13.アデルと仕事 2
----痛い、痛いわ。
『うぇえーーん…っ!』
声を張り上げて泣くと、慌てて私の身長よりずっと高い木の上からステファンがするすると降りてきた。
『キャロライン!大丈夫か!?立てる?だれか助けを…』
『っ、だめっ!』
木から落ちた。
私は昔から木に登ったり、かけっこしたりするのが好きだったけれど決して上手くはなかった。木に登ればこうして落ちてしまい、かけっこすれば足をもつれさせて転んだ。だからお母様にもお父様にも「やめなさい」と言われていた。でもやりたくて、ステファンとなら大丈夫だって思って…やっぱり木から落ちた。
『ごめん。僕がもっと…』
『ステファンは悪くないじゃない…!』
目に涙を溜めて言う。ステファンも泣きそうな顔をしていた。
人を呼んだら気付かれてお母様たちに叱られてしまう。それだけは嫌……
『まあお嬢様!また木に登ったんですね?』
『っ、お母様には言わないで!』
侍女長のメリーに見つかって、私は必死に頼み込んだ。でもメリーは腰に手を当てて怒った顔のまま立ち去ってしまう。代わりに私付きの侍女がやってきて、転んだままの私を立ち上がらせた。
『泥で汚れていますね。着替えをしましょう』
『やっ…!ステファン!』
助けを縋るようにステファンを呼ぶ。しかしステファンは執事に腕を掴まれていた。既にステファンは執事からの説教が始まっており、半泣きのまま項垂れていた。
着替えさせられた私はお母様の部屋に通され、半泣きでお母様の前に立っていた。
『ステファンから話は聞きました』
『す、ステファンは悪くないわ!私が勝手にステファンを追いかけて登ったの!怪我もしていないわ、落ちてびっくりしただけ…だからステファンは怒らないで…』
『ぷっ』
私が必死に言い募ると、お母様は吹き出した。
『さっきステファンも『自分がお嬢様を無理やり登らせたんです。僕が悪いんです。お嬢様は叱らないであげてください』って言っていたわ。言い訳くらい打ち合わせしておきなさいね』
お母様は笑いながらそう言った。
『貴方達の素敵な友情に免じて今回は目を瞑りましょう。でもね、キャロライン。貴女は伯爵家の大切な、大切なご令嬢なのよ。怪我をするとみんなが悲しむの』
『はい、おかあさま』
私は自分を大切にしなければならない。
私が怪我をしたら、みんなが困る。みんなが悲しむ。
お母様は泣き出してしまった私をぎゅっと抱きしめて、頭を撫でた。
お母様、大好きよ。
私がお母様にずっと元気でいてほしいと思うのと同じ気持ちで自分を大切にしろと仰ったのよね。お母様、私…----
「アデル、起きてる?」
「……はい」
コンコン、と部屋の扉をノックされて、私は目を覚ました。机の上にはまとめ損なったレポートとペンが散乱している。少しだけ、と思っていたのにかなり寝入っていたらしい。
懐かしい夢を見た。
私が目を擦りながら扉を開けると、夜会用のドレスを着たままのルース様が部屋に入ってきた。
「寝てた?」
「寝ていません」
「涎出てるわよ」
「うそっ!」
「嘘よ」
騙された…!
ルース様は悪戯っぽく笑って、私の寝台に腰掛ける。
「私の部屋じゃないから普通に、友達として聞いてほしいの」
ルース様はそう言って、指を組む。私とルース様は、主人と秘書という役割が大前提だけれど、こうして彼女が私の部屋に来た時だけはただの友達になる瞬間がある。私と彼女はとっても気が合う。今は貴族だけど育ちは全く違うルース様、育ちは貴族と孤児のミックスの私たちは価値観がそれなりに近いのだ。
「どうしたの?」
軽く聞き返すと、ルース様は緊張した面持ちで口を開いた。
「好きになってはいけない人を好きになったことはある?」
「好きになってはいけない人っていうのが周りにはいないんだけど…」
「じゃ、じゃあ…例えば…サムお兄様…」
「例えになっていないわ」
私とサミュエル様は釣り合いは取れないけれど普通に恋愛できる間柄だと思う。もちろんそんなつもりは一切ないけれど。
「この際だからハッキリ聞いておくけどね。貴女…サミュエル様が好きでしょ」
「ち、ちが…!」
私が確信を持って訊ねると、ルース様はこちらが驚くほど素直な反応を示した。耳まで真っ赤にしている。口では否定しているが…これは否定とは言わない。
「…義理の兄だから、さすがに…駄目だとは…分かっているし…ちゃんと諦め付けるから…」
「そうなの?」
「嫌われたくないもの」
私はサミュエル様もルース様が好きだと思うけれど。
「で、何があったの?」
「…夜会で、私とサムお兄様が並んでいるのは不釣り合いだと、某令嬢に言われたの。サムお兄様とマリアお姉様が怒って追い返してくれたけれど…私も第三者視点から見ればそう思うって…自分で思ってしまったの。でも…サムお兄様の隣は…せめて、私が認められる人がいいの」
「ずっとルースでいいじゃない」
「それだとサン・マドック家が終了してしまうわ」
でもサミュエル様の隣に立って見劣りしない人なんてなかなか見つからない。
「だから、お兄様のお嫁さん探しを手伝ってくれない?」
「………嫁探しの方?」
ルース様が嫁になる方法ではなかった。
「うーん…別にいいけど…」
「ありがとう!」
ルース様はぱっと破顔して、私の手を握った。ルース様はしっかりしているようで抜けている。…まあそこが好きだけど。
「アデルは?ナイルとは何もないの?」
「あるわけないでしょ」
「そうなの?2人とも息ぴったりだからお似合いだと思うのに」
私には未だに恋が分からない。もう2年も、オリバーとマグナスへの返事を探し続けている。仕事に打ち込めば打ち込むほど答えは見えなくなる。
「じゃあジョンは?」
「ジョン?仲の良い家族なのに」
「ええ、そうなの?ずっと一緒にいるじゃない。家も別なのに」
「妹思いすぎるのよね」
本当に。私を心配してくれるのは嬉しいけれど…
「そういえば新人が来るってナイル先輩が言っていたけれど」
「ええ、来るわよ。キャンベル商会から1人預かることになっているの。サムお兄様の補佐役としてね」
「キャンベル商会から?」
「どういうわけか知らないけどね、急に預かってくれって言われたのよ。アデル知ってる?ステファンていう人なのだけど」
ステファンという名前を聞いた瞬間に胃が重くなった。
2年前に少しだけ顔を見て以来、全く会っていない。やはり思い出の中のステファンは…私の太陽で、私のトラウマの1つだ。強く拒絶された思い出が根深い。
「勿論知っているわ。キャロラインの付き人だったの。とっても仲良しで、兄妹同然だった。でも…アデルのことはとても嫌いみたいなの」
「それなら会わないように取り計らうわ。会い辛いでしょ?」
「気にしないで。仕事だもの。向こうだって大人になったはずだわ」
私は強がって微笑んだ。ルース様は柔らかく微笑んで、ぎゅっと私の手を握る。
「無理しないで。お兄様も、私もね…アデルが1番なんだから」
「ありがとう」
彼女は優しいといえばそうだし、甘やかされているとも思う。ステファンのことは…もう大人だから、上手く対処して同然。アデルがやってしまったことは、今では私の業だ。私が毅然と立ち向かわないと。
「私…早く領に帰りたいわ」
煌びやかな社交界は、貴族のキャロラインを揺さぶって私を脆くする。甘い思い出が私を溶かす。アデルの苦しさを忘れたくなる。
----お父様、キャロラインは字が読めるようになったのよ、褒めて?お父様にご本を読んでさしあげるわ、そこに座って。
可愛いキャロライン、賢いキャロライン、お父様に本を読んでくれるのかい----
----白詰草の約束を読んであげるわ。私、このお話がとっても好きよ。大人になったら妖精になるわ。
キャロラインは今でも妖精のように可愛らしいよ----
お父様、大好きよ。忘れたくないの。忘れたくないの…----
----見られたくない。こんな傷、こんな身体…!髪だって洗わなければ黒くなるわ、黒は汚れの色でしょう…?洗ったらまた茶色くなってしまう…
アデル、汚いアデル。醜いアデル。だからお母様はお前を捨てて行ったんだ----
----甘いものを食べれば綺麗な目の色になるわ、だって甘いものを食べれば目に星が溢れるって…誰かに見られたら星を取られてしまうかしら…
アデル、おデブのアデル。もう誰もあんたと目を合わせもしない----
また、また、間違えた。色を綺麗にしても顔が違う。また殴られる。もう熱いのはイヤ----
もうなにもかも忘れたい、消え去りたい、大嫌い、大嫌い----
「アデル」
「はいっ」
名前を呼ばれてハッと顔を上げた。大切な打ち合わせの前にぼーっとするなんて。それに…キャロラインとアデルを交互に見たよう。…白昼夢?夢にしては現実味がありすぎるし、キャロラインのところは…身に覚えがある。
「どうしたの?大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
冷や汗が滑り落ちて行ったけれど。
「顔が真っ青だ。体調が悪いなら日を改める?」
「いいえ、サミュエル様。このまま続けてください」
「分かった。でも少しでも辛くなったらちゃんと言うんだよ」
「はい」
サミュエル様に心配をかけるなんて。
私、どうしてしまったの。先週からずっとおかしい。
指先が震える。見たものが信じられない。アデルは本当にあんなつもりで----
「じゃ、紹介するよ。今日から僕の秘書になったステファン君だ」
「よろしくお願いします」
また一瞬意識が飛んで、ハッと顔を上げると、サミュエル様の隣にはステファンが立っていた。ステファンは深々と頭を下げて、サミュエル様の隣に座る。私は目を合わせないように気をつけながら資料を握りしめた。
「アデル、資料を渡してあげて」
「…っ、はい」
サミュエル様に呼ばれて私は立ち上がった。緊張で足がうまく動かない。それでもなんとかステファンに手に持った資料を渡す。ステファンは私をじっと見ていた。
「…アデル?」
「何か」
私は冷たく返した。
そしてそれを後悔した。大人ならこんな風に冷たく突き返すようなことをしてはいけないのに。
「驚いた。あのアデルか。久しぶりだな」
「ええ、そうね。久しぶり」
やはり私の答えは冷たかった。
「知り合い?」
サミュエル様が首をかしげる。私はそそくさと自分の席に戻った。ナイル先輩が私の背中を叩く。意味は…しっかりしろ、そんなところだろうか。
「ええ、兄妹のようなもので」
「えっ」
ステファンがそう答えたので私は驚いた。
「意見に食い違いがあるようだね。…とにかく、ルースを支えているのはナイルとアデルだから仲良くするようにね」
「よろしくっ」
ナイル先輩が軽いノリで手を差し出すと、ステファンはその手を不思議そうに眺めてから握った。
「それじゃ今週のミーティングを始めようか。まずはアデルの報告から」
「はい。……あ、」
纏めていた資料を持っているのに、頭が真っ白で文字が読めない。頭に入らない。…どうして、わたし、わたし…
「先俺でもいいですか?市場調査の結果を発表したくてうずうずしてて」
「いいよ。アデル、水でも飲む?」
「はい、すみません…」
ナイル先輩がフォローしてくれて、サミュエル様が水の入ったグラスを手渡してくれた。ナイル先輩が緊張を解すようにジョーク交じりに報告をしてくれたのに、それも上の空。でも、時間を置いて落ち着いた。大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせながら深く息を吸う。
「…先程はお見苦しいところをお見せして申し訳ありません。今週のレポートですが…ラル・グラント領の暴動で森が焼き払われてしまったようで、樽の生産に大打撃だそうです。新しい発注先の候補を挙げてきましたので決定を」
大丈夫、いつも通り、大丈夫。
夢にもステファンにも惑わされてはいけない。
私は私。アデルだけどアデルじゃない。キャロラインだけどキャロラインじゃない。私は、私。




