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架空の世界のお話なので医療行為にあたる基準が現実世界とは異なります。

気になる方はブラバをお願いします。

 病床に伏しているアンネを乗せた馬車は公国へ向かってゆっくりと進む。

 急いでほしい気持ちもあるが、アンネは腕に点滴をし、鼻からチューブで栄養を取っている状態で、馬車が激しく揺れればアンネの身体に障るので、無理はできない。


 両親の出した早馬とは王都を出てから十日目に経由した他国で合流し、それぞれが取った手続きが順調に完了したことを確認しファリオスはアンネとの結婚証明書を手に入れた。


 王都を出発して二週間。ようやくジファーレ公国へ入国した。

 ファリオスは仕事で何度も公国へ来ているため入国に手間取ることはない。


「ファリオスさま。奥様の容体は非常に危険な状態です。もう長くはもたないかと……」


 傍で聞いていたエリシアがアンネをじっと見つめて、唇を引き結ぶ。


「わかった。クーリュー病の治療が受けられる病院にはもうすぐ着く」


 ――アンネ……もう少しだから頑張ってくれ……


 公国の公都にあるその病院へも事前の連絡は済ませており、ファリオスの長期滞在権の証明書とアンネとの結婚証明書が出せるのであれば受け入れ可能だと聞いている。



 病院へ着くとすぐにアンネは病室へと運ばれた。医者と話をするためエリシアには別室で待ってもらった。

 主治医が公国の医者に状況の説明をする。


「投薬を始めればすぐにクーリュー病を引き起こしていた菌の増殖は止まります。すでに血流に悪さをしていた菌もそのうち自然となくなりゆっくりと血流も良くなるでしょう」


 ファリオスはこれで一安心かと安堵する。


「ただ、アンネさんの場合は倒れてから投薬までの期間が長いので、投薬が始まれば命は助かるでしょうが、彼女の意識が戻るという保証はありません」

「え……」

「ほら、このように手の方にも血流の悪さが現れていますが……」


 そうして見せられたアンネの手は部分的に白や紫色に変色している箇所がある。


「これが脳の方にも起こっている可能性は否めません」

「脳……」


 脳と聞いて頭の中が真っ白になる。


「手の変色は血流が良くなれば自然と元通りになりますが、脳の方は一度機能を失うと戻る可能性は限りなく低いのです。投薬で生きながらえても眠ったまま……と可能性が大いにあります」

「そ、そんな……」


 そんな可能性など想像していなかった。公国へ行けばアンネの治療を受けられ助けることができると信じて疑わなかった。

 公国でクーリュー病を発症した患者の多くが完治している。だが、それは倒れてすぐに投薬をし治療を始めたからで、アンネは倒れてからもうひと月以上が経過している。それが良くないらしい。


「脳の状態がどうなっているかは検査の方法がないので、可能性での話しかできません。この病院ではクーリュー病を引き起こす菌が全てなくなったと判断されれば、たとえ眠ったままでも入院できる期間は半年だけです」


 治療するものがなくなると退院しなければならないらしい。


「その後は在宅看護の生活に変わります。子爵様のお屋敷なので、看護の手は問題ないかと思いますが、目覚めない家族を見続けるのはつらいものがあるかと……。もちろん点滴や鼻からの栄養だけでは健康的な生活は送れませんから、普通の人のように長く生きることは無理でしょう」


 医者はアンネが目覚めなかったときの想定できる今後の生活についての説明をしたうえでファリオスに問う。


「どうしますか? それでも投薬をしますか?」


 アンネの状態は芳しくない。投薬するなら今すぐで、ファリオスは一日も悩む時間を与えてもらえない。

 アンネの目が覚めないなんて考えたくない。

 助かる唯一の道だと思ってここまで来た。


 ――いやだいやだいやだ……


 アンネが倒れた話を聞いてから、何度も現実から逃避したいと思った。今も逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。


『必ずなんとかするから』


 アンネに誓った言葉を思い出しハッとする。

 逃げ出すなどありえない。アンネの一生も、エリシアの一生も、すべて支えるつもりでここへ来た。


「…………投薬を……お願いします。たとえ彼女が目覚めることがなくとも、僕が彼女を生涯世話して生きていきます」


 ファリオスは真っ直ぐ医者の目を見てそう告げた。医者も大きく首を縦に振る。


「わかりました。すぐに投薬を開始しましょう」


 もしかしたらアンネはなぜすぐに楽にしてくれないのだと怒るかもしれない。だけど、助かる道がわずかにでも残されているならそれに懸けたい。

 彼女が目覚めなかったとしても彼女の生涯は自分が背負って生きていく。

 ファリオスはそのつもりで医者に投薬をお願いした。



     ◇



「お父さん、お母さんの点滴なくなりそうだよ」

「わかった。今新しいのを持ってくるよ」


 ファリオスは看護師から渡されている新しい輸液剤を持ってアンネの元へ向かう。


「お父さんできる? 看護師さん呼ぼうか?」

「大丈夫。できるさ」


 ファリオスは看護師から教えてもらった手順で輸液バッグの交換をする。


「そろそろ身体を動かして向きを変えようか」

「うん。私も手伝う」

「ありがとう。エリシア」


 寝たきりのアンネは身体を動かすことができないので筋肉が拘縮しないよう、適度に動かしてやる必要がある。


「お母さん、触ってもいい?」


 エリシアがアンネに声掛けをするが反応はない。

 エリシアは一度だけ目元を拭ってから、すぐにまた声掛けをする。


「お母さん、腕、触るね。動かすよ」


 エリシアはアンネの腕を掛けてあるリネンの中から取り出し、ゆっくりと曲げ伸ばしをするように動かした。


「お父さん、できたよ」

「ありがとう、エリシア。じゃあ身体の向きを変えてあげよう」


 動かないアンネが床ずれを起こさないように眠る体勢を変える必要がある。


「アンネ、少しごめんね。向きを変えるよ」


 ファリオスもアンネに声を掛けてから身体に触れて体勢を変えてやる。

 だが、アンネの反応はやはりない。


 クーリュー病の投薬を始めてからもう二か月この状態である。



 投薬をしてすぐに治ると思い込んでいたエリシアは、投薬を始めて一週間くらいでアンネに変化が現れないことを不安がった。


「ねえ、なんでお母さん起きてこないの? 病気のお薬もらえたんじゃないの?」

「エリシア。薬を入れてもらったからといって、すぐに良くなるわけじゃないんだ。ゆっくりと効く薬なんだよ。ほら、アンネの手を見てご覧。前は指の一部が変色していたけど、治ってきているだろう?」

「本当だ! お薬効いてるんだね!」


 ファリオスがアンネの手を取ってエリシアに見せると、エリシアは明るく「良かった! お母さん、早く目を覚ましてね」と声を掛けていた。

 エリシアの様子を見てふう、と息を吐く。


 エリシアにはそう説明したが、ファリオス自身も不安だった。

 アンネが目覚めない可能性はある。


 一時は不安が消えたエリシアだったが、さらに一週間したころに再び不安を口にした。


「ねえ、お父さん。そろそろお母さん起きるかな?」

「どうだろう」

「お母さん、いつ起きるの?」


 それはファリオスだって知りたい。

 病院の近くの宿に泊まって、毎日アンネの様子を見に来ている。

 エリシアは「今日こそは起きるかも」「今日は目が開くかも」そんなふうに期待をしながら病院へ来て、「今日もダメだったね」「お母さん起きなかったね」と落胆して宿に帰る。


「ごめん。エリシア。アンネがいつ起きるのかは医者でもわからないんだ……お父さんにもわからない……」

「……」


 エリシアは泣きそうな顔で唇を引き結んでアンネの片手を摑んで、じっと見つめた。

 そのときだった。

 アンネの反対の手の指がピクリと動いたのだ。


「っ!?」


 間違いない。エリシアとファリオスは同時に反応し、二人で目を合わせた。


「お、お父さんっ……!」

「い、医者を……! 医者を呼んでくる!!」


 ファリオスは急いで医者を呼びに行って、アンネが動いたことを伝えた。

 すぐに医者がやって来て、アンネの様子を診てくれた。


 エリシアは期待に興奮している様子だったが医者の表情は良いものではなかった。


「脊髄反射といって、脳を経由せずに意志とは関係なく何らかの刺激に反応して動いたものですね」


 どうやらエリシアが手を握ったことで意志とは関係なく指が動いただけらしい。


「お母さん、起きるんじゃないの?」


 言葉の意味は分からないようだが、医者の反応から喜ばしいような動きでなかったことはわかったらしい。


「起きようとしている兆候は見られませんでした」


 エリシアはファリオスに聞いたようだったが、医者の方が答えてくれた。

 今度はエリシアでも理解ができたのだろう。彼女は目にいっぱいの涙を溜め始める。

 ファリオスが診てもらった礼を言うと、医者は「失礼します」と言って部屋から出た。


「お母さんっ……っううっ……まだ目が覚めないんだね……」


 エリシアがしくしくと泣き出した。


「ああ。僕も期待したけど、まだだったみたいだね」

「ううっ……ふえっ……うぅっ……」


 ファリオスが腕を広げるとエリシアはすぐに飛び込んできてファリオスの腕の中で泣き叫ぶ。

 毎日期待と落胆を繰り返して精神的な疲労が大きいのだろう。エリシアの堪えていたものが堰を切ったように溢れ出す

 そんなエリシアをファリオスはしっかりと抱きしめた。


「私が良い子じゃないからダメなのかな……もっと良い子にならなきゃダメなのかな……」

「違うよエリシア。エリシアは長旅でもずっと良い子だったし、僕に気を遣ってわがままを言わないように呑み込んできたのも知ってるよ。そうじゃなくて違うんだ。アンネは……アンネはずっと頑張ってきたから、まだ疲れてて寝ていたいんだよ」

「うんっ、おかあさん……っうっ、ずっと頑張ってた」


 エリシアの頭を自身の胸にぐっと押し付けると涙で服がじわっと濡れる感じがした。


「うん……エリシア……病院の近くに屋敷を借りようか。宿屋じゃなくて屋敷で暮らそう。家のことは僕にはできないからメイドを雇うけど。それならアンネが目を覚ますのをゆっくり待っていられるだろう? ジファーレの公都には教会もあるし大きな書店もある。毎朝教会でアンネが目覚めますようにと祈りを捧げてから、書店で本を買うんだ。そして本を読みながらアンネの様子を見守ろう。看護師のやっているような、アンネの顔を拭いてあげることなんかは僕たちでもできるから。エリシア、僕たちでやってあげよう。他にも僕たちでできそうなことがあればしてあげよう。そうしてる間にアンネは起きたい気分になるかもしれない」


 ファリオスがそう提案するとエリシアは何度も「うん」と頷きファリオスにしがみつく。


「でもね。エリシア。たとえアンネが起きなくても、アンネを責めたらだめだよ。もしかしたらアンネは起きたいのに起きられないのかもしれない。ずっとアンネが起きられなくても、きっとアンネには僕たちの話は全部聞こえてる。僕たちの喜びも悲しみも全部伝わっている。アンネはエリシアを愛しているし、エリシアもアンネを愛してる。それは眠っていても起きていても変わらない。僕も眠ったままのアンネでも愛し続ける。わかるよね、エリシア」

「うん……! うんっ、うう……っ、わかる。わかるっ……!」

「焦らず、ゆっくりと待とう。いつ目覚めても良いように。毎日……っ毎日……アンネの顔を見に来よう……」


 話し終えるころにはファリオスの視界も滲んでいた。



     ◇



 ファリオスとエリシアは毎朝、教会で祈りを捧げてから書店に寄る。エリシアの読む本を買ってアンネの病院へ行く。

 昼はメイドに弁当を用意してもらっているので、病院の談話室でそれを食べて過ごす。

 ファリオスはたまにディミトリスから仕事の依頼が来て、アンネの病院通いの負担にならない程度に仕事をこなしている。

 ファリオスとエリシアは、できる範囲で看護師の手伝いをすることにした。アンネにも見られたくない範囲はあると思うが、そこは看護師が上手く配慮してくれている。

 

 そして、もう二か月この生活を続けているが、アンネはまだ目覚めない。


 エリシアはというと、今日は落ち着いた様子だが、期待と落胆を繰り返し、ストレスを溜め込みたまに爆発したように泣き叫ぶ。そのときはエリシアの気持ちを受け止めるようにファリオスは彼女を抱きしめる。荒れているときはドンドンと胸を強く叩かれ当たられるときもあるが、ファリオスはそれでもエリシアのことを抱きしめた。


 まだアンネの投薬は続いているので公国の病院で治療を続けているが、クーリュー病を引き起こす菌がなくなったと判断されればアンネは子爵家に連れて行って子爵家で看護を続けようと考えている。


「さあ、エリシア。今日はこれくらいにしてそろそろ屋敷に帰ろうか」


 借りている屋敷は二人だけで住むものなので小さい屋敷を選んだ。


「帰る前にお手洗いに行きたいから待ってて」

「わかったよ」


 エリシアは毎日帰る前にお手洗いに寄っていく。行きも出かける前にお手洗いに行くので、そういう習慣なのだろう。


「アンネ。今日はもう帰るよ。また明日くるから。エリシアには君の目覚めをゆっくり待とうって言ったけど、本当は僕が一番待てないんだ。目覚めなくてもずっと君を愛し続ける。この想いに嘘はない。だけど、やっぱり君が目覚めてくれた方が僕は嬉しい。エリシアもその方が喜ぶし……」


 そこまで話してからファリオスはアンネに顔を近づける。


「愛してる。アンネ……」


 一言小さく呟いてから触れるだけの口づけをした。


 これはいつもエリシアが帰る前のお手洗いに行っているときにしており、こちらも習慣のようになってきた。そして少しするとエリシアが「お待たせ」と戻ってくる。


「行こうか。アンネ! また明日」

「お母さん。おやすみなさい」


 このときファリオスはアンネの睫毛がわずかに動いていることには気づかなかった。



     ◇



 翌朝ファリオスの両親が、公国でファリオスの借りている屋敷に訪ねて来て驚いた。


「予定では、あと三日先ではありませんでした?」

「予定よりも早く着くという先触れは出したぞ?」


 ちょうどその時ファリオスの元へと使いがやってきて手紙を渡される。


「先触れは今届きました。先触れよりも早く着くなんてどれだけ気合入れてるんですか?」

「ファリオス。ごめんなさいね。ローガン様ったら早くエリシアに会いたかったみたいで……」


 父の顔を見ると仏頂面をしながら「たまたま馬車が早く着いただけだ」と言い訳をしていた。


「おじいさま、おばあさま! これからお母さんの病院へ行くんです。一緒に行きませんか?」

「では、ご一緒させて頂こうかしら」

「病院へはここから歩いてすぐなんです!」


 エリシアが張り切って病院へ両親を案内しようとしており微笑ましい気持ちになる。

 皆で途中の花屋でアンネへのお見舞いの花を買って病室に行った。


「お母さん! おじいさまとおばあさまが来てくれたよ」

「アンネ、こんにちは」


 母がアンネに近づき声を掛ける。


「全く目覚める兆候はないのか?」


 父がファリオスだけに聞こえるように問いかける。


「はい……」


 ファリオスは静かに返事をした。


「私、花瓶に水を入れてくる!」


 エリシアが病室の備え付けの棚から花瓶を取り出し洗面室へと向かった。


「エリシア、手伝いましょうか?」


 母が声を掛けていた。だがエリシアは「大丈夫!」と一人で花瓶を抱える。


「気を付けるのよ」

「うん! きゃっ……!」


 大丈夫と言ったエリシアだったが花瓶を手から滑らせてしまった。

 ガチャーンと部屋に陶器が割れる音が響いた。


「あら! エリシア怪我はない?」


 すぐに母が駆け寄って、エリシアが「ごめんなさい」と謝った。

 エリシアといるとよくあることで、「手伝おうか?」と声を掛ければ「一人で大丈夫」と手伝いを断られて、「気を付けて」と声を掛けるが結局失敗してエリシアが「ごめんなさい」と謝罪をする。「ほら、言ったのに」と喉元まで出かかって呑み込み、わざとではないのでいつも「気にしなくていい」と失敗してしょんぼりするエリシアを慰めるのだが、お決まりのパターンのように思える。


「破片が危ないから、エリシアは離れなさい」


 そう言って母はすぐに廊下に待たせていたお供のメイドを呼んで、メイドと二人で割れた花瓶を片づけ始める。

 メイドは新しい花瓶を買いに行くと申し出てくれて母は「悪いわね、よろしく」と頼んでいた。

 全ての片付けが終わったころ、何か声にならない声が聞こえた。


「っ!?」


 皆が一斉に聞こえた方へ顔を向ける。

 声は小さすぎて、聞こえたのは声ではなく誰かの吐息だったのかもしれない。だけど皆顔を見合わせているということは同じ言葉が聞こえたはずだ。「だいじょうぶ……エリシア……」と。


 皆が大きく目を見開いてアンネを見る。アンネの口がわずかに動いているだろうか。

 もう声は聞こえない。だが皆聞いた。


「い、医者を! わ、私が呼んで来よう!!」


 すぐに父が部屋を出た。


 そして父と一緒に医者が病室へと入ってきた。

 先ほど聞こえたのは本当にアンネの声だったのかは定かではないが、少なくともまだ唇がわずかに震えている。

 これが以前のような脊髄反射のものなのか、アンネの意志によるものなのか。医者が注意深くアンネの様子を診ていく。


 期待しすぎると、また以前のようにショックが大きくなる。

 これで目覚めなくても、落胆なんてしない。そう強く思いながら医者の判断を待つのだが、それでもファリオスの胸はバクバクとうるさく鳴っていた。

 エリシアもファリオスと同じように期待しすぎてはいけないと思っているのだろう。彼女の表情も硬く緊張している様子が見られる。


「すごい! もうすぐ意識が戻るかもしれませんよ。そういう兆候が見られます……!」

「っ……!」


 医者の話ではエリシアの花瓶を割った音が刺激になって目覚めの兆候へと繋がった可能性が高いらしい。


「あ、あの! お母さん、どうしたら起きますか? いつ起きますか? まだ何日も待ってないとだめですか? 腕引っ張っても良いですか?」


 エリシアがずいっと医者の前に出て質問攻めにするので「すみません」と謝りエリシアの肩を軽く摑み後ろへ引く。

 ただ、エリシアは皆が聞きたいことを全て医者に尋ねてくれた。


「いつ起きるかはわかりません。腕を引っ張るのも良くないです。でも目覚めようとしている兆候は見られるので、軽い刺激を与えるのは良いかもしれません。声掛けや、軽く触れてやるのは構いませんから」

「……キスっ!」


 エリシアはハッとしたようにそう言い「すみません、みんな廊下に出てください!」と医者と両親たちを引っ張り病室から追い出す。

 エリシアの突然の行動に「えっ? えっ?」と不思議に思いながらも皆廊下に出てくれた。


「これでオッケー! お父さん! お母さんにキスして?」


 ファリオスは一つため息を吐く。


「エリシア、そんな強引にしたらみんなびっくりするだろう」

「でもさ、お母さん起きるかもしれないんだよ! みんな居たらキスできないでしょ? 早くお母さんにキスして!」


 エリシアはファリオスを急かした。


「…………でも、エリシア……それは前にも試したけど、ダメだったじゃないか。今度もアンネは目が覚めないかもしれないよ」

「わかってるよ。お父さん。これでお母さんが起きなくても、私、泣いたりしないから!」


 エリシアは意志の強そうな目をファリオスに向ける。

 ファリオスはその目を見て頷いた。


「わかった。やってみよう」


 期待はしない。そう思っていても先ほどアンネの唇が震えたときと同様に、ファリオスの鼓動はうるさく鳴り始める。


 もし目が覚めたら……


「もしかしたら、君はこの現状に怒るかもしれないね」


 アンネを救うために勝手に結婚をした。エリシアが望んだからといっても、アンネはファリオスとエリシアを引き合わせたくなかったかもしれない。

 アンネの望んだ展開とは全く違うものになっている可能性がある。


「それなら、起きて僕に直接文句を言ってくれ。眠ったままだと全て良いように解釈してしまうよ。眠ったままでも僕の想いは変わらない。だけど……目覚めてくれたら嬉しい」


 ファリオスはゆっくりとアンネに近づいた。


「アンネ……愛してる」


 そっとアンネに口づける。


 ――目を覚まして……!


 強く願いを込めて優しく唇を重ねた。

 ゆっくりと唇を合わせている最中にエリシアの「あっ!?」という声が聞こえてファリオスはビクッと肩を揺らしてすぐに唇を離してエリシアの方を向いた。

 エリシアが目を見開いてこちらを見ていたのでギョッとした。

 彼女は両親が口づける瞬間を見ていたことになる。


「ちょ、エリシア! 目を瞑っていてくれないと……!」


 ファリオスは慌ててエリシアを注意するがエリシアの視線はファリオスではなくアンネに向いたままである。目を見開いたまま固まっている。


「あっ……あっ……お、おかあ、さんっ……」

「え?」


 ファリオスがアンネの方を見るとアンネの瞼がぴくぴくと動いている。


「アンネ! アンネ!」


 ファリオスがアンネを起こそうと声を掛ける。


「エ、エリシアも声を掛けてあげて!」


 ファリオスはエリシアの腕を引っ張りアンネへ近づける。


「おかあさん……お、お母さん!! 起きてっ!」


 エリシアが強くアンネを呼ぶと、ゆっくりと、ものすごく長い時間に思えるほどひどくゆっくりと、アンネは重たい瞼を開いたのだ。


「お母さんっ!」


 アンネの瞳がゆっくりと左右に動き、エリシアはグイッと身を乗り出してアンネの正面に自分の顔を持ってきた。

 アンネの瞳が細くなる。


「…………」


 唇をゆっくり動かし吐息を溢したが、声にはなっていない。


「っ!」


 だが、エリシアとファリオスには先ほど同様ハッキリ聞こえた。「エリシア」とアンネの呼ぶ声が。


「医者を呼んでくる!」


 ファリオスはすぐに廊下にいる医者を呼ぶ。


「アンネが……アンネの目が覚めました……!」

「っ……!」


 すぐに医者が入室し、両親たちは一瞬驚いた顔をしたあと、すぐに表情を柔らかくして顔を見合わせて「よかった」と安堵する声を発した。


「私たちはいいわ。私たちがいたらアンネがびっくりすると思うから。ゆっくりと説明できるタイミングになったらまた会わせてちょうだい」

「じゃあ、屋敷で待っててくれ。帰ったら、どうだったか教えるから」

「わかったわ……ファリオス……しっかりね」


 ファリオスは「はい」と返事をして病室へ戻った。

 医者がアンネに何やら声を掛けながらアンネを診てくれている。


 アンネの目が覚めたとしても、元通りとは限らない。

 脳の状態によっては、記憶に問題があるかもしれない。失語もあるかもしれない。身体の機能に問題があるかもしれない。


 先ほどとは違った緊張がファリオスを襲う。


 だが、目覚めたアンネは間違いなくエリシアを認識していた。であれば、少なくとも記憶障害でエリシアが泣くようなことはない。それだけでも十分嬉しいことだ。


 アンネにはこの状況をどう説明しようか。彼女の反応はどうだろうか。

 アンネが目覚めて、ただ喜んでいるだけではいられない。


 だが、ファリオスはすべての問題を後回しにし、ただアンネが目覚めたことを喜び、エリシアに気づかれないようにひっそりと歓喜の涙を流していた。

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