速度感だと、彼女は僕がその場から離れた瞬間、会話をさっさと切り上げ僕を追いかけてきたわけで。犬じゃないんだからその速度感はさすがにバレるだろ、なんともいえない複雑な気分になる。本当にいやだ。もういや。
「え、なーんか変な目で見てきたからなんなんだろーなって思って」
馬鹿みたいな想像の天罰が下った。いくら何でも罰が下るのが早すぎる。勘弁してほしい。
「いや分かんないですけど、なんのことですか、変な目って」
「はじめて」
揺野が淡々と呟く。
単語だけならいやらしさのかけらもないのに、『はじめて』なんて単語無限に聞いてきたはずなのに、僕は一気に顔が熱くなった。なんでこんな馬鹿みたいに反応してるんだ僕は。
「そっ、そんなわけないじゃないですか」
すぐに否定して、ああ違う、これは初めてって何のことかとはぐらかせば良かったと猛省した。案の定、揺野は口角をあげる。やられた。
「なーんだ。考えてないのか。考えてたら、何とかしようと思ったのに」
「なんとかって」
ろくなことにならないし絶対からかわれる。なのについ続きが気になり問いかける。馬鹿だなと自分でも思う。つらい。
「なんでも、してほしいことあったらそれ?」
なのに無邪気な刃が飛んできた。しかも疑問形。本当に意味を分かってるのか。僕が何も言えないと思ってのことか。
「ないです」
面白くないと思われようがもういい。間違えたくない。揺野は「えー、先輩に教えてよ」と食い下がってくる。
「いや、仕事じゃないんだから」
「なに仕事じゃないって? え、なに考えてたの? してほしいことって仕事以外のことだったの?」
揺野は目を丸くする。もう嫌だ。帰りたい。早退。なんとか早退できないか。視線をそらせば「そんな顔しないでよ」とわざわざ僕が視線を向けたほうへ彼女は移動してきた。
「今日18時くらいで終わるでしょ?」
「いやわかんないです」
「それ以上はかからないよーにするから、その後、あけててくれたら責任とる」
「責任?」
「うん。私のこと好きなよーにして? もちろん、そういう意味で」
揺野は蠱惑的に微笑むと、くるりと踵を返してみんなのもとへ戻っていく。
本当に、とんでもない。何なんだこの女は。
でも、嫌だとも思えない僕も僕だった。
僕はぎゅっと目をつぶり、肩の力を抜いた後、半ば観念するようにして彼女の後を追う。
足取りは去年よりずっと軽かった。
完結です。最中はノクターンにあります。もしよろしければ。
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