2
レオンはミカの乳姉弟であるエリシアとはずっと一緒に屋敷で暮らしていくものだと思っていた。
あれから数日が過ぎてもアンネは目を覚まさない。
エリシアは毎日病院へ通っていて、レオンが毎回「どうだった」と聞いてもエリシアは「眠ってた」としか言わなかった。
今のところエリシアはアンネと過ごしていた屋敷の使用人部屋で寝起きしており、レオンとミカと今まで通り一緒に過ごしている。世話役がアンネからバーバラに代わっただけ。
だが、レオンは日に日にいつまでこの生活が続けられるのかと不安になる。
アンネが目を覚まさなかったら、エリシアはどうなるのだろうか。エリシアはシギー男爵家の子になってレオンの妹として一緒に過ごすことになるのだろうか。
エリシアと兄妹というのは違和感があるが、もしかしたらそれが一番良いのかもしれない。
そんなことをぐるぐる考えながら過ごした。
「眠れない……」
アンネが倒れたときのことが忘れられない。血の気が引く、というのを九歳で経験した。
怖かった。手足が震えて、屋敷へ向かって走っているはずなのに地面を踏みつける感触がしなかった。
厨房に行って、水でも飲んでこよう。
レオンは寝台から降り、隣の寝台ですやすや眠るミカを恨めしい目で見ながら部屋を出た。
両親の部屋の前を通り階段を降りようとした。が、両親はまだ起きていたようで、部屋の扉の隙間から明かりが漏れ出ていた。
「ねえ、ロベルト……アンネったら、領の孤児院に顔を出して、自分に何かあったらエリシアをお願いって頼んでたらしいのよ……!」
――エリシアが孤児院に……!?
レオンは孤児院がどういうものかを理解している。
水を飲みに行くつもりだったレオンはそこで立ち止まって、会話の続きを聞くことにした。
「孤児院か……エリシアの父親や、アンネの両親は?」
「アンネ、頑なに自分のこと言わなかったから、何も知らないのよ。エリシアの父親のことも……アンネの出身すら……」
「アンネは仕事もよく頑張ってくれていたから気にしていなかったが……こうなると採用前にしっかり話をしておくべきだったな……」
ロベルトが額を押さえて深いため息を吐いた。
「エリシアをうちで……」
ミリアのその後に続く言葉は「引き取れないかしら」だろう。エリシアと離れ離れになるくらいならそれで良い。
レオンは両親の判断に期待した。だが……
「うちは無理だ」
――っ……!
即、一蹴されてレオンは奥歯を噛みしめる。
「わかるだろうが、貴族が養子を迎えるには正当な理由がない限りは多額の手続き費用が掛かる。うちではとてもじゃないがそんな費用用意できないし、仮にエリシアをうちに迎えても、貴族令嬢として満足な教育や衣装を与えてやることができない」
「そう、よね……」
レオンは知らなかったが、貴族の養子入りにはお金がかかるらしい。
「それに、領内の身寄りのない子たちはみんな孤児院へ行っているのに、エリシアだけを特別扱いするのも領民たちへの示しが付かない……」
ミリアがどうにかならないものかと悩んでいた。
「でも……エリシアを孤児院に入れるなんて……。あっ……! あなたの叔母様のところは? 叔母様、子どもが欲しいのに諦めたっておっしゃっていたじゃない。あそこなら養子入りする正当な理由もあるし、エリシアを育てる余裕もある」
「ああ、叔母上のところなら安心できるから良いかもしれないな。ただ、ちょっと遠いが……」
父方の叔母のところへは一度だけ行ったことがあるが、ここから遠く簡単に会いに行ける距離ではない。
――なんだよ……! 父上も母上も、アンネは助からない、みたいな言い方して……
レオンは自分も両親と同じように、エリシアの行く末ばかりを気にしていたのだが、両親の方針を不服に思いグッと拳を握って自室へ戻る。
――アンネが助かれば今まで通りなんだ……
レオンはアンネが助かるようにと祈りながら眠りに就いた。
翌日、いつも通り朝食を食べるエリシアを見て思わず言ってしまう。
「エリシア……よく平気で食事が食べられるよな……」
母親の生死が懸かった状況で神経が図太いのだろうか。つい嫌味のようにそんな言葉が口から出た。
「だって、お母さん。健康のためにごはんはしっかり食べなきゃダメっていつも言ってたもん」
「そっか……」
エリシアは母の言いつけを守っているだけだった。
そしてエリシアはその日の昼前に、朝食べたものを嘔吐した。
レオンはエリシアに言ったことを激しく後悔した。エリシアはずっと無理をしているだけだったのに。
「エリシア……ごめん……」
「私が吐いて汚したのに、なんでレオンが謝るの?」
エリシアはバーバラに看病されて寝台で、青白い顔をしながら横になっていた。
「なんでも……俺が……悪いんだ……」
アンネが倒れたときに一緒にいたのは自分だし、彼女を助ける方法も思いつかない。
「どうしたら……アンネは元気になるんだろう……」
アンネが元気になれば全部解決することなのに。
「お母さんね。お父さんに会えたら元気になると思うんだよね……」
「お父さん……?」
レオンはエリシアの口から初めて父親のことを聞いた。
母からアンネとエリシアにはエリシアの父親のことを尋ねてはいけない、とよく言い聞かされていたので、レオンからも尋ねたことはなかった。
「お母さんね、お父さんに会いたいって言ってた。お父さんが会いに来たらきっとお母さんは目が覚めると思うの」
「お父さんって言っても、父親の名前も住んでるところも知らないんだろ?」
昨日の両親の話では、アンネの生まれた地域すら誰も知らない様子だった。
「へへっ、実は私知ってるの」
「え? アンネが教えてくれたのか?」
「ううん。お母さんは教えたくなさそうだったから聞いたことはないんだけど」
アンネが教えてくれたわけではないようだが、では、なぜエリシアは父親のことを知っているのだろうか。
「これ見て。私が赤ちゃんのときから使ってるブランケット。触ったとき気持ちがよくてお気に入りなの。これお父さんが私にくれた物」
ちょっとダサいと思ったが「うん」と話の続きを促す。
「ほら、ここになんとかタウンって町の名前が入ってる。読み方わかる?」
「フーリナタウン……? かな?」
「聞いたことある? どこか知ってる?」
「ちょっと待ってろ」
レオンは地図を取りに行ってエリシアに見せた。
「ここだ。隣のグドル領にある町だ」
「歩いて行ける?」
「行けない。馬車で三時間はかかるんじゃないか?」
「じゃあ、多分そこだ! お母さん、お父さんはお仕事で遠いところにいるって言ってたもん」
たしかに馬車で三時間もかかる距離はすごく遠い。
だが、大人はその距離で遠いと表現するだろうか。レオンはやや違和感を覚えたが、歩いていくことのできない距離だし、三時間もかかるのだから、きっと遠いところとなるのだろう。
「名前は?」
「ファリオスって言うんだよ。お母さん、たまに寝言で『ファリオスさま』って呟いてた。お父さんのことを愛してるんだよ」
「さま?」
レオンはアンネがエリシアの父親の名に『様』を付けて呼ぶことが気になった。
「まあ、いいや。なあ、エリシア……俺たちでお前の父親を捜しに行こう! 隣の領地なら、俺たちの力だけでも行ける」
「遠いんでしょ?」
エリシアは心配そうにレオンの顔を覗いた。
「行けない距離じゃない」
レオンは自信たっぷりに言ってみせる。
レオンには貯めている小遣いがある。隣の領地に行く馬車に乗るための二人分の運賃くらいはあるだろう。ギリギリだが……。
「それでアンネが元気になるなら安いもんだ! よし、エリシア! 父親、探しに行こうぜ!」
「うんっ!」
エリシアは青白い顔をしながらも、レオンに笑顔を向けてくれた。
◇
「お弁当持った?」
「うん」
レオンはエリシアとエリシアの父親を探しにいく計画を立てた。ミカもついて行きたがったが、ミカには二人の不在を誤魔化す役をしてほしいと頼んだ。
そして、今日は屋敷内でピクニックごっこをするから弁当を用意してほしいとお願いしすると、使用人たちは「それは良い気分転換になる」「エリシアを元気づけてあげて」と、昼の弁当だけではなく、お菓子などを入れたバスケットまで用意してくれた。
「誰もいないから今のうちに……!」
ミカがきょろきょろと見回しながら誘導してくれる。
「俺たちが出たら鍵しろよ」
「わかった」
レオンはエリシアと一緒に屋敷の裏口から外へ出る。
ミカ一人で屋敷の大人たちをいつまで誤魔化せるかはわからないが、今日はミリアもロベルトも終日外出で屋敷にいない。
すぐに探しに来られて連れ戻されるということはないだろう。
絶対にエリシアの父親を見つけ出す。
――アンネ……待ってろ……!
◇
「すごい……! レオン! ちゃんと着いたよ。フリー……」
「フリーナタウン」
「そう、フリーナタウン!」
レオンは初めて自分の力で乗合馬車を乗り継ぎ自領を出た。
乗合馬車の乗り方は「貴族令息といえどもこれくらいのことも知らないのは恥ずかしい」と父ロベルトがお金の使い方と一緒に教えてくれた。
町の入り口には『フリーナタウン』と看板も出ている。この町で間違いない。
エリシアを連れて無事に目的地へ辿り着けたことに安堵した。
「この町のどこかにお父さんがいるんだね」
エリシアがキラキラした目で町を見回していた。
「ねえ、レオン、すごいいっぱいの人だね。この中からどうやってお父さんを探すの?」
「え……?」
レオンの顔が強張る。
目的地へ辿り着いたはいいが、人探しなんてどうやってすればいいのだろうか。
「なあ、エリシア……エリシアは父親の顔とか覚えてるのか?」
「ん? わかんない」
――だよなー……!
「あっ! ちょっと待て。名前ならわかるんだから、町の人に聞いて回ろうぜ! ファリオスなんて珍しい名前だからきっとすぐ見つかるさ」
「うん! そうだね」
エリシアに「別れて聞き込みをした方が早く見つかることない?」と言われたが、知らない町でエリシアを一人にすることは良くないと思い、レオンは「一緒に探すぞ」とエリシアの手を繋いだ。
「すみません。ファリオスって男の人を探しているんですが、知りませんか?」
レオンが町の人に聞いて回り、エリシアは後ろについているだけ。誰もが「知らないなぁ」と首を横に振った。
「見つからないもんだなー……」
ベンチに腰掛け休憩する。
「うん……」
町へ来たときは期待に満ちた顔をしていたエリシアの顔が曇っている。
仕方がない。もう二時間も町の人に聞いて回って、馬車の停留所からかなり離れた場所まで来た。
そろそろ帰りの馬車の時間も気になるし、これ以上町の中心から外れると危ない気もする。
「なあ、エリシア……そろそろ戻って……」
「わ、私っ! あの人たちにも聞いてくる!」
エリシアはレオンが帰ろうとしている様子を察したはずだが、目に付いた男二人組へ話しかけに行ってしまった。
「おいっ!」
身振り手振りも交えて一生懸命町の人に聞いている。
アンネを助けたい気持ちでいっぱいなんだろう。その気持ちはレオンも変わらない。
レオンはエリシアを追いかけた。
「ねえ! レオン!!」
エリシアがレオンを手招きする。
「この人たち知ってるって……!」
「ええ!?」
ここへ来て急展開かと思われた。
だが、ファリオスを「知ってる」と言ったその二人組の男たちに、なにか嫌なものを感じた。
レオンはエリシアを隠すように前に立って、男たちに聞く。
「ファリオスっておじいさんがどこに住んでいるか知ってるんですか?」
「え? レオン?」
エリシアが何を言っているの? とでも言いそうな顔で見てきたので、レオンはエリシアに目線だけで何も言うなと合図を送る。
「あー! 知ってる知ってる! あの品の良さそうなおじいさんだろ?」
「ああ! 町の外れに住んでるよ」
レオンはやはり、と思う。
エリシアの父親なら、アンネと同じくらいの年齢か、せいぜいロベルトと同じくらいのはず。少なくともおじいさんという見た目なら絶対に違う。
「なんだか俺たちが探しているファリオスさんとは別人のようなので、やっぱり良いです。行こう、エリシア」
「う、うん……」
レオンはエリシアの手を強く引く。ここから早く移動した方が良い。本能で危険を感じとる。
「おっと……! そうはいかないぜ」
「うわぁっ……!」
レオンの腕が男の一人に捻り上げられた。
「きゃっ」
エリシアの方ももう一人の男に捕まった。すぐにずるずると裏路地へと引っ張られる。
「エリシアに触るな! 手を離せっ!」
レオンが暴れるが、体格が違い過ぎてびくともしない。
最悪な展開だ。
「ははっ! この坊ちゃん、よく見るとなかなか良い服着てんじゃね?」
レオンは町で浮かないようにできるだけシンプルな服を着てきたつもりだったが、それでも平民の着る服とは違ったようだ。
「脅しの材料に使えそうだな! さーて、僕はどこの家の子なのかなー?」
髪の毛を摑まれ無理やり上を向かされた。
自分が計画をしたことで家に迷惑が掛かる。
エリシアを見ると真っ青な顔で震えていた。怯えるエリシアを見てカッとなる。
自分が何とかしなければ。
「やあっ!!」
レオンは目の前の男の股間を思いっきり蹴り上げた。
「うぐうぅっ……!」
男は股間を押さえて苦しんだ。
「こいつ!」
もう一人の男が、エリシアの腕を離して、レオンに襲い掛かろうとした。
レオンはもう一人の男の股間も思いっきり蹴り飛ばす。
「とやっ!」
「くそぉっ!!」
もう一人の男も股間を押さえて膝をつく。
「エリシア、走るぞ!」
レオンはエリシアの手を摑んで引っ張り駆けた。
とにかく人通りの多い場所へと向かってひたすら走る。
「待ちやがれっ!」
男たちは頭に血が上っているのか、人通りのある場所へ出てもまだ追いかけてくる。
「ちっ、しつこいな……!」
「きゃあ!」
エリシアが転んでしまう。
「立てっ、急げ……!」
「うう……」
エリシアは膝を擦りむいている。涙を堪えながら立ち上がろうとしていたが。
「うわっ」
「捕まえたぞ!」
追ってきた男にレオンは再び腕を捻り上げられた。
「よくもやってくれたなぁ」
悪い顔でレオンを捕まえる男。
――もう終わりだ……!
そう思ったときだった。
「手を離すんだ」
騎士のような装いの男が、レオンに凄む男の腕を摑んでいる。
「っ!?」
見ず知らずの騎士に助けられ、レオンは目を見開いた。腕を摑まれた男の方も物凄く驚いた顔をしている。
「こ、こいつが俺の財布をすったんだよ」
男が苦し紛れの嘘を吐く。
「俺はそんなことやってない!」
レオンはもちろん否定した。
騎士が後ろを向いてすぐそばに立っていた壮年の男性に目配せで指示を仰ぐ。
その男性は前へ出た。
「うちの孫が財布を? ふん……では、この領の自警団に連れて行って確認させよう」
「ま、孫!?」
男が声を上げ、レオンもびっくりして声を上げたくなったが、グッと堪える。
この男性はレオンの祖父ではない。
「もしでまかせなら、孫を泥棒扱いした名誉毀損で訴えるか。お前も来い」
壮年の男性が威圧感たっぷりでそう言うと騎士も続いて口を開く。
「では来てもらおうか。そっちの男も一緒に」
騎士がレオンたちを追いかけてきていたもう一人の男に目を向けた。
「お、俺は関係ねーよ!」
その男は一目散に逃げだした。
「あ、あいつ、逃げやがって! くっ……勘違いだったみたいだっ」
騎士に腕を摑まれていた男も、摑まれた腕を振り払って逃げ出した。
「追いますか?」
「ほっとけ。こっちを自警団に連れて行く方が大事だ」
壮年の男性がレオンとエリシアに目を向けてギクリとした。
「さあ、少年。自警団へ行くか、家名を名乗るか、どちらが良い」
じろりと睨まれレオンは親に叱られることを覚悟した。
壮年の男性は貴族男性らしい。家名を名乗られたがレオンにはわからなかった。
そしてこのグドル領へは仕事で来ていただけという。
レオンはこの町でエリシアの父親を探すことを諦めて、叱られる覚悟で家名を名乗ると屋敷まで送るから馬車に乗るようにと指示された。
「おじさんは……」
「お嬢さん、こういうときは卿とお呼びするのがよろしいかと」
話しかけようとしたエリシアに助言をしたのは、護衛騎士らしい。裕福な貴族には常に護衛が付くようだ。
エリシアの擦りむいた膝は護衛騎士が手当てをしてくれた。
「ケイは……」
「呼びづらければローガンと呼びなさい」
エリシアの卿という呼び方に違和感を覚えたようだ。
「ローガン……さまは、ファリオスという男の人を知っていますか?」
仕事でこの領へ来ただけなら、彼はフリーナタウンの人ではない。エリシアが問うが、レオンは聞いても無駄だと思った。
「ファリオス?」
ローガンが眉を顰めて怪訝な顔をエリシアに向けた。
「私のお父さんなんです」
「は……?」
彼は目を丸くした。
「…………エリシアといったかい? 母親の名は?」
「アンネです」
ローガンが「いや……まさか……」と小さな声で呟き、レオンは首を傾げた。
「お母さんが病気で倒れたの。お医者さんの話は全然分からなかったけど、モッテ二か月って言ってた。それって二か月で死んじゃうって意味だよね……」
「っ……!」
レオンはアンネの状況を再認識し、また泣きそうになってしまう。
エリシアの話にローガンはひどくショックを受けた様子だった。アンネのことを知っているのだろうか。
「お母さん……ずっと眠ったままなの。毎日話しかけても何も答えてくれない。お母さんはお父さんに会いたがってた。お父さんが会いに来てくれたら、ずっと眠ったままのお母さんはきっと目を覚まして元気になってくれると思うの」
ローガンが真剣にエリシアの話を聞いている。
「お母さんが、お父さんはお仕事で遠くにいるから一緒に暮らせないって言ってたけど、本当は違うの、私知ってる。仕事なら手紙の一つも書けるでしょ。でも一回もお父さんから手紙をもらったことはない。お母さんもお父さんへ手紙なんて書いてないよ。きっとお父さんは知らないの。お母さんが頑張ってることや、私がいい子にしてること」
「いい子は子どもだけで遠くまで出かけたりしない」
ローガンが険しい顔をして言った。
「ごめんなさい。私が悪い子だからお母さんはお父さんに手紙が書けないんだね……」
エリシアが目に涙を滲ませるので、レオンは声を上げた。
「エリシアはいい子だ! 父親を探しに行こうって計画したのも俺だ! エリシアはアンネが倒れてからも、アンネの言いつけを守って、毎日無理してごはんを食べて吐いたんだ。そんな子が悪い子なわけがないだろう!」
「レオン、言葉遣い……!」
ローガンに話の内容ではなく敬語を使わなかったことを注意されて、レオンはイライラしながら「すみません」と謝った。
「とにかく。子どもだけで遠出するなんて危ないことは二度とするんじゃない」
ローガンの言葉に、レオンとエリシアは声を揃えて「ごめんなさい」と謝った。
エリシアがしょんぼりと俯いていると、ローガンは少しの沈黙のあと言いづらそうに小さな声で言う。
「…………エリシアがいい子なのはわかった」
悲しげだったエリシアの顔がパッと明るくなる。
「とりあえず、レオンの親とは一度話をしなければな」
じろりと睨まれ、このあと両親に盛大に叱られるのだろうと覚悟した。
「あとは……エリシアの母親にも会わせてくれ。できれば医者とも話がしたい」
◇
シギー家の屋敷に到着すると案の定、両親やバーバラたちが屋敷の前で右往左往していた。
レオンとエリシアは当然叱られ、特にレオンはロベルトから特大の雷を落とされ大目玉を食らった。
「男爵家の嫡男であるお前に何かあれば、お前をしっかり見ていなかった、バーバラたち使用人の首を切らなければならなくなるんだ! お前の行動が使用人の人生を左右する。そういう自覚を持って責任ある行動をしろっ!」
強く叱られ、レオンは大変なことをしてしまったと反省した。
遠出した経緯は自分たちで説明した。
「お父さんに会ったらお母さん元気になると思って」
エリシアが言うと、ミリアがワッと泣き出しエリシアを抱きしめた。向こうで起きた出来事などはローガンが説明してくれた。
そして、大人だけで話をしたいと、子どもはいつも通り奥の部屋へと放り込まれた。
「もう一時も目を離しませんからね」
バーバラが部屋の扉の前で腕を組んで立っている。
「心配をかけてごめんなさい」
バーバラにもエリシアと一緒に謝った。
「ご無事でようございました」
バーバラはよほど心配をしたのだろう。涙を流しながら二人いっぺんに抱きしめてくれた。
それから、大人の話は終わったとローガンが応接室から出てきた。
「エリシア、卿をアンネの病院へお連れしてくれないか?」
ロベルトが連れて行くのではないのか、と不思議に思ったが「俺も行く」とレオンもついて行こうとした。
「レオン、今日はもう遅いからお前は明日にしなさい」
ロベルトに言われ、今日はさすがに大人しく言うことを聞こうと諦めたが、ローガンが「エリシアが心配なんだろう。レオンも一緒に来ればいい」と言ってくれたので、レオンも行くことになる。
病院へ行っても、アンネはやはり眠っているだけだった。前見たときよりも痩せてしまっている。
「ローガンさま……私、本当はわかってるんです。お母さんはお父さんに会っても……元気にはならないって」
それはレオンも薄々感じていた。助からないと思うと、縋るものが欲しくて父親探しをしようと提案したのだ。もし奇跡が起きてそれで目覚めてくれたら良いと思った。
「でもっ……っ……うっ……」
エリシアは話しながら嗚咽を漏らし始めた。大きな瞳から涙がぽろぽろこぼれ落ちる。
それを見ていたレオンも目の奥が熱くなる。
「お母さんが……っ、お父さんにっ……会いたいって……」
アンネを見つめながら必死に話すエリシアを、ローガンは何を思って見ているのだろう。
「死んじゃう前に……うぅっ……っ、会わせてあげたくてっ……」
とうとうエリシアは「わーん」と上を向いて大きく泣き出してしまう。
「お母さーん……死んじゃやだよぉ……私を一人にしないでよぉー……っ」
そんなふうに泣くエリシアを見て、レオンも一緒に涙した。
すると涙を流すエリシアをじっと見ていたローガンが言葉を発する。
「父親のことは私がなんとかしよう」
「え?」
泣いていたエリシアは驚いた顔でローガンを見た。
「父親は私がエリシアの母親の元へ連れてくる」
アンネとは一番関係のなさそうな人物の言葉だった。
◇◆◇
ローガン・ゼノビオは商談のためにグドル領へとやってきた。
子どものいざこざに巻き込まれてうんざりしていたが、そこで出会った少女の口からショッキングな出来事を聞かされる。
「お母さんが病気で倒れたの。お医者さんの話は全然分からなかったけど、モッテ二か月って言ってた。それって二か月で死んじゃうって意味だよね……」
父親の名前はファリオスだと言う。自分の息子と同じ名前。
唇を震わせながら向ける真剣な眼差しは、自分と同じ青紫。
そう思って彼女の顔を見てみると、息子の少年時代の顔とよく似ていた。線が細く整った顔の息子の幼少期は女の子とよく間違えられた。大人になり、さすがに男らしい顔つきに変わったが、このエリシアという少女も息子同様きっと美しい顔に育つのだろう。
父と母が離れて暮らすのは何か事情があるのだろうと察しながらも、母親を責めない彼女は本当にいい子だ。母を大事にする様子は、彼女の言葉からひしひしと伝わってくる。
子どもだけで遠出をしたことはいけないことだが、レオンが彼女はいい子だと必死になる気持ちもよくわかる。
「…………エリシアがいい子なのはわかった」
大きな瞳に涙をいっぱいに溜める様子を見て、ローガンは気が付けば自分らしくない発言をしていた。
子どもを慰めるなんて初めてする。
涙を流してほしくなくてそんなことを言っていた。
胸がざわざわする。この少女が自分の孫である可能性があるからだろうか。
息子のファリオスが何年か前にメイドと関係を持っていたのは知っていた。ファリオスから何度かメイドと結婚したいと言われて一蹴したことがあったのだ。
たが、病室へ行き、眠るエリシアの母を見ても、あのときのメイドかどうかの確証はもてなかった。
なぜならローガンはファリオスが恋をしたアンネというメイドの顔を知らなかったから。
子爵家の屋敷の自室から見える庭の奥でファリオスがメイドと逢瀬を重ねている様子は見えたが、遠目で顔まではわからない。一時の戯れと放っておいたので、メイドを呼び出し話をすることもなかった。
こんなことならせめて顔くらいは確認しておけばよかった。そんな後悔をしたときにふと寝台の横のテーブルに置いてある髪飾りが目に付いた。
「これは、母親の物か?」
「うん。お父さんがお母さんにプレゼントしてくれた物だって」
見たことがある髪飾り。シンプルで装飾の少ないもの。ただし色だけはしっかりと自分の瞳の色と同じだ。
『こんな地味な贈り物をするのか?』
『ほっといてください』
数年前に息子とした会話を思い出す。
妻へ王都の土産を買おうとファリオスと一緒に宝飾店に立ち寄った。
いつも見てるだけのファリオスが髪飾りを手に取っていて驚いた。
令嬢に贈るものならもっと大きな宝石が付いた物の方が良いかと思い、そう言ったのだが、結局ファリオスはローガンが地味だと思った髪飾りを購入していた。
――ファリオスが贈った髪飾りだ……!
やはり、アンネは数年前にゼノビオ子爵家で働いていたメイドだ。
となると、エリシアはファリオスの子である可能性が高い。
ファリオスがメイドと関係を持っていたなどどうでも良かった。ゼノビオ子爵家の血が知らずと他所へ流れるのは良くないので、もしエリシアがファリオスの子ならエリシアを子爵家に連れて来れば良いだけだ。
母親はなんの力もない平民。それなら母親がどうなろうと関係ない。
「お母さんが……っ、お父さんにっ……会いたいって……! 死んじゃう前に……うぅっ……っ、会わせてあげたくてっ……」
だが、エリシアの母を想う気持ちに心が揺さぶられる。
「私を一人にしないで」と泣き叫ぶエリシアは目を背けたくなるほど可哀想で痛々しかったが、なんとなく彼女の苦しみを見届けなければならないような衝動に、奥歯を噛み、拳を握って大きな声で泣く彼女を見守った。
そしてローガンは心を決める。
この健気な少女のために……。
◇
「シギー男爵、話があります」
男爵家に戻って今後の話をする。アンネが以前ゼノビオ子爵家で働いていたメイドだったことを説明した。そして……
「エリシアを連れて行く!?」
声を上げたのは男爵夫人のミリアだった。
「だめです! アンネに許可もなくそんなことはできません!」
「では、あなた方はアンネの許可もなく、親族の家にエリシアを養子にやろうと……?」
「っ……! それは……エリシアの幸せを思って……」
エリシアに父親を連れてくるという話をしたあとレオンがこっそり教えてくれた。
エリシアには聞こえないように教えてくれる。エリシアはこのままでは遠いところに住むロベルトの叔母の家の子になってしまうので、必ず父親を探してほしいと頼まれた。
「エリシアはそれを望んでいました?」
淡々と聞くとミリアは歯噛みしていた。
「エリシアを連れて行くのは、あくまで彼女の父親を探すためです。エリシアを勝手にどこかの家にやろうなんてことはしません。もし、アンネの意識が戻らないままであれば、今後のことはそのときにまた、あなた方に相談します」
ミリアが困った顔でロベルトを見た。
「ゼノビオ卿…………お願いします。エリシアのことを、どうか……」
ロベルトが深く頭を下げる様子を見て、ミリアも頭を下げる。
「頭を上げてください。もしかしたら頭を下げるべきはこちらかも知れませんから……」
「え……?」
先々のことを思いそんなこと言うと二人は不思議そうな顔をした。
「あっ、いや、いいんです。それよりアンネのことなんですが……」
こうしてローガンはエリシアを連れて王都へ向かうことにした。
息子のファリオスはあるときから、王太子の補佐官をすることになり、属国であるジファーレ公国へ頻回に行くようになった。一年以上領地へ戻って来ないこともあったが、今はちょうど王都のタウンハウスへ戻ってきているはずだ。
エリシアと一緒にいると彼女は自分の孫に違いないと思えてくる。きっと情が湧いているのだろう。
エリシアを自分の孫と確定するには慎重になる必要はあるのだが、こんな健気で可愛らしい少女が母と二人きりで過ごしていたと思うと、己の息子に対して、あいつがしっかりしていないからだ、とだんだんむかっ腹が立ってくる。
アンネはファリオスがジファーレ公国に行っている間に子爵家を辞めていた。公国から帰国したファリオスに「アンネをどこにやった」と責められた覚えがある。
もちろんローガンには知る由もない話だったので「知らない」と答えた。
その後ファリオスはローガンの妻となにやら話をしてから、アンネを探すと家を出た。
しばらくは休みのたびに彼女を探している様子だった。だがしばらくするとそれもパタリと止んだので、ようやく熱が冷めたかと思ったのだが、今思うと、そのときファリオスがしっかりアンネを探してエリシアの存在を認識していれば、事の次第は変わっていたのでは、と思う。
――そもそも、私が二人を認めていればこんなことにはならなかったか……
貴族令息と平民のメイドとの関係など簡単に認められるものではない。だが、やりようはある。
一時の戯れだと放置し、気づいたときにファリオスを強く叱ることすらしなかった。全ての元凶は自分にあったのだ。
ローガンは今更変えられない過去を思い出し、深く激しく後悔した。




