6
アンネは夢を見ていた。
倒れてから、たくさんの夢を見た。
小説の世界のヒロインの母に転生したアンネは、どうやら病気で死ぬ運命からは逃れられないらしい。
刻々と命が削られる感覚がある。
毎日エリシアがアンネに語りかけて泣いている。何を言っているのか分からないが、エリシアが一生懸命話しかけていることはわかる。
エリシアを母の死という不幸な運命から救ってあげることはできなかった。
でも、愛人の娘という扱いで虐げられる運命は変えてあげられたのでは、と思っている。
これでいい。
エリシアはしっかりした娘だ。この先の幸せはきっと自分の手で摑んでくれるだろう。
エリシアが本当に幸せになるところを見届けたい気持ちもあるが、アンネはできる限りのことをした。ちゃんとした別れができないまま死ぬのは悔しいが、予定よりも長く生き延び、十分幸せな人生だったのではないだろうか。
そう思うのに、なぜかファリオスが何度も夢に出てくる。
もう何年も会っていないのに、なぜか最後に会ったときよりも大人びたファリオスがアンネの前に現れる。
都合のいい夢なのだろう。
毎日泣いているエリシアの肩を引いて、慰めて、落ち着かせると、今度はアンネに優しく微笑みかけてくれるのだ。
そしてファリオスがアンネに口づけると、アンネは目覚め、二人でエリシアの手を引いて、三人並んで歩くのだ。
幸せな三人家族。
アンネとファリオスの恋は身分違いの恋だった。そんなことは絶対ありえないのに、死ぬ前のご褒美なのか、そんな幸せな夢を見てしまう。
◇
ガシャーンと陶器の割れた音がした。
エリシアはアンネが手を貸すと言っても、「一人でできるから大丈夫」と言って、結局失敗をしてしまうことがある。アンネはついつい「ほら言ったじゃない」と言ってしまうのだが、今日はどうしても声が出なかった。
そしてだいぶ経ってからようやく声が出る気がした。
やはりエリシアが怪我をしていないかが心配だった。
なんとか絞り出した声は「大丈夫? エリシア」の一言だけ。それも耳が遠くなったように自分の声が聞こえなくて、ちゃんと声になったのかはよくわからない。
それ以外にも「破片は私が片づけるから、離れてなさい」と言いたいのだが、口が上手く動かせない。
すると急に周りが騒がしくなる。
でも耳が遠くて皆が何を言っているのか分からない。
しばらくするとまたいつもの夢を見る。
「アンネ……愛してる」
二度と聞くことの出来ないファリオスからの愛の言葉を夢に見る。
そして、二度とすることのない口づけを夢でされる。
いつもここで目を開ける夢を見るのだが、夢の中なので、また別の夢を見始めてしまう。
だが、今日は特に瞼が重く感じた。
夢で目を開けるよりももっと重たい。けれど、いつもここで目を開けているから、なんとなく今日もここで目を開けなければと思ったのだ。
ゆっくりと目を開けようと重たい瞼に力を入れる。
「アンネ! アンネ!」
ファリオスの声がする。耳が遠いはずなのに、今日はよく聞こえる。
「おかあさん……お、お母さん!! 起きてっ!」
そうだ、起きなければ。
こんなに長い時間寝ていてはいけない。
レオンの本を修繕に出したままになっている。取りに行ってあげないと。
そんな使命感に駆られて、重たい瞼を開いたら、全く見覚えのない天井が目に飛び込んできた。
ここは一体どこだろうか。
「お母さんっ!」
今度は視界いっぱいにエリシアの顔が飛び込んだ。
会いたかった我が子の顔。目にいっぱいの涙を溜めている。
アンネは目を細めてエリシアの顔を見た。「エリシア」と名前を呼んだつもりだったのに、それは音にはならなかった。
喉がひどく掠れている。だから、きっと声が出ないのだ。
身体も重くて動かない。だから、手を伸ばそうとしているのに、エリシアの頬に触れられないのだ。
――そうだ、私……倒れたんだ……
ようやく夢から覚めたのだ。だから身体が重くて仕方がない。
「医者を呼んでくる!」
エリシアの声に続いて聞こえた男性の声にアンネはドキリとした。
それは夢で何度も聞いたファリオスの声。
ようやく夢から覚めて現実に戻って来られたと思っていたのに、ファリオスの声が聞こえるなどありえない。
――まだ、夢の続きを見ているんだわ……
すぐに医者らしき人物がアンネの容体を確認しに来てくれて、いろいろ話しかけられた。
ぼんやりしながら、わずかな首の動きだけで返事をしたのだが、アンネはまた夢から覚めることができなかったのかと落胆していた。
再び夢の中に引き戻されそうになったときだった。
医者らしき人物が「いいですよ」とアンネの寝台の前を譲るとすぐにエリシアの顔が飛び込んでくる。
「お母さん! 寝ちゃダメ」
そう言われて重たい瞼を必死に持ち上げた。
「お母さん! お父さんだよ! 会いたいって言ってたでしょ?」
お父さん?
「アンネ! 僕だよ。ファリオスだ!」
アンネの視界に夢で見た大人びたファリオスの顔が飛び込んできた。
「!?」
びっくりしているのに、驚くような動きが取れない。代わりに絞り出すように「ファリオス様……」と呟いたが、それも声にはならなかった。
だがファリオスはそれに反応する。
「そうだよ。ファリオスだ」
彼の目にも涙が溜まっているのだろうか。瞳を小さく揺らしながら何度も「アンネ、アンネ」と呼び、アンネに優しく微笑んでいる。
それを見て、アンネの視界も滲んでいく。
「お母さん、お父さんに会いたいって言ってたから、会わせてあげたかったの。お母さんのためにお父さんを探しに行ったんだ」
――私のために……エリシアが……
たしかにファリオスに会いたいと願っていた。倒れたときも、想いを馳せたのはエリシアとファリオスの二人だった。
エリシアの言動に熱いものが込み上げる。
話せないし動けない。だが、嬉しいと目から涙は出るらしい。
◇
アンネはその後すぐに夢の中に引き戻された。
だが、また数時間でちゃんと目が覚めた。次に目が覚めたのはもう夜で、エリシアはいなくなっていたが、医者がやってきてアンネの容体を診てくれた。
医者がここはジファーレ公国の病院だと説明をしてくれて、理解できるかと聞かれ、アンネは小さく頷いた。
言われたことは理解ができる。だが、なぜジファーレ公国に自分がいるのかは理解できなかった。
そして、なぜジファーレ公国にいるのかを考えようとすると、すぐに頭が疲れて寝てしまう。
「今は難しいことは考えず、身体の回復に努めるようにしてください」
とにかく今は頭も痛いし、身体が重い。医者に言われてアンネは考えることを放棄した。
アンネはその後少し起きてはまた眠り、と繰り返し、気がつくともう翌朝になっていたようで、目が覚めたらエリシアがいた。
「あっ! お母さん、起きた!」
可愛い我が子の声にホッとする。
医者の話で理解の出来た内容では、アンネは病気で倒れたが、その病気に適した治療を受けることができ、目覚めることができたらしい。
命を落とす寸前だったみたいなのだが、治療薬のお陰で一命をとりとめることができたようだ。
医者に「もう大丈夫ですからね」と言われ、上手く返事はできなかったのだが、アンネはそのときも涙が零れた。
幼い我が子を置いて死ぬことをずっと恐れていた。
どうやらその危機は脱したらしい。
「お父さん! お母さん起きたよ!」
アンネは今確実に生きているという実感を得て、動けないながらに喜びを嚙みしめていたが、エリシアが「お父さん」と呼ぶので、アンネは内心ギクリと身体を強張らせる。
「アンネ……おはよう、寝られたかい?」
昨日会った人物と同じ。最後に会ったときよりもずいぶんと大人びたファリオスが、アンネの顔を覗き込む。
「ごめん。僕がいて、びっくりしてるよね。えっと……いろいろあって、説明もしてあげたいんだけど、話が長くなるんだ……」
長くなってもいいので、どういうことなのか説明してほしい。
「そうだよね、知りたいよね。でもさ、病人の君に負担を掛けるわけにはいかないから、とりあえず、大事なところだけ」
ファリオスには視線を送る以外のことはできていないのだが、彼はアンネの気持ちを察してくれている。
「今、僕はエリシアと二人でこのジファーレ公国に住んでいる。毎日君のお見舞いに来るために近くの屋敷を借りたんだ。君からエリシアを奪うつもりはない。君が回復するまでの一時的な親代わりのつもりだ。そりゃ、代わりじゃなくて、本当の親になりたいとは思うけど、それはちゃんと話し合いが必要だと思うから、また君の身体が回復してから考えよう。それと、僕はずっと君に会いたかった。こんな形での再会になってしまったけど、君に会えてすごく嬉しい。できればこれからも一緒にいたい……」
アンネもファリオスと再会できてうれしい。ファリオスのことは本当に好きだった。
だが、一緒にいることが許される関係ではないことはよく理解している。
だから、アンネはファリオスの話を聞いて、奥歯を噛み締めるようにしていた。
「ごめん。自分の想いを伝えたくて先走り過ぎた。他にも説明しないといけないことがいっぱいなのに……」
やはりちゃんと説明を聞こうとすると長くなるようで、上手く頭の回らないアンネはズキズキと頭が痛くなる。
「そうだ。君が起きたらまた医者を呼ぶよう言われていたんだ。容体を診てくれるらしい」
そう言うとファリオスは医者を呼びに行く。
やってきた医者にアンネはいくつかの質問をされて、声を出そうとすると掠れて音にならなかったので、首だけで質問に答えた。
「良かったですね! 脳には異常はなさそうです」
医者がファリオスに向けてそう言うとファリオスはバッと前を向く。
「もしかしたら一部の記憶の欠落などがあるかもしれませんが、それは今の段階ではわからないので、そこはあまり意識せずに接していただければと思います。それと、話をしようという様子は見られますし、失語もなさそうですから喉の調子が戻れば普通に会話もできるようになるでしょう」
説明が終わるとファリオスは手を組み「ああ」と額の上に掲げた。
「良かった。本当に良かった……」
「お母さん、大丈夫なの?」
エリシアが心配そうにファリオスに聞いた。
「ああ。大丈夫だよ。そのうち会話もできるようになるって」
「うわぁ! 良かった!」
アンネは目覚めてすぐから頭が働いていたし、何かを話そうという気持ちがあったが、身体を動かさないのでその気持ちはエリシアやファリオスに伝わっていなかったようだ。
それで医者の診察は終わって、また部屋にはアンネとファリオスとエリシアの三人になる。
「……アンネ、ちょっと身体を動かそうか。腕や足の関節の曲げ伸ばしをしないと、硬くなって動かなくなるらしいんだ」
ファリオスがそう提案するとすぐにエリシアがやってくる。
「あっ! 私がやる」
「いつもエリシアがやってくれていたんだよ」
エリシアがアンネの腕をリネンの中から優しく取り出し、曲げ伸ばしをしてくれた。
「足や他の関節は僕らがいないときに看護師がやってくれていたから安心して」
デリケートなところには触れていないと補足するようにファリオスが言う。
ファリオスの話は気になることがたくさんだが、やはり深く考えることは難しく、アンネはひとまず今エリシアがしてくれていることについて思ったことを口にする。
「ありがとう……エリシア……」
初めて声が音になった気がした。
掠れているし、物凄く小さいけれど、エリシアがじっとアンネを見たのできっと伝わったのだと思う。
そしてすぐにエリシアは笑った。目の端には薄ら涙が浮かんでいたが、ごしごしと袖で拭われる。
「どういたしまして、お母さん」
満面の笑みで応えてくれる。そしてそんな様子をファリオスが目頭を押さえながら見ていた。
◇
エリシアとファリオスは毎日アンネの元へ来てくれた。
ファリオスに聞きたいことはたくさんあるが、まだ上手に会話ができそうになく、アンネは仕方なく医者の言う通り身体の回復を優先した。
目が覚めてから一週間は頻繁に寝たり起きたりを繰り返したが、そのうちに睡眠時間が安定してくる。
エリシアは毎日アンネの顔を拭いたり、腕を動かすことを手伝ってくれたりと、できるケアをしてくれた。アンネはエリシアからの看護とは別で、病院の医者や看護師から会話の訓練や、身体を動かす訓練を受けている。
ファリオスはアンネの点滴の輸液バッグの交換をしてくれたり、定時の検温をしてくれたり、とアンネの世話をしてくれた。
もちろんファリオスにしてもらうことには抵抗があったのだが「もう二か月もずっとしてきたのだから、今さら気にしないでよ」と体温計を強引に口の中に入れられてしまう。
アンネの方も今はファリオスと押し問答するよりも、早くエリシアのことを抱きしめられるように、身体の回復に努める方が優先かと、しぶしぶファリオスのすることを受け入れた。
ファリオスは何も言わずに毎日エリシアを連れて、アンネのケアをしてくれるが、一体何を思ってこうしているのだろう。
頭が上手く働かないこともあって医者の言う通り、難しいことは考えずにひと月を過ごした。
そうしているうちにアンネは普通に会話ができるようになり、ゆっくりであれば身体が動くようになってきた。
それに伴い、頭も少しずつはっきりとする。
「ねえ、見てお母さん! お父さんがこの本とこの本とこの本買ってくれたの!」
「まあ、いっぱい買ってもらったのね」
「うん、それでね。この本はお姫さまが出てくるんだけど、実は魔女でね……!」
今もエリシアが読んだ本を紹介してくれて、アンネが「うん、うん」とそれを聞く。
そしてファリオスがニコニコしながら見守っている。
もう、いい加減、聞かなければならない。
一体なぜアンネがジファーレ公国にいて、ファリオスがエリシアと一緒にいるのかを。
そして、七年前のファリオスとの別れを思い出してアンネの背筋はゾクリとする。
彼はたしかイザベラ・サモラウスと結婚して、彼女との間に子どもがいるはずである。
こんな場所で、こんなことをしていていいはずがない。
考え始めたら一気に不安に襲われた。
「ファリオス様……」
アンネは長い眠りから覚めて初めてファリオスの名前を口にした。
「アンネ」
顔を強張らせてファリオスを呼ぶアンネとは反対にファリオスは蕩けそうなほど甘い微笑みをアンネに向ける。
そんなつもりで名を呼んだわけではないのでドキドキするような表情を向けるのは止めて欲しい。
「そろそろ説明をしてもらいたいのですが、良いでしょうか?」
このひと月、ファリオスは強引だったが、アンネの嫌がることはしてこなかった。昔と変わらない。
エリシアのことを大事にしている様子を見ていると、彼がアンネの敵ではないことがよくわかる。
だが、やはりアンネはエリシアが子爵家で虐げられる運命を恐れている。
可愛い我が子に辛い思いをさせたくない。
どれだけエリシアがファリオスを慕っていたとしても絶対に渡さない。そんな強い意志を持ってファリオスに話しかけた。
「エリシア、アンネと話がしたいから談話室で本を読んでてくれるかい?」
「大人のお話だね! わかった。ちゃんといい子にしてるよ」
「ああ。そうだね。勝手に遠くへ行ってはいけないよ」
エリシアは「わかってる! 大丈夫だよ」と言いながら本を持って部屋から出る。すんなりとファリオスの言うことに従うところを見るとアンネが倒れてから何度もそういう場面があったのだろうと想像できる。
アンネは部屋でファリオスと二人きりになってから、先を急ぐように口を開く。
「ファリオス様」
「そんな顔をしなくても大丈夫。僕は決して君からエリシアを取り上げようなんて思っていないし、君のところへ来たのもエリシアの気持ちを無視して押しかけたわけじゃなくて、エリシアが僕を探そうとしたことがきっかけだ」
エリシアはアンネが目覚めたときに「お父さんに会いたいって言ってたから、会わせてあげたかった」と言っていた。
「そうだね……エリシアと僕の出会いから話そうか……」
アンネはエリシアとレオンが、ファリオスを探すためにシギー男爵領を出て、ファリオスの父ローガンと出会ったことを聞かされた。
「父はエリシアの話を聞いて、彼女が自分の孫なのではないか、という可能性を感じたんだ。そして母を想うエリシアの健気な想いに胸を打たれてエリシアを僕と引き合わせた。もちろんそれをエリシアが望んでいたからね」
アンネはファリオスの話を聞いて驚愕した。
「だ、旦那様が……っ!?」
アンネとファリオスの父ゼノビオ子爵とはほとんど話をしたことがない。ただ、威圧感のある硬い雰囲気の貴族らしい考え方の男性というイメージで、エリシアの想いを汲んで行動に移すなどという感情で動くような印象がなかったので、ファリオスの話を聞いて驚いた。
「驚くよね。僕も父上の話を聞いて驚いたんだ。父上は世間体や合理性を優先して動く人だからね」
「ええ。私もその印象が……」
「父はエリシアと出会ってずいぶん変わったみたいだ。丸くなったよ」
アンネにはその様子は想像できなかった。
「シギー男爵家に勤めていた君はシギー家から出てすぐのところで病に倒れた。クーリュー病という病気で、男爵領の病院では助からないと宣告されていたようだ。そしてエリシアと出会って彼女から話を聞いた父は助かる道を探すため君を王都の病院へ転院させた」
「そんなことまで……」
ゼノビオ子爵がアンネを助けるためにそこまでしてくれたことに心底驚いた。
「父はエリシアを悲しませたくないからって言っていたよ。エリシアのことが大切なんだと思う」
「そう……ですか……」
「そして君を王都の病院へ転院させた後、エリシアが僕の子どもであることがはっきりした。妊娠時期と僕と君との関係からの推測ではあるんだけど……エリシアは僕と君の間に出来た子なんだよね……?」
ファリオスがアンネの目をじっと見据える。嘘は吐かないで、という目だ。
エリシアはファリオスの色を引き継いでいる。妊娠時期まで知られているのであれば言い逃れはできない。
「そう、です……。エリシアはファリオス様の娘です」
「よかった。そうだとは思っていたけど、君の口から聞けてホッとした」
「エリシアのことは……」
エリシアは貴族の血を引く娘ということになる。
「大丈夫、君からエリシアを奪うつもりはないよ」
アンネはそれ以上は言わずに口を閉じた。するとファリオスは話の続きを始めた。
「王都に君を転院させたけど、王都でもクーリュー病の本格治療は無理だった。だから君には病気の治療薬の扱えるこのジファーレ公国に来てもらって、ここで治療を受けてもらうことにしたんだ」
「そうだったのですね……」
病に倒れたアンネをここまで運ぶのは大変だっただろう。
「ただ……それをするために……僕は……」
「?」
急にファリオスが口ごもり始めてアンネは首を傾げた。
「怒られても仕方ないと思ってる。僕のことは罵倒しても、殴ってもいいから……もちろん君が望むなら……いやだけど……いやだけど……、り、離婚にも応じるつもりだ!」
「離婚!?」
必死な顔で言い切られたが、一体何の話をしているのかわからない。
「ファリオス様? どういうことですか……?」
アンネがファリオスを問い質す。
「公国は、公国で暮らす者しか公国の治療を受けることができないんだ。だから……君に公国で治療を受ける資格を与えるために……君には、公国での長期滞在権を持つ僕と……結婚してもらったんだ」
「け、けっこんっ!?」
ファリオスとアンネの結婚なんてあってはならないのに、ありえない言葉が聞こえてきてアンネは目を見開いてファリオスを見る。
だが、ファリオスも嘘じゃないと、真剣な顔でアンネを見ていた。
「で、でも……ファリオスさまは結婚されていますよね。子どもだって……」
アンネが知っている小説のストーリーではファリオスは男爵令嬢であるイザベラ・サモラウスと結婚し、すぐに子どもが生まれていた。
「え? 僕は結婚なんてしていないけど? 誰から聞いた?」
アンネはドキリとした。誰かから聞いた話ではない。前世の記憶で知っているだけの話。
ゼノビオ子爵家を出てからの七年間、実際のファリオスについては何も知らない。
「いえ……貴族の方は世継ぎのために早くから結婚されて、世継ぎを求められると……」
この世界の一般知識で誤魔化した。
「ああ。まあ、父もそう言って僕にたくさんの縁談を持ち掛けてきたが、僕は公国で仕事をすることでずっと結婚から逃げてきたんだ」
小説とはストーリーが違っている。
「な、なぜ……?」
「それは、アンネのいない子爵家には何の魅力も感じなかったからね……君への想いを断ち切るために僕は公国に行ったんだ……」
「そ、そうですか……」
アンネがファリオスに別れを告げ、屋敷から出て行ったことで、どうやらストーリーの歯車は違った方向へと回り始めたようだ。
「わ、私はてっきり……あのイザベラ・サモラウス男爵令嬢と……」
「彼女とは一番ありえないよ」
「え、でも……」
「縁談はあったけど、断ったよ。君と別れてから、子爵家に居たくなくて公国行きの仕事を受けることにしたんだ」
原作小説とは違う展開になっている。
「噂で聞いたことだけど、サモラウス男爵家のイザベラ嬢は我が家ではない別の子爵家に嫁いで、女児を産んだのだが、その子はそこの子爵令息の子ではないことがわかったらしい」
「え?」
アンネが驚いた顔をするとファリオスは詳しく説明してくれた。
どうやら婚約前の顔合わせの何度目かで、その子爵令息に催淫作用のある薬を盛って強引に既成事実を作ったらしい。それで責任を取るためにその子爵家はイザベラを娶ったのだが、彼女は実はすでにその時別の男性の子を妊娠していた、というわけだった。
托卵を狙っていたということだろうか。イザベラの豪胆な行動に唖然とした。
ファリオスは「勝手に結婚なんて本当にすまない」とアンネに謝る。
「謝らないでください! ファリオス様がそうしてくれないと、私は公国で治療を受けることができなかったのでしょう? 自国にいたらエリシアを残して死を待つだけでした。その運命を変えてくれたのはファリオス様です」
治療のために結婚というのは驚いたが、それによって命を助けられたのだ。アンネはファリオスに感謝こそすれ、ファリオスに対して怒るなんてできない。
「でも……私とファリオス様が結婚なんて……どうやって……?」
アンネは平民でファリオスは貴族だ。貴賤結婚などしようものなら、ファリオスは子爵家嫡子の身分を剥奪される可能性がある。
「旦那様だって……」
きっと許すはずがない。
「アンネと僕を結婚させるというのは父上の提案なんだ」
「え?」
「アンネの命を救うためには、公国の男性国民にアンネと結婚してもらうように契約婚を持ち掛けるしかないと思っていたら、父上が僕とアンネが結婚すればいい、と言ってくれた」
「え、でも……旦那様は……」
ファリオスに自室から庭の様子が見えると言い、ファリオスとアンネの関係を良く思っていない様子だった。
「母親が知らない男といつの間にか結婚していたらエリシアが悲しむって父上が言ったんだ。ずいぶんエリシアに肩入れしているだろ」
そう言ってファリオスは呆れたように笑った。
「君が平民のままでは結婚できないからって君を貴族の養女にできるように話を進めてくれたのも父上だ。そして、結婚の手続きのため、君の両親に説明に行ったのは母上だよ」
「奥様までっ……」
みんながアンネの命を助けるために奔走してくれていた。
アンネの胸には熱いものが込み上げる。
「エリシアもここまでくる長い道中わがままも言わずにずっといい子にしていたんだ。本当に……本当にいい子で……」
このひと月、アンネがエリシアに世話をしてもらったことはたくさんある。自分のために頑張ってくれていたことは伝わっている。
もちろんファリオスの献身も……
聞いている間にアンネの視界が滲み始めた。
「みんな君が回復するのを待ち望んでいたんだ。そしてエリシアの前では気長に待とうって言ったのに、僕が一番君の目覚めを待ちきれなかった」
ファリオスが一呼吸おいて「これは本当に怒られるかも」とポソッと言う。
「え?」
よく聞こえなくて聞き返すとファリオスは泣きそうな顔で「本当にごめん」と頭を下げる。
「初めて倒れた君と会ったときに、エリシアに言われるがままに君にキスをした」
「キス!?」
「ああ……エリシアがキスで目覚めるからって言うから……」
「エ、エリシア……」
アンネは「絵本の影響ね……」とエリシアの好きだった眠り姫の物語を思い出した。
「あの……エリシアに言われてさせられたのなら、仕方ないと言うか……むしろ、ごめんなさいと言うか……」
アンネは動揺しつつもそう答えた。
「いや……じゃなくてさ……実はさ、ジファーレ公国の病院に転院してからも、なかなか目覚めない君に対して、エリシアにはアンネが目覚めるのを焦らず、ゆっくりと待とう、と言ったんだ。だけど本当は僕が一番待ちきれなくて、毎日奇跡が起きないかと願いながら君にキスをしてたんだ」
「え!?」
「君が、目覚めた日も……エリシアに言われてキスをした。ご、ごめん……! 同意もなくそんなことをして。気持ちが悪いよね」
ファリオスはしゅんと反省した態度を見せていた。
「気持ち悪いなんて……」
そんなことは思っていない。
それよりアンネはずっとファリオスの口づけで目覚める夢を見ていた。
「もしかして……」
――夢じゃ、なかったのかしら……
もし夢じゃないのなら……
「そのとき、ファリオス様は……私に……」
聞きづらいがちゃんと聞いた方がいい。アンネは小さくファリオスに尋ねる。
「愛してる……と、言ってくれましたか……?」
アンネが問うとファリオスが瞳を揺らす。そして、グッと拳を握ってから決心したようにアンネを見た。
「言ったよ……。今も昔もずっと、変わらず君を想っている。僕は……アンネ、君のことを……愛してる。好きだよ。アンネ。ずっと、ずっと愛している」
ファリオスの真っ直ぐな想いに息を呑む。
ずっと夢でしか聞けなかった愛の言葉。
「ファリオス様のキスで目覚める夢を何度も見たんです……! それで……目が覚めるとファリオス様と私でエリシアの手を引いて並んで歩く……すごく幸せな夢で……」
話しているとアンネの目頭が熱くなる。
「ファリオス様とは……身分違いの恋で、絶対にありえないのに……そんなことばっかり夢に見て……眠りながら、そんなふうになったらいいなって……」
アンネが言葉を詰まらせながらも必死に言うと、ファリオスは頬を赤らめながらアンネの手を取る。
「ねえ、アンネ……? それってそうあってほしかったって願っていたようにしか聞こえないんだけど……」
「あ……」
「アンネも僕と同じ気持ちだったって思ってもいいのかな?」
取られた手の握り方が変わる。昔したような指を絡めるような恋人同士の手の繋ぎ方。
ファリオスに顔を覗き込まれてアンネの顔がブワッと一気に熱くなる。
アンネが心臓をドキドキと高鳴らせるとファリオスは切なげにくしゃりと顔を歪ませた。
「アンネ……僕はもう二度とこの手を離したくないって思ってる。でもそれは僕の意思。アンネにこんな治療を受けさせてあげられるのも、貴族としての責任を背負っているからできること。僕はもうこの身分を捨てることはできないんだ」
この世界の薬は高額で長期間の入院治療というのは裕福な家の者しか受けることができない。これほど長い期間、それも他国の高度な医療を受けるなど、庶民の暮らしでは絶対に不可能だ。
「僕がこの手を離さない、と言えば、アンネには貴族の生活を強いることになる。アンネだけじゃない。エリシアにもだ……。僕も、僕の両親も、君たちに子爵家へ来てもらいたいと望んでいる。でも、君たちの意志は無視できない」
ファリオスは一度俯いて心を落ち着かせるようにしてから再び前を向く。
「アンネ……。君の病気の治療のために一度僕たちは結婚したけど、君が望むなら、僕は離婚にだって応じるつもりだ」
「っ……」
離婚と聞いてアンネの胸はチクリと痛む。
「無理強いはしない。だけど、僕と一緒に生きる道を選んでくれたら嬉しい」
ファリオスはアンネの目を見つめて言った。
アンネを気遣うファリオスの想いにアンネの目から涙が零れ落ちる。
「…………っ……ごめんな、さい……っ……!」
「っ……!?」
俯いて絞り出すように一言言うと、ファリオスはひどくショックを受けた顔をした。アンネから結婚を断られたと思ったのだろう。
「お願いします……! 私とエリシアを……ゼノビオ子爵家に連れて行ってください」
「え?」
謝罪の言葉に続く台詞が想像したものと違ったようでファリオスは驚いた顔をしていた。
「それは……」
ファリオスの表情が硬い。言葉の意味を探っているようだ。
「できれば……ファリオス様の妻として……エリシアはファリオス様の娘として……屋敷に置いてもらえると……」
アンネがそこまで言うとファリオスは泣きそうな笑顔をアンネに向けた。
「アンネ……!」
すぐにグイッとファリオスに腕を引っ張られ抱き込まれた。
「ありがとう! アンネ……ありがとう……!」
アンネの決断にファリオスは喜んでくれていた。
「ファリオス様……お礼を言うのは私の方です」
アンネが言うとファリオスが「ん?」とよくわからない、といった顔をした。
「エリシアがお腹にいることがわかる前から、私みたいな平民のメイドがゼノビオ子爵家に受け入れられることはないって思ってて……」
アンネが話し始めるとファリオスはアンネを腕の中から少し離した。
「ああ……昔の父上のままならそうなっていた可能性はあると思う」
「それでも……私は頑張ろうとすらしなかった……旦那様や奥様にファリオス様との関係を認めていただけないか、頭を下げることもしなかった」
流行病が怖かったということもあるが、アンネが選択したのは子爵家から離れるという道。
「お医者様から聞きました……ファリオス様はたとえ私が目覚めなかったとしても、生涯私の世話をして生きていくと宣言されたと……」
医者はファリオスの言葉を聞いて、投薬を開始したと言う。「良い旦那様をお持ちですね」と言っていて、その時は言われた言葉の意味が分からずただ首を傾げていただけだった。
だが、ファリオスの気持ちを聞いた今ならわかる。
ファリオスはアンネに生涯を捧げても良いと思ってくれていた。
「エリシアからも聞きました。公国に来てから毎日私の回復を願って教会で祈りを捧げてくれていたって……」
話していて泣きそうになる。
「ファリオス様はこんなに深く私のことを想ってくださっていたのに……」
アンネはファリオスがイザベラと結婚するものだと信じて疑わなかった。
「私、倒れたときに、もう死ぬんだって思いました。でもファリオス様が助けてくれた。あなたがいなかったら私は死んでいました。あなたがここまでしてくれたから、私は今生きていられる……なのに……ごめんなさい……」
アンネはファリオスに頭を下げて「ごめんなさい」「ごめんなさい」と繰り返した。
「逃げてばかりで……怖がってばかりで…………。こんなにエリシアのことも大事にしてくれているのに、私はあなたに赤ちゃんのころのエリシアを抱かせてあげなかった……」
「それは……」
ファリオスが動揺したように瞳をうろうろさせた。
ファリオスはアンネに過去を責めるようなことは一度も言わなかったが、やはり、赤ちゃんのころのエリシアのことも可愛がってあげたかったようだ。
「ごめんなさい……本当に……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「ア、アンネ……!」
アンネが何度も謝るのでファリオスは戸惑っているようだった。
「好きなんです……!」
勢いでそのまま告白する。
「え?」
「ずっと……ずっと……あなたのことが好きで……身分違いの報われない恋だと思っていて……七年前あなたの元から去ってしまってごめんなさい。エリシアの幸せだけを考えてきたつもりなのに、いつも眠れない夜はあなたのことを考えていました。都合の良いことを言っていると思います。でも……! 今でも……ずっと、好きなんです……」
「アンネ……」
アンネの突然の告白にファリオスが瞳を揺らす。
「貴族夫人をしっかり務められる自信がありません。奥様のような素晴らしい夫人になる自信がないんです……!」
アンネは膝の上に置いた手をギュッと握り締めてから、ファリオスの方をしっかりと向く。
「でも……お願いです……! 私に頑張るチャンスをください。ファリオス様の隣に立つチャンスが欲しいんです。ファリオス様の妻として、頑張りたい。私のことを好きだとおっしゃってくれたファリオス様の気持ちに応えたいんです! 私も……私も……」
アンネもファリオスに応えたい。努力して想いを返せるのであれば頑張りたい。
必死に言葉を紡ごうとすると声が勝手に震え出す。でも伝えたい。
アンネは絞り出すように一番伝えたいことを口にする。
「ファリオス様のことを……愛しています……!」
アンネがファリオスに伝えると、ファリオスはきつくアンネのことを抱きしめた。
「っ!」
勢いに驚いているとファリオスは「僕も愛してる」と抱きしめたままアンネの肩口に頭を埋める。
そしてファリオスはやはりアンネに「ありがとう」と礼を言う。だからアンネも涙を流してファリオスに「命を助けてくれて、ありがとうございました」と礼を言った。




