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 ファリオス・ゼノビオは十九のとき、属国であるジファーレ公国へ大公代理として行く王太子殿下の補佐官に任命され、そのころから公国と自国を行き来する生活を送っている。

 自国に戻っても自領にはなかなか顔を出せず、王宮近くのタウンハウスで過ごすことが多かった。



「おい、ファリオス! ファリオスはいるか!!」


 先週公国から戻り、王都のタウンハウスにいたファリオスは父の怒号が聞こえて慌てて部屋を飛び出した。

 普段、父がこれほど声を荒げることはない。何か大事件でも起こったのだろうかと玄関へ急いだ。


「はい、父上、僕はここにおりますが……──っ!?」


 父の姿を見てファリオスは目を見開く。


「ローガンさま、この人が……?」


 可愛らしい少女が父の顔を見上げて尋ねている。


「エリシア、まだ確証はない。メイドに部屋を用意させるから少し待っていてくれ。先に私が話をする」

「……わかりました」


 父は少女の手を引いて立っていた。


「え? ち、父上……?」


 子どもの手を繋ぐような父ではない。一体何が起こったのか、ファリオスの頭では到底理解できなかった。


「そ、その子は……」


 ファリオスが動揺を露わに父へ問うが、父はファリオスを無視してメイドを呼んで指示を出し「行きなさい」とその子の背中を押していた。


「ファリオス、話がある」

「は、はい……」


 少女の髪は父と同じダークブラウン。瞳の色も父と同じ青紫。父譲りのファリオスの色味と同じだ。

 この歳で腹違いの妹などやめてくれよ、とハラハラした心地で応接室へ向かう父の後ろをついて行く。

 すぐにタウンハウスのメイドがお茶を用意し、父はそのお茶を一口飲んでから話し始めた。


「以前、我が家の本邸でメイドをしていたアンネという女性を覚えているか」


 アンネの話をされてファリオスは少しだけムッとした。


「覚えています」


 彼女のことは最初で最後の恋だった。忘れられない女性で、今でも恋焦がれている。だが、父からは認めてもらえなかった。彼女からも別れを告げられ、半ば自棄になりながらジファーレ公国行きを決めたのだ。


「彼女がなにか?」


 父がすっと視線を外したので、なにか嫌な感じがした。


「病気で倒れて意識不明の状態だ。医者の話ではもって二か月。いや、もうあとひと月半の猶予だな……」

「は……!?」


 時が止まったような心地だった。

 父の言葉は耳に届いているが、内容が理解できない。というよりも理解したくないと脳が拒否反応を示している。


「彼女はシギー男爵領の病院に入院しており、医者の話だと、この国では治療法がなく助からないと……」

「え……ちょっ……えっ……?」


 何か言葉を発したいのだが口をパクパクして意味のない文字を口から発するだけで、言葉にならない。


「う……嘘……だろ……」

「本当のことだ」


 ようやく口にできた言葉もすぐに否定されてしまう。


「っ……!」


 ファリオスは勢いよく立ち上がる。


「どこへ行く」

「シギー男爵領に……!」

「彼女を王都の病院へ転院させる手続きは取ってある。もうすぐ我が家の主治医が男爵領に着くころだ。今から行っても入れ違いになる」

「っ……」


 父の話を聞いて、ファリオスはまたソファへ腰掛けた。


「だいたいお前が行って、何になる」

「…………そう、ですね……」


 彼女にとってファリオスはただの元恋人でしかない。


「現時点では、お前が彼女の元へいく理由はない」

「え? あ、はい…………?」


 何か含みのある言い方が引っかかる。


「彼女の子どもの父親を探している」

「え? 父親って……」


 ファリオスはシギー男爵領にアンネを探しに行った五年前の出来事を思い出す。

 アンネと一緒に並んで歩く男を見た。アンネの夫かと思われたその男は行方不明にでもなってしまったのだろうか。


「お前じゃないのか?」

「え?」


 父が険しい顔でファリオスを見る。だがファリオスにはなんのことか分からなかった。


「この期間、お前は彼女と関係はあったか?」


 一枚の紙を見せられる。七年前のとある期間が書かれている。

 ファリオスが王太子殿下から指示を受け公国へと旅立つ少し前の日付。


「おそらく……」


 アンネとの関係は父も知っている。今さら隠す必要もないが、ファリオスは曖昧に返事をした。


「不確定な言い方はするな! ちゃんと答えろ!」

「細かな日にちまではわかりません! ですが……アンネの退職の直前まで関係を持っておりましたので、母上の管理している使用人の雇用の書類を確認すれば確実に答えられましょう」

「わかった。急ぎルディアナに確認する」


 ルディアナとは子爵夫人であるファリオスの母のこと。

 父は「はあ」とため息を吐く。


「本当はしっかりと裏を取ってからにしたいところだが、お前の顔を見たら、なおさら子どもの父親はお前以外に考えられん」

「ちょ、ちょっと待ってください、父上! アンネとは確かに関係がありましたが、僕は避妊薬を飲んでおりました」


 若さゆえ衝動的に、彼女を手に入れる手段もまとまらないまま、手を出してしまったが、さすがにそこは気を付けていた。


「この国の避妊薬の避妊率は百パーセントではない!」


 バンと目の前のテーブルを叩いて父は立ち上がり、険しい顔をして続ける。


「お前はこの期に及んで責任逃れをしようと言うのか!」


 胸倉を摑まれ怒鳴られた。これほどまでに感情を露わにされたのは初めてだ。


「そんなつもりはありません! 僕がアンネの子の父親になっても良いというのであれば、喜んで父になりましょう! 彼女の子どもなら、父親が誰であろうと僕は子どもを愛します!」


 ファリオスも立ち上がってきっぱり言い張ると、父は目を瞠っていた。


「ですが……それで彼女の()()は納得するのでしょうか……。見た目も似通った部分も何もない、そんな僕が父親だと名乗り出るよりも、本当の父親を探した方が……」


 ファリオスがくしゃりと顔を歪ませ拳を握る。


「息子?」


 父がぽかんとファリオスを見る。自分は何もおかしいことを言ったつもりはない。


「アンネの子どもは娘だが……お前は一体何を勘違いしているんだ……?」

「え? 娘?」



     ◇



 七年前、ファリオスはアンネと秘密の関係を築いていた。

 だが、父からはアンネとの関係を認めてもらえず、婚約者にと男爵令嬢であるイザベラ・サモラウスを紹介された日に、ファリオスはアンネから別れを告げられる。

 学友だった王太子ディミトリスから、属国ジファーレ公国へ行くので一緒に行かないか、という大公代理補佐官の打診があった。

 他にも候補はおり、すぐにではなくて数年後に受けても良い、というような内容だったので、もしアンネから別れを告げられることもなく、彼女が行かないで、と言えばファリオスはきっと断っただろう。

 だが、アンネからは拒絶されてしまった。


 さすがの父も、王太子殿下からの打診といえば婚約を諦めてくれるだろうと思い、ファリオスは逃げるように公国行きを決意した。

 そしてアンネも実家に一時帰省すると小耳に挟み、ちょうどいい機会だと思った。



 父に公国行きを告げるとサモラウス男爵家との縁談は諦めると言ってくれた。

 アンネが休暇に入り、ファリオスは公国へと旅立つ。当初は二週間で帰国する予定だったが、予定は伸び一年後にファリオスは帰国した。


 アンネに会える緊張と、会えても何もできない切なさを抱えて屋敷に入るとアンネはいなくなっていた。


「父上! アンネをどこにやったんですか!?」


 父の執務室にノックもなしで聞きに行く。


「なんだ。帰国の挨拶もなく第一声がそれか」


 冷めた目でじろりと睨まれるが、ファリオスはキッと視線を外さず淡々と話す。


「失礼しました。先ほど公国より帰国いたしました。公国の様子はのちほど説明いたします。ところで、メイドのアンネが辞めたと聞きましたが、父上が辞めさせたのでしょうか」


 父は「はあ」とため息を吐いてから話し始める。


「メイドのことなど私に聞くな。屋敷の使用人の管理はルディアナに任せている」

「……そうですか。失礼します」


 使用人の管理をしている母の元へと急ぐと、母はアンネとファリオスの関係を知っており、メイドと子爵令息の関係を超えたことを叱られた。そしてアンネは全てを母に告げて屋敷を辞めると申し出たらしい。


「アンネはあなたと関係を持ったことを私に何度も謝罪してきたわ。もうあなたとは会わないようにして生きていく、とも……。私はあの子のことを気に入ってたの。それなのにあなたは……」


 アンネを屋敷に連れてきたのは母だった。アンネを可愛がっていたことも知っている。ファリオスは母のお気に入りに手を出したのだ。

 だめな息子だと思っているのだろう。


「彼女を追いかけて困らせるようなことはしないでちょうだい」


 母にきつく睨まれた。


「僕はすでに振られていますから、追いかけるようなことをするつもりはありません。ただ……彼女がちゃんと生活をできているのか、不幸になっていないか、それを確認したいだけです。遠くから確認して、問題がなければ話しかけることもしませんから」


 母も父と同様「はあ」とため息を吐いた。息子に呆れているのだろう。


「彼女が心配なのは私も同じ。でも絶対に彼女には接触しないで。彼女の辛そうな顔はもう見たくないの」

「わかりました」



 ファリオスはアンネを探し始めたが、簡単には見つからなかった。

 自分の足を使ったのはもちろんのこと、金を使い、人を使い、一年後ようやくアンネの情報が入ってきた。


 ファリオスはすぐに調査報告にあったシギー男爵領へと向かう。


 そこで見たのは男と並んで歩くアンネの姿。


 ファリオスは目を見開いて固まった。


 遠目からなので会話は聞こえないが、荷物を持ったアンネが男に荷物を渡そうとし、赤子を抱いた男がアンネに赤子を託す。

 アンネに抱かれた赤子は男の腕の中よりもアンネの腕の中の方が嬉しそうに、にこにこキャッキャしているように見えた。


 どこからどう見ても親子の絵。


 アンネには似ていない子だが、アンネによく懐いている様子を見ると赤子が彼女の子であると強く感じた。


 赤子の見た目は金髪に碧眼のように見える。着ている衣装からすると男の子だ。きっとアンネがファリオスと別れてから数か月後に出来た子である。


 アンネの隣を歩く男も金髪に碧眼で、きっとあの男がアンネの夫なのだろう。


 ファリオスはそっとその場を離れて馬車へと乗り込む。幸せそうな三人の姿が脳裏に焼き付いて離れない。ファリオスの出る幕など微塵もない。

 母にはアンネは幸せに暮らしていたとだけ伝えよう。


 アンネが幸せに暮らしていればそれでよかったはずなのに、あの男に微笑むアンネを見たら胸がキリキリと痛んだ。


 それからファリオスはひたすら仕事に打ち込むようになる。父の領地経営も手伝いつつ、王太子であるディミトリスの補佐官を続ける。

 こうしてファリオスは自国と公国を行き来する生活を送った。


 縁談は全くなかったわけではない。婚約者くらいは決めろという父の言葉もあり、アンネへの想いを断ち切るために令嬢と会ってみることもあった。

 だが、会ってみるとやはり気乗りせず、公国行きを理由にはぐらかして逃げてきた。


 自分は結婚などできそうにない。嫡男としての義務はわかるが両親は一生血の繋がった孫を抱けないまま終わりそうだ。


 そう思っていたのだが……。



     ◇



 父にアンネの子どもの親はお前ではないのかと言われた。


 アンネの子どもは一度見ていて、ファリオスとは似ても似つかない男の子だった。なのに父は子の父親はお前以外には考えられないと言う。


 子の父親役をやれと言うならやってみせる。だが、あの子の父親はどう考えてもファリオスではないそんな言い合いを父とすると……


「息子?」


 父がぽかんとファリオスを見た。


「アンネの子どもは娘だが……お前は一体何を勘違いしているんだ……?」

「え? 娘?」


 父はファリオスに何を言っているだ、と言わんばかりの顔をしているが、ファリオスも父のことをそう思っている。


「ぼ、僕はアンネの無事を確認したくてシギー男爵領へ行ったことがあります! 五年くらい前です……彼女が金髪碧眼の男の子を抱いているのを見たことがあるんです! 彼女の隣には男の子と同じ金髪碧眼の男がいました。子の父親はその男です」

「金髪碧眼……?」


 ファリオスの説明に父は何かを考える。


「シギー男爵の下の息子がたしかエリシアと半年違いで生まれたって言っていたな……。レオンと同じ金髪で碧眼の少年だった」

「レオン?」


 レオンが誰か全く分からなかったが、父は気にせず説明を続けた。


「お前が見たのはおそらくシギー男爵とその夫人の息子だ。アンネはシギー男爵夫人の息子の乳母をしていたようだから、その子を抱いていても何も不思議なことはない」

「乳母……」


 乳母ができるのは出産経験のある女性だけ。


「アンネはその子よりも半年前に女の子を出産している。妊娠時期は先ほどお前に見せた期間だ」

「え……あ……」


 ずっと彼女の子だと思っていた男の子は彼女の子ではなかった。それとは別で自分と関係していた期間に妊娠して女の子を出産している、と聞き、ファリオスは視線をうろうろさせた。

 とんでもない勘違いをしていたらしい。


「ち、父上……ほ、本当に僕の子が……!?」

「ああ。確定するにはルディアナの確認が取れてからになるが……さっきの子がアンネの娘だ」

「っ!?」


 父が連れてきた子のことだろう。父譲りの色味を持った少女だった。当然ファリオスも同じ色味を持っている。


「あ、会わせてください!」


 父は少しの間考えた。


「……ダメだ」

「なんでですか!? 僕の子どもなら会わせてください!」


 否と言われてカッとなる。


「念のためルディアナの確認が取れてからにしたい。間違っていたら目も当てられん」


 子どもに父親だと名乗って後から本当の父親が現れた場合には傷つくのはその子だ。


「……わかりました」


 父の言うことも、もっともだと思うと、ファリオスは大人しく父親の言うことに従うことにした。

 そして、父はアンネの娘であるエリシアとの出会いについて教えてくれた。


「エリシアは教えてくれた。アンネはエリシアの父親に会いたいと言っていた、と……。エリシアはアンネを元気にさせるために父親をアンネの元へ連れてきたかったらしい」

「っ……」


 アンネを想い胸が締め付けられる。そして同時にアンネの娘エリシアに対しても切ない気持ちにさせられた。

 子どもだけで父親を探しに他領へ行ったとき聞かされたときは肝が冷えたが、そうまでしても父親を見つけたかったという娘の健気な想いに胸が痛む。

 だが、ファリオスにアンネの病気を治す能力はない。医者が治らないと言ったのなら、奇跡が起きることを願うことしかできない。


「エリシアはちゃんとわかっている。父親がアンネに会っても病気が治らないことを……だが、会いたいと言ったアンネの願いを叶えてあげたかったそうだ。私を一人にしないで……と泣くエリシアを見るのは胸が痛かった」


 父の話を聞くだけで堪らない気持ちになる。

 今すぐエリシアに父親だと名乗り出て抱きしめてあげたい。

 だが、まだそれが許されない立場であることもわかる。五年前、確認が甘かったツケが今になって回ってきたようだ。


「父上、アンネの病気について……詳しいことを教えてください」


 父は「ああ」と言って、シギー男爵領の病院で医者から聞いたことを説明した。


「クーリュー病……?」

「知っている病気か?」

「どこかで……。いえ、それで……」


 父親の話にはまだ続きがあるようだったので先を話してもらうように促した。


「ああ、男爵領の医者を信用してないわけではないが、地方の医者よりも王都の医者の方が最新の情報を持っていると思って、王都の病院への転院の手続きを取った」


 どうやら父はアンネを助けられるものなら、と思ってくれているようでホッとする。


「エリシアのためだ」


 父は随分アンネの子に肩入れしているようだ。


「父上、すみません。ちょっと出かけます」

「なんだ?」

「クーリュー病のことで気になることがあるんです」

「わかった。じゃあ私はその間に本邸に使いを出そう」


 母への確認の件だろう。ファリオスは「お願いします」と頭を下げて部屋を出た。



     ◇



 ファリオスは王宮でクーリュー病について調べた。

 父は医者からクーリュー病に対するこの国の治療は薬で進行を遅らせることしかできないと説明されたと言っていた。だが、ジファーレ公国ではクーリュー病に有効な薬の開発が進められている。


 公国にいたときにクーリュー病の治療薬の薬事申請に携わったことがある。


 クーリュー病は血流が悪くなる病気で、ごくわずかな割合でクーリュー病を引き起こす菌を持って生まれてきてしまう子がいる。遺伝的なものはない。

 その菌は二十歳過ぎから自覚症状なく増殖し、二十二、三歳くらいで突然倒れてクーリュー病を発症し、そのまま目が覚めないことが多いとのこと。

 公国の研究ではその菌はストレスに影響し、ストレス過多の生活を送っていると早くから発症してしまうらしい。アンネが二十五歳まで元気で過ごしていたと聞くと、アンネはそれまで娘と二人で幸せな生活を送ることができていたとわかる。


 公国ではその菌の増殖を止める薬が開発された。王宮で調べると、公国ではすでに認可が下りていた。

 ファリオスは急いでその薬の自国での認可がどうなっているかを確認するため、医療担当の文官へ問い合わせた。


「クーリュー病の薬ですか? ええ。確かに薬事申請が出されおり、認可に向けて進んでいますよ」

「進捗状況を教えてくれませんか?」


 ファリオスはさっそく本題に入る。


「他国で開発された薬なんで、我が国の人間の体質に合うかどうかの確認が必要で、現在はその臨床試験をしているところです」

「それはいつごろ終わるのでしょうか?」

「ちょうど今日の午後に臨床試験第一段階の結果が出ると聞いているので、試験を行なっている病院に行きますが、気になるようでしたらファリオス様も一緒に行きますか?」

「ありがとうございます! では、同行させていただきます」


 ファリオスは午前中にできる限りの仕事をこなし、文官とともに臨床試験を行なっている病院へと向かった。


 病院へ向かう馬車の中でジファーレ公国の病院での出来事を思い出す。

 王太子の補佐官であるファリオスは、公国での仕事が多く、公国の長期滞在権を持っているため、公国の医療を受けることが可能である。

 外国人であるファリオスに薬を処方する際、公国の医者はしっかり問診して経過を注意して診るのだが、多くの外国人を診てきた医者はファリオスの国の者は公国の人間と体質が近く、異常反応を引き起こす者はいなかった、と説明してくれた。

 なので、この臨床試験もきっとクリアできると勝算があった。


「臨床試験は問題ありませんでした」


 医者の言葉にほっと息をつく。

 たぶん大丈夫だとわかっていても、この臨床試験がクリアできなければアンネは投薬してもらえない。


 王宮の文官の病院訪問は臨床試験の信頼性調査も兼ねているため、別室に集めた治験者へヒアリングを行うと部屋を出ていった。


 臨床試験がクリアできれば次は有識者会議にかけられる。

 一般的には会議の日程調整で二週間程度取られると聞いているので、ファリオスはこの調整役を買って出て、最短で会議してもらおう。

 その後も各部門や大臣へと稟議を通していくが、書類作成に時間がかかるようならファリオスが手を貸せば良い。

 検討に手間取るなら、ファリオスが勉強して説明できるようにしよう。


 ――アンネへの投薬を一日でも早く……!


 アンネのためにファリオスのできる全てのことをしようと心に決めた。


 だが、現実は無慈悲だった。


「臨床試験で良い結果が出てよかったです。これで第一段階の臨床試験はクリアですから、次は治験者に三週間断薬してもらって、また二週間投薬をして検証していきます。これをさらにもう一度繰り返せば有識者会議にかけられるようになりますよ」


 にこにこした医者に言われた。


「え……、臨床試験はこれで終わりでは……?」


 今の話だとまるで臨床試験はまだ第二段階、第三段階と続くようではないか。


「まさか! 人間に投与するものですから安全性を最優先にしっかりと精査しないと」


 当たり前のように言われた。たしかにその通りである。


「とはいえ、臨床試験も第一段階が一番ネックなので、ここさえクリアできればきっと問題なく次の段階もクリアすると思いますよ。国は安全性と信頼性を重視するので、王宮の医療担当者は、次の臨床試験までの合間に公国の薬品開発現場まで行って、現地視察するんじゃないでしょうか?」


 どうやらそれも薬事申請承認までの大事な調査の一つのようだ。


「そうですか……」


 断薬期間や投薬期間、臨床試験の回数は専門家が決めるもので、医療の知識のないファリオスが口出しできる問題ではない。

 まだまだ長い道のりのようで、あともって一か月半と言われているアンネはとてもじゃないが認可が下りるまで待てそうにない。


「薬品開発現場の現地視察でジファーレ公国に行かれると聞きましたが……いつごろ視察に行くのでしょうか?」


 文官に王宮へ帰る馬車の中で聞いてみた。


「公国の現場との日程調整が上手くいかなくて、ひと月先になっちゃうんですよね……」


 視察がひと月先で、報告書は帰国してからの作成になる。稟議が回るのはその後だ。

 そもそもその頃でも臨床試験の第三段階が終わっていないだろう。


 ――間に合わない……


 ファリオスは顔に出さないように、文官へ同行させてもらった礼を言う。



「その様子だとあまり良い結果ではなかったのか?」


 王太子のディミトリスの執務室に入るとファリオスを気にしてくれていたようで、すぐに声を掛けられた。


「いえ……臨床試験は成功でした……ただ、まだ断薬と投薬を数週間ずつ繰り返して、あと二回は臨床試験を行う必要があったようで……とてもじゃないけど間に合いそうになくて……」


 ファリオスが説明するとディミトリスは「力になってやりたいところだが……」と残念そうに話す。


「やはり医療の関係は医者や薬師、専門家が安全性を考慮して、国と承認のルールを作り上げていて、大した知識のない私がどうこうできるものじゃないから……」


 ディミトリスの力をもってしても、どうにもならない問題のようだ。



     ◇



「ファリオスさま?」

「っ……! エ、エリシア……」


 落胆し屋敷に帰ると、会うなと言われていたエリシアに会ってしまった。

 自分の子かもしれないアンネの子ども。父との会話でファリオスはしっかりと名前を覚えていた。


「ローガンさまならお客さまがきててあっちのへやに……」


 彼女はファリオスの名前を知っているようだが、父からどのように説明されているのだろう。


「そうか。ありがとう。エリシアはもう食事は済んだかい?」

「うん……じゃなくて、はい。食べました。すっごく、おいしかった……です。ごちそうさまでした」


 敬語を意識して話し、ペコリと頭を下げる様子はあどけなさを感じて可愛らしい。

 きっと、もっと小さなころも可愛かっただろう。自分はこの子の生まれたころを全く知らない。どうやって泣いて、どんなわがままを言ったのか。


 七年前、自分は馬鹿だった。考えもなくメイドに手を出した馬鹿な貴族の息子だ。


 他にもやり方はあったはずだ。

 産まれたばかりのこの子の手を握る手段はあったはず。

 いくつもの後悔がファリオスを襲う。


 だが、ファリオスはそんな後悔を押し隠してエリシアに微笑む。


「それは良かった。屋敷の生活で不便があれば何でも言って。できる限りのことをするから」


 そうは言っても彼女にはメイドを付けられているので、何かあれば同性で言いやすいメイドに何か頼むだろう。


「そしたら……あの……えっと……」


 エリシアが何かもじもじしており、メイドに言いづらいことでもあっただろうかと傍に付いているメイドに「僕の食事の準備をするように厨房に言ってもらえるか?」と頼んだ。

 すぐにメイドは厨房へと向かう。

 彼女はメイドがいなくなったのを見届けて何かを言おうとする。


「えっと……あの……」


 それでも言いづらそうで彼女はとうとう「やっぱり良い。メイドさんにお願いするから」と言った。


「ええ? ここまで焦らされたら逆に気になるじゃないか!」


 ファリオスはエリシアの前で片膝を突いて目線を合わせる。


「怒らないから遠慮せずに言って良いよ」


 彼女の手をとり目を見て言った。

 すると彼女はようやく言う決心ができたのか、小さな声で「寝るときに、手を握ってほしいの」と言う。


「へ?」


 想定外の頼みに目をぱちくりさせてしまう。


「そ、それは……メイドにお願いした方が……あっいや、いいよ! 君が寝るまで手を握ろう!」


 それこそ同性のメイドに頼んだ方が安心するのでは、と思いつい口走ってしまったが、勇気を出して言ってくれたことを否定するのは良くないと考え直した。

 それにメイドよりもファリオスを選んでくれたことは素直に嬉しい。


「もう寝るのかい?」

「はい」

「じゃあ、このまま部屋へ行こう」


 ファリオスがエリシアの手を引いて部屋へ向かおうとすると、彼女に手を払われる。


「え?」


 自分を選んでくれたのでは、と驚いた顔で彼女を見る。


「お外から帰ったら手洗いうがいが先です」

「っ! そうだね。手洗いうがいをして着替えてくるから部屋で待ってて。すぐ行くよ」

「はい!」


 アンネの教育が垣間見えた気がする。幼いように思えたエリシアはしっかり者だった。

 手洗いうがいをして楽な服装に着替えてエリシアの部屋へ行くと、彼女はもう寝台の中でファリオスを待っていた。


「よろしくお願いします」


 横たわった状態で手を伸ばされる。小さくて細い手をファリオスは自身の手で包み込む。


「メイドじゃなくて僕で良かったのかい?」

「はい。ローガンさまのお客さまがなかなか帰ってくれないから」

「父上の?」


 どういうことだろうか。


「ここまでくる間に泊まった宿屋でローガンさまは私が寝るまで毎日手を繋いでくれました」

「ええ!? ち、父上が!?」


 思った以上に大きな声が出てしまい、ファリオスは慌ててトーンを落とした。


「ほ、本当に父上が毎晩君の手を握って?」

「はい。ファリオスさまはローガンさまと似てるから」


 だからメイドよりもファリオスを選んだということか。理由はわかったが納得できない。

 父が女の子に優しくする様子など想像できない。


「ファリオスさま。私が寝るまで繋いでてくださいね」


 びっくりしていたファリオスだが、エリシアに話しかけられすぐに優しい表情に切り替える。


「ああ。大丈夫だよ」


 エリシアが眠たそうに繋いだ手とは反対の手で目を擦る。


「一人は、怖いの……」

「うん」


 彼女はしっかりしているわけじゃない。母親の言いつけを守るいい子なだけだ。本質はまだまだ幼い少女だった。


「一人ぼっちになりたくない……」

「大丈夫」


 ――僕がいる。エリシアを一人になんてしない。ずっとそばにいるから……


 まだこの想いは伝えられない。早くそう言って彼女を抱きしめてあげたいと思った。

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