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「おかーさーん! レオンがミカのこと怒鳴って、ミカ泣いちゃったー!」
「あらあら。エリシア、ちょっと待ってて! すぐに行くわ!」
愛娘のエリシアの母を呼ぶ声が聞こえ、アンネはすぐに掃除をする手を止めた。
シギー男爵家で働くメイドのアンネは、縁あって男爵家の子どもたちの世話をさせてもらっている。
部屋に入ると、不貞腐れた顔で破れた本を持ってるレオンと大泣きになっているミカがいた。
「あら、ミカお坊ちゃまが破ってしまったのね」
アンネはしゃがみ込んでレオンの持っていた本に手を添える。
「何度も俺のだって言ったのにミカが無理やり引っ張るから」
「そうですか。聞いてもらえなくてつらかったですね」
アンネはレオンの頭を撫でてやる。
「ミカが見せてって言ったのに、レオンが見せてあげないの」
エリシアが兄弟喧嘩の理由を説明した。
「エリシア、これはレオン様のものだから、見せるか見せないかはレオン様が決めるのよ」
「でもさ、見せてあげるくらい良くない?」
「それもレオン様が決めること」
アンネは泣いているミカを見た。
「ミカお坊ちゃま、見せて欲しかった気持ちもわかりますが、レオン様のものを破ってしまうのはよくなかったですね」
「うっ、うっ、だって……っ! 兄様が……」
ミカがヒックヒックとしゃくりあげ、アンネはハンカチを取り出し涙を拭いてあげた。
「レオン様、その本少しよろしいですか?」
アンネはどうにか直せないかと本の破れたページを確認する。
「アンネ、兄様の本、なおる……?」
ミカが真っ赤な目でアンネのハンカチを握りしめて聞いてきた。
「町の書店で修繕できないか聞いてきましょう」
アンネはシギー男爵夫人のミリアの部屋へ行って騒がしくしていた事情を説明した。
「それで、町へ行ってまいりますので、バーバラさんに……」
「あー、たぶん先日ロベルトに買ってもらったばかりの本ね。わかったわ。ばあやに子どもたちを見てもらうよう言っておくから、レオンの本の方をよろしくね」
ミリアがばあやと呼んでいるバーバラはミリアの幼いころから世話役をしており嫁入りの際、ミリアが実家から連れてきたメイドらしい。
「はい。では行ってまいります」
アンネは破れたレオンの本を手に屋敷を出た。
アンネがメイドをしていたゼノビオ子爵家を出てから七年、アンネはまだ生きていることが信じられない気持ちだ。
とある恋愛小説の世界で、死亡予定のドアマットヒロインの母に転生したアンネは、ヒロインが三歳の頃に病に倒れて死亡するはずだった。
だが現実では、ヒロインである娘のエリシアは今六歳。
アンネは関係を持っていたゼノビオ子爵令息のファリオスと別れ、ゼノビオ子爵領から遠く離れたことで死亡する未来を回避できたのかもしれないと密かに期待した。
だが、この時すでに病がアンネの身体を蝕んでいることに、アンネは気づいていなかった。
◇
七年前、アンネは前世、日本人女性であったことを思い出した。異世界系の恋愛小説を好んで読んでおり、アンネは前世で読んでいた小説『虐げられた令嬢は辺境伯に溺愛される』の世界に転生したことに気が付いた。
しかも病気で死亡予定のドアマットヒロインの母という非常に不幸な立場のポジションに転生していた。
小説内ではアンネはヒロインを出産する。ヒロインは愛人の子、という扱いでゼノビオ子爵家内で生まれ、アンネはヒロインが三歳のときに病気で亡くなり、その後ヒロインは養女としてその子爵家に引き取られるのだが、ヒロインは父の不在時に義理の母から虐げられるようになる。
成人してからは腹違いの妹に婚約者も奪われるのだが、その後父に宛てがわれた新しい婚約者ノルダー辺境伯のレオナルドがヒロインのことを助け出してくれて……という展開が待っている。
アンネが転生したのは、虐げられる系のヒロイン—―いわゆるドアマットヒロインが素敵なヒーローに助けられて幸せになるという王道ストーリーの小説の世界だった。
小説ではヒロインの母について細かく書かれておらず、実際のアンネはメイドを務めていたゼノビオ子爵家の令息であるファリオスに「愛してる」と言われて関係を持ったのだが、小説内でヒロインが愛人の子とされたのなら、平民のメイドであるアンネと子爵令息のファリオスとの結婚は認めてもらえなかったのだろうと想像できる。実際にファリオスは何度もアンネに「父がアンネとの関係を認めてくれない」と嘆いていた。
ファリオスがどれだけアンネを「愛している」と言っても、アンネは愛人止まりにしかなれない。
前世を思い出してからも、彼のことが好きな気持ちは変わらなかったが、前世を思い出したことによって少し冷静さを取り戻した気がする。
――お世話になっているお屋敷のご子息と関係を持つなんて……私、最低じゃない……!
アンネは恋をして周りが見えていなさ過ぎた。
いくら好意を抱いている相手から迫られたとしても拒絶するべきだったと今ならわかる。
しかもファリオスはアンネに熱を上げているように見えたが、イザベラはヒロインの生まれた半年後にファリオスの子を産むのだから、ファリオスのアンネに対する想いだって疑わしい。
転生に気づいたアンネは自分の腹に手を当て決意する。
こちらはもう命が芽吹いているかもしれない。それなら……
――メイドの仕事を辞めて屋敷を去ろう……できるだけ早く……!
アンネはファリオスを本気で好きだった。だが、自身が死ぬのも嫌だし、我が子が虐げられるのも我慢できない。
アンネはこの先の未来を想像しぶるりと震えた。
――私って本当に死ぬのかな……
小説内でヒロインの母は三歳のころに病死している。
どんな病気で死んだのか、細かな描写はなかったのでわからない。
もし、流行病なら、その地から離れることで病死を回避できるかもしれない。
ヒロインはイザベラに虐げられていたのだから、きっとファリオスの愛人であるアンネも、ファリオスが不在の間に虐げられる。
アンネの病にイザベラが一枚噛んでいるということもありえないことではない。
しかし、アンネは屋敷を去ることでヒロインである娘がヒーローと出会うチャンスを奪ってしまうかもしれないと葛藤した。結局アンネはヒロインがヒーローと出会える場所へ行こうとアンネはお腹の子と辺境伯領を目指すことにした。
◇
それから七年が経ったが、アンネは未だに辺境伯領へ辿り着いていない。途中で路銀が尽き、出産した娘を育てていかなければならず、職を探すことになったからだ。
道中で知り合ったシギー男爵夫人のミリアが乳母を探しており、子を産んだばかりのアンネはその役を頼まれて、男爵家の屋敷で働かせてもらうことになった。
裕福なゼノビオ子爵家に比べるとシギー男爵家は慎ましやかな生活を送る貴族だが、アンネたちが暮らしに困るようなことはない。
アンネがこの屋敷へ初めて来たときから六年が経過している。
ここでの暮らしは心地よく、もう六年も過ぎてしまったのかと信じられない気持ちだ。
何よりエリシアが三歳のとき死ぬ予定だったアンネがまだ生きているということが一番の驚きである。
男爵夫人のミリアはこの屋敷で二人目の息子を出産した。出産した子はミカと名付けられて、半年前にエリシアを産んでいたアンネが乳母をした。アンネは屋敷の中でエリシアとミカの世話、そしてミカの三歳上の兄、レオンの世話をして過ごした。
当初は一年だけという約束でミカの乳母役を引き受けたのだが、ミリアがアンネのことを気に入って、アンネさえよければ引き続きナニーをしてほしいと頼まれた。
一年も働けば情が湧く。そのころにはミカの三歳上の兄であるレオンがしっかりとアンネに懐いており、可愛らしく「いかないで」などと言うので離れがたく男爵家での使用人を続けることを決意した。
すくすく育つエリシアは、ファリオスと同じダークブラウンの髪に青紫色の瞳をしている。エリシアが大きくなるたび可愛らしくなると、アンネはエリシアが小説のヒロインであることを実感する。
そうなると、やはり自分はエリシアが三歳のときに死んでしまうのだろうか。そう思っていたころもあった。
男爵家の近くに小さいけれど病院もあるし、孤児院もある。
アンネに何かあったときでも最低限の施設はあるので何とかなる。
エリシアを孤児院へ入れることに抵抗はあるが、孤児院の様子を見る限り、子どもたちは元気で笑顔がいっぱいだった。ゼノビオ子爵家で虐げられる生活を送るより、きっと良い。
初めの三年は常に健康に気を付けハラハラしながら過ごしたが、アンネは無事にエリシアの四歳の誕生日を祝うことができた。娘の誕生日を泣いて喜ぶものだから、ミリアやバーバラがびっくりしていた。
結局エリシアをヒーローのいるノルダー辺境伯領へ連れて行けていないことは気がかりだが、アンネはまだ生きている。三歳の山を越えることができたのだからきっと大丈夫。エリシアが働くことのできる年齢になってから二人で辺境伯領へと移り住もう。今はそんなふうに考えていた。
「おーい、アンネー」
アンネが屋敷から出ると男性が一人アンネの背中を追って来る。
「旦那様、どうされました?」
追ってきたのはミリアの夫、男爵家当主のロベルトだった。
「書店に行くって聞いた。ついでに注文してた本が入荷してるはずだから引き取ってきてもらいたくて」
「わかりました」
アンネはエプロンのポケット中からペンとメモと取りだした。
「間違った本を引き取ってきてはいけないので、注文している本のタイトルをこちらに書いてください」
「アンネはしっかりしてるな」
ロベルトはサラサラとアンネのメモに本のタイトルを記入した。
アンネは屋敷の主人であるロベルトとも良い関係を築けている。
彼は男でありながらも子育てに協力的で、とても良い人だ。
良い夫で良い父親。
アンネとエリシアにはないものを、ミリアとミカは持っている。
ファリオスがいたら……ロベルトと話をしていると、いつもそんなことを思ってしまう。
ファリオスのことは今でも夢に見るほど何度も思い出す。ファリオスとエリシアとアンネと三人で幸せに暮らしてみたかった。
アンネが破れてしまった本を持って、書店へ向かって歩いていると「アンネ!」と呼ぶ声がした。
どうやら今度は息子の方だ。
「レオン様」
「俺も行く!」
「ええ。一緒に行きましょう!」
アンネはレオンを連れて書店へと向かった。
子育ては大変だが、ここは環境が良い。こんな穏やかな幸せがずっと続いてくれれば……
◇
「旦那様に買っていただいた本、ちゃんと直るようで良かったですね!」
「ああ。一回しか読んでなくて、まだ主人公の気持ちのわからないところがあったんだ」
破れた線は残るらしいが、それでもレオンは十分な様子だったので良かった。
本は二週間で直るということで書店に修繕の依頼をし、ロベルトが注文した本を受け取り書店を出た。
「主人公の気持ちをちゃんと理解してからミカお坊ちゃんに見せてあげたかったんですね」
「ああ。どうせミカのことだから『なんでこの子はこんなことしたの?』って聞いてくると思って」
弟には『わからない』と言いたくない兄心だろうか。
「ミカお坊ちゃん、直るかどうか、心配していましたから……」
「わかってる。本が直ったらちゃんと見せるよ」
その夜、エリシアもレオンの本のことを話し出す。
「レオンのあの本、レオンのお父さんに買ってもらった本なんだって」
「そう」
その話はミリアに聞いて知っていたが、エリシアの話を聞きアンネは今知ったかのような相槌を打った。
「お父さんに買ってもらった本だったから怒ったのかな?」
「そうかもしれないわね」
この会話の流れ、きっとエリシアは今日もファリオスのことを聞いてくるだろう。
「ねえ、お母さんもお父さんからもらった物ってある?」
エリシアは最近父について聞きたがる。答えづらいがアンネは正直に答えた。
「あるわよ。これ」
アンネはぱちりと髪飾りを外してエリシアに見せる。
「ああ! お母さんがいつも着けてるやつ」
それはファリオスが王都に行った土産と言ってアンネに贈ってくれた物だ。
「お父さんが私にくれた物ってないのかな?」
エリシアには、父は仕事の都合で遠くで暮らさなければならないから一緒には暮らせないと伝えてある。しかしファリオスはエリシアの存在自体を知らないので、ファリオスがエリシアに贈り物をすることはできない。アンネは言葉に詰まってしまう。
「ああ! わかった。これでしょ。私が赤ちゃんのころから使ってるブランケット!」
アンネは何も言わなかったが、それはここへくる前の隣の領地の街で、アンネが買ったブランケットだ。
だが、エリシアは勝手に納得して、ブランケットの色が好き、触り心地が良い、とブツブツ一人でしゃべり続けていた。
アンネは曖昧に笑って否定も肯定もしなかった。
「ねえお母さん、お父さんに会いたい?」
エリシアが期待するような目で聞いてくる。
「うん……会いたいわ」
ゼノビオ子爵家を出たときから、ずっと想いは変わらない。彼のことがいつまでも忘れられないのだ。
「私も会ってみたいな……!」
「会えるわよ」
いつか……きっと……。
物心つく前から父のいないエリシアはそれを当たり前のように受け入れてくれて、父親の存在を詳しく聞きたがるがような困るような質問はしてこない。
もしかしたら子どもなりにアンネを気遣ってくれているのかも知れない。
エリシアが幸せになれる未来が見えたとき。いつかファリオスに会わせてあげたいと思っている。
あなたの子だから責任を取って、なんて言うつもりはない。ただ、ファリオスの子が幸せに生きているということを心に留めておいてほしいと思う。
男爵家へ来てから六年が経過し、アンネは二十五歳になった。
ゼノビオ子爵家ではイザベラが子爵令息夫人として屋敷にいるのだろう。小説ではエリシアの生まれた半年後にエリシアの腹違いの妹が生まれていたので、生まれた娘と三人、仲睦まじく過ごしていることだろう。
そう思うとアンネの胸がズキズキ痛む。
今日もファリオスのことを夢に見てしまいそうだ。
◇
「アンネ! 書店に本を取りに行くのか?」
「はい。もう直っているころだと思いますので」
「俺も行く」
「ええ。一緒に参りましょう」
アンネはレオンを連れて屋敷を出る。書店までは歩いて三十分程度。
屋敷を出て、十分ほど歩いたところで心臓がバクバクと痛いほどに鳴り始めた。
心が痛いのとは違う。物理的に締め付けられている。ひどい圧迫感に冷や汗が止まらない。
「ううっ……!」
キーンと耳鳴りが走った。立っていられないほどズキズキと心臓が痛み始めて、アンネは地面に膝をつく。
「アンネ?」
突然立ち止まるのでレオンが不思議そうな顔でアンネを見る。
無理だ。ひどく身体が重く感じて、膝をついても支えることができない。
アンネはドサッとその場で蹲るよう倒れた。
「アンネっ!? アンネ、アンネ!! アンネー……!」
レオンの声を聞きながら意識が遠のく。
――ああ……病気で倒れるって……こんな予兆もなく突然くるんだ……
ここまで生きてこられて油断したのがいけなかったのか。健康に気を遣うのはもちろんのこと、感染症などにも注意をしていたはずなのに。
現在この男爵領で流行しているような病気はない。たぶん流行病の類ではないのだろう。
――結局私……エリシアのこと……不幸にしちゃうのね……。ごめんね……エリシア……
エリシアのこれからの人生が虐げられるはずだった人生よりも良い人生になっていることを願う。
そして、薄れゆく意識の中、想いを馳せるのは二人のこと。
――エリシア……ファリオス様……
◇◆◇
ロベルトはどう話せば、と頭を抱えた。
ミリアから聞いた話ではアンネはもう目を覚まさないかもしれないらしい。
血相を変えて屋敷に駆け込んできたレオンの話を聞き、使用人を連れ、倒れたアンネの元へ向かったのはミリアだった。そのまま病院へ行ったようで、しばらくしてミリアは真っ青な顔に憔悴した様子で屋敷へ帰ってきて、ロベルトに事情を説明した。
ミリアはアンネの着替えを持って、またすぐに病院へ向かうと言う。使用人に任せず自分で行く様子はミリアとアンネの絆が見えた。
一緒に行ったレオンはそのまま病院に残っている。ロベルトは昼食を食べてからエリシアと一緒に病院へ来るようにと言われた。
「いい、ロベルト。エリシアには必ず昼食を食べさせてから来てちょうだい」
この先食欲のなくなるような話がエリシアを待ち受けているから。
エリシアは奥の部屋でミカと一緒に教養の課題をして過ごしており、騒動には気づいていなかった。
昼食後、ロベルトがどう話そうかと悩んでいる間に、エリシアはミカと一緒に「さっきの問題の答え、わかった気がする」とすぐにまた奥の部屋へと戻って行ってしまった。仕方なくロベルトは部屋へ行ってエリシアを呼び出す。
「勉強中にすまない。エリシア……話がある……」
エリシアを呼んだのだが、バーバラの方がびくりと肩を揺らした。
バーバラはロベルトと一緒にミリアからアンネが倒れて病院へ運ばれた旨を聞いており、ずっと表情を硬くしながら子どもたちの面倒を見ていたようだ。
「え? 私? ですか?」
エリシアは自分が呼ばれたことに驚いていた。
ロベルトはアンネとは会話をするがエリシアと会話をすることは少ない。ミリアはエリシアによく話しかけているが、ロベルトはエリシアに用事がないので会話する機会がないのだ。
そんなロベルトがエリシアを呼び出すので、エリシアは少し顔を強張らせ警戒をしている。
「いいかい、エリシア。落ち着いて聞くんだ」
エリシアの表情がますます硬くなる。
「さっき、アンネが倒れて病院へ運ばれた」
「え?」
「これから一緒に病院へ行こう」
バーバラはすでに目に涙をいっぱい溜めているようだが、エリシアはよくわからないような様子だ。
「お母さん、朝は元気だったよ。レオンと一緒に修理してもらった本を取りに行ったんだよ。ちょっと帰ってくるのが遅いけど、きっとレオンと一緒に外でこっそり何か買って食べてるの。レオンは帰ってきたらミカに直った本を見せてあげるんだよ」
普段、ロベルトには拙いながらも敬語を使って話をしてくれるエリシアだったが、もう敬語は完全に抜けてしまっている。普通にしているように見えるが、動揺が会話に表れている。
エリシアの説明はわかりやすい。女の子だからだろうか。同じ年のミカはこんなに上手く喋れない。
だが、エリシアの話す内容は、そうあってほしいという願望。元気だったはずの母が倒れるはずがないという願い。
「あ、途中で風邪でも引いて病院に駆け込んだのかな」
エリシアがへらりと笑って、バーバラが堪えきれずに声を殺して涙を流す。
アンネは意識不明の状態だ。風邪なんてやさしい病気ではない。「もう目が覚めないかもって……」と泣きながら説明するミリアを見ているだけでも辛かった。
「エリシア。アンネは風邪じゃない。病名は私にもわからないから、病院へ行って医者に説明してもらおう」
「…………わかった」
ロベルトは納得していない様子のエリシアの手を引いて病院へと向かった。
倒れたアンネの意識が戻らなければこの手は一体どこへ向かうのだろうか。
エリシアに動揺を見せないように初めて繋いだ細く小さな手を、ロベルトが大きな手でしっかりと包み込んだ。
◇◆◇
目の前で眠る女性は一体誰だろう。エリシアはぼんやりと女性を見つめた。
「エリシア、あなたのお母様よ。声をかけてあげて」
母?
青白い顔で目を瞑る女性。これがエリシアの母?
こんな顔をする母は見たことがない。
エリシアの母、アンネはいつも血色の良い顔で、優しく微笑む女性だ。エリシアの前でこんな硬く目を瞑る母は知らない。
「ねえ、私のお母さん、死んじゃったの……?」
エリシアの震える声にミリアは泣いた。彼女はエリシアを抱きしめる。
「今はまだ……眠ってる。まだ、かろうじて生きているわ……」
ミリアは嘘をつかない。
かろうじて、の意味はわからなかったが、死にそうだけどなんとか生きている状態、という意味だろう。
「っ……お母さん……これから死んじゃうの?」
エリシアの頬を涙が伝う。
「わからないわ……医者には全力を尽くしてもらっているけど……わからない……」
「そんなのやだっ!」
エリシアは抱きしめるミリアの腕を抜けて眠る母へと駆け寄った。
「お母さん! やだよっ! 起きて!」
エリシアは眠るアンネを揺さぶった。朝でもこんなふうに母を起こしたことはない。
「やめなさい! エリシア!」
ミリアに泣きながら制止された。
「起きてよっ! お母さん! お母さんっ! うわぁーーん……!」
エリシアはアンネの上にかけられたリネンに顔を埋めて泣きじゃくる。
ミリアはそんなエリシアに覆いかぶさるように抱きしめ涙を流す。
ロベルトは見ていられないと顔を背けて部屋を出た。レオンはグッと拳を握りしめて部屋の隅で佇んでいた。
◇
ひとしきり泣いた後、医者の話があるからと、エリシアとレオンは別の部屋で待っているように言われた。
「レオン、どこ行くの?」
ミリアとロベルトは医者の話を聞いていて、ここにはいない。
部屋を出て行こうとするレオンに話しかけた。
「アンネの状態を聞きに行く」
「ここで待ってなさいって言ってたよ」
「お前は自分の母親の状態が気にならないのかよ」
気になるに決まっている。だが、知り合いを介さずにストレートな意見を聞くのは怖い。
エリシアが俯いているとレオンは部屋を出て行った。
「ま、待ってよレオン……」
一人、部屋で待つのも不安でエリシアはレオンを追いかけた。
「レオン」
レオンがある部屋の前で立ち止まったので、声を掛けると人差し指を顔の前に持ってきて「しー」と静かにするように言われた。
エリシアはごくりと唾を飲み込んだ。
「アンネさんはクーリュー病という血流が悪くなる病気です。遺伝でもなく、感染症でもなく、突然起こる原因不明の病気。医療が進んだ国では治療薬の開発が進められていると聞いたことがありますが、現時点でこの国には治療薬はありません。薬で病気の進行を遅らせるしかできることはなく……」
「治らないって……ことですか?」
「…………はい。意識が戻ることもなく、もって二か月……といったところでしょうか」
「っ……!」
ロベルトが息を呑み、ミリアがワッと泣き出す音が聞こえた。
エリシアには話の内容はほとんどわからなかったが、とにかく助からないような雰囲気で、焦燥感がエリシアを襲う。
「レオン」
「行こう……エリシア……」
レオンがエリシアの手を引いて、先ほどの部屋へと戻る。
レオンはずっとエリシアの手を繋いだままだった。
しばらくするとロベルトと目を真っ赤にしたミリアが戻ってきた。
「エリシア。今日は、アンネは起きることができないみたいだから、屋敷へ帰りましょう」
「……」
今日は、ということは別の日には母は起きるのだろうか。そう追及してもきっとミリアを困らせるだけだ。エリシアは気持ちをグッと堪えてミリアの言うとおりに屋敷へ戻ることにした。
屋敷に戻るとバーバラが泣きながらエリシアを抱きしめた。
「ばあや。今後のことをちょっと……」
「はいっ……すぐに……」
バーバラはエリシアを離し「みんなは奥の部屋で本でも読んでお待ちください」と言う。
使用人を集めてアンネのしていた仕事の分担を決めるようだ。
「エリシア……行こうぜ……」
「うん」
レオンに手を引かれて奥の部屋へと進んでいく。奥の部屋ではミカが心配そうな顔をして待っていた。
「アンネは大丈夫なの?」
「お医者さんは『もって二か月』って言ってた」
「兄様、もって二か月ってなに?」
レオンはふいっと顔を背けて「わからない」と言う。
エリシアはレオンの「わからない」と答えるところを初めて見た。いつもレオンは「わからない」とは絶対に言わない。わからないときは「自分で考えろよ」と言う。
レオンはわからないわけじゃない。教えたくないようだ。
「ねえ、何回寝たら二か月?」
ミカがレオンの腕を摑んで尋ねる。
「わかんねーよ!」
レオンはミカの腕を振り払う。
強い口調にミカは泣きそうな顔をした。だが、レオンの方も目に涙を溜めていた。
「俺が……俺が本の修理なんか頼んだから……だからアンネは倒れたんだ……」
レオンが肩を震わせた。
「俺の足が遅いから……もっと早く大人を呼んでいれば……」
レオンの目に溜まった涙がポロリと零れ落ちていく。
「その本……僕が破った本だ……」
ミカの目からも涙が零れる。
みんなが泣くので、先ほど散々泣いたエリシアもまた泣けてきてしまう。
「私は……私はお母さんの具合が悪いの気づかなかった……。朝、元気だと思ったけど……そのとき病院に行ってってお母さんに言ってたら……」
そうしたらアンネは助かっただろうか。
子どもたちは自分たちを責めあった。
アンネは病気だというのに、自分たちの行動を変えることができればこんなことにはならなかったのでは、という後悔に子どもたちは苛まれた。




