15.アデルと別れ
「ええー、アデルちゃん寝れないの?俺が寝かしつけてあげようか?」
最近不眠症気味で、と話すとナイル先輩はばちっとウインク付きでそう言った。
「みんなくたくたになって良く眠れるって言うけど、どう?」
「アデル、耳を塞いで」
やけに色気たっぷりにナイル先輩が囁いた瞬間にステファンがナイル先輩と私の間に書類を突っ込んだ。
「くたくた…?よく眠れる…?夜までこの調子でベラベラ喋られたら流石に聞く方も疲れるのかしら」
「アデルちゃんの言葉は胸に刺さるなあ」
ナイル先輩は苦笑した。
ステファンは書類の山をナイル先輩に押し付ける。
「うわ、この案件俺のだってよく分かったね。それにこのレポート、すごく良い出来だ」
「アデルが教えてくれたので」
「偉いじゃないか。ちゃんと面倒見てやってるんだな」
珍しくナイル先輩が感心したように褒めてくれた。私は嬉しくなってにっこり笑う。
「先輩の真似をしているだけですよ」
「いやあ、できる後輩がいると助かるなあ。秘書同士、この調子で連携して仕事してくれよ」
「はい」
ナイル先輩は自分の分の書類をぺらぺらと捲り始める。私も自分の仕事に戻り、ペンを走らせた。
しばらくするとナイル先輩は鞄に荷物を詰め込み、席を立った。
「夕方には戻るけど、それまでルース様をよろしくな」
「はい」
ナイル先輩は私に書類を渡し、扉を開けて出て行く。明るく返事をしてナイル先輩を見送った。
ぺらりとナイル先輩に渡された書類を捲ると、機密扱いの情報レポートだった。曰く、『ラガソールと戦争の動きあり』
…女王の治世になって以来、物騒な話題は尽きることを知らない。この戦争も恐らく女王から仕掛けたものだろう。今以上に国を広くして何がしたいのか、庶民の私にはよく分からない。
「サミュエル様、休みをいただけないでしょうか」
「いいよ。キャンベルの奥様のお見舞いだよね」
「はい」
ルース様、サミュエル様の昼ごはんに付き合って私とステファンも食べていると、ステファンがサミュエル様にそう切り出した。サミュエル様は軽い調子で答えて、ステファンはほっと表情を和らげる。
「奥様…最近はどう?」
「もう長くはないかと」
ステファンは苦し気にそういった。私は手から力が抜けて、からんとフォークを取り落とす。皿に落ちて大きな音が立つ。顔からさっと血が降りるのを感じた。
「大丈夫?」
「は、はい、」
ルース様が心配そうに私にそう問いかけ、私はフォークを拾い上げながら頷く。
大丈夫なわけがない。
ほとんど食事が喉を通らなかった。
私は食事を終えたステファンを追いかけて、廊下で捕まえた。
「ステファン…!お願い、少しだけ話を聞いて」
「どうした?」
ステファンは私を見下ろして、優しく尋ねてきた。
「私を、キャンベル家の奥様のお見舞いに同行させてほしいの」
「…アデル、君は」
「変なことを言っているのは分かっているし、迷惑を承知の上でお願いするわ…ステファン、私をキャンベル家の屋敷に…奥様に合わせてくれないかしら」
ステファンは困ったように視線を彷徨わせた。私はステファンの両手を掴んで、じっと見上げる。
「私、どうしても…会わなきゃならないの…理由は言えないけれど」
「アデル、俺は君のことをそこまで信用しているわけじゃないから…病気の奥様に合わせるなんて」
「…私、奥様が生きている間に会えないと…一生後悔するわ。ステファンが会わせてくれないなら自力でも」
「…アデル、そこまでしてどうして奥様に会いたいんだ」
「言えないの、ごめんなさい。…会っても私のことなんて分からないかもしれないし、気持ち悪いと思われるかもしれない。…またゴミのように見られるかもしれない。でも、それでもいいの。今際の際だというならお願いよ、どうしても彼女に伝えたい事があるの」
涙が頬を伝って、赤い絨毯の上に落ちていった。ステファンは迷った末に小さく頷く。私は弱々しく笑顔を作った。
「ありがとう、ステファン。この恩はきっと一生忘れないわ」
ルース様に相談して、1週間後にステファンと揃って少し長い休みを取った。ルース様はわたしが顔を真っ青にしているのを見て心配してくれた。ルース様もキャロラインのお母様が臥せっていることは知っていたけれど、そこまで深刻だとは思っていなかったらしい。ルース様とサミュエル様からのお見舞いの品も渡されて、私たちは出発した。
8年ぶりのキャンベル家は、何も変わっていなかった。
私はこっそり裏口からステファンと2人で屋敷に入り、キャンベル家の夫婦の寝室へと真っ直ぐ向かって行った。途中で令嬢とは思えない怒鳴り声が聞こえた。多分キャロラインだろうけれど、ステファンは慣れているのか反応すらしなかった。
「奥様、失礼します」
ステファンは小さくノックをして、扉を開けた。私はステファンの後ろを隠れるようについて行く。
お父様みたいに、お母様も私を許してはくれないかもしれない。
でも死ぬかもしれない母を、一目見ずに、それどころか何も言わずに永遠に別れてしまうのは絶対に嫌だった。
「まあステファン。久しぶりね」
「奥様、体調はいかがでしょう」
「今日はとても気分が良いの。発作も起こっていないのよ。奇跡でも起こりそうね」
お母様は広い寝台の上で上半身を起こし、本を読んでいた。ステファンに気付いて本を置き、ステファンの後ろを歩く私に微笑みかけた。
「お友達?」
「…奥様にどうしてもお会いしたいと」
ステファンが一歩右へ移動した。私はステファンの隣に立つ。ゆっくり前を見据えた。
お母様はキャロラインと同じ青い瞳で私をじっと見つめて、また微笑む。私が誰だか分かっていないから、そんな顔をしてくれるのかしら。アデルだと言えば…
でも私は、母に嘘をつきたくなかった。
「ステファン…もう一つお願いさせて。…奥様と2人きりにしてほしいの」
「…アデル、それは駄目だ。そこまで君を信用していない」
「…お願い、無理なことを言っているのは分かっているけど…頼まずにはいられないの。その代わり…私、ここからは奥様の許し無しには一歩も動かないわ。本当よ」
母の寝台からたっぷり5歩は離れた所だった。危害を加えるつもりはないのだと、私は信じてほしかった。
「ステファン、私は構いませんよ。少し外に出ていてくれるかしら」
「奥様…扉の外に控えています。何かあればお呼びください」
「ええ」
お母様が微笑み、ステファンを部屋の外に追い出してくれた。私は自分で言った通り、決して足を動かさず、私を見つめる母をじっと見つめ返した。
随分痩せてしまっていた。白髪に皺の刻まれた顔は、私の知る頃の母とはまるで違う。幸福な貴族の婦人だったあの頃と違って、不幸な人に見えた。
「わ、わたし…アデル…アデル・ホームズ、といいます」
「覚えているわよ」
「っ…」
覚えて、いた。わたしが誰だか気付いていた。
あの日キャロラインを突き飛ばしたと思われているアデルだと。このキャンベル家を狂わせた張本人のアデルを。
「なのにどうして…2人きりになるなんて」
「ずっと貴女のことを気にしていたのよ」
「わたし、を?」
母は目を細めて微笑んだ。
「ねえ、キャロライン」
さも当然のように、母は私をそう呼んだ。心臓が止まりそうなほど驚いて、私は目を見開く。
「ど、どうして…?」
誰にも気付かれなかったことなのに。今まで一度も会わなかった母が、どうして気付いたのか。
「もうずっと昔に、貴女が悪いことをして、私が叱ったときに…今日と全く同じ顔をして、こうして寝室に来たことがあったわよね」
「ええ…何度もあるわ。私はお母様にダメだと言われていたのに、木登りをして落ちてしまった日…キッチンでつまみ食いした日…」
「そうそう。いつだってステファンと庇い合いをしていたわね。お嬢様を誘った僕が悪いんです、とステファンが言ったのに…キャロラインは、私がステファンに命令したのよ、ステファンは悪くないわ、ごめんなさいって泣いていたわ」
キャロラインはお転婆だったけれど、決して運動神経が良いわけでも、注意深いわけでもなかった。悪戯をすれば必ず見つかってしまう、そんな子だった。
ステファンはいつでも私を庇ってくれた。私を誘った自分が悪いのだと。…それがわたしには歯痒くて、こうしてお母様にごめんなさいを言うときに泣きながらステファンは悪くないと言い募ったものだった。
「病気になって考える時間が沢山できたから、ずっと考えていたの。…どうしてキャロラインはあんなに突然変わってしまったのか。何が引き金だったのか」
お母様はやはり微笑みながらそう言った。
「もしかして…あの日に、孤児の女の子と入れ替わっていたのかしら、って。お伽話みたいよね。だから自分でも信じていなかったわ。…貴女がここに来るまではね」
「っ、」
「キャロライン、こっちへいらっしゃい」
「そばに、いてもいいの?お母様ってまた、呼んでも…良いの?」
瞬きをすると、頬を涙が伝っていった。
そう、あの日。
私は孤児のアデルと入れ替わった。お伽話のような、嘘のような本当のはなし。いまだって信じられない。私にはたしかにキャロラインだった記憶があるけれど、今はアデルの身体に棲んでいる。
お母様に手招きされて、私はゆっくり近付いて、寝台に座った。お母様がぎゅっと私を抱きしめる。お母様の体温は熱くて、少し震えていた。
「会いにきてくれてありがとう、キャロライン。どんな状況でも絶望せず、真っ直ぐに生きてきたのね。貴族として何不自由無く生まれ育った貴女が、突然孤児として生活するなんて、苦労が絶えなかったことと思うわ。それでもこんなに立派に育ってくれて、お母様は本当に嬉しいの」
「お、かあ…さ…ま…っ」
「よく頑張ったわね。お母様は貴女を誇りに思うわ。キャンベル家の娘として、申し分のない子に育ってくれたのね」
涙が溢れて言葉にならない。私は嗚咽を漏らしながら母に縋り付いた。お母様も涙を流しながら私を抱きしめる。
「あの時…入れ替わった日に気付いてあげられれば…こんな苦労はさせなかったのに…駄目なお母様ね…」
母は涙を拭いながらそう囁いた。
「気付かなくて…当然だわ。ありえない話だもの。…孤児院でも『アデルが急に心を入れ替えた』としか思われていなかったわ」
「孤児院は辛かった?」
「いいえ、とても楽しかった。みんな良い人ばかりで…家族が沢山できたわ」
ひとしきり泣いてから、これまでの話をぽつりぽつり話し始めると、母は熱心に聞いてくれた。
キャンベル商会への就職が失敗に終わった話をすると、母は苦しげに目線を落とす。
「お父様はね…キャロラインが悪い悪魔に取り憑かれたと真剣に思い込んでいるの。悪魔払いの儀式や除霊のアイテムばかり買い込んで…すっかりキャンベル家は傾いてしまったわ。私の病気も悪魔のせいだと思っているみたい」
「全く間違いじゃないと思うけれど、そんなことをしている場合じゃないでしょう?」
「もちろんそうよ。お父様にはキャロラインを正す義務ももちろんあるけれど、商会を導いて領民の生活を安定させる義務もある。…なのに、ここ最近のお父様は…」
なにも言えなかった。
アデルとキャロラインの入れ替わりで起こったことは、あまりにも重大すぎる。
「貴女のことをお父様に教えてあげたいけれど、きっと信じないわね」
「私も…そう思う」
父はその事実すら拒絶すると思う。
「自分で気付いてもらわないと…私も努力はするけれど、可能性は…低いわ」
「いいの、お母様。私はお母様に気付いてもらえただけでとっても嬉しい。それだけで幸せです」
お父様もなんて、贅沢だわ。私が微笑むと、お母様もふわりと微笑んだ。
「心残りがなくなったわ」
消えそうなほど儚い微笑みで母はそういった。私が思わず手を握りしめると、ふふ、と笑う。痩せて骨張った手だった。あまりにも華奢な身体だった。
「お母様、私を置いていかないでしょう?」
「それは神様がお決めになることよ。…キャロライン、お母様にひとつだけ約束をしてくれないかしら」
「約束?」
母は私の小指に、自分の小指を絡める。優しい笑顔だった。
「アデルを恨まないと約束をしてちょうだい」
「アデルを…恨まない…」
わたしから全てを奪ったアデルを、恨まないように、なんて。できるか、できないかよりも、母の希望を聞いてあげたいと思った。それでも…胸の中が軋む。
「彼女には彼女なりの葛藤があったはずよ。私が母として…彼女の葛藤や苦しみを解ってあげられなかったのが…悔しいわ」
「お母様…」
「私にとっては8年間一緒に過ごしたアデルも…もう私の子供なの。私の子供たちが…憎しみ合うのは、とても苦しいわ」
「…お母様、わかったわ。私、アデルを自分の姉妹だと、そう思うわ。…それでいいのよね?」
「ありがとう、キャロライン。…貴女は素晴らしい人よ。愛しているわ、心から。…お父様も、口には出さなくても同じ気持ちよ」
「はい…」
母が微笑んで、私も微笑みを返した。
「…憎しみ疲れてお父様のようにはなってはいけないわ」
耳に届いたのは恐ろしくか細い声だった。
こんこん、と扉がノックされ、ステファンが入ってきた。私とお母様を交互に見て、目を見開く。
「…お話中すみません。旦那様が…お戻りになられる時間です。アデルは引き上げた方が」
「そうね。長々と引き止めてごめんなさい。…さようなら、アデルさん」
母は泣きそうな顔で微笑んだ。
私も涙を拭って微笑む。
「さようなら、奥様」
礼をして、背を向けた。ステファンに連れられて屋敷から足早に出て行く。
宿に着くまでステファンとは一言も話さなかった。
私の部屋の前で、ステファンは何か言おうとしたけれど、私は無視して部屋に戻る。
ひとりきりになると、母の顔が目の裏に浮かんだ。
「おかあさま」
ぽつりと呟くと、寂しさで胸が潰れそうになった。逢えたのに、欲しい言葉をもらえたのに。…これ以上ないほど苦しい。
お母様、大好きだったわ。私、言いつけをきちんと守るわ。
ぼろぼろと涙が零れ落ち、息が詰まった。両手で口を押さえても、嗚咽は抑えきれなかった。母との再会は…アデルになったときよりも苦しかった。胸が痛い。
その翌日、キャンベル家の奥様が亡くなったというニュースがキャンベル領内を駆け巡った。
父の腕の中で、満ち足りた笑顔のまま…事切れたという。




