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この謎が解けますか? 2  作者: 『この謎が解けますか?』企画室
この謎が解けますか?
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隠蔽凶器 第二章「同一凶器」

 その喫茶店は三条市の中心街にある小さな店だった。客足は少なく、榊原が来たときには髭面のマスターが退屈そうにカウンターでグラスを磨いているだけだった。とりあえず手近なテーブルに座り、コーヒーを注文する。

 待ち人がやってきたのは、ちょうど注文したコーヒーが運ばれてきた頃だった。

「お待たせしました」

 森晴香は店の入口で榊原を見つけると小さく頭を下げた。が、入ってきたのは彼女だけではなかった。その後ろから五十代後半と思しき男性もついてきたのだった。

「そちらは?」

「あなたにぜひ会いたいとの事でしたのでお連れしました」

 二人はそのまま榊原の前に座り、森が傍らにいた男性について紹介した。

「改めて紹介します。こちら、太田竜馬さん。いわずと知れた三条事件被告人ご本人です。太田さん、こちらが先程言っていた榊原さんです」

「どうも……」

 男……否、太田竜馬は頭を下げた。これにはさすがの榊原も驚いた表情を浮かべる。まさか、いきなり再審を勝ち取った被告人当人と会えるとは思っていなかったのだ。

「これは……一本とられましたね。まさか、いきなり本人と会わせて頂けるとは」

「いえ、実はこの会談は太田さん自身が望まれたものなんです」

「となると、問題の『お願い』も彼が?」

「その通りです」

 森に促され、太田はおずおずと話し始める。

「あなたの事は、存じておりました。刑務所にいた頃、他の囚人から噂を聞いた事があります。東京に凄腕の探偵がいる、と。あなたに実際に犯行を暴かれて服役している人間とも何人か話をしました」

「それは……コメントしづらい話ですね」

 榊原は曖昧にそう言うしかなかった。

「それで、お願いというのは?」

「あなたなら、ある程度の予想はついているのではありませんか?」

 太田の言葉に、榊原は黙ったままだ。それを肯定と受け取ったのか、太田は頭を下げる。

「刑務所にいた頃から、あなたに会いたいとずっと思っていました。お願いします、私の無実を証明して頂きたい」

「……つまり、正式に三条事件を調べてほしい、と、こういうわけですか?」

 榊原は少し険しい表情をした。

「どうでしょうか?」

「……森弁護士にはすでに申し上げていますが、私は別の事件の捜査の一環として三条事件を調べる必要が出たため、こうして話を聞きに来ているのです。守秘義務があるのでその事件が何なのかを申し上げるわけにもいきませんが、つまり、現時点ではすでに他の依頼を遂行している状態です。ゆえに、正式に依頼を受けるとなると着手までに時間がかかるかもしれない。無論、依頼を受ければ最善は尽くしますが……」

 榊原の言葉に対し、太田は躊躇なく頷いた。

「構いません。すでに私は何年も釈放を待ち続けた。今さら多少の時間は問題ありません」

「なら、いいのですが。しかし、新潟県警が再捜査を進めているはずです。そちらに任せられないのですか?」

「警察は信用できません。二十年前、私を無実の罪ではめた張本人です。下手をしたら、『やっぱり当時の捜査は間違っていなかった』と言い出すかもしれません。だから、こちらも対抗策を仕込んでおきたいのです」

 太田の目には怒りが浮かんでいた。それで榊原も覚悟を決めた。

「……わかりました。そういう事なら、お引き受けします」

「お、おぉ。かたじけない!」

 太田は深々と頭を下げた。一方、榊原は森を見やる。

「これでよろしいのですか? 森弁護士」

「依頼人がこう言っている以上、私に口を出す道理などありません」

「では、約束通り事件の話を聞いても構いませんか?」

「もちろんです」

 そういうと、森は静かに話し始める。

「事件の事についてはどれくらい?」

「大まかに、新聞やテレビで言っている程度の事だけです」

「では、最初から話した方がいいようですね。そもそもの事の発端は、二十年前に三条市内で発生していた連続窃盗事件です」

 唐突に森はそんな事を言い始めた。

「連続五件。三条市内の留守宅に押し入って金品を奪うという同一の手口で、当時の新潟県警も警戒を強めていたんです。そして、県警の捜査の結果一人の人物が捜査線上に浮かびました。それが被害者の雑貨店店主・吉倉田三郎です」

 思わぬ話に、榊原は眉をひそめる。

「被害者は連続窃盗事件の容疑者だったと?」

「その通りです。しかし、新潟県警は証拠をつかめず捜査は長期化し、その最中にあの事件は起こりました。一九八七年十二月一日早朝七時。いつ戻り吉倉田の店に配達に来た新聞配達人が店のドアが少し開いているのに気づき、中で血まみれになって転がっていた被害者を発見したんです。これが三条事件と呼ばれる事件の始まりでした」

「その辺の話は初耳ですね」

「でしょうね。三条事件のインパクトが強まる中で、その前段階の窃盗事件の話はうやむやになりましたから。吉倉田が窃盗犯だったという証拠も、被害者が死んでしまったがゆえに出てきませんでしたし。もっとも、これにもちゃんと理由はあるのですが」

「……続けてください」

「そのような事情があったので、警察は当初から窃盗絡みのトラブルの可能性を考えていました。そして、事件から数日後、太田さんが逮捕されるに至ったんです」

 そこで榊原はよくわからないという表情をした。

「なぜ太田さんが? いや、そもそも本当に被害者は窃盗犯だったんですか?」

「その二つの疑問は一つに結びつきます。つまり、県警は当初問題の窃盗事件を吉倉田の単独犯行とは見ていなかったんです。少なくとも一人以上の共犯者がいる。そう判断していたようですね。そして、県警はその共犯者の候補も絞っていました」

「まさか……」

 榊原は太田を見やった。太田は顔を伏せる。

「……お恥ずかしながら、当時の私は金に困っていました。それで、吉倉田さんに誘われて……」

「あなたが、窃盗の共犯者だったんですか」

 太田は頷いた。森がそれに補足する。

「ただし、太田さんが参加したのは後半二件だけで、最初の三件は吉倉田の単独犯だったそうです。四件目の犯行の際に、お金に困っていた太田さんを犯行に引きずり込んだんです」

「もっとも、私がやったのは運転手役と、彼が窃盗している最中の見張りでした。彼は運転免許を持っていなくて、運び役が必要だったみたいです。五件目が終わった時点で私もそろそろ潮時じゃないかと進言はしたんですが……彼は『絶対に逮捕されないから安心しろ』と自信満々に言っていて、私もそれに引きずられてしまったんです」

 太田がうなだれながら言う。

「そうだったんですか……ちなみに、その四件目と五件目の犯行はどこに?」

「四件目が『高宮(たかみや)家具』という家具店で、五件目が『井倉刃物』という刃物店の事務所に忍び込みました」

「『井倉刃物』ですか」

 どうやら、先程行ったあの刃物店も被害者の一つだったらしい。もっとも、最近帰ってきたばかりだというあの店主は知らなかったようだが。

「県警は当初、太田さんを窃盗の容疑で別件逮捕しています。太田さん自身もこの時点で窃盗に関しては素直に認めていて、同時に被害者の吉倉田と共犯関係にあった事も併せて自供しました。ですが、県警はそこからさらに太田さんが仲間割れで被害者を殺害したとして、厳しい取調べを行ったんです」

 そこで森は首を振った。

「しかし、太田さん自身は吉倉田が窃盗の共犯だったと証言はしているものの、結果的に吉倉田が共犯だったという物的証拠が何一つ出なかったため、本人が死亡していた事もあって窃盗共犯説は立証できなかったんです。それで県警は仲間割れの末の殺人という線を撤回し、窃盗が太田さんの単独犯で、吉倉田さんの店に忍び込んだところをもみ合いになって殺害したという別ストーリーを組み立てたんです」

「それが、世間一般に窃盗事件の話が出ていない理由ですか。しかしこれは……」

「はい。仲間割れなら単なる通常殺人罪ですが、この見立ての場合だと罪状は強盗殺人になります。正直死刑が出てもおかしくはありませんでした。より重罪である強盗殺人罪になるようにストーリーを組み上げたと見られても、おかしくはありません」

 刑法において通常殺人が三年以上の懲役又は無期懲役もしくは死刑なのに対し、強盗殺人は量刑が無期懲役と死刑の二択という重罪である。それだけにこの差は大きい。

「警察は意図的にストーリーを捻じ曲げて太田さんが重罪になるように仕組んだと?」

「少なくとも我々はそう考えています。もちろん、当時の捜査関係者は否定していますが」

 森ははっきり断言した。と、隣で太田が悔しそうに呟く。

「私が何度吉倉田さんと共犯であるといっても警察は信じてくれず、ひたすら単独の窃盗犯だと決め付けてきました。最初の三件についてはまったく知らないのに、です。挙句にやってもいない殺人罪まで着せられて……長期間にわたる取調べで、私はいつしか本当に自分が単独で窃盗をやったと思い込むようになってしまって、ついにはやってもいない殺人を全面的に自供してしまったんです」

「裁判では、自白は強要されたと訴えられたそうですね」

「地裁はそれを認めて無罪判決を出しましたが、高裁、最高裁は……」

 太田は唇を噛み締める。榊原は話題を変える事にした。

「確か、あの事件は物的証拠がほとんどなく、事実上太田さんの自白頼みの側面が強かったと聞いています」

「えぇ。唯一の証拠は遺体に刺さっていたナイフで、ここから太田さんの指紋が検出されています。その他に被害者が抵抗した際に使ったと思われるペーパーナイフが近くに落ちていたようですが、残念ながらこちらからは血液は検出されませんでした」

 森が答える。

「しかし、今回の再審でこの刺さっていたナイフは凶器ではないと認定されましたね」

「改めて調べた結果、凶器のナイフと傷口の形状が微妙に一致しない事が判明したんです。もっとも、当時の技術でこれを見分けるのは至難の業だとは思いますが……」

「そのナイフはどこから出てきたんですか? 太田さんの指紋がついていたという点は見過ごせないのですが」

 これに対し、太田は気まずそうに答えた。

「実はその……そのナイフは、私が窃盗の際に使っていたものだったんです」

 榊原は唸った。それに対し、太田が補足する。

「私たちはそれぞれ一本ずつのナイフを持って窃盗に及んでいました。両方とも吉倉田さんの持ち物で、普段は彼の自宅に置いてあったんです。幸い狙っていたのはすべて留守宅で、一度も人を傷つける事はありませんでしたが」

「そのナイフが遺体に刺さっていたと」

「使う機会がなかったので、最後の方は指紋に対する注意がおろそかになっていたかもしれません。だから、私の指紋がついていても不自然じゃないと思います」

「とはいえ、このナイフ一本だけで起訴するとは、警察も検察も思い切ったものだ」

 榊原が呟くと、森も頷いた。

「えぇ。実際、捜査本部内部からも疑問の声が上がっていたとは聞いています。まぁ、今となっては、ですけどね」

 そう言ってから、森は榊原を見据えた。

「我々から話す事は以上です。他に聞きたい事は?」

「……いえ、現状ではこれだけで充分です。また何かあれば連絡します」

 榊原は立ち上がった。そんな榊原に、森はこう告げる。

「岩佐さんの無礼を許してください。この事件は、二十年前に岩佐さんが弁護士になって最初に引き受けた事件なんです。当時、彼は妹さんを事故で亡くされていて、その分仕事に没頭したそうです。この事件は、その中でも一番力を入れていた事件なんですよ。だから、かなり神経質になっていて」

「……別に気にしていません。それでは」

 榊原はそう言うと、喫茶店を後にした。


「……わかりました。では、ホテルで落ち合いましょう。では、後で」

 すでに日が暮れて真っ暗になった三条東署の玄関で一里塚は携帯電話を切ると、ホッとため息をついた。今しがた捜査会議が終了したところである。本格的な捜査は明日から実施される予定だった。

「やぁ、どうも。お疲れ様です」

 と、背後からここの刑事課の針本警部が声をかけてきた。そのまま一里塚の隣に並んで夜空を見上げる。

「きれいな星空ですね。二十年前を思い出しますよ」

「針本警部は、当時ここの交通課だったと伺っていますが」

 一里塚の問いに、針本は恥ずかしそうに頷いた。

「当時はまだ交通課の新米でしたけど、あの事件の事はよく覚えています。何というか、署内全体に変に熱がこもっていましてね。窃盗事件の段階から捜査本部の責任者が直接現場入りして色々調べていましたが、殺人が起こった後はもはや一種のお祭り騒ぎです。あの時私は小学生の女の子が死んだ轢き逃げ事件の担当をしていたんですが、いまだにこの事件の印象の方が強いんですよ」

「その轢き逃げ事件はどうなったんですか?」

「結局、捕まらなかったんです。三条事件のごたごたでうやむやになってしまいましてね。あまりいい思い出ではありません」

 針本は悔しそうに言ったが、すぐにこう付け加えた。

「もっとも、今になって妙な縁が巡り巡ってきましたがね」

「と言いますと?」

「実はその轢き逃げ、被害者は二人いましてね。そのうちの一人は重傷を負ったものの生き残ったんですが、その生き残った方の子が今県警本部の刑事部にいる柏崎君なんですよ」

「ほう、あの子が」

 一里塚の頭に、桜の部下だったお気楽そうな新米刑事の顔が浮かぶ。まさかそんな壮絶な過去があるようには見えなかった。人は見かけによらないものである。

「しかし、二十年経ってまさか私があの事件を捜査できるとは思っていませんでした。何とも不思議な気分ですよ」

「……実際、異例な話ですからね」

 と、そんな二人に割り込むように後ろから別の声がした。振り返ると、そこには無表情な男が立っていた。

「真中刑事部長……」

「針本警部、本部長が呼んでいます」

「あ、すみません」

 針本は頭を下げながら中に入っていった。後には一里塚と真中の二人だけが残る。

「……私に何か御用ですか?」

 一里塚が先手を打って尋ねる。これに対し、真中は表情を変えないまま、

「単刀直入に聞きます。山口県警の情勢を聞かせてください」

「それを聞いてどうするつもりですか?」

「山口事件の再捜査を始めたというのは本当ですか?」

 真中はずばり核心を聞いてきた。

「なぜそれをあなたに言わなければならないのでしょうか?」

「桜警部から私の事は聞いているはずです」

「あなたは山口事件被害者・奥浜伊代子の幼馴染だそうですね」

「……伊代の事件を、権力抗争に使うなどもっての外です。私から見れば、あなた方のしている事は事件に対する冒涜以外の何物でもありません」

 伊代子の事を「伊代」という口調こそ静かだが、そこには強い批判がこめられているのがわかった。

「そう言われましても、私は一介の捜査員に過ぎません。上に逆らう事などできません」

「では、質問を変えましょう。あなたから見て、山口事件はどう感じますか?」

「どう、とは?」

「鬼島岳彦が犯人だと思いますか?」

 真中はジッと一里塚を見つめた。一里塚もそれに答える。

「私からもぜひ聞きたいですね。被害者の関係者として、そして元監察官として、山口事件はどう映っているのですか?」

「……犯人は鬼島岳彦。この二十年間、私はずっとそう信じ続けてきました。関係者としては、今更再捜査と言われても納得できません」

 ですが、と真中は続ける。

「元監察官としては、あれが冤罪だとするなら、断固として正されるべきだと考えています。……正直に言って、板挟みなんですよ」

 そのまま二人は対峙したまま黙って相手を見続ける。

「……今日はもう遅い。詳しくはまた明日聞く事にしましょう」

 そう言うと、真中は署内に入っていった。と、入れ違いに桜が出てくる。

「お待たせしました。ホテルまで送ります」

「すみません、お願いします」

「……今、刑事部長と何を?」

「いえ、星がきれいだと話していただけです」

 桜は怪訝そうな顔をしたが、すぐに何かを悟ったらしく、黙ってパトカーに案内した。


 その夜、榊原と一里塚は三条駅前のビジネスホテルの一室で合流した。互いにそれぞれの情報を共有し、今後の方針を立てる事にする。

「山口事件の被害者の関係者が新潟県警にいたとは」

「この県警も一筋縄ではいかないようです。榊原さんはどうでしたか?」

「まぁ、とりあえず収穫ありだな」

 榊原は、三条事件被告人・太田竜馬との会談の様子を話した。

「太田氏から直接依頼を受けたのですか」

「ここまで来たら乗りかかった船だ。受ける事にした。そちらで付け加えるべき情報は?」

「事件の流れ自体は太田氏や森弁護士が言ったという内容とそう変わりはありません。捜査会議でも似たような話が出ました。本格的な捜査は明日以降です。とりあえずは、窃盗事件が太田氏の単独ではなく、被害者との共犯によるものだったと改めて方針を決めた上で捜査を行う予定です」

 そう言ってから、一里塚は榊原に尋ねた。

「ところで、そろそろ教えてもらえませんか? 榊原さんが山口の事件の調査を中断して、わざわざ新潟まで来て三条事件を調べているわけを。榊原さんの事ですから、何の理由もなく来たとは思えませんが」

 榊原はしばらく黙っていたが、やがてこう口火を切った。

「昨日の事だ。宇部市の事件の取調べから解放された後、私は当初の依頼通りに山口事件について調べていた……」


 ここで話は前日、すなわち宇部市の事件が発生し、榊原たちが事情聴取から解放されて武田が本拠を構える山口市に戻ってきた後にさかのぼる。夕暮れ迫り、帰宅する人間が行きかう中、榊原は瑞穂と一緒に山口市内を歩き回っていた。

「先生は、今回の事件が山口事件と関係していると思っているんですか?」

「その可能性がないとは言い切れない。何しろ、山口事件の証人が殺されているからね。それに、元々の依頼は山口事件調査の手伝いだったはずだ」

「だから、山口事件の関係箇所を見て回っているってわけですか」

 山口市到着後、榊原は山口事件の現場を確認して回っていた。何しろ二十年も前の事件なので当時の面影が残っていない場所も多い。実際、現場である県営住宅はすでに数年前に立て替えられていて、今となっては調べようがなかった。それでも榊原はそれが無駄な作業だとは思っていないようである。

「ここだな」

 不意に榊原は立ち止まると、ある店の看板を見上げた。

『谷田川刃物』

 看板にはそう書かれている。

「ここは?」

「山口事件の被害者が、事件当日に包丁を購入した店だ。その包丁が事件の凶器になっている。どうやら、まだやっているようだな」

 榊原は一人頷くと、店の中に入っていく。瑞穂も後に続いた。

「いらっしゃい」

 中に入ると、七十代半ばくらいの白髪の男性が愛想のよい声をかけた。さすがに売り物が刃物だけあって頻繁に人が来る店でもないためか、店の中に客らしき姿はない。

「見かけないお客さんだね。何かうちに用ですか?」

「いえ、ちょっとお尋ねしたい事がありまして。私立探偵の榊原恵一といいます」

 榊原はそういうと、小さく頭を下げた。

「探偵……へぇ、本当にそんな商売があるんだね。てっきり小説の中だけの人間かと思っていたよ」

 店主は面白そうに笑った。

「わしはここの店主の谷田川博文(ひろぶみ)ってもんだ」

「博文?」

 思わず瑞穂が聞き返す。

「あぁ、わしの親父さんが伊藤博文にあやかってつけたんだそうだ。親父さんは日清戦争の数年前の生まれでな。清と下関で条約を結ぶために伊藤さんが山口に帰ってきたときに、当時子供だった親父さんは条約の締結場所に向かう伊藤さんを直に見たことがあったそうだ。以来、伊藤さんのファンだとかで、四十で初めて生まれた息子にまで名前をつける始末だ。まぁ、わしが十五のときに兵隊で広島に出かけて、そのまま原爆で帰ってこなかったがな」

 何だか時代が古すぎて、瑞穂はよくわからない様子だった。

「それで、何の話だい?」

「二十年前の殺人事件について調べています。県営住宅で起こった事件です」

 それだけで、店主はすぐに何の事件なのかわかったようだった。

「あぁ、うちの包丁が凶器になったあの事件か。あの時は連日刑事が押しかけて、商売にならなかったよ。何だい、いまさらあの事件を調べているのかい。確か、もう犯人は捕まったはずだろ」

「えぇ、まぁ。ですが、調べてほしいという人がいましてね」

 榊原は曖昧にごまかすと、質問を続けた。

「包丁は被害者が購入したと聞いているのですが、確かですか?」

「間違いないね。何度も刑事に写真を見せられたし」

 念のために、榊原は武田から預かってきた被害者の写真を見せる。谷田川はあっさり頷いた。

「あぁ、この子だよ。何でもずっと使っていた包丁が刃こぼれしたらしくて、新しいのが必要になったんだそうだ」

「どうしてこの店に? 失礼を承知で言いますが、普通の人間ならこんな専門店じゃなくて近場の量販店で買うと思いますが」

「それがね、彼女かなりの料理好きだったらしくって、道具もちゃんとしたものをそろえたかったそうだ。彼氏さんに料理を作ってあげるつもりだったらしい。本人がそう言っていたよ。そのすぐ後に死んだから、今でもそのときの会話はよく覚えている」

 彼氏、というのは逮捕された鬼島だろう。

「どんな包丁を買ったんですか?」

「ん? あぁ、そこにおいてあるやつの同型だよ」

 谷田川の指し示した先には、ガラスケースの中に並べられた包丁があった。谷田川はそのうちの一本を示している。

「これは……三条包丁ですか?」

「そう。新潟県三条市は包丁の名産地だからね。うちは堺、関、三条、すべての包丁をそろえているのが自慢なんだよ」

「三条……」

 不意に榊原の目が険しくなった。

「すみません。この包丁を作っている工場がどこなのかわかりますか?」

「もちろん。もう三十年近くうちと個別に契約しているお得意さんだからね。でも、どうしてだい?」

「少し、気になる事があって。教えてもらえませんか?」

「まぁ、構わないけど。三条市にある井倉刃物っていう老舗工場だよ。小さい工場だが技術は一級品でね。わしが自ら向こうに行って選んだ工場だ」

「詳しい住所はわかりますか? もちろん、無理なら結構ですが」

「いや、別に構わないと思うよ。普通にHPなんかで住所公開しているはずだし。えーっと……」

 そう言うと、谷田川はその住所を告げた。榊原は何やら考え込む。

「……あの、例の殺人事件の凶器になった包丁、入荷した具体的な時期とかわかりますか?」

 突然不可解な事を聞き始めた榊原に、谷田川も訝しげな表情を浮かべる。

「そりゃ帳簿を見ればわかるけどね」

「最後にそれだけ教えてもらえませんか?」

 さすがに谷田川も少し躊躇した様子だったが、最後は榊原の視線に押されるようにしぶしぶ帳簿を開いた。

「ええっと、あの包丁を入荷したのは……あぁ、これだな。売ったのが一九八七年十二月十二日。つまり事件の当日。で、入荷したのは同じ年の十二月二日だ。ちゃんと記録に書いてある」

「入荷が二日という事は、向こうの工場を出たのは少なくともその前日、という事ですよね」

「多分そうだろうね。わしも詳しい事は知らないが」

 それを聞くと、榊原は何やらぶつぶつ呟いていたが、やがて顔を上げておもむろに頭を下げた。

「お話、ありがとうございました」

「もういいのかい?」

「えぇ。有意義な話が聞けました。あぁ、店に入って何も買わないのもあれなので、せっかくですからその三条包丁を頂けますか?」

 榊原はそんな事を言い出した。

「あぁ、構わないよ。それが商売だからね」

 谷田川は手馴れた手つきで包丁の入った箱を包装紙で何重にもくるむと、代金と引き換えに榊原に手渡した。榊原はそれを受け取ると、そのまま店を出て行く。瑞穂も慌てて後を追った。

「先生、どうしたんですか? 何かわかったんですか」

「……ちょっと信じられない話を思いついた」

 榊原は歩きながらそう言った。

「信じられない話って?」

「……いや、私の考えすぎかもしれない。だが……あまりにも偶然が過ぎる」

 その後は、榊原は武田の事務所に帰るまで、何を聞いても上の空だったのである。


「そもそも、三条事件と山口事件は時期的にも非常に近い事件だ。三条事件が十二月一日、山口事件が十二月十二日から十三日。しかも双方ともに死因は刺殺だ。だから、私も当初から『似たような事件だ』とは思っていた。もっとも、その時点ではそれ以上考える事はなかったが」

 榊原の言葉を、一里塚は黙って聞いている。

「ところが、山口事件の凶器が三条包丁だとわかって、私は何とも言えない違和感を感じ取った。で、出荷元を聞いてみたら、その住所は三条事件の現場となっていた吉倉田商店の近所にある『井倉刃物』だった。しかも、問題の包丁が出荷されたのは十二月一日……三条事件のまさに当日だ。偶然にしてはあまりにもできすぎている。正直、これを知ったときは背筋が凍るかと思った」

 榊原は一里塚を見やる。

「三条事件は長年警察が提出したナイフが凶器だとされていた。しかし、今回の冤罪決定でナイフが凶器だという線は否定されている。だとするならば、どこかに本物の凶器があるはずで、しかもこの凶器は犯人がわざわざ隠蔽までしている以上、決定的な証拠である可能性が高い。では、その凶器は何なのか」

「……そういう事ですか」

 不意に、一里塚は真剣な表情でそう言った。榊原が何を言いたいのか、一里塚にもわかってきたらしい。その推理を代弁する。

「榊原さんはこう言いたいのですか。三条事件の凶器は『井倉刃物』に置かれてあった出荷直前の包丁であり、犯人は犯行後に凶器の包丁を戻して出荷させた。そして、その包丁が『谷田川刃物』に入荷され、数日後、それを山口事件被害者・奥浜伊代子が購入した、と」

 榊原は慎重に頷いた。

「三条事件の犯人は凶器が最大の証拠になる可能性を知っていた。だからこそ、凶器を隠滅する事に全力を注いだ。まず、犯行前に『井倉刃物』に侵入して、出荷直前の包丁を一本盗む。聞いた話では、『井倉刃物』のセキュリティが導入されたのは今から五年前。二十年前はこっそり侵入して包丁を盗むことなどたやすいはずだ。そして、その包丁で吉倉田を殺害し、室内にあった太田が使っていたナイフで凶器を偽造すると、本物の凶器である包丁は再び包装して『井倉刃物』に返しておいた。あとは時間になれば凶器は出荷されてしまい、流通の波の中に消えてしまうという寸法だ。出荷時刻は六時で、遺体発見はその一時間後の七時。すでに凶器は出荷された後だ。犯人が発見者の新聞配達人がこの時間に来ることを見越していた事も考えられる。本物の凶器は消え去り、警察は偽の凶器で無実の人間を逮捕する。これで犯人は逃げおおせたはずだった」

 榊原は推理を続ける。

「ところが、ここで犯人にとっても予想外の事態が発生してしまった」

「流通の波に消えてしまったはずの『本物の凶器』が、運悪く別の事件の凶器になってしまった、という事ですね」

 一里塚は表面上落ち着いた様子で言う。

「本来なら追跡が不可能になるはずだった『三条事件の凶器』は、今度は『山口事件の凶器』として警察に押収され、そこで鑑定を受ける事になってしまった。さて、ここでもしこの凶器に三条事件の際に飛び散った血液が付着したままになっていたとしたら?」

 榊原の問いに、一里塚は静かに答えた。

「その血液は、山口事件の際に付着したものとして処理されてしまう。当時は血液からの固体識別は不可能ですから、何の疑いもなく警察は証拠採用してしまうでしょう」

「これが私の考えだ。山口事件の凶器となった包丁に付着していた『鬼島の血液』は、実は『三条事件の際に付着した血液』だった。そう考えれば、山口事件の証拠になった『血液型の一致』という難題にもしっくり来る。もっとも、これは三条事件の凶器が山口事件の凶器になったという信じがたい偶然が発生した事が前提になるが」

 どう思う、と言わんばかりに榊原は一里塚を見やった。

「……なるほど。榊原さんが慎重に調査を進めていた理由がわかりました」

「正直、自分でもまだ信じられない部分はあるからな。が、この推理がある程度の真実味を持っているのも事実だ。だからこそ、断言するには慎重な裏付けが必要だった。今後、山口事件の凶器の包丁が本当に三条事件の凶器なのかの確認は必要だが、問題はこの推理が正しいとするなら、山口事件の凶器に付着していたO型の血液が誰のものなのかだ。状況から考えて三条事件の犯人か被害者のものという事になるが……」

 榊原の自問自答に、一里塚はこう答える。

「三条事件のデータは確認しています。三条事件の被害者・吉倉田三郎の血液型はO型です。犯人の血液型は不明ですが、おそらくは……」

「付着していたのは吉倉田の血液、か。もちろん、この推理が正しいなら、だが」

 榊原はあくまで慎重だった。

「榊原さんは、この一件が今回の佐渡島殺人事件を引き起こしたと考えているんですか?」「わからない。ただ、これが本当だとするなら、三条事件の犯人にとって山口事件が冤罪になって、包丁が再捜査される事は都合が悪いはずだ。昔と違って、今のDNA鑑定は固体識別が可能だからな。もっとも、二十年も前の血液で調べられるかどうかはわからないが」

「五分五分ですね。保存状況にもよります。しかし、いずれにしても犯人としては脅威には違いありません。山口事件に関する新証言が出るとなれば……放ってはおかないでしょうね」

 つまり、証言者である佐渡島を殺害する動機につながるのだ。

「一番いいのは、このまま山口事件の再捜査が進み、包丁の再鑑定が行われる事。そうすれば血痕の正体がわかる可能性が出てくるが……さて、山口側はどうなっているのか」

 と、そのときタイミングよく榊原の携帯が鳴った。相手は瑞穂である。

『先生、そっちはどうですか?』

 瑞穂はどこかホッとした口調で聞いてきた。

「まずまずだ。そっちは何か進展があったかい」

『えぇ、まぁ。ただ、昨日以上にややこしい事にはなっていますが……』

「ほう」

 興味深そうな声を上げる榊原に対し、瑞穂は今日起こった事を説明し始めたのだった。


 朝、急造コンビを組まされた瑞穂と光沢が最初に向かったのは、武田のいる事務所だった。朝になってさっそく事件の捜査を始めようとした矢先に、武田から緊急の連絡が入ったのだ。

「朝早くに申し訳ありません」

 武田はそう挨拶する間も惜しいように、二人を事務所の中に案内した。何かあったらしい。

「これをご覧ください」

 そう言って武田が指差したのは、昨日録音テープを検証したばかりの固定電話だった。

「あの、これがどうかしたんですか?」

 瑞穂が不思議そうに尋ねると、武田は難しい表情で言った。

「実はあのあと少し気になりましてな。いくらなんでも、電話した翌日に佐渡島さんが殺害されるというのはできすぎている。それで、今朝になって少しいじっていたのですが……」

 そういうと、武田はいきなり受話器のカバーを外してしまった。あらかじめねじを取ってあったらしい。そして、そこにあったものを見て、光沢の目つきが変わった。

 そこには、明らかに電話の部品とは関係なさそうな黒光りする部品がセットされてあったのである。

「これは……盗聴器、ですか」

「と、盗聴器?」

 瑞穂は思わず、受話器内部にセットされたその機械を見やる。武田も頷いた。

「お恥ずかしい限りです。まさか、電話を盗聴されていたとは……」

 光沢は手袋をつけると、盗聴器を手に取る。すでにコードは外されていて、電源は切れているようだった。

「つまり、あの会話は誰かが盗聴していたと」

「そうなります」

「これを仕掛けるとなるとこの事務所に入る事になりますが、可能ですか?」

 光沢の問いに、武田は当惑気味に答える。

「何しろ臨時に借りている事務所でして。鍵はもちろんかけていますが、入ろうと思えばたやすく入れたでしょう」

「なるほど……」

 光沢はビニール袋を取り出して、盗聴器を中に入れる。

「え? って事は、犯人は盗聴器の会話を聞いて、佐渡島さんを殺害したって事ですか?」

 瑞穂が驚いたように言う。光沢は冷静に答えた。

「盗聴器を仕掛けたのが犯人なら、そうなるな。犯人は支援団体であるこの事務所を盗聴し、山口事件に関する動きがあれば即座に動くつもりだった。そう考えるべきだろう」

 光沢の目つきが鋭くなる。

「犯人は山口事件の真相が暴かれる事を恐れる人間という事か」

 横広が喜びそうな話だと、光沢は思わず天を仰いだ。


 光沢の予想通り、その日の午前九時頃から始まった捜査会議は、盗聴器の存在の発覚により紛糾した。

「武田弁護士が被害者と問題の会話をしていた翌日に被害者は殺害されている。そして、その電話は盗聴されていた。もはや事実は明らかだと思うが、どうだ?」

 高揚した表情の横広に、誰も口を出すことができない。それでも、宇部署の長江警部は黙っている事などできなかったようであえて質問した。

「言っている意味かわかりませんが、説明願えますか?」

「犯人は電話内容を盗聴して被害者を殺害した。時間的にそう考えるのが自然だろう。では、なぜ犯人は被害者を殺害したのか。そもそも、なぜ事務所の電話を盗聴していたのか。答えは一つ、山口事件に対する不利な証言が出たときに、すぐに潰すためだ。そして、そんな事を考える人間など一人しかいない」

「部長は、事件の犯人が山口事件の犯人だとでも言いたいのですか? 馬鹿げている! あの事件の犯人はすでに捕まっている! そんな事もわからないのですか?」

 長江の挑発するような言葉に、横広は挑戦を受けるかのように睨み返す。

「不服かね?」

「そもそも盗聴した人間と犯人が同一人物だという証拠はありませんからね。仮に一緒でも、犯人が山口事件の犯人だというのは論理の飛躍というものでしょう」

 長江の言葉に、横広の横で多賀目が小さく頷いている。

「だが、盗聴された電話に被害者が電話をかけた翌日、被害者は殺害されている。これが偶然だとでも言うのかね?」

「その辺まで含めて慎重な捜査が必要だと申し上げているのです。結論を出すには早すぎます」

「なら、その結論とやらを出すためにも、山口事件に対するさらなる調査が必要だと考えるが」

 その反論を予想していたのか、横広はそんな事を言い始めた。

「と言いますと?」

「現在、山口地検に保管されている山口事件の証拠品。これをもう一度精査してみるのが一番だと思うが、どうだ?」

 その言葉に、会議室全体がざわめいた。

「それは、事実上の山口事件の再捜査という事ですか?」

「今回の事件に関係しているかどうか、証拠品を検討するだけだ。そのくらいなら構わないのではないか?」

 どうやら、横広の狙いは最初からそこにあったらしい。長江は忌々しそうな表情で横広を見据えた。

「多賀目課長、あなたの意見は?」

「……果たして、検察がそれに応じますかな。向こうにも面子というものがあるでしょう」

 多賀目はそういって鋭く横広を睨んだだけだった。何やら、こちらにも思惑がある様子だ。

「まぁ、その話は追々でいいでしょう。それより、他に何か情報はないのか?」

 多賀目の問いに対し、今度は富士本警部補が立ち上がると、光沢の方を少し睨んでから報告し始めた。

「被害者の佐渡島宇平ですが、どうも余命いくばくもなかったようです。最近になって市内の病院に通院していて、そこで癌による余命一ヶ月の宣告を受けています」

 思わぬ報告に、再び会議室がざわめく。それを聞きながら、富士本は報告を続けた。

「被害者は天涯孤独だったようです。生涯独身で子供もおらず、親族らしい親族も確認できません。あのアパートで一人暮らしをずっと続けていたようです」

「だからこそ、だったのかもしれませんな。被害者が、武田弁護士に電話をかけたのは」

 光沢の言葉に、さすがに会議室にも重苦しい雰囲気が支配した。


 捜査会議終了後、光沢は単独で現場であるアパートまで戻っていた。もちろん、現場はテープで封鎖されているが、その前に瑞穂が手持ち無沙汰そうに立っていた。

「遅いです」

「会議が長引いた。やはり、横広刑事部長が仕掛けてきた。検察に対する山口事件の証拠開示を求める事になった」

「検察はそれを認めるんですか?」

「多賀目課長の言い草だと、すでに何か手が打たれているようだが、私たちにとってはどうでもいい事だ。権力抗争は向こうで勝手にやっていればいい」

 光沢はそう吐き捨てると、テープをくぐってアパートの中に入ろうとして、瑞穂を見やる。

「本来なら一般人を入れるのはご法度だが……この際、それも一興か。ちゃんと手袋と足袋をつけなさい」

「は、はい」

 瑞穂は言われた通りにして後に続き、二人はそのまま階段を上って佐渡島の部屋に入った。光の入らない薄暗い部屋の中、中央の床に血痕が広がっているのがなんとも生々しい。

「さて、捜査の基本は現場ではあるが……まだ何か残っているか?」

 光沢はそういいながら、部屋の中を隅々まで見渡す。鑑識が一応調べているはずではあるが、それでも何かないかと部屋の中を探し回る。

「佐渡島さんは結局武田さんに何を言いたかったんでしょうか。せめてそれさえわかれば何とかなるんですけどねぇ」

「それがわかれば、こんなに苦労はしない」

 光沢はぶっきらぼうに言う。

「こういう場合、推理小説なんかだと言いたい事を手記とかノートとかにまとめてあったりするんですよね」

「そんな都合のいい話があるとは思えないな」

「ですよねぇ」

 瑞穂もそういって苦笑しながら近くの棚をあさっていたが、不意にその手が止まった。

「どうした?」

「……ええっと、どうも佐渡島さんは私と同じ思考回路の持ち主だったみたいです」

 瑞穂が脇にどくと、棚の奥に紐で縛り付けられた何十冊ものノートがあった。

『業務日誌』

 表紙にはそう書かれている。

「これは……タクシー運転手だった被害者の業務日誌か?」

「こういうのって、普通は会社に保管されているものじゃないんですか?」

「この様子だと、おそらく個人的につけていたものだろう。量からして、かなり前からの記録らしい」

「って事は、山口事件当時の記録もあるはずですよね」

 二人は顔を見合わせる。

「ないよりはましだな。調べてみるか」

 その後、二人してノートを調べ始めた。内容はその日どのような客を乗せたのかといったような仕事上の出来事をまとめたもので、さすがに武田に電話したというような私事は書かれていなかった。とはいえ、

「あ、これですね!」

 不意に瑞穂が声を上げる。染みがついたかなり古いノートで、表紙によれば一九八七年の十一月以降の記録となっている。そのノートの中ほど、十二月十二日の記録にそれはあった。


『夕方頃、山口市内の繁華街で一人の女性を乗せる。行き先は県営住宅。手に包丁の入った箱を持っていたので一瞬ギョッとしたが、料理のために近くの刃物店で購入したと言う。最近はタクシー強盗などという物騒な話も多いが、まさかこんなか弱そうな女性がタクシー強盗をするはずもないだろう。とはいえ、物騒なので鞄にしまってもらうように頼んだ。県営住宅の前まで来たところで下車。その後は再び山口駅に向かった』


 その記述を見て、光沢の表情が険しくなった。

「奥浜伊代子は、谷田川刃物から被害者のタクシーを使っていたのか」

「でも、確か事件の後、佐渡島さんは近くを転がしていただけだって……」

「嘘の証言だったんだ」

 嘘を見抜けなかったのは当時の警察のミスである。大方、第一容疑者である鬼島がいた事もあってあまり気の入った聞き込みをしていなかったのだろう。光沢は唇を噛み締めると、続きを読み始めた。


『女性を乗せてから一時間後、山口駅から乗ってきた男性客を自宅まで送った帰りに例の県営住宅の前を通った。すると、すっかり暗くなった県営住宅の入口から誰かが慌てた様子で飛び出してくるのが見えた。気になって目を凝らしてみると、顔はよく見えなかったが、黒っぽいスーツを着た人物で、おそらくは男性だろう。そいつはしばらく周囲をきょろきょろと見回していたが、やがてそのまま走って闇の奥へと消えてしまった。あれが何だったのかはわからないが、私は何ともいえない不気味さを感じて、そのままアクセルを踏んでその場を離れた。時刻は八時ぐらいの事である』


 その日の記述はそれで終わっていた。が、次の日になるといよいよ事件に関する事が書かれていた。


『昨日、夕方に送った女性が殺されたらしい。私のところにも聞き込みが来た。昨日の事を話そうかどうか迷ったが、下手な事を話せば私が疑われてしまうかもしれない。何しろ、私は事件直前に被害者に会った男なのだ。私は口をつぐんだ。私ごときの証言がなくても、警察は犯人を逮捕してくれるだろう』


 さらに後日、短い文章ではあるがこんな記述も見られた。


『この間の事件の犯人が捕まったらしい。やはり、私の証言などなくても警察は優秀だったようだ。正直、ホッとしている。これ以上、この事件については考えたくない』


 それが、日誌に書かれていた事件に関する記録のすべてだった。光沢は顔を上げて大きくため息をついた。

「これは大きな手がかりになるぞ」

 山口事件当日の被害者や現場周辺の様子が客観的に書かれた貴重な記録だ。おまけに、謎の人物の目撃情報まで書かれている。

「ええと、他には……」

 一方、瑞穂はノートが置かれていた棚の奥をさらに探っていた。だが、後から出てきたのは古びた制服や帽子、運転手用の手袋などだった。どうやら以前使用していたもののようで、ノートに限らず佐渡島はそうしたものを保管しておく性格だったらしい。

「さて、問題はこの日誌に書かれている県営住宅から出てきた男、だな」

 状況から考えて、この男が事件に何らかの関与をしていた可能性はある。最大の争点となるのは、この男が一体何者かという事だ。二十年前の警察の見込み通り鬼島なのか、それとも別の人物なのか。この記述だけではどうにも判断がつかない。

「とりあえず、出るか」

 それを合図に、二人は該当するノートを持ってアパートから外に出た。だが、そこに思わぬ人物がいた。

「散々調べて、満足したか?」

 皮肉めいた口調でそう呼びかけてきたのは、宇部署の富士本警部補だった。

「富士本……お前、どうしてここに?」

「ふん、そんな事より、一般人を現場に入れるとは、どういう了見だ?」

 その言葉に、瑞穂は一瞬顔色を変えるが、光沢は冷静だった。

「報告でもするか?」

「……こんな事でお前を陥れても、別に嬉しくもない」

 富士本はそういうと、苦々しげに光沢を睨んだ。

「長江警部はどうした?」

「山口地検が横広部長の要請を拒絶してな。警部はそっちの対応に追われているからこうして一人で捜査している。検察は山口事件の再捜査を認めないようだ」

 その言葉に、光沢は眉をひそめる。

「多賀目課長がどこか意味深だったからある程度予想はしていたが……やはりそうなったか。大方、大野塚本部長の差し金だろうが」

「山口地検のトップは入浜光之助検事正。大野塚本部長とも長年付き合いのあるからな。ま、この辺は想定通りだろう。俺には関係ないが、部長もいい気味だ」

 富士本はそういうと、そのまま背を向けて手をひらひらと振った。

「あそこで何を見つけたのかは知らないが、検察が首を縦に振らない限りはどんな証拠が出てきても山口事件の再捜査はまず無理だぞ。何しろ、入浜検事正いわく、『すでに二十年も前の話なので、証拠品の所在がわからない』そうだからな。ま、それだけ伝えにきた。じゃあな」

 そう言って、富士本は去っていった。瑞穂が唖然とした様子で光沢を見やる。

「検察が証拠をなくしたって……そんな言い訳が通るんですか? 小学生じゃあるまいし」

「もちろん方便だろうな。向こうは何がなんでも証拠品を出したくないらしい。いよいよ、本格的に検察がでしゃばってきたか……」


『えっと、そんな感じです』

「なるほど」

 電話口で、榊原はしきりに何かを頷いていた。

『先生はこれからどうするんですか?』

「とりあえず、明日には山口に帰る。こちらで調べるべき事は終えた。あとはそちらで何とかする」

 じゃあ、と言いながら、榊原は電話を切った。隣で一里塚は黙ってそんな様子を見つめている。

「どうやら、三条事件だけではなく、山口事件の犯人にも佐渡島を殺害する動機が出てきたようですね」

「業務日誌とはな」

 榊原は少し考え込むような表情を見せた。それを見て、一里塚は何か決意したように榊原に話しかける。

「少しいいですか? 榊原さんは今回の事件の犯人をどう見ているのですか?」

「……というと?」

「今までの捜査で、犯人は三条事件もしくは山口事件の犯人である可能性が出てきました。ですがそれだけではありません。この二つの事件には、二つの県警における警察関係者同士の複雑な権力抗争も絡んでいます。中にはこの事件が冤罪である事をばらされるわけにはいかない人間も多数存在しますし、逆に佐渡島事件をきっかけに両事件の真相を暴こうとする人間も複数存在します。単に事件の当事者同士だけの争いではないんです」

「……何が言いたい?」

 そう言われて、一里塚ははっきりとこう言った。

「この事件、警察関係者が絡んでいる可能性はないんですか?」

 一里塚の問いに、榊原は何も言わずに先を促した。

「山口県警の大野塚本部長や多賀目課長、それに宇部署の長江警部などの山口事件関係警察官にとってはこの事件は鬼門です。特に大野塚本部長は北海道警への異動を目前にしています。冤罪だろうがなんだろうが、絶対に真相を明らかにされるわけにはいかない。だからこそ、必死に隠そうとするはずです。新証人が出たら、何としても阻止するでしょうね」

「それが、殺人に発展した、と?」

「荒唐無稽な話ではありますが……一方、横広刑事部長側にしても佐渡島事件をきっかけに山口事件を暴きたて、大野塚本部長たちを追い落とそうとしています。こちらもこれに失敗すれば三条事件の真相解明によって後がなくなりますから必死です。ですから、山口事件の犯人の仕業に見せかけて佐渡島を殺害し、そこから山口事件の冤罪疑惑を明らかにする意図があったのかもしれません」

 いったん息をつくと、一里塚は推論を続けた。

「一方、新潟県警の面々にも動機は存在します。服部本部長は大野塚本部長たちと同じく山口事件の真相を明らかにされるわけにはならない立場にいます。また、真中刑事部長は山口事件被害者・奥浜伊代子の幼馴染ですから、事件の結末に納得していなければ何か行動を起こす可能性も捨て切れません。一方、先程の榊原さんによる凶器の推理が正しいなら、問題の凶器は山口事件の凶器として保管されているわけです。つまり、山口事件の再捜査が始まれば、必然的に三条事件の捜査ミスも明らかになってしまう仕組みです。もし包丁の事実がすでに第三者によってわかっていたとすれば、三条事件の真相を明らかにしてほしくない何者かが、これを防ぐために山口事件の証人を殺害する可能性は、充分に考えられます。そして、それは三条事件を捜査した当時の警察官たちにもいえる事です」

「当時の捜査員である小野坂一課長という事か」

「もちろん、これは逆のパターンもあるでしょう。つまり、山口事件を再捜査に持ち込むことで、三条事件の再捜査を実現させるという手法です。これに該当するのは、支援団体のメンバーです」

 一里塚は結論付ける。

「つまり、現在捜査に当たっている警察官たちにも佐渡島を殺害する動機を見出す事ができるのです。これに関して、榊原さんはどう考えているんですか?」

 榊原はしばらく黙っていたが、やがてふうと息を吐いて言葉を発した。

「さすが、一里塚君だな」

「という事は……」

「私もその可能性がまったくないとは考えていない。彼らも容疑者の一人だ」

 それは、榊原が警察関係者も容疑者であると認めた瞬間だった。ただし、容疑者が容疑者だけにその言葉はあくまで慎重だ。

「今回の一件は過去の二つの事件に絡んで人間関係が複雑に入り組んでいるだけに一筋縄ではいかない。それだけに、慎重な捜査が求められる」

「わかっています」

「ただし、あくまで容疑が捨てきれないというだけの話だ。実際にどうかと聞かれれば、私自身はまだ完全に容疑を固め切れないと言わざるを得ない」

「……動機が弱いですか」

「あぁ。確かに警察関係者にも各々の動機はあるだろうが、それで殺人まで起こすかどうかに疑問がある。その殺人が暴かれたらますます追い詰められるのは目に見えているからだ。警察官なら、そんな事はわかって当然だろう」

 榊原は断言する。

「殺人まで起こしているとなれば、その動機にはそれに釣り合うだけの動機が存在しなければならない。誰が犯人であれ、それが何かという事になるな……」

 そう言うと、榊原は一里塚を見た。

「明日どうするつもりだ?」

「真中刑事部長に当たってみるつもりです。彼なら山口事件に関して詳しい情報を知っているかもしれませんから」

「そうか……。いずれにせよこの事件、思ったより早く決着するかもしれない。すでに、ある程度推理の概観は出来上がりつつあるが……もう少し基盤を磐石にしておきたいな」

 淡々と話す榊原の言葉に、あぁは言っていたが榊原はすでに犯人に関する目星をつけているのかも知れないと、一里塚は密かに考えをめぐらせていた。


 同じ頃、山口地方検察庁。深夜の検事正室で、山口地検のトップ・入浜光之助と横広秀三郎刑事部長が睨み合っていた。

「山口事件の証拠を渡せないというのはどういうわけですか?」

「ですから、もう二十年も前の事件ですから、証拠が保管庫のどこにあるのか把握できていないのですよ。まぁ、ご心配せずとも、見つけ次第ご報告はしますよ。はっは……」

 入浜光之助は温和そうな声でそう言ったが、丸い老眼鏡の奥にある目は笑っていない。仮にも検察幹部の一人だ。駆け引きにおいては横広たちにも負けていない。

「見つけ次第とは曖昧な。具体的にいつになったら報告していただけるのですか?」

「さぁ、いつになるやら。何分、検察という場所は忙しいものでして、証拠整理などやっている暇がありませんのでね。しかもこの前の銃密売の殺人の犯人をうちが起訴する事になりまして、今はその対応で一杯一杯なんですよ。何しろ、近隣の暴力団の動きが活発化しているものでしてな。そんなわけでして、今のところは証拠探しをやっている余裕もないのです。ぜひとも気長にお待ちください」

 のらりくらりとかわされ、横広は苛立った様子を見せる。

「あ、あんたそれでも検察か!」

「検挙率がもう少し減れば暇もできるのですがねぇ。生憎、そんなわけにもいきませんからなぁ」

 小さく笑いながら、入浜は横広を手玉に取っている。この男、温和そうにしておきながら、老獪さにおいては大野塚よりも上である。

「なら、我々が調べる! 検察が忙しいというのならば、警察が責任を持って……」

「聞き捨てなりませんな。ここは検察。あなた方が好き勝手振舞っていい場所ではないのでずぞ。まさか、警察なら何をやってもいいと、そんな馬鹿げた考えをお持ちか?」

「そんなわけがないでしょう」

「ならばお引取りを。いかなる理由があろうとも、一歩たりともここには足を踏み入れさせません。何度も言うように引き渡さないとは言っていないのです。あなた方は黙ってお待ちいただければいいのですよ」

 丸眼鏡の向こうに鋭い光を見せながら、入浜は含み笑いをしながら明確な拒絶の意思を示した。横広は唇を噛み締める。

「……正式に山口事件が今回の殺人に関与しているとわかれば、優先的に証拠を探してもらえるという事でよろしいですか?」

「まぁ、それでしたら構いませんよ。現在進行形で起こっている事件に対しては、検察も黙ってはいられませんからな。もっとも、あなた方県警にそれができればの話ですが」

「……失礼する!」

 横広は怒り心頭の表情のまま出て行った。大野塚が県警を牛耳っている以上、再捜査に持ち込むのは難しい。すべてを見透かされているのがわかっているだけに屈辱的なのだろう。後に残された入浜はしばらく微笑んでいたが、やがてゆっくりと卓上電話の受話器を取り上げて番号を押した。

『……私だ』

「お約束通り、『証拠は紛失』しておきましたよ、大野塚本部長」

 入浜がそういうと、電話口の相手……大野塚県警本部長は小さく笑った。

『横広め、これで少しは懲りただろう』

「とはいえ、こんな子供じみた言い訳もいつまで続くかわかりませんぞ。私は、別に横広君と喧嘩をしたいわけではない。そんな事をすれば、今後のうちの活動にも支障が出ますからな」

『問題ない。一週間もすれば片はつく。三条事件の捜査本部が勝手に横広を糾弾してくれるだろうからな』

「……断っておきますが、私はあくまで検察の利益を鑑みて動きます。今回は横広さんに証拠を渡すことが検察にとって不利と判断したためにあなたの要請を受けましたが、事と次第ではあなたの敵になるかもしれません。その点、お忘れなく」

『そんな事はありえんよ。現に、検察としても山口事件が冤罪になるのは避けたいのだろう?』

「まぁ、あまりいい気分ではありませんな」

『我々は同じ穴の(むじな)だよ。今後とも、持ちず持たれずの関係でありたいものだ』

「……そうですな」

『では、引き続きよろしく頼む』

 大野塚は上機嫌そうに電話を切った。入浜はいったん受話器を置くと、しばらく何事か考えていたが、やがてこう呟いた。

「同じ穴の狢か。そう思われるのは、あまり愉快ではないな」

 そして、そのまま再び受話器を持ち上げ、思わせぶりな笑みを浮かべた。

「少し、場を荒らしてみるとするか」


 翌日、榊原は飛行機で単身福岡空港に到着すると、電車を乗り継いで再び山口市に戻った。駅口には瑞穂が迎えに来ている。

「先生、お帰りなさい」

「あぁ、昨日はすまなかったね」

「いえ、貴重な体験ができました」

 瑞穂はにっこり笑う。

「光沢さんは?」

「捜査本部に戻っています。検察が山口事件の証拠提出を拒絶したので、今後の対応を検討しているみたいです。昨日、佐渡島さんの部屋から見つかった業務日誌も報告されたみたいですけど、これだけではまだ不充分なんだとか」

「まぁ、検察がそう簡単に結論を撤回するとも思えない。よほどの証拠を叩きつけないとな」

「でも、結局今回の事件は何なんでしょうか。昨日の話だと、三条事件の犯人と山口事件の犯人、双方に佐渡島さんを殺害する動機がある事になりますよね」

「まぁ、そうなるな。つまるところ、容疑者の幅はまったく狭まっていない」

「それで、今日はどうするつもりですか?」

「それだがな……」

 そこまで話したときだった、急に榊原の携帯が鳴った。画面を見ると、相手は武田弁護士である。榊原は訝しげに思いながらも電話に出た。

『えらい事になりました』

 電話に出るや否や、武田はそんな言葉を発した。

「何かあったんですか?」

『時間がありません。今すぐ地検に顔を出せますか?』

「地検?」

 直後、武田は衝撃の発言をした。

『山口地検の入浜検事正自ら事務所に電話がありました。我々に見せたいものがある、そう言っています』

 それに対し、榊原はすぐに何かピンと来たようで、真剣な表情で武田の言葉に聞き入っていた。


 山口地方検察庁の前に行くと、武田はすでに入口の前で待機していた。

「お待たせしました」

「いえ、私も今来たところです」

 武田は当惑した表情でそう言った。

「昨晩、急に電話があったんです。今まで我々の証拠開示請求をことごとく無視してきたのに、今更何のつもりなのでしょうか?」

「どうやら、検察もただ黙って大野塚陣営に従うつもりはないようですね。県警上層部の思惑を超えて、検察が独自に動き始めているという事でしょう」

 榊原はそういうと、地検の建物を見上げた。

「行きましょう」

 三人は、意を決したように地検の中に入って、受付で用件を告げた。しばらく待たされた後、奥から初老の男が姿を見せる。

「わざわざおいで頂き、申し訳ありません。私が入浜です。武田弁護士ですね?」

 入浜はあくまで表向きは温和に頭を下げた。

「その通りですが、急な呼び出しとはどういう事でしょうか?」

「……武田弁護士、あなたは山口事件の支援運動の一環として、山口事件の証拠開示請求をされていましたね?」

「それが何か?」

「その請求、許可しましょう」

 唐突な話に、武田は驚いて一瞬言葉に詰まった。それを見て、入浜は苦笑する。

「そんなに驚く事はないでしょう。あなた方自身が請求していた事を認めただけです」

「今まで何度も請求用精を出していてその都度却下していたはずなのに、なぜ急に?」

 言葉が出ない武田に代わって、榊原が問いかける。それに対し、入浜は穏やかな口調で答えた。

「あなたは榊原恵一さんですな。お目にかかれて光栄です」

「私をご存知ですか」

「検察仲間では有名です。あれだけ多くの事件を解決されていれば、我々の中で名が知られるのも自明でしょう。それに、今回の事件でも一枚噛んでいるというのは、人伝に聞いていました」

 厳しい表情を崩さない榊原に対し、入浜はあくまでペースを崩さずに言葉を続ける。

「なぜ急に証拠開示請求を受け入れたのか、という質問でしたな。まぁ、こちらの思惑ゆえ、ですよ。そういうわけですので、立ち話も何なのでついてきてもらえますか?」

 返事も待たずに、入浜はそのまま奥へと向かっていく。榊原たちは慌てて後を追った。

「入浜検事正、その思惑とやら、教えてもらうわけには?」

「……なぁに、このまま大野塚本部長の思惑通りに進むのが嫌なだけですよ。それと、我が検察の利益のためですかな」

 廊下を歩きながら、入浜ははぐらかすように榊原の問いに答える。そうこうしているうちに、検察庁の一番奥にある暗い部屋の前にたどり着く。

『証拠保管室』

 正面のプレートにはそう書かれていた。入浜は自身で鍵を開けると、ドアを開ける。中は薄暗く、大量の段ボール箱やファイルなどが整然と並べられていた。

「ようこそ、証拠の墓場へ」

 入浜の芝居がかった挨拶に対し、しかし瑞穂は呆然とした表情でこの光景を見ていた。一般人である瑞穂にとって、検察にしろ警察にしろ、証拠保管庫というのは初めてなのだから仕方がない。武田も元来が民事裁判専門であるためか、検察の証拠保管庫を物珍しそうに眺めている、一方、元刑事の榊原は刑事時代にこのような光景を見たことがあるのか、思ったよりも平然としていた。

「せ、先生! 何なんですか、このカオスな部屋は……」

 まぁ、瑞穂がそういうのも無理はなくて、整然と並べられた段ボール箱に混じってまだ整理しきれていない証拠品があちこちに置いてあるのだが、それの統一感のなさ、意味不明感のなさが半端ではないのだ。例えば瑞穂のすぐ近くには、キリリとした表情の鷹の剥製の置物がデンと置いてあったかと思えば、その隣には最新式の据え置き式ゲーム機の本体が置かれている。さらに隣には汗臭い柔道着。その隣には刃が真っ赤に染まっているいかにも凶器めいた包丁があるかと思えば、その横にラジコンヘリが埃をかぶっている。

「全部、我々が立件した事件の証拠品です。ラジコンヘリは、それにカメラをつけてマンション上層階の女性の部屋を盗撮していた事件の証拠品。柔道着は、高校の柔道部の合宿で起こった業務上過失致死事件の際に被害者が来ていた柔道着です」

「業務上過失致死?」

「まぁ、簡単に言えば指導方法が不適切で、投げられた被害者が意識不明のまま亡くなったんですよ」

 穏やかな口調で物騒な事をいう入浜に、瑞穂はギョッとする。

「えっと、じゃあ、こっちのゲーム機や剥製は?」

「ゲーム機はある殺人事件の凶器です。プレイ中にゲームの結果をめぐって口論になった大学生二人組がいて、そのうちの一人が衝動的にゲーム機で相手の頭を殴ったんです」

 ゲーム機で殴り殺される人生というのも嫌な話である。

「じゃあ、鷹の剥製は?」

「それは下関港で押収されたもので、中から大量の麻薬が見つかりました。いやぁ、中にあふれんばかりの覚醒剤が詰め込んであって、ある意味滑稽でしたね」

「……何というか、まともなのは、そこに置いてある包丁くらいじゃないですか」

 瑞穂がため息をついたが、それに対しても入江は苦笑しながらこう言った。

「いや、実はそれも血じゃなくて赤い絵の具でしてな」

「は?」

「数日前に自宅で不審死した画家が使っていたものでして、赤い絵の具まみれになって転がっていたので押収したんですよ。どうも料理中に心臓発作を起こしたらしくって、その弾みで絵の具の上に落ちたようですね。まぁ、直に遺族へ返還しようとは思っていますが」

 そう解説しながら、入浜は部屋の中央にあるテーブルの上に小さなダンボールを出してきて、榊原たちの方に差し出した。

「どうぞ、これが山口事件の証拠品です」

 事件の行く末を決めかねないそのダンボールの前に、さすがの榊原たちも小さく息を飲む。

「……随分小さいですね。本当にこれだけですか?」

 武田が確認するが、入浜は苦笑しながら頷いた。

「元々証拠の少ない事件でしたから。当時の検察は立件するのを躊躇したようですが、警察側の圧力でやむなく起訴したと聞いています」

 そういうと、入浜は躊躇する事なくふたを開けた。中から、いくつもの証拠品が飛び出してくる。事件の経過を示したファイルや、被害者の着ていたと思しき血染めの衣服。そんな中に、目当てのものはあった。

「これが……」

 この事件、さらには三条事件や山口事件も含めたすべての事件をひっくり返す決め手になるかもしれない最強の証拠品……すなわち、血にまみれた凶器の三条包丁であった。もう事件から二十年経過しているはずであるが、褐色がかった血痕はいまだに包丁にこびりついたままである。悠久の時間をこの埃まみれの部屋で過ごしてきたこの一本の包丁に対し、榊原たちは言葉を失っていた。

「……さて、一つ我々の目的を明かしておきましょうかな」

 と、不意に入浜はそんな事を言った。三人は顔を上げる。

「端的に言えば、山口事件を県警に先駆けて我々検察主導で再捜査したい。こう考えています」

 入浜の言葉に、榊原はすぐに何かにピンと来たようだ。

「県警を出し抜くつもりですか?」

「いやいや、このままでは県警が犯した捜査ミスで我々も道連れですからな。同じ穴の狢になるくらいなら、いっそこちらから県警に引導を渡してやろうかと」

 入浜は温和に話を進める。それだけにどこか不気味なものを瑞穂は感じ取っていた。

「まだ事件の関係者がのさばっている県警と違って、検察に再捜査でダメージを受ける人間はいません。まぁ、謝罪会見は必要でしょうが、少なくとも当時の関係者は検察にはいない。ならばこのまま冤罪が発覚して県警と一緒に道連れになるよりは、県警の捜査ミスを暴いたということで世論の支持を受けた方が、何倍もましだと思いましてな」

「なるほど、冤罪を暴いたという功績で、冤罪の起訴という汚点を隠すつもりですか」

 榊原は押し殺した声で入浜の思惑を告げる。やはり、この男も一筋縄ではいかなかった。が、入浜は平然と答える。

「それもありますが、そうすれば威張り腐っている大野塚に一泡吹かせられると思いましてな。近頃の県警上層部の付け上がりぶりは目に余る。これを機に、検察が主導を握るのも悪くはないでしょう」

 要するに、県警のミスを立証する事で検察が今後の主導権を握ろうというのだ。

「さて、あなた方はこの証拠をほしがっていたようですが、これで冤罪の立証はできますかな? 何かできる事があるなら、検察はあなた方に協力しましょう」

 いけしゃあしゃあと言う入浜に、榊原はしばらく黙り込んでいたが、やがて何かを決断するようにこう言った。

「あなた方の権力抗争に興味はありません。私が望むのは事件の解決です。ただ、そこまでいうなら、私も事件解決のためにあなた方を利用させてもらいますが、よろしいですか」

「何なりと。ただし、検察の利益を制限しない限りで、ですが。……しかし、そんな事を言うという事は、あなたにはある程度、犯人の目星がついているという事ですかな」

「さぁ、どうでしょうか」

「……まぁ、いいでしょう。その要求とやらはなんでしょうか?」

 睨みあう榊原と入浜。そして、榊原は手元の包丁を見ながら言葉を発した。

「その前に、武田さんは瑞穂ちゃんと一緒に外に出てもらえませんか?」

「え? どうしてですか?」

 瑞穂が当惑したような声を出す。が、榊原はこう言った。

「これから話す要求はあまり聞かない方がいい。少々、厄介な事になりかねない。武田さん、お願いできませんか?」

「断る、といえば?」

 武田が厳しい表情でそう問い返した。

「無理にとはいいませんが、その場合、武田さんも厄介な事に巻き込む事になります。ここは、私に任せてください」

 しばらく榊原と武田はジッと互いを見詰め合っていたが、やがて武田が折れた。

「……いいでしょう。わしは榊原先生を信じますよ。ただし、すべてが終わったら聞かせてもらいます」

「わかっています」

 武田は小さく頷き、瑞穂を促した。瑞穂も不安そうな表情で一瞬榊原を見た後、そのまま部屋を出て行く。後には百戦錬磨の二人の男だけが残された。互いに互いを探り合うように見つめる中、榊原が口火を切った。

「それでは……」


 それから数時間後、宇部署の捜査本部は大パニックになっていた。

「どういう事だ? 一体、何が起こった!」

 事態の急展開に捜査員たちが出入りする捜査本部で、焦り顔になっているのは多賀目捜査一課長だ。そんな多賀目に対し、長江が悔しそうに報告する。

「わかりません。昨日の今日で、山口地検が急に山口事件の証拠開示に応じるなんて……」

 そう、つい先程山口地検が、横広刑事部長が要請していた山口事件の証拠開示を許可する旨の通達をしてきたのだ。これに沸きかえったのは横広部長らだったが、一方の多賀目や長江はその表情を青くしていた。

「大野塚部長が手を回していたはず! 急になぜだ!」

 多賀目は拳を机にたたきつけた。


「入浜、貴様、裏切るのか!」

 山口県警の本部長室で、大野塚は電話口で怒鳴り散らしていた。一方、電話口からは平然とした声が聞こえてくる。

『裏切るなどとはとんでもない』

「横広の証拠開示請求に応じるなと、あれほど言っていたではないか!」

『あなたの言うように、そちらには応じていませんよ。ただ、この度検察は山口事件の支援団体が請求していた証拠開示請求に応じる事になりましてね。その証拠開示請求において、支援団体側は警察への証拠開示、及び再鑑定の実施を我々に求めてきたのですよ。そんな事をされれば、我々としても応じざるを得ません』

 理路整然と言われて、大野塚は歯軋りをする。

「この、古狸め……」

『光栄ですな。私は静岡の浜松出身でして、家康様の事を尊敬しておりますから』

「ふざけるな!」

『まぁ、そんなわけで、私はあなたの要求に何一つ違反していません。その点、ご容赦を』

 では、と言って通話は切れた。大野塚は、呆然とした様子で受話器を見つめるしかなかった。


「これが……」

 宇部署に届けられた証拠品の入ったダンボールを目の前にして、横広は小さく息を呑んだ。後ろには何人もの刑事たちが控えている。光沢や富士本、長江もそこにいた。

「開けるぞ」

 横広が覚悟を決めたように呟きダンボールを開け、中からビニールに包まれた証拠品を次々取り出していく。出てきた証拠品の数は少なかったが、確かに山口事件の証拠品のようだった。

「……これで、ようやくスタートラインにつけた」

 横広は感慨深げに言うと、後ろに控える刑事たちに指示を出した。

「もはや躊躇する必要はない。各員、山口事件を踏まえた上で今回の事件の捜査に当たれ! 被害者の業務日誌に書かれていた怪しい男の情報も見逃すな!」

「了解!」

 刑事たちが次々と飛び出していく。それを横目に、長江が横広に視線を向けた。

「その証拠品はどうなさるので?」

「このまま鑑識の鑑定に回す。都合の悪い結果が出ても、私は先に突き進む。文句はないな?」

 再び証拠品をダンボールに入れながら、横広は長江を見やる。長江は唇を噛み締めて、部屋を出て行った。

「光沢君、君も捜査に向かってくれ。一刻も早い解決を頼むぞ」

「……了解です」

 光沢も部屋を後にした。事件の終局が近づいている。光沢はなぜかそう感じ取っていた。


 一方その頃、はるか遠くの新潟県警でも動きがあった。三条東署の一室。そこに呼び出された真中刑事部長が、一里塚と対峙していたのである。

「急な呼び出しとは、どういう事ですか?」

「話を聞きたいと言っていたのはあなただったはずです」

 真中は一里塚をジッと値踏みするように見つめていたが、やがて小さくため息をついて手近な椅子に座った。

「私もあなたに聞きたいことは色々ありますが、その前にあなたも何か聞きたい事でもあるようですね」

「えぇ、まぁ。あなたが、鬼島さんの事をどう思っているのか、気になりましてね」

「……どう、とは?」

「自分の幼馴染を殺した犯人……というだけではないのではないですか?」

 真中は黙って目を閉じたまま先を促す。

「私も情報は教えます。ですから、あなたも知っている限りの事は教えてほしいですね」

「交換条件、ですか」

「山口事件の関係者の知り合いであるあなたなら、私が知らない情報も持っているはずです。私としても情報はほしい。いかがでしょうか」

「……あなたは鬼島に対してどの程度の事を知っていますか?」

 不意に、真中はそんな事を尋ねた。

「被害者の奥浜伊代子と付き合っていた人物、という程度です」

「そうですか……」

 真中は目を開けると、重苦しい口調で話し始めた。

「少なくとも私が知っている鬼島は、伊代とはお似合いという感じでしたよ」

「会った事があるのですか」

「えぇ……あの日の前日です」

 その言葉に、一里塚は反応した。その表情を見て、真中はフッと笑った。

「伊代から話があると電話がありましてね。当時の勤務先が広島県警だったもので、山口まではすぐでしたから。彼女は山口県庁に勤めていて、当時公認会計士だった鬼島と付き合っていたんです」

「それで、事件前日に二人に会った?」

「山口市内の喫茶店でした。二人とも幸せそうでしたね。少なくとも私にはそう見えました。翌日、あんな事になるとは思いませんでしたが」

 そう言う真中の表情に嘘はないようだった。そこで、一里塚はここで一気に畳み掛ける事にした。

「……真中部長、あなたは昨日、事件関係者としては鬼島を許せないが、元監察官としてもし事件が冤罪ならそれを許す事はできない、と言っていましたね」

「ええ」

「では、事件関係者でも、元監察官でもない立場から見れば、あなたにとって鬼島はどんな人間なのですか? あなたの本当の気持ちを教えてください」

 そう言われて、真中はしばらく黙り込んで何かを考え込んだ。だが、やがて決然とした様子でこう言った。

「……でははっきり言いましょう。私は、鬼島があの事件の犯人とは思っていません。山口県警による鬼島の逮捕は、ある理由から生じた間違いだった可能性が高いと考えています」

 微妙に引っかかる言い方だった。一里塚はすかさず突っ込む。

「ある理由、とはなんですか? 山口県警が冤罪を引き起こす理由があったというのですか?」

「……君ならこの話をしてもいいかもしれない。私が今でずっと秘密にしてきた事です」

 そう前置きして、真中は秘密を打ち明け始めた。

「……実は、私が事件前日に伊代たちに会いに行ったのは、彼女に呼ばれたからだけではなく、他に目的があったからでもあるんです」

「目的?」

「事件の一週間ほど前、私は当時の広島県警本部長から極秘の呼び出しを受けました。呼び出されて会議室に行ってみると、そこには二人の人物がいました。当時の山口県知事と山口県警本部長……その二人が、私に頼み事をしてきたんです」

 思わぬ話に、一里塚は表情を引き締める。

「県知事と県警本部長が他県警の人間に頼み事とは尋常ではありませんね。何があったんですか?」

「……実は、世間に明るみになってはいませんが、当時の山口県庁では横領事件が発生していたそうです」

 ここへ来て意外な話が飛び出した。さすがの一里塚も少し驚いた表情をする。

「そんな話は初耳ですね」

「無理もありません。県庁と県警の間で極秘処理された案件です。どうも財務会計の隙を突いたものだったらしく、被害はかなりのものになっていました。当然、犯人は県庁内部の人間ですが、いかんせん証拠がほとんどない。事件は県上層部及び山口県警の一部の人間だけで極秘に共有され、そして両者の内偵の結果、一人の疑わしい人物が浮上しました。それが……伊代だったんです」

「被害者が、横領ですか?」

 にわかには信じられない話だった。

「県警がそう判断したのには理由がありました。それが、彼女の恋人だった鬼島岳彦の存在です。上層部は会計処理に詳しい鬼島が伊代をそそのかして犯行に及んだと考えたんですよ。運が悪い事に、鬼島には当時多額の借金があり、恋人をそそのかして横領をやる動機も存在しました。でも、証拠はない。だから、知事と県警本部長は実態を確かめるためにある賭けに出たんです。それが、私でした」

「……奥浜さんの幼馴染のあなたに、二人の内偵を依頼したという事ですか?」

 ようやく事情が飲み込めてきた。真中は頷く。

「私自身、伊代が横領などやるとは信じられない思いでした。だから、確かめるために私はその依頼を受けたんです。一週間後、伊代から誘いがあって、私は裏の目的を胸に抱いたまま二人に会いに行きました」

「結果はどうだったんです」

 そこで、真中は首を振った。

「さっきも言った通りです。私には、あの二人が横領にかかわっているようにはまったく思えませんでした。知事や本部長にも、最終的にはそう報告しています。これは別に、感情論でそう言っているのではありません。実際、鬼島は借金に関しても近々取引で何とかなりそうだと話していて、後で調べたらその取引の話は事実でした。わざわざ横領という危険な橋を渡る必要があるようには思えないんです。また、伊代も横領に関与している人間には見えなかった。もし横領に関与しているなら、いかに幼馴染とはいえ警察関係者である私との面会でそれなりの動作を示すはず。しかし、彼女にも鬼島にも、そんな様子はまったくなかった。あれは純粋に結婚を控え、将来に希望を抱いていたカップル以上の何者でもない。私は、そう思いましたよ」

 そう言ってから、真中は厳しい表情を見せた。

「そのわずか二日後、伊代の遺体が見つかったというニュースが流れました」

 そこまで聞いて、一里塚の頭に、ある考えが浮かんだ。

「もしや、当時の県警が鬼島に目をつけたのは……」

「他県警の人間に過ぎない私に本当のところはわかりませんし、被害者の関係者である私に対して県警がその手の情報を漏らすような事もありませんでした。ただ、県警上層部に例の横領事件の件が頭をよぎっていたのはほぼ間違いないでしょう」

「横領事件で目をつけられた鬼島が、口封じのために実行犯の奥浜伊代子を殺害した。当時の上層部にそう考えた人間がいたという事ですか」

「もちろん、この一件を知っていたのは上層部の限られた人間だけで、実際に捜査をしていた捜査本部はまったく知らなかったと思います。ただ、上層部の鬼島に対する疑念が、上層部の意向という形で捜査本部に影響していた可能性もあるのです」

 山口事件の構図を塗り替えかねない、衝撃の事実だった。

「つまり、山口県警が鬼島に疑いを持ったのは、彼が被害者の恋人だっただけではなく、横領事件の容疑者でもあったからですか」

「あくまで私の想像です。ですが、あわよくば横領事件の真相も明らかにしてしまいたいという思惑はあったはずです」

 真中の言葉に、一里塚は静かに尋ねる。

「この横領の件を知っていた県警上層部は誰ですか?」

「当時の山口県警本部長、それに山口県警刑事部長は確実に知っていたはずです。捜査本部長だった山口中央署署長は微妙ですね。事件前の段階では直接関係ないので、知らない可能性もあります」

 当時の山口県警刑事部長は現新潟県警本部長の服部法助、山口中央署署長は現山口県警本部長の大野塚竜一郎である。

「……しかし、実際の山口事件の記録では、事件の動機は口論の末の殺害となっています。横領の事など一言も判決文に書かれていません。結局、県警上層部はこの件を追及しなかったんですか?」

 一里塚の問いに対し、真中は簡単に答えた。

「追求できるわけがありません。この捜査の最中に、当の横領事件の犯人がはっきりしたんですから」

「何ですって?」

「横領事件の犯人は本当に伊代たちではなかったんです。詳しくは聞いていませんが、犯人は県庁財務課の男性職員だった事がはっきりしています。県警上層部が鬼島にかかりきりになっている間に、県庁の内部監査で事態が発覚したんです。要するに、鬼島が横領発覚を恐れて伊代を殺害したという推理は、的外れもいいところだったんですよ」

 あまりにも皮肉な結末だった。

「とはいえ、今更鬼島の疑いを晴らすわけにもいきません。この当時、県警は鬼島をすでに逮捕していましたから、今になって無罪だったというわけにもいかなかったはずです。幸い、凶器の包丁から鬼島の痕跡が見つかった事で鬼島の起訴は成立したのですが、それがなかったらどうなっていたか……」

 真中はいったん口を閉ざすと、改めて一里塚に言った。

「私が、鬼島の逮捕がもしかしたら冤罪かもしれないと考えている理由。そして、あなたに山口事件の捜査状況を聞きたいと思っている理由、おわかりいただけましたか?」

 一里塚は無言で頷くと、いくつか質問を加えた。

「結局、横領事件はどうなったんですか?」

「県警と県庁が地検と協議して、世間の騒ぎにならない形で処理したようです。もちろん、山口事件との絡みなど一切なかったかのようにして」

「真中部長、あなたはどうしてその事実を?」

「……後年、私自身もあの一件が気になりましてね。個人的に調べたのですよ。さすがに裁判記録そのものを隠す事はできませんからね」

「では、もう一つだけ。その横領事件の事を知っていたと思われるのは当時の山口県警本部長と同県警刑事部長。刑事部長は現在の服部本部長ですが……本部長は誰なのですか?」

 それを聞いて、真中の表情が歪んだ。

「なぜですか?」

「立場的に、その人物が山口事件の真相を隠したがる一番のポジションにいるからです。ひょっとしたら、今回の山口県警の混乱の根幹にいる可能性もあります」

「……ありえませんね」

 そう言うと、真中はニヤリと小さく笑ってその名を告げた。

「当時の山口県警本部長は棚橋惣吉郎。誰だか言う必要もないでしょう。現在の警察庁長官……我々日本警察の頂点に君臨している男ですから。あなたは、警察庁長官が本件に何かかかわっているとでも言うつもりですか?」

 思わぬ大物の名前に、さすがの一里塚も一瞬言葉を失った。


「そうか……わざわざすまないな。また何かそっちで動きがあったら頼む」

 そして同じ頃、混乱状態にある山口県警、宇部署、山口地検を尻目に、榊原と瑞穂は山口の街をゆっくり歩いていた。武田は事務所に戻って、証拠開示に際する対応に追われている。榊原は一里塚からかかってきた電話を切ると、人が行きかう山口の街をジッと見つめていた。

「で、これからどうするつもりですか?」

「打てる手は打った。さて、ここから犯人をどうやって追い詰めるか、だ」

 その言葉に、瑞穂は顔を上げる。

「……そう言うって事は、先生、もしかして真相が……」

「まぁ、これではないかというものは薄ぼんやりと、な」

 榊原はそう言って決然とした表情を見せる。それを見て、瑞穂は榊原がすでにある程度真相に到達している事を悟った。

「私には正直何がなんだかさっぱりです。今回の事件に三条事件、山口事件と二つの事件が絡んでいて、まるで知恵の輪を解いているみたいな気分ですよ。結局、どっちの事件が関係しているんですか? どちらの事件の関係者にも被害者を殺害する動機はありますし、先生の予想が正しいなら、あの包丁は両方の事件の凶器という事になります。まさか、両方の事件が同じ犯人という事ですか? それとも、警察関係者の権力抗争が事件の原因なんですか?」

 瑞穂の問いに、榊原は答えなかった。

「その辺の話も含めて一度関係者全員と話す必要があるが……問題はどうやって全員を集めるかだ」

 そう言って榊原はしばらく考え込んでいたが、不意に瑞穂に向き直る。

「瑞穂ちゃん、唐突だが、明日は休めるか? 本来なら今日帰る予定だったはずだが」

 三連休は今日で終わり。明日から平日である。が、瑞穂はにっこり笑って言った。

「大丈夫です。もう、学校に電話してありますから」

「早いね」

「事件の結末を見ずに帰れませんよ。学校ももう諦め気味みたいですし」

「……ならいい」

 榊原はこう告げた。

「瑞穂ちゃん、今回の事件の解決には君の力がいる。協力してほしい」

「何言っているんですか。私は先生の助手ですよ。何でも言ってください」

「……すまないな」

 そう言うと、榊原は再度携帯電話を取り出した。

「ならば、私ももう一手打つとしよう」

「誰にかけるつもりですか?」

「沖田さんだ」

 その言葉を聞いて、瑞穂は耳を疑った。

「沖田さんって、確か先生の元上司の……」

「今の警視庁警視総監だ。だが、私の狙いは沖田さんじゃない」

「というと?」

 次に榊原が口に出した名前を聞いて、今度こそ瑞穂は飛び上がるほど驚いた。

「棚橋惣吉郎警察庁長官。山口事件当時の山口県警本部長だ。沖田さんに棚橋長官を説得してもらう」

「む、無茶です!」

「無茶は承知だ。だが、勝算のない手ではない」

 榊原はそう言うと携帯の番号を押し、何事かを話し始めた。小さな声なので、瑞穂には何を喋っているのかは聞き取れない。だが、非常に切迫した様子なのは見て取れた。

 そして、しばらくしてから電話を切ると、榊原はこう宣言した。

「これでいいだろう。あとは沖田さん次第だが……棚橋長官は間違いなく何らかの動きを見せるはずだ。山口事件の関係者として、興味がないはずがないからな。この事件、明日ですべてを終わらせるぞ」

 榊原の宣言に、瑞穂は黙って頷いていた。


 ……その夜、東京霞ヶ関中央合同庁舎二号館、すなわち警察庁の一室で、警視庁警視総監・沖田京三と、警察庁長官・棚橋惣吉郎が対峙していた。

「緊急の話というから会ってみれば、想像以上に無茶な話題を持ってきたものだね」

 棚橋は落ち着いた口調で沖田に話しかける。日本警察の頂点に君臨するだけあって、表向きはあまり動揺した様子はない。

「いかがでしょうか」

「山口県警と新潟県警、二つの県警の関係者を集めさせろとは、随分な話だ。いかなる理由だね。返答次第では笑い話にもならないぞ」

 沖田が持ってきたとんでもない要求に対し、棚橋はそう言いながら沖田を見据えた。対して、沖田も平然と事実を告げる。

「……三条事件と山口事件、この二つの事件が解決するかもしれません」

 棚橋の眉が小さく動いた。

「何とも、懐かしい事件の名前を聞いたものだ」

「失礼ですが、長官は山口事件当時、山口県警の本部長をされていたと伺っていますが」

 唐突に言われて、棚橋も少し表情を動かしたが、すぐに元に戻る。

「……あぁ、その通りだ。だから、関係ないとはいえないな。だが、だからといってその程度では動けない」

「……榊原が動いています」

 棚橋は眉をひそめる。

「榊原……確か、君の元部下だったね。そして、おそらくは日本で一番有能な名探偵」

「本人はそう呼ばれるのを嫌っているようですが」

「なるほど。今回の要請はその男からか。しかしな……それでこの私がどうにかなると、君も思ってはいまい」

 小さく笑う棚橋に対し、沖田はこう付け加えた。

「ではもう一つ。その榊原の話では、今回の一件、警察関係者が深く関与している疑いがあります」

 そこで、棚橋の動きが止まった。

「何だと?」

「平たく言えば、警察関係者も容疑者だと彼は考えているようです。もしこれが本当だとするなら、事は冤罪事件の解決だけに収まりません」

「……つまり、君の言う二つの県警の人間に事件の容疑者がいると、こういうわけかね」

 棚橋は静かに笑った。

「なるほど、確かにそれなら、事は警察組織そのものにもかかわるな」

「もし、長官がこの要求を拒否するなら、榊原はそれならそれで別のやり方を考えるでしょう。それがどんな方法になるかは見当もつきませんが、少なくとも私たちにとってはあまり愉快な話にはならないはずです」

「……君は、私を脅すつもりかね?」

「まさか。私も榊原に変な事をされるのは御免被るだけです。はっきり言って、私としてもあの男には静かにしてもらいたい。それゆえのお願いです」

「……」

 棚橋はしばらく黙って何かを考えていたが、やがてフウとため息をついた。

「よかろう。その願い、ためしに聞いてみようではないか」

「ありがとうございます」

「ただし、その会合には私と君も参加する。それが条件だ」

 棚橋は急にそう言い添えた。驚く沖田に、棚橋は含み笑いをしながら言う。

「私も、一度その榊原という男の推理を聞いてみたいものでね。彼が君の言うような男かどうか、じっくりと見極めたい」

「……長官がそう言われるのならば。ただし、一言だけご忠告を。今の榊原は、我々がどうこうできる存在ではないかもしれません」

「構わない。それはそれで面白そうだ。何より、私も直に聞いてみたいのだよ。あの二つの事件を、現実の名探偵はどう裁くのかをね」

 階下に夜景が広がる中、二人の権力者は静かに互いの思惑をぶつけ合っていた。


 翌日、警察庁長官直々に新潟、山口両県警に対する命令が下された。すなわち、三条事件、山口事件に関する意見聴取を長官自ら行いたいがゆえに、指定する関係者は本日夕刻までに山口県警本部に集合するように、と。


『こちらは大パニックです。私も山口に戻る事になりました』

 電話の向こうで、一里塚は榊原にそう言っていた。

「こちらに来る新潟県警のメンバーはどうなった?」

『服部本部長、真中刑事部長、小野坂捜査一課長、桜警部、柏崎巡査部長、針本警部の計六人です。今回の再捜査本部の主要メンバーがすべて呼び出されました』

「そうか……」

 そう呟いてから、榊原は頼み事をした。

「一つ頼まれてくれ。三条事件の支援事務所に行って、今回の召集の一件を伝えてほしい。できれば、関係者全員で山口まで来て、会議に参加してほしいと」

『彼らも呼ぶつもりですか?』

「榊原が依頼の件を解決するつもりだといえば、間違いなく来るだろう。頼めるか?」

『……いいでしょう。今回は、私も聴衆の一人として榊原さんの推理を聞かせてもらう事にします。久々にお手並み拝見といきましょう』

 電話が切れる。傍にいた瑞穂も不安そうな表情だ。

「先生、こんな事をしていいんですか?」

「犯人を追い詰めるにはこうするのが一番だ。二十年前からの因縁を晴らすのにも、な」

 そう言うと、榊原はこちらも混乱状態の山口県警を脇目に、タクシーに乗ろうとする。

「沖田さんからの命令で、私が長官たちを新山口駅まで出迎えに行く事になった。すまないが、時間が来たら先に行っていてくれ」

 そして、榊原は告げる。

「さて、ここからが最後の勝負だ」

 二十年のときを超えて、すべてが一つの結末に向かって動き出そうとしていた。

 今ここに作者は挑戦する。果たして、今回の事件の犯人とは誰だろうか。

 様々な事件が複雑に絡み合うこの事件ではあるが、最終的に求めるべきは現代に起こった事件、すなわち佐渡島宇平を殺害したのは誰かというこの一点である。犯人は間違いなく、榊原と瑞穂を除いた冒頭に紹介する二十名の中にいる事をここに宣言しておこう。

 それでは、明日の解決編公開までに各々推理を組み立ててほしい。佐渡島宇平を殺害した真犯人は誰だ!


***The Last is:『隠蔽凶器 第三章「最終推理」』

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