隠蔽凶器 第一章「冤罪事件」
Author:奥田光治
本小説は時系列的には前アンソロジー「この謎が解けますか?」に投稿した『耳無し芳一殺人事件』直後の事件であり、いわば直属の続編である。もちろん今回の作品は独立した事件で前回の事件とは何ら関係はなく、前回の事件を読まずとも謎を解く事にまったく支障はない。が、前回の事件を読んでいただければ、私の描くこの世界観がより楽しんで頂けるであろうという事は言及しておこう。
また、当たり前の話であるが本小説はフィクションである。この小説の主題はあくまでエンターテイメントとしての純粋な謎解きであり、それ以上でも以下でもない。ゆえに現実の警察や検察、または実際の事件には一切関係ない事を明記しておく。
それではどうぞこの作品を楽しみ、また悩んで頂きたい。はたして、この事件の真犯人は誰なのか!
今、ここに二つの事件ファイルがある。双方共に今……すなわち二〇〇七年から二十年前の一九八七年に起きた殺人事件の記録だ。
都立立山高校一年にして同校のミステリー研究会会長を務める深町瑞穂は、場の張り詰めた空気に緊張感を漂わせながらも、その二つのファイルに今一度目を通す。
『ファイル1 三条市雑貨店店主殺人事件(通称・三条事件)
一九八七年十二月一日朝。新潟県三条市の外れにある雑貨屋「吉倉田商店」で、この店の店主・吉倉田三郎(三八)が刺殺されているのを新聞配達人が発見し、警察に通報した。新潟県警は三条東警察署に捜査本部を設置して捜査に当たっていたが、事件から二週間後、被害者の知り合いであった印刷工場社員の太田竜馬(三七)を任意同行で聴取。太田が殺害を自供したため正式に逮捕した。起訴状によると、事件当夜、太田は窃盗目的で被害者宅に侵入したところを発見され、咄嗟に手近にあったナイフで被害者を刺し殺して逃走したとされている。しかし、公判になると太田は一転して殺害を否認。第一審では証拠能力に疑問ありとして新潟地裁が無罪判決を言い渡すも、検察が控訴した東京高裁での第二審では「自白は充分に信用に値する」という理由から逆転有罪。太田が上告した最高裁での上告審では十五人の最高裁判事のうち五人が反対意見を表明するという異常事態の中で無期懲役が言い渡され、有罪判決が確定した。だが今年、すなわち二〇〇七年になって、支援者団体の活動から裁判で提出された証拠に重大な齟齬があることが判明したため、新潟地裁は再審の決定を勧告。これに伴い検察も太田の釈放に合意し、太田は即日釈放された』
『ファイル2 山口市役所職員殺害事件(通称・山口事件)
一九八七年十二月十三日昼頃。山口県山口市の県営住宅アパートに住む山口市役所職員・奥浜伊代子(二八)が自室で血まみれで倒れているのを同僚が発見し、警察に通報した。被害者はすでに死亡しており、山口県警は殺人事件として山口中央警察署に捜査本部を設置。事件から数日後、室内に残されていた指紋が一致した事から、被害者と付き合いのあった公認会計士・鬼島岳彦(三四)を殺人容疑で逮捕した。起訴状によれば、事件当日、鬼島は被害者の自宅を訪問後、口論になって部屋にあった包丁で被害者を殺害し、その後現場工作をして逃走したとされている。これに対し、鬼島は被害者の部屋には訪れていないと反論したが、山口地裁は検察の主張を認め、無期懲役の有罪判決を下している。その後、鬼島は控訴するも広島高裁は一審判決を支持して控訴棄却。上告された最高裁も上告を棄却し、無期懲役が確定する。現在、鬼島は広島刑務所に収監されながらも獄中から無罪を訴え続け、再審請求を続けている』
瑞穂はファイルから目を離すと、未だにピリピリした空気が漂うその場……すなわち、山口県警本部大会議室を見回した。室内には瑞穂以外にも多くの人間がいるが、皆が皆一様に厳しい視線を正面のドアに向けている。
瑞穂はとても居心地の悪い雰囲気を感じていた。正直、ここは自分がいるべき場所ではない。何しろ今この場にいるのは、ただの女子高生に過ぎない自分とはあまりにもかけ離れた役職の人間ばかりだからだ。瑞穂を除くと全部で十八人。瑞穂は順番に室内を見渡し、そのそうそうたる顔ぶれと名前を一致させていく。
・大野塚竜一郎……山口県警本部長、警視長
・横広秀三郎……山口県警刑事部部長、警視正
・多賀目哲弘……山口県警刑事部捜査一課長、警視
・一里塚京士郎……山口県警刑事部捜査一課係長、警部
・光沢春義……山口県警刑事部捜査一課主任、警部補
・長江丈太郎……山口県警宇部警察署刑事課係長、警部
・富士本一郎……山口県警宇部警察署刑事課主任、警部補
・服部法助……新潟県警本部長、警視長
・真中義光……新潟県警刑事部長、警視正
・小野坂玄輔……新潟県警刑事部捜査一課課長、警視
・桜京……新潟県警刑事部捜査一課係長、警部
・柏崎鈴……新潟県警刑事部捜査一課部長刑事、巡査部長
・針本英弘……新潟県警三条東警察署刑事課係長、警部
・入浜光之助……山口地方検察庁検事正
・武田剣信……弁護士、山口事件弁護団主任弁護人
・岩佐友則……弁護士、三条事件弁護団主任弁護人
・森晴香……弁護士、三条事件弁護団弁護人
・太田竜馬……三条事件被告人
まさに、山口県警と新潟県警の主要人物、それに両事件の関係者が勢揃いしている状態だ。正直なところ、これだけの状況が実現し、なおかつ自身がこの場に居合わせていること自体、瑞穂にとっては信じられない事である。
と、ドアの向こうから複数の足跡が響いてくると、全員が緊張する中、部屋のドアが開いた。その瞬間、部屋の中の全員が立ち上がり、警察関係者は敬礼する。
現れたのは、日本警察の二大巨頭……すなわち、東京警視庁の頂点に居座る沖田京三警視総監と、日本警察の頂点に君臨する男……棚橋惣吉郎警察庁長官の二人だった。二人は部屋の中を厳しい表情で一瞥すると、そのまま正面の席に座る。それを合図に、他の全員もその場に腰掛けた。
そして最後に、この状況を生み出した男……すなわち、瑞穂の師であり、日本有数の名探偵と称される元警視庁捜査一課警部補の私立探偵・榊原恵一が、静かに部屋の中に入ってきた。
「……沖田さん、今日はありがとうございます。よく棚橋長官を説得してくれました」
口火を切ったのは榊原だった。正面の沖田は軽く手を上げる。沖田はかつての榊原の上司である。その縁で、今回のこのあまりにも規格外の集まりが実現していた。
「かまわない。事が警察組織全体に影響を与える可能性がある以上、我々が同席するのは当然だ。長官も快く引き受けてくれたよ」
その言葉に、榊原は棚橋に向き直る。
「……君が、榊原君かね。噂だけは聞いているよ。凄腕の探偵だそうだね」
「恐れ入ります」
「それで、今日はなぜ私を呼んだのだね?」
棚橋の単刀直入な問いに、榊原も即座に答えた。
「大変遺憾なことではありますが、今、この部屋の中にいる人間の中に、恐るべき犯罪者が一人紛れ込んでいます。今日は私がそれを暴き、その人物に対する対応を長官に決めていただきたいと、こう考えている次第です」
その言葉に、部屋の中にいた関係者の面々の表情が一気に緊張する。
「……それは、つまりここにいる山口・新潟両県警の関係者の中に殺人犯がいるかもしれないという事かね?」
さすがに警察の頂点に居座るだけあって、棚橋は冷静な様子で榊原に問いかける。
「はい。しかしながら、容疑者が複数の県警の本部長および幹部にまで及んでいる以上、もはやこれは私や一県警の手には負えない事態であると考えます。なので、今回は日本警察の長たる長官にその対応をゆだねたい考え、この場にご臨席を賜りました」
そして、榊原はひるむことなく棚橋を見つめるとこう付け加える。
「それに、この一件、棚橋長官にも関係がないとは言い切れないものでして」
「……つまり、我らも容疑者という事かね?」
「平たく言えば、その通りです」
榊原は一切躊躇する事なく告げる。周りの警察官たちは一瞬慌てたような表情をするが、棚橋はそれを押しとどめると小さく笑った。
「……なるほど、事情は理解した」
棚橋は榊原の言わんとしている事を悟ったのか、小さく頷いた。
「では、早速始めてくれたまえ。君の言う推理とやらを。私も、日本有数の探偵と評される君の推理を一度聞いてみたいと思っていたところだ、榊原元警部補」
「……わかりました」
榊原は棚橋に対して頷くと、榊原は居並ぶ警察関係者たちに向き直った。
「今この場にいるのは百戦錬磨の警察関係者ばかり。したがって私も妙な小細工はやめましょう。今、この場であらかじめ宣告をしておきます」
そして、榊原は全員にはっきりと宣言する。
「今回、この山口で発生した殺人事件の犯人は、私を含め、間違いなくこの場にいる人間の中にいます。失礼を承知で申し上げますが、棚橋長官や沖田総監も例外ではありません。私は、今からそれを証明したいと考えています。身の覚えのある方は、覚悟をしていただきたい!」
今までにない厳しい口調の榊原の宣言に場の緊張が高まる中、瑞穂はこの事件の始まりを静かに思い出していた。
二〇〇七年十一月二十二日木曜日。東京・品川裏町の寂れたビルの二階にある榊原探偵事務所。そこに映るテレビが、あるニュースを流していた。
『二十年前に新潟県三条市で発生した通称「三条事件」と呼ばれる殺人事件に対し、新潟地方裁判所は無期懲役で服役している太田竜馬氏が提出していた再審請求を受け入れ、再審を実施する決定を下しました。検察側はこの事件に関しすでに捜査ミスのあった可能性を示唆しており、事実上の冤罪認定、逆転無罪が下される公算が強くなっています。この事件は一九八七年……』
事務所内のソファに寝転びながら、榊原の助手を自称し日々この事務所に出入りしている深町瑞穂は、ボーっとそのニュースを見つめていた。
なぜこんなごく普通の女子高生が探偵事務所なぞに出入りしているのかといえば、話は少々複雑になる。簡単に言えば、今年の六月に瑞穂の所属する立山高校ミステリー研究会で四人の人間がほぼ同時に別々の場所で殺害されるという前代未聞の不可能犯罪が発生し、それを見事に解決したのがこの事務所の主・榊原恵一だった。で、瑞穂はその際の榊原の推理に心酔し、以降こうして助手と称して事務所に入り浸っているというわけだ。今日も、学校帰りにこの事務所に立ち寄ったところである。
「最近、このニュース多いですねぇ」
「そうだねぇ」
瑞穂の言葉に、事務机で暇そうに本を読んでいるこの事務所の主……元警視庁捜査一課の警部補で、現在は品川で探偵事務所を開業している私立探偵・榊原恵一も生返事で返す。
こう見えてかつては警視庁捜査一課最強の捜査班のブレーンを務め、現在では日本有数の実力を誇るとされる名探偵なのだが、広報活動を一切しないせいか依頼は一ヶ月に数回あればいい方で、大半はこうして事務所でマイペースに過ごしている事が多い。年齢は四十歳前後。年季の入ったスーツによれよれのネクタイとあまりにもだらしない格好であるが、瑞穂は榊原がこれ以外の服装を着ている場面を見た事がない。
「支援者の長年の努力でようやく冤罪が立証された事件だからね。これはしばらく騒ぎになると思うぞ」
「先生、興味はないんですか。先生だったら事件が起こったときに刑事権限でそれとなく調べていそうですけど」
「いくらなんでも他県で起こった事件に理由もなく介入できない。それに事件発生時、私はまだ大学生だ。警察に入ってすらいない」
「じゃあ、今はどうなんですか?」
「……探偵として興味はある。が、だからといって依頼もないのにしゃしゃり出るわけにもいかないだろう。その辺の分別はわきまえているよ」
「ってことは、自分なりに調べてはいるんですね」
「まぁ、ね。新聞なんかの情報を集めているだけだが」
榊原は本を読みながら答える。
「じゃあ、教えてください。何でこの事件、今になって冤罪が発覚したんですか? もう、二十年も前の事件ですよね」
「……確か、直接の理由は凶器のナイフだったはずだ」
「ナイフ?」
「そもそも、この事件は最初から怪しさが満載だった。直接的な証拠は自白だけで、しかも公判になると被疑者は自白を否定し、自白は警察の強要で作られたものだと主張した。実際、第一審では一度無罪判決も出ている。物的証拠の中で最有力となっていたのは現場に残されていた太田の指紋つきのナイフだったが、支援者の検証の結果、このナイフが凶器でない事が明確になったらしい」
「凶器じゃなかったって……そんなミスありですか?」
「詳しくは私も知らないが、何しろ二十年も前の話だ。科学捜査も今ほど確立されていないし、DNA鑑定に至っては捜査導入がなされていない時期だ。そういう間違いがあってもおかしくはない。もっとも、『仕方がない』で済ませられる話ではないが」
榊原の言葉は厳しかった。
「でも、冤罪がわかっても犯人が捕まらない限り、この人死ぬまで疑惑の目で見られ続ける事になるんでしょうね」
「そうだな。残念ながら、今の警察は冤罪事件については『すでに時効成立している』という立場からほとんど再捜査を行おうとしない。自分のミスで犯人を取り逃がしているにもかかわらず時効を理由にするとは妙な話だが、それが現実だ。実際問題、今までに冤罪が発覚した事件で真犯人逮捕にまで行き着いたのは数えるほどしかなく、しかもその事案においても警察は積極的な捜査をしていない。特に有名な『弘前大学教授夫人殺人事件』、通称『弘前事件』という事件の場合、真犯人が自供したことで初めて冤罪が発覚して、そこから逆に冤罪被害者に対する自白強要や証拠偽造が発覚したくらいだ」
「……それは、ひどい話ですね」
「まぁ、私も警察にいた身だ。すべての警察官がそうだという話はしていないし、大半の警察官はちゃんと職務を遂行しているよ。だが、警察も人間である以上は間違いを犯す。大切なのはその間違いをできるだけ減らし、それでも間違ったらその間違いを早期に認めて、自白強要や証拠偽造をせずに真犯人を捕まえる事だと思うのだがね」
榊原は感慨深げにそう言った。実感のこもった言葉に、瑞穂も反論できない。
と、そのときだった。事務所のドアが控えめにノックされた。二人は顔を見合わせる。
「お客さんですか?」
「アポイントメントは受けていないのだがね」
と、相手は特に遠慮する様子もなくドアを開けて中に入ってきた。尋ね人はスーツを着た年配の老人男性で、黙ったままぺこりと榊原に頭を下げる。
幸い、榊原にはそれが誰なのかすぐにわかったようだった。
「これは……武田さんじゃないですか」
その言葉に、武田と呼ばれた老人は頭を上げる。
「ご無沙汰しております」
「伊豆の『風祭家』の事件以来ですね。まぁ、どうぞ」
榊原がソファを勧め、武田は再度頭を下げるとソファに腰掛けた。一方、瑞穂は戸惑った表情をする。
「誰ですか?」
「あぁ、何年か前の『風祭事件』で知り合った弁護士さんだ。主に民事系、特に遺産相続や遺言管理を専門にされている。『風祭事件』は知っているね?」
瑞穂は頷いた。『風祭事件』とは何年か前に伊豆の旧家で起こった殺人事件である。表向きは警察が解決した事になっているが、実際は榊原が解決したらしく、そのことを知る人間からは榊原の代表的な事件と認識されているらしい。残念ながら瑞穂も榊原から詳細を聞いた事がないためどんな事件だったのかは表向きの発表で公開されたことくらいしか知らないが、いつかは聞いてみたいと思っている。
「そちらの娘さんはどなたですかな?」
武田が当然の問いを発する。
「あ、先生の助手をしています、深町瑞穂です。よろしくお願いします」
「ほう、お弟子さんができたのですか?」
「自称、ですがね」
榊原はそう言って苦笑すると、自身も反対側のソファに腰掛けて口火を切った。瑞穂は榊原の背後に控える。
「さて、あなたが尋ねてくるという事は、事は遺産絡みの何かですか?」
だが、榊原のそんな問いに、武田は小さく首を振った。
「いえ、今回に限ってはそうではないのです」
「と、申しますと?」
「実は今、かねてより知り合いの弁護士からの頼みで、ある刑事事件に関与しているのです」
その言葉に、榊原は少し驚いた表情をした。
「民事専門のあなたが刑事事件とは、珍しいですね」
「我ながら似合わぬとは思っています。ですが、一度受けた以上は全力で取り組む所存でしてな。今回は、その事件に関する依頼です。榊原先生にもご協力いただければと思いまして」
自分よりはるかに年下の榊原を「先生」と呼んだが、このような言い方をする人間だと榊原もわかっているのか、特に突っ込む様子もなく先を促す。
「榊原先生は『山口事件』と呼ばれている事件についてご存知でしょうか?」
唐突に言われて榊原は少し考え込んだが、そう時間をかける事なく答えに行き着いたようだった。
「確か、二十年ほど前に山口県で起こった山口市役所職員の殺害事件ですね。かねてから冤罪疑惑があって、今でも再審請求がなされているとか」
「今回で三回目の再審請求になります」
武田はすぐにそう言い返した。それで、榊原もぴんと来たようだ。
「という事は、もしかして武田さんは……」
「察しの通り、『山口事件』の支援を行っています。一応、主任弁護人です」
武田はそう言ってため息をついた。
「正直、勝ち目のない戦いですがね。警察も検察も非協力的で、裁判所もあまり再審には積極的ではない。そもそも、事件関係者もこれ以上引っ掻き回されるのを望んでいないようでしてな」
「なるほど……」
その様子が容易に目に浮かんでくる。
「ところが、最近になって状況が変わってきましてな」
「と言いますと?」
「実は今になって事件の目撃者が出てきたのです。しかも、我らに有利な方に」
武田の言葉に、榊原も反応する。
「本当ですか?」
「我々も信じられない思いです。実は、その目撃者から近々詳しい話を聞く予定でして、その話の内容如何によっては再審請求に関して一気に攻勢をかけようかと考えています。榊原先生には、そのお手伝いをお願いしたいのです」
榊原は再び考え込んだ。冤罪事件の立証。今まさに話題にしていた事が依頼として飛び込んできた形である。
「……いずれにせよ、その目撃者に会って話を聞いてみるまでは判断ができません」
「ならば、我々と同行して話を聞いて頂けませんか?」
「よろしいのですか?」
「元々それをお願いするためにここに来た次第でしてな。榊原先生には我々と同席して頂き、その目撃者の話を聞いて頂きたい。その上で客観的に判断して頂きたいのです。その証言が信用に値するか否かを」
「それが依頼内容ですか?」
「左様です。もちろん、報酬はお支払いします。いかがでしょうか」
榊原の判断は一瞬だった。
「……いいでしょう。ただ、話の内容次第ではどうなるかはわかりませんよ。正直、二十年前の事件に今更証人が出てきたという話そのものが、私にとっては疑わしいですから。場合によっては逆にあなたの首を絞める結果になるかもしれない」
「当然の考えでしょうな。それに、その方が榊原先生らしい」
そう言うと、武田は立ち上がった。
「そうですな、善は急げと申します。明日からちょうど勤労感謝の日を含めた三連休ですし、日程的にも好都合でしょう。早速ですが、明日お会いになるというのは?」
「私は構いませんが、その証人の都合はいいのですか?」
「私が説得します。では、明日の正午頃に新山口駅で落ち合うという事にしましょう。それでは、一足先に山口に戻らせていただきます」
そう言い残して、武田は部屋を出て行った。後には榊原と瑞穂が残される。
「……まぁ、そういうわけだ。私は明日から山口出張になるが、瑞穂ちゃんは……」
「行きます」
榊原が何か言う前に瑞穂は遮るようにして宣言した。榊原は深いため息をつく。
「と言うと思った。一応言っておくが、諦める気は……」
「ないです。私も三連休暇なんで」
「……わかった。もう何も言わない」
榊原は諦めたように言った。一方、瑞穂は喜んでどこぞへ向かって指を突きつけた。
「いざ、山口へ!」
「……そっちは東だ。山口とは逆だぞ」
一応榊原は突っ込んだが、瑞穂は聞いていないようだった。
翌日、十一月二十三日金曜日、すなわち勤労感謝の日。三連休の最初という事からか新幹線は混雑しており、榊原と瑞穂は何とか自由席には座ったものの、増加する客足に疲弊しての山口入りとなった。
「まったく、どうして日本人は休日になると旅行に行きたがるんだ」
新山口駅で新幹線から降りると、榊原は周りの人混みを見ながらそう言った。
「それは、平日だと仕事で旅行に行けないからだと思います」
瑞穂はふざけ半分に正論を述べるが、榊原は疲れきった表情で反論する事もなく改札へと向かう。
「えっと、確か駅を出たところに迎えが来ていると連絡があったが……」
そう言いながら改札を出て辺りを見渡していると、やがてこちらへ向かって大きく手を振っている武田の姿が目に入った。
「よくお越しいただきました」
「いえいえ、これも仕事ですから」
「……ほう、彼女も一緒でしたか」
武田は瑞穂を見ながら言う。榊原は申し訳なさそうに頭を下げた。
「ご迷惑でしたか?」
「いえ、一人くらい増えても問題はないでしょう。では、行きましょうか」
そう言うと、武田は正面に用意してあった車に榊原たちを案内すると、自ら運転席に乗り込んで自動車を発車させた。
「これからどちらに?」
「宇部市にある目撃者の自宅へ向かいます。そこで榊原先生には、彼の話を聞いていただきたいのです」
「その目撃者についてもう少し詳しく聞いておきたいのですが」
榊原の問いに、武田は頷いた。
「名前は佐渡島宇平。タクシーの運転手です。二十年前の事件当時は大手タクシー会社の運転手として山口市内で勤務。現在は宇部市内で個人タクシーを経営しています」
「なぜ今になって?」
「その前に、山口事件の概要はご存知ですかな?」
「ええ。あれから一日かけて集められるだけの資料は集めました」
榊原が指示すると、瑞穂が自分のバックから一冊のファイルを取り出す。
「被害者は山口市職員の奥浜伊代子。市内にある県営住宅の自室で殺害されていたようですね」
「死亡推定時刻は遺体発見前日の一九八七年十二月十二日の夕方頃……つまり、被害者の帰宅直後と推察されています。凶器は事件当日に彼女自身が山口市内の刃物店で購入した包丁です。発見者は事件翌日に被害者が出勤しない事を不審に思った同僚で、発見時点で事件発生から十五時間以上が経過していました。警察は現場が被害者の自室である点と、金品などが一切盗まれていなかった点から顔見知りの犯行を疑い、そこから被害者と付き合っていた公認会計士の鬼島岳彦さんが捜査線上に浮上したんです」
「つまり、被害者の自宅にやってきた鬼島さんが何らかのトラブルの末に部屋にあった包丁を使って被害者を殺害した、という事ですか?」
「少なくとも警察はそういうストーリーを組み立てたようです。山口中央署の捜査本部は事件から三日後に鬼島さんを逮捕し、検察も容疑を認めてこれを起訴。一年後の山口地裁での判決は無期懲役で、その後の控訴審でも広島高裁は一審判決を支持して控訴棄却。最高裁も上告を破棄して、無期懲役が確定しました。今も広島刑務所に収監されています」
「鬼島さん自身の主張は?」
「終始一貫して無罪を主張していて、警察の取調べでもついに自白をすることはありませんでした。ここが他の冤罪事件と大きく違うところでしてな。結局、検察は被疑者否認のまま起訴に持ち込んでいます。本人いわく、あの日は被害者の部屋に一度も行った事はないと。ただし、その代わりにアリバイらしいアリバイもなく、事件当時は自宅でテレビを見ていたと本人は言っています」
「でも、警察も証拠もなく犯人を逮捕したりはしないんじゃないですか? しかも証拠が自白しかなかった過去の冤罪事件と違って、今回被疑者は自白していないから、さすがに証拠なしでは検察や裁判所も首を縦に振らないと思うんですけど」
瑞穂の素朴な疑問に、武田は大きくため息をついた。
「残念ですが、過去の事件では警察が証拠品を捏造していたケースもありましたから、まったくないとは言い切れないのですよ」
「今回もそれだと?」
榊原の問いに、武田は首を振った。
「わかりません。ただ、現場のあちこちから鬼島さんの指紋が検出されたのは事実のようですね」
「付き合いがあったのなら、部屋の中から鬼島さんの指紋が出るのはむしろ自然でしょう」
「それが、その日購入したばかりの凶器の包丁から、微量ではありますが被害者の血液型であるA型とは別の血液型の血痕が検出されたんです。その血液型が、鬼島さんの血液型であるO型と一致したんですよ」
その言葉に、榊原の表情が真剣になった。
「確かですか?」
「少なくとも裁判で検察はそう主張し、鑑定資料も検出されています。買ったばかりで包装されていた包丁に被害者以外の血液がつくとすれば、彼女が包丁を買って帰宅したあの日の事件前後でしかありえません。つまり、血液の主は犯人自身。警察は被害者が抵抗した際に犯人が怪我をして、そこで血液が凶器に付着したと考えています。この血液が鬼島さんのものだった場合、あの日被害者の部屋に行った事がないという鬼島さんの証言に矛盾が生じるんです」
「血液型か……」
二十年前、DNA鑑定はまだ行われていないが、血液型の鑑定だけならば技術的には充分に確立されている。それが買ったばかりの凶器に付着していたとするなら、簡単に見過ごせる証拠ではないだろう。
「ですが、DNAと違って血液型は四種類あって、しかも同じ人間が複数いる。これだけで犯人と決め付けられるのですか?」
「犯行現場の状況ですが、被害者は部屋の奥で殺害されていて、玄関付近に争った形跡はありません。つまり、犯人が被害者の部屋に押し入ったわけではなく、被害者が部屋の中に犯人を招きいれているのです。ここから、警察は犯人が被害者の顔見知りだと判断しました。そして、被害者が部屋に招きいれるような人間の中で、血液型がO型なのは鬼島さんただ一人だったのです。おまけに、当時鬼島さんは左手の指に切り傷を負っていました。本人はペーパーナイフを使っているときに誤ってつけた傷だと主張しましたが、警察はそう見なかったようですね」
「なるほど」
確かに、そういう状況ならば警察が鬼島を疑うのも無理はない。
「鬼島さんの証言が正しいとして考えられるのは、警察が証拠を捏造している可能性と、事件以前のどこかで鬼島さんもしくは同じくO型の人間の血液が付着するような事があった可能性です。この段階では血液鑑定による個人識別ができませんから」
「考えられるんですか?」
「難しいですね。いくらなんでも新品の包丁に他人の血液が付着しているはずもありませんし。技術が確立した今であればDNA鑑定を行えば一発なんですが、肝心の包丁は今検察が保管していて、我々の証拠開示請求にも向こうはなかなか応じないんです。無理もない話かもしれませんが」
今までにもこうした冤罪疑惑事件で検察が証拠開示に応じた例は非常に少ない。武田はそれを言っているのだ。
「妙な話ですね。事件さえなければただの古ぼけた物でしかなかった雑貨品が、事件解決に必須でありながら手に入れるのが難しい一級の宝物になっているんですから」
「確かに」
そう言ってから、武田はこんな事を言い添えた。
「実は、今の山口県警の人事構成も、我々にとっては相当不利なものになっております」
「どういう意味ですか?」
「今の山口県警本部長・大野塚竜一郎警視長と、山口県警刑事捜査一課長・多賀目哲弘警視正は、双方共に事件当時捜査本部が置かれていた山口中央署の出身です。しかも大野塚本部長は当時の山口中央署署長。多賀目警視正に至っては当時の山口中央署刑事課係長で、鬼島さんを尋問し、逮捕した張本人なのですよ」
榊原は大きく唸った。
「……なるほど、山口県警の要職にある彼らが、かつて自分たちのやった捜査に対する冤罪を認めるはずもない、という事ですか」
「実際、こちらの運動に対してもかなり圧力がかかっております。ただ、それ以前に今の山口県警は色々と問題がありましてな。必ずしも一枚岩ではないのです」
「といいますと?」
「権力抗争です」
思わぬ言葉に榊原は訝しげな表情をする。
「実は、数年前に着任してきた山口県警刑事部長・横広秀三郎警視長と、さっきの大野塚本部長と多賀目捜査一課長コンビの仲が非常に悪くて、互いが互いのスキャンダルを探り合っている状態なのです。何でも、大野塚本部長と横広刑事部長は二十年くらい前に神奈川県警でも一緒になった事があって、その頃から出世の激しいライバル関係にあったとか」
「それで権力抗争ですか?」
「横広刑事部長はこの事件について二人を失脚させる絶好の道具であると判断しているようで、二人とは逆に隙あらばこの事件を再捜査に持ち込もうとしているようでして。もしここで冤罪が発覚すれば、大野塚本部長と多賀目捜査一課長が失脚するのは間違いありませんからな」
「随分な話ですねぇ……」
聞いていた瑞穂はため息をつく。だが、武田はさらにこんな事を言い始めた。
「いえ、実のところ横広刑事部長自身も相当必死なのです。このままでは大野塚本部長たちの前に、自分が失脚する事になりかねないのですよ」
「え、どういう事ですか? 横広刑事部長にも何か弱みがあるんですか?」
不思議そうに聞く瑞穂に、武田は大きく頷いた。
「おおありでしてな。横広刑事部長は先日再審が確定した『三条事件』の際、『三条事件』の捜査本部がおかれていた新潟県警三条東警察署の署長だったのです。その後すぐに神奈川県警に栄転したと聞いています」
「……なんですって?」
あまりの話に、榊原は呆れてものも言えなかった。
「つまり、三条事件の決着がつく前に大野塚本部長たちをどうにかしないと、逆に自分の方が大野塚本部長たちに『三条事件』の一件を告発されて失脚しかねないのです。実際、大野塚本部長たちは新潟県警と連絡を取り合っていて、無罪判決確定後の警察による再捜査をしきりに勧めているとか」
「しかし、他県警の捜査方針にそんなに簡単に口は出せないでしょう?」
「現新潟県警本部長・服部法助警視長が山口事件当時の山口県警刑事部長なのです。つまり、大野塚たちとは同類。『三条事件』の再審決定でただでさえダメージを受けている最中ですから、服部本部長も『山口事件』が冤罪になるのは都合が悪いのですよ。そんなわけで、もしかしたら再審無罪確定後の警察による冤罪事件の再捜査が『三条事件』で現実になる可能性があります」
「なんとまぁ……」
榊原としてはそう言う他なかった。
そうこうしているうちに、車は宇部市に入っていく。
「……少々脱線しましたな。話を戻しましょう。さて、これから会う証人についてですが、最近になって支援団体の事務所に電話をかけてきた人物です」
「信頼できるんですか?」
「それは何とも。詳しい話は今日話すといって聞かないので、ここで榊原先生立会いの下、正式に証言を取りたいと、こう考えているわけです」
「……すべては彼の話を聞いてから、というわけですね」
車は閑静な住宅街に入っていく。しばらく細い道を進むと、やがて年季の入ったアパートの前に停車した。
「ここです」
武田、榊原、瑞穂の三人は車を降りる。アパートを見上げながら瑞穂は尋ねた。
「タクシーの運転手さん、なんですよね?」
「ええ。今日は話を聞くために仕事を休んでもらっております。昨日の電話では、部屋で待っているとの事でした」
「部屋の場所は?」
「電話で聞いています。えーっと……」
そのままアパートの階段を登っていく。時間が日中であるためか、アパート人気はなく閑散としている。
「あぁ、その奥の部屋です」
二階の一番奥。そこが重要証人・佐渡島宇平の部屋だった。なるほど、古びたドアの横には『佐渡島』という手書きの表札がかかっている。武田は一度咳払いすると、軽くドアをノックした。
「佐渡島さん、武田です。約束通り、お話を伺いに参りました」
だが、中から返事はない。三人は顔を見合わせた。
「留守、ですか?」
「いえ、わざわざ昨日電話で在宅を確認したはずです。いないはずは……」
「もしかしたら野暮用で出かけていて、先に中で待っていてくれって事じゃないですか?」
そう言いながら、瑞穂がふざけてドアノブに手をかける。が、その表情が不思議そうなものに変わった。
「あれ、鍵、開いてますよ」
「何だって?」
瑞穂が回すと、ドアノブはいとも簡単に回った。
「いくらなんでも、無用心ですね」
瑞穂はそう言うが、榊原の表情は厳しくなった。
「瑞穂ちゃん、ちょっと……」
榊原はそう言うと、瑞穂を押しのけてドアを開ける。その瞬間だった。
「うっ!」
きつい金属臭が部屋の外に吹き出してきた。思わず三人は鼻を覆う。
「こ、この臭いは……」
瑞穂が絶句する。彼女自身、この臭いを嗅いだ事がある。そう、それは半年前、立山高校で起こったあの忌まわしい事件の際に嗅いだ……。
「これ……血の臭いですか?」
恐る恐る言う瑞穂に対し、榊原は黙って部屋の中に踏み込んだ。そして、臭いの元凶はすぐに見つかった。
「何てこった……」
ほとんど家具らしい家具もない部屋の中央。そこで一人の老人が、背中に包丁が刺さったままうつ伏せになって倒れていた。
それから三十分後、佐渡島宇平の部屋は警察関係者でいっぱいになっていた。
遺体を発見してからの榊原の動きはさすがに元刑事だけあって素早かった。その場で一通り部屋の中を見回して他に誰もいない事を確認すると、そのまま部屋の外に出て即座に警察に通報したのである。武田も瑞穂も放心状態で、素直に榊原の指示に従った。
「まさか……こんな事になるなんて……」
せっかく見つけた証人が殺されて、武田は相当に落胆しているようだ。今、榊原たちはアパートの入口辺りで待機している。そんな榊原たちの下へ、アパートの中から二人の刑事が歩み寄ってきた。
「宇部署刑事課係長の長江丈太郎だ。こっちは主任警部補の富士本一郎」
「富士本です」
長江は五十代、富士本は四十代中盤の、ベテラン二人組といった風貌の刑事だった。
「あんたらが、遺体の発見者か?」
長江が高圧的に尋ねる。これには武田が答えた。
「そうです。あの遺体はやっぱり佐渡島さんだったのですか?」
「……あぁ、そうだ。運転免許証の顔写真と一致した。あれは部屋の持ち主、佐渡島宇平で間違いない。検視官の話じゃ、すでに死んでから十二時間程度は経っているそうだ」
長江が苦々しげに答える。
「まずはあんたらの身元を聞いておこうか」
「……東京で私立探偵事務所を経営しています、榊原恵一です」
「その助手で立山高校一年生の深町瑞穂です」
「弁護士の武田です。武田剣信」
その言葉に、長江の眉がピクリと動いた。
「武田……お前、まさか『山口事件』の支援団体の武田か!」
「いかにも」
「はっ、よりにもよって一番嫌いなやつが発見者とはな」
長江の憎々しげな言葉に、榊原は武田に耳打ちした。
「お知り合いですか?」
「いいや。ですが、私にとっては無関係ではない男です」
「というと?」
続いて、武田は意外な事を告げた。
「この長江丈太郎という刑事は、二十年前の『山口事件』の際、県警刑事部捜査一課の警部として事件捜査の指揮を担当した男です。当時山口中央署署長だった大野塚本部長や、当時山口中央署刑事課係長だった多賀目捜査一課長とは同じ立場の人間なんですよ」
ここにも『山口事件』の関係者がいた。
「しかし、県警刑事部にいた刑事が、所轄署の刑事課にいた多賀目捜査一課長より昇進が遅いというのは?」
「山口事件解決直後に担当した別の事件の際に取調べで被疑者を殴りつけてしまい、出世街道から外れたと聞いています。確か県警刑事部から所轄署に異動になって、その後は県内の所轄を転々と移動し続けていると聞いていました。まさか、宇部署にいたとは」
一方、長江は苦々しい表情で吐き捨てる。
「おい、弁護士先生。余計な事を言ってるんじゃねぇぞ」
と、何やら連絡を取っていた富士本が長江に耳打ちした。
「警部、殺人事件という事で正式にうちへの捜査本部の設置が決定しました」
「もう決定したのか。随分早いな」
「その、被害者が『山口事件』の関係者と聞いて、横広刑事部長が独断専行で決定した様子です。捜査権に関しては刑事部長に一任されていますから」
「余計な事を。これをきっかけに『山口事件』を穿り返す気か」
「それで、県警から捜査班がやってくるようです。そろそろやってくるようですが……」
「どこの班だ?」
「そこまでは私も聞いていません」
と、そこでいきなり瑞穂が恐る恐る手を上げた。
「あのぉ……」
「どうした? 何か思い出した事でもあったのか?」
「いえ、そうじゃなくて……お手洗い、行ってもいいですか?」
どうやら、ずっと我慢していたようである。二人の刑事はため息をついた。
「近くの公園にトイレがあったから、そこに行ってきなさい。早く戻るように」
「す、すみません。じゃあ……」
そう言うと、瑞穂はその場から離れた。
「まったく、いい気なもんだな」
「いいんですか? 一人で行かせても」
「問題ないだろ。どう考えても犯人の可能性は低いし、それに公園でも警官が捜査をしているから、逃げようがないはずだしな」
そんな話をしているうちに、一台のパトカーが現場横に滑り込んできた。ドアが開き、四十歳半ばくらいの男が顔を見せる。その顔を見た瞬間、富士本の表情が厳しくなるのを榊原はしっかり見て取っていた。そうしている間にも、男は長江たちに近づいて挨拶する。
「どうも、県警警部捜査一課主任警部補の光沢春義です。よろしくお願いします」
「宇部署の長江です。それと……」
「久しぶりだな、光沢。随分出世したようだな」
不意に、富士本がそんな言葉を光沢にかけた。
「何だ、知り合いか?」
「……五年ほど前まで、同じ宇部署刑事課の同期でした。こいつはさっさと県警刑事部に移ってしまいましたがね」
「富士本、お前も相変わらずだな」
光沢も苦笑しながら答える。一方、富士本はむっつりした表情で顔を背ける。ようやら、あまり仲はよくないようだ。代わりに長江が対応する。
「すみませんね、知らなくて。私は二年前に宇部署にきたばかりでしてな。ところで、こういう場合県警刑事部の係長さんもいらっしゃるのが普通ではないのですか? あなた一人とはどういうわけで?」
「実は、先日起こった下関の拳銃密売人殺しの一件の事後処理に出かけている最中でして。さっき連絡しましたから、しばらくすれば来ると思います。色々と変わった上司でして。まぁ、その分実績はあるのですが……」
皮肉めいた口調の長江に対し、光沢は落ち着いた口調でかわす。
「ふん、いいご身分ですな。しかし、あの下関の拳銃密売人殺しとなると……確かに腕だけはあるようだ。せいぜい、期待させてもらうとしましょうか。富士本、もう一回現場を調べるぞ」
そういうと、長江は富士本を引き連れてまた現場へと戻っていった。それを見送ると、改めて光沢が榊原たちの対応に当たる。
「すみませんな、見苦しいところをお見せしてしまって」
「いえ」
「それで、早速なんですが……」
と、そのとき今度は光沢の携帯電話が鳴った。
「あー、何というか、すみませんね。何度も何度も」
「いえ、お構いなく」
光沢は何度も謝ると電話に出た。
「光沢です」
『横広だ』
相手は刑事部長の横広だった。
「これは部長。部長自らお電話とは、どういう事ですか?」
『いや、現場がどうなっているのか気になってな。どうだね、状況は?』
「私も今着いたところでして。本格的な捜査はこれからです」
『事件のあらましはすでに所轄からの報告で聞いている。捜査本部には私も出よう』
「部長自らですか?」
『事は「山口事件」にもかかわっている。私が出るのが適任だろう。とにかく、現場の捜査はもとより、双方の発見者にも話を聞いて一刻も早く捜査体制が整えられるように』
「……わかっています」
『では、本部で待っているぞ』
それで電話は切れた。光沢はため息をつく。
「部長も必死だな。多賀目課長を差し置いて連絡してくるとは……。どこかでA型の人間は気配りができると聞いた事があるが、どうやら嘘らしいな」
もっとも、B型の光沢もそこまで一般に言われるB型の性格に一致しているとは思えず、むしろO型の上司の方がB型っぽい性格である。どうも血液型による性格分析は当てにならないのかもしれない、などと光沢は事件と関係ない事を一瞬考えた。
とはいえ、いつまでもそんなくだらない事を考えているわけにもいかない。小さく頭を振って頭を切り替えると、手持ち無沙汰にしている榊原たちの方に今度こそ向き直る。
「何か、すいません。こっちも色々とごたごたしていまして」
「いえ……」
と、ちょうどそのとき、一台のタクシーが現場の前で停車した。
「あぁ、ちょうどいい。うちの上司も来たようです」
「上司、というと、さっき言っていた県警刑事部係長の?」
「えぇ、まぁ。少し変わった人間ですが、そこはご容赦して頂ければと」
そう言っているうちに、タクシーから誰かが降りてくる。年齢は三十代半ば。彫りの深い端正な顔立ちで、一目見てブランド物だとわかる高級そうなスーツに上物のコートを着込んでいる。だが、その端正な顔つきが、榊原たちの方を見て変わった。
「あなたは……」
それに対し、榊原の方も驚いた表情を浮かべた。
「君は……一里塚君か?」
「……お久しぶりです、榊原さん」
山口県警刑事部捜査一課係長……一里塚京士郎は、そう言いながら、榊原に向かって敬礼をしたのだった。
一里塚京士郎。現山口県警刑事部捜査一課係長。階級は警部。国家公務員二種試験を通過したいわゆる「準キャリア組」と呼ばれる人間で、この種の人間には珍しく刑事畑一筋で各地の都道府県警を異動し続けている男だ。通常、国家公務員は多数の部署を回るものであるが、この男は刑事部以外への以外を拒絶し続けており、またそれに見合うだけの功績を異動先の刑事部で叩き出し続けている事から、上層部としても彼には刑事部にい続けてほしいという思惑が働いているらしい。実際、今月の初めに下関市で発生した拳銃密売人殺害事件、通称『耳無し芳一殺人事件』では、その見事な推理で不可能犯罪を引き起こしていた真犯人を逮捕していた。
「しかし、まさか山口県警にいるとは思わなかった」
「一年前からですよ。今までにいくつもの県警を回りましたが、今のところはここが一番ですかね」
榊原の言葉に対し、一里塚は丁寧に答える。
「えっと、あの、先生とこの刑事さんはどういうお知り合いなんですか?」
いつの間にかトイレから戻ってきていた瑞穂が尋ねる。
「あぁ、瑞穂ちゃん、戻っていたのかい」
「えぇ。公園も警官だらけで、何だか落ち着きませんでしたけど」
「この子は?」
一里塚が尋ねると、榊原が答える前に瑞穂自身が答える。
「先生の助手をしています、立山高校一年の深町瑞穂です」
「それは、それは……私は一里塚京士郎。榊原さんは、私の人生の師なんですよ」
一里塚はあくまで丁寧な口調で答えた。
「じ、人生の師?」
「ええ。私が最初に配属されたのは警視庁管轄内の所轄署でしてね。そこで起こった事件の際に本庁捜査一課から応援に派遣されてきた榊原さんとコンビを組んだんです。当時の私は出世しか頭にない典型的な野心家でしてね。当初は反発したりしたんですが、そこで榊原さんから刑事のイロハを叩き込まれ、刑事の何たるかを教わりました。それからです、私が刑事課一筋になったのは。だから、私は今でも榊原さんを尊敬しています」
「へぇ、先生がねぇ」
瑞穂は意味ありげな目で榊原を見つめる。榊原は小さく咳払いをする。
「あの野心家刑事が、まさかここまで有能になるとは、私自身驚いているくらいだ。瑞穂ちゃん、彼が私に最初に会ったとき何て言ったと思う?」
「何て言ったんですか?」
「『私はあなた方の事を踏み台にしか思っていませんから』だ。準キャリアとはいえ仮にも所轄署の刑事が、本庁から来た階級が上の刑事に言うセリフじゃないだろう」
「警部、そんな事を言っていたんですか」
部下の光沢も驚いた表情をする。
「もう十年以上昔の話です。榊原さんも、あまり蒸し返さないでください」
「まぁ、それ以降も何回か一緒に捜査をしたんだが、いつの間にかどこかに異動してしまって、それからすぐ後に私も警察を辞職したからね。縁は切れていたんだが」
「私も色々あったんです。また会えて嬉しいですよ」
そう言ってから、一里塚は真面目な表情になった。
「早速ですが、お話を聞いてもよろしいですか?」
「わかっている。今回の事件、主導するのはお前か?」
「えぇ。本部長は横広刑事部長で、副本部長が多賀目捜査一課長。私が捜査責任者で、その下に光沢さんや所轄の方々がつきます。やはり『山口事件』絡みという事で、厳戒態勢が敷かれています」
所轄という事は、やはりさっきの長江や富士本といった面々なのだろう。なかなかに濃い面子の捜査本部で、部外者の榊原でも心配になってくる。
「横広部長と多賀目課長が一緒に捜査できるのか?」
「多賀目課長は横広部長に対する大野塚本部長のお目付け役のようです。前途多難です」
そう言ってから、一里塚は鋭い視線を榊原たちに向けた。
「では、発見に至るまでの行動をお聞かせ願えますか?」
それから十数分かけて、榊原たちはここに至った経緯を一里塚に説明した。もっぱら一里塚が質問し、光沢はそれをメモする事に徹している。
「なるほど」
一里塚は納得したように頷いた。
「事情はよくわかりました。それで武田さん、結局被害者が何を話そうとしていたのかはわからないという事でよろしいのですね?」
確認を求める一里塚に、武田は素直に頷いた。
「ええ。何度か電話口で話してくれるように交渉はしたのですが、直接会わないと話したくないの一点張りで。ただ……」
「ただ?」
「確かに、『山口事件』の捜査資料には佐渡島宇平の名前はあるのです。といっても一ヶ所だけ。事件直後の聞き込みで、当時の捜査員が現場近くのタクシー運転手を洗った際に少しだけ証言しているのですが、『何も見ていない』と大した証言ではなかったようです。とはいえ、彼が事件直後に事件現場近くでタクシーを転がしていたのは事実のようですから、話を聞いてみようという事になりました」
「そうですか……。ちなみに、あなた自身、昨夜は?」
「ずっと支援事務所で仕事をしていました。複数の仲間が証人に立ってくれるはずです」
と、そこで光沢の電話に連絡が入った。しばらく電話口で何事か話していたが、やがて一里塚に耳打ちをする。
「本当ですか?」
それを聞いて、一里塚が複雑そうな表情をした。榊原はそれを見逃さない。
「どうした?」
「……最初の捜査会議の日時が決定しました。今夜だそうです」
その言葉に、榊原の表情も険しくなる。
「早すぎるな」
「えぇ。普通は捜査や鑑識を待つために一日程度時間がおかれるはずですが……どうも、刑事部長が色々画策しているようですね」
「それで捜査会議が成立するのか?」
「わかりません。ただ一ついえるのは……」
一里塚は断言した。
「この事件が、いつも以上に厄介になりそうだという事です」
同時刻、山口県山口市、山口県警本部。その本部長室で、この部屋の主である大野塚竜一郎は苛立たしげに爪を噛んでいた。現在の階級は警視長だが、数ヶ月後には大規模警察であり出世街道にも通じる北海道警の要職への異動がほぼ内定しており、意気揚々としている中でのこの事件だった。
彼にとって、『山口事件』は鬼門でしかない。もう二十年も前、ほんの一年程度しかいなかった山口県警山口中央署署長時代に行き当たったありふれた殺人事件の一つに過ぎないはずだった。それがまさか今になって、しかも再び山口県警に配属されたまさにこの瞬間に問題化するとは、大野塚にとっては悪夢以上の何物でもなかった。
しかも、よりによって今の山口県警の刑事部長は、長年自分と権力の座を奪い合ってきた宿命のライバルである。どこまで状況が悪くなるのか、大野塚自身にもはっきりしなかった。
と、部屋のドアがノックされる。
「入りたまえ」
大野塚が呼びかけると、ドアの向こうから二人の人物が顔を出した。横広秀三郎刑事部長と多賀目哲弘捜査一課長。自身を蹴落とそうとあからさまな動きを見せる横広と、『山口事件』に関しては大野塚と呉越同舟のような関係になる多賀目捜査一課長。何とも異色の組み合わせである。
「何ですかな、本部長。今捜査本部の立ち上げで忙しいのですが」
横広が意地の悪い笑みを浮かべながらニヤニヤと笑う。その後ろで控える多賀目が苦々しい表情を浮かべているのを見ながら、大野塚はこう言った。
「随分だな。今回の事件、事は山口県警の沽券にもかかわるかもしれない。にもかかわらず私に何の相談もなく、勝手に捜査本部を設立した上にその捜査本部長に収まるとはな」
「事件は迅速な捜査が鍵となります。当然の行動でしょう」
「君は『ホウレンソウ』も知らんのかね。なぜ私に一言も報告がない!」
大野塚の物言いに、横広はせせら笑う。
「あなたは『山口事件』に近すぎますからな。それと、捜査に関する全権は私にあることをお忘れなきように」
「……あの事件を掘り返すつもりか」
「事件の真相が間違っていたなら正しく直すべき。当然でしょう」
「その言葉、貴様にそっくりそのまま返したいものだな。新潟県警が聞いたらさぞ喜ぶだろう」
「その前に、あなた方が悲鳴を上げるかもしれませんがな。無事に北海道に行けるといいですね」
大野塚と横広の間に火花が散る。
「お話はこれだけでしょうか。では、これで」
「……報告しなかった件については、後で問題にするぞ」
「ご自由に。事件が解決したらそんなものはいくらでも受けましょう。もっとも、そのときまでにあなたがいればのお話ですがな」
そう言うと、横広は部屋を出て行った。後には多賀目が残る。
「……多賀目! どうにかならんのか!」
「殺人事件が起こっている以上、捜査本部の立ち上げは回避できません。とはいえ、私が捜査本部副部長になる事は認めさせました。さすがに横広部長もこれは拒否できなかったようです」
「間違いなく殺人なのか? 自殺や事故の線は?」
「現場の状況から、殺人以外はありえないという報告が入っています。これを覆すのはまず無理です」
多賀目が苦りきった表情で言う。
「……県警からは誰が行く?」
「横広部長たっての希望で、一里塚班の出動が決まりました」
「『耳無し芳一事件』の一里塚か! 厄介だな」
「えぇ、実力が高い上に、上層部も彼の実力を求めています。うかつに手は出せません」
「……捜査本部は宇部署だな。という事は、長江がいるのか?」
「ええ。先程、連絡を取りました」
「よろしい。一里塚の件は私が何とかする。君は長江と連携して横広をしっかり監視しろ! やつの暴走を許すな!」
「もちろんです。では」
多賀目は一礼すると部屋を出て行く。と、同時に卓上の電話が鳴った。
「大野塚です」
『私だ』
その言葉に、大野塚は姿勢を正す。
「服部さん」
相手は新潟県警本部長の服部法助警視正だった。同じ県警本部長だが、大野塚にとって服部は先輩筋に当たり、今でもつながりがある。「山口事件」の際には山口県警刑事部長の地位におり、彼にとっても「山口事件」は人事ではない。
『吉報だぞ。新潟県警は「三条事件」の再捜査を正式に決定した。今から刑事部腕利きの刑事が集まって、三条東署で捜査会議を行う』
「本当ですか」
『当時の捜査本部の杜撰さも徹底的に洗う手はずだ。無論、横広君に関してもな。そっちはどうなっている?』
「『山口事件』の証人が殺されました。やつはこれを機に『山口事件』を掘り返すつもりです」
『よくないな……』
「ご心配なく。手は打ちます」
『頼むぞ。こっちも一刻も早く「三条事件」の捜査を進める』
「ありがとうございます。ところで、実はそれに関して一つお願いがあるのですが……」
しばらく話した後、大野塚は受話器をおろす。そのまましばらく深刻そうな表情をしていたが、やがて再び受話器を上げるとどこかにかけた。
「……大野塚だ。この間の拳銃密売人殺害事件の折には迷惑をかけたな。ところで、折り入って頼みがあるのだが。そう、君に……山口地検にしかできない事だよ」
その日の夜、山口県警宇部署に、通常では考えられないほどの速さで捜査本部が設置され、早くも幹部たちが捜査本部入りしていた。すぐに第一回目の捜査会議が始まろうとしている。その異常な速さに、刑事たちも戸惑いを隠せないでいた。
「では、これより『宇部市タクシー運転手殺害事件』の捜査会議を始める」
捜査本部長の横広の言葉で、この異様な空気の捜査会議は始まった。
「まず、事件概要の説明を」
「はっ」
副本部長の多賀目の言葉に、長江が立ち上がって報告する。
「本日午後二時頃、宇部市内のアパートの一室において、この部屋に住むタクシー運転手・佐渡島宇平の刺殺体が発見されました。第一発見者は彼に話を聞きにきた弁護士の武田剣信ら数名。鑑識の簡単な見立てによれば、死亡推定時刻は発見時から十二時間以上が経過しており、昨日、すなわち十一月二十二日木曜日の午後九時から本日午前一時までの四時間ほどに限定されるという事です。詳しい解剖記録は後日になりますが、この見立てが大幅に覆る可能性はまずないだろうというのが鑑識の見解です」
続いて富士本が立ち上がって報告する。
「昨夜午後十時頃、弁護士の武田剣信が本日午後二時……つまり遺体発見時刻に訪問する旨を電話で伝えています。これは支援事務所及び現場にあった電話の通話記録から間違いありません。さらに武田は通話を録音していて、その通話内容において被害者が武田の受け答えにちゃんと答えている事から、少なくともこの時間まで被害者が生きていたのは間違いないと考えられます。つまり、犯行は二十二日午後十時から二十三日午前一時までの三時間に限定されます」
「武田弁護士に関してはどうだ?」
「電話をかける前後から今日に至るまで複数の証人がいて、アリバイは完璧です。犯人ではありえません」
横広の言葉に、長江がはっきりと言う。
「凶器は室内にあった包丁です。詳しくは解剖待ちですが、他に外傷もないのでこれが死因と見て間違いないと思われます。背後から一突きされており、部屋のほぼ中央でうつぶせに倒れていました。なお、この包丁は被害者自身の持ち物のようです。指紋、その他に関しては現在調査中」
暗にこの捜査会議の開始の早さを批判しながら富士本が報告を続ける。
「目撃者は怪しい人間に関しては?」
「事件からまだ数時間しかたっていないのにわかるわけがないじゃないですか。これから調べます。文句はありませんね」
横広の問いに、長江があからさまに反抗的な態度で挑発する。横広は一瞬ムッとしたようだが、すぐにこう切り替えした。
「では、この一件と『山口事件』との関連に関しては? それも答えられないか?」
その言葉が発せられた瞬間、その場の空気が一気に張り詰めた。
「それを判断するのは早計と判断します」
「だが、聞けば被害者は武田弁護士に対して『山口事件』について何か証言すると言った矢先に殺害されている。関係ないと思う方に無理があると思うが」
「刑事部長、だからといってすぐに『山口事件』と結びつけるのは短絡過ぎるのではありませんかな」
傍らから多賀目が口を挟む。
「短絡的、だと?」
「『山口事件』の捜査記録によれば、被害者は事件直後に周囲を転がしていたタクシー運転手の一人に過ぎない。また、あの事件の真犯人はすでに逮捕されており、これ以上議論の余地はない。そういう事です」
「それが実は間違いで、新証言をされそうになって焦った事件関係者が先手を打って被害者を殺害した。そういう可能性も考えられるのではないか?」
「あなたはかつての山口県警の捜査にけちをつける気ですか!」
横広の思い切った言葉に多賀目が憤ったように立ち上がる。横広はそんな多賀目を冷静にジッと見つめ続けている。両者の間に見えない火花が散った。
「……確かに、部長の発言は多少飛躍が大きすぎます」
不意に、間に挟まれた一里塚が静かに発言した。
「ですが、可能性をまったく否定する事もできません。どうでしょうか、ここは選抜した数人のみを『山口事件』の資料確認にまわし、残りの捜査員を通常捜査に回すというのは」
「しかし……」
「あくまで確認です。それで関係ないと証明できればそれはそれで捜査の進展でしょう。何より、証拠も何も挙がっていない現状でこの議論をするのは時間の無駄です」
一里塚の正論に、誰もが押し黙るしかなかった。
「どの道、事件が事件だけにマスコミも騒ぎますから、『山口事件』の捜査をまったくしないわけにもいかないでしょう。なら、ここは先手を打ってさっさと『山口事件』が関係ないことを証明すべきだと考えますが、いかがでしょうか?」
「……確かに、それが最善か」
多賀目は忌々しそうに吐き捨てた。
「今は何より情報です。あまりにも情報が少なすぎます。部長、それで妥協して頂けませんか?」
「……わかった」
横広は全員に呼びかけた。
「各員、以後は情報収集に努めろ。次回捜査会議は明日のこの時間。検討を祈る。解散だ」
それを合図に、刑事たちが一斉に本部を飛び出していく。横広は机に手を突いて小さく頭を振った。
「すまないな、一里塚」
「いえ、私は正論を言っただけです。状況如何では、今後部長の敵になるかもしれません」
「……つくづくお前は恐ろしいな」
「私も失礼します」
そう言って、一里塚は残っていた光沢に合図を送った。光沢も立ち上がり、二人も捜査に向かおうとする。
と、そのときだった。
「待て、一里塚」
不意に多賀目が一里塚を呼び止めた。振り返ると、多賀目が携帯電話を差し出している。
「本部長だ。お前に代われと言っている」
「私に、ですか?」
多賀目は頷く。一里塚は多賀目から携帯を受け取った。
「一里塚です」
『大野塚だ。早速だが、君は山口県警に来る前に新潟県警に所属していたな?』
唐突な話に、一里塚は首をひねる。
「はい。三年ほど新潟県警の刑事部に所属していました。それが何か?」
『至急、新潟に行ってくれ。これは命令だ』
あまりにも急な話だった。が、一里塚は表情を押し殺して応対を続ける。
「理由は何ですか。仮にも捜査本部入りしている刑事を引き抜くからには、それなりの理由があると思いますが」
『「三条事件」の再捜査が決定した』
その言葉に、一里塚の眉が小さく動く。
『新潟県警は再捜査の決定に伴い、これまでの捜査を徹底的に洗いなおすつもりだ。で、先程新潟県警本部長から正式に要請があった。三年前まで新潟県警に所属していた一里塚、君を一時的に派遣してもらえないか、と』
「わかりませんね。かつて所属していたとはいえ私はすでに山口県警所属の身。それに『三条事件』は二十年前で、私には直接関係ありません。なぜ今になって私が……」
『そんな理由は知らん。とにかく、新潟県警は君の派遣を要請していて、私もそれを承認した。伝えるべきはそれだけだ』
「……拒否はできない、という事ですか?」
『一応言っておくが、向こうの本部長が言うにこの件に関しては上……警察庁も了承済みらしい。特例、という事らしいがな』
「……わかりました」
『明日の早朝には出発したまえ。明日の昼には三条東署で最初の会議が行われる。そこで合流できるようにな』
電話は切れた。一里塚は電話を返すと、事情を横広たちに説明する。
「何で、今このタイミングで……」
横広は怒りのあまり血管が切れそうになっているが、無理もないだろう。明らかに大野塚と新潟県警の服部本部長の画策である。だが、これを拒絶する権利は一里塚にも横広にもない。
「申し訳ありませんが、しばらくここを離れます。向こうが片付き次第、すぐに戻りますので」
「……くそ!」
横広はそう吐き捨てた。向こう……すなわち『三条事件』が片付くという事は、それは『三条事件』の捜査に関与していた横広の命運が尽きたという事につながりかねない。つまり、一里塚が戻ってくるときには横広は失脚しているという事になり、必然的にこの先一里塚をこちらの捜査に投入できないのと同義の状況が生まれてしまっているのだ。大野塚からからしてみれば、厄介者の一里塚を見事に追い払ったという事なのだろう。
それを知っていながら、多賀目はしれっとした表情でこう言う。
「そうか……君が離れるのは残念だが、本部長命令なら仕方がない。しっかりやってきたまえ」
「……了解しました。では、失礼します」
一里塚はその場で回れ右をすると、事態の急展開に呆然としている光沢にこう耳打ちした。
「明日朝の出発まで時間があります。少し付き合ってください」
「何をする気ですか?」
「このまま黙って本部長の手のひらで踊るつもりはありません」
そう言ってこう言い添える。
「こちらも一つ仕込みをさせてもらいます」
それから数時間後、山口県山口市内のビルの一室。榊原たちは宇部市を離れ、このビルにある武田所属の支援事務所にいた。何やら一ヶ所に集まってテープを聞いている。
『……はい』
『あぁ、武田です。先日はどうも』
『……何の用ですか?』
『先日の件です。実は、こちらもあなたの話を聞く準備が整いましてね。急なお願いで申し訳ありませんが、明日の昼二時頃にお宅を訪問させて頂いてもよろしいですか?』
『……そうですか。私はいつでもかまいません。ちょうど休日ですし、明日は仕事を休んで待たせてもらいます』
『それで、私以外にもう一人立会人を連れて行きたいのですが、よろしいですか?』
『立会人?』
『あなたの話が本当かどうかを判定する第三者です。人選は私が信用している人間を連れて行きますが、ご異存はありますか?』
『……構いません。すべてお任せします』
『それでは、詳しい道順を教えてもらいたいのですが……』
そこまで聞くと、榊原はテープを止めた。それは、昨日武田が被害者にかけた電話を録音したものだった。
「時間は午後十時過ぎ、か」
榊原は記録を見ながら呟く。
「何ていうか、随分無口な人だったみたいですね。結局、この人が何を話したかったのかもわかりませんし……」
瑞穂が横で感想を漏らす。一方、武田は厳しい表情で榊原を見ていた。
「それで榊原先生、あなたはこの事件にかかわるつもりですか?」
「まぁ、行きがかりとはいえ巻き込まれた以上、このままにしておくつもりはありません」
榊原ははっきり告げる。
「しかし、今回は警察の権力抗争も絡んでいますからね。警察の情報も当てにできませんから、相当厳しい事件になるのでは?」
「私なりに勝手に捜査しますよ。私も一介の探偵ですからね」
榊原は淡々と告げる。
「……それで、今のところの見立ては? 宇部市からここに戻ってから、随分色々調べていたようですが、どちらへ行かれていたのですかな?」
榊原はあごに手をやってこう言った。
「とりあえず『山口事件』の現場になった県営住宅と、問題の凶器を売っていたという刃物店に。何にしても、現場を実際に見てみないと何ともいえませんのでね」
「……という事は、『山口事件』が今回の事件に何か関係していると考えられているのですか?」
武田の鋭い突っ込みに、榊原は苦笑する。
「そこまではまだ。ただ……」
「ただ?」
「次にすべき事は、それなりにわかったつもりです」
榊原は何やら意味ありげな言葉を告げる。それを聞いて、武田と瑞穂は顔を見合わせた。
「調査で何かわかったのですかな?」
「いやぁ、私にはまったく……」
一応榊原に同行して調査に出ていた瑞穂は申し訳なさそうに言う。
と、そのとき事務所のドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
武田が呼びかけると、二人の人物がドアの向こうから姿を見せた。
「あれ? 一里塚警部さんたち」
やってきたのは一里塚と光沢だった。何やら深刻そうな表情をしている。
「どうかしたか。何か進展でも?」
「それどころではなくなりました」
一里塚はそういうと、自分が新潟に派遣される事になった事実を告げた。
「この時期に新潟に、か」
「『三条事件』絡みで呼び出されたらしいです。おそらくは……」
「大野塚本部長と服部本部長の差し金、だな」
榊原と一里塚の見解は一致した。
「とはいえ、このまま上の権力抗争に巻き込まれてこちらの事件から外されるのも癪ですので、一つ仕込みをしておきたいと考えています。すなわち……」
「私、という事か」
榊原の言葉に、一里塚は頷いた。
「あなたの存在は、上の人間にとって完全にイレギュラーです。よってここからこの閉塞状況に活路が見出せるかもしれません。そこで非公式で構いませんから光沢を助けてもらえませんか? そうすれば、光沢を通じて私にも連絡がいくようになっています。見返りに、我々は事件の情報を提供しますが、いかがでしょうか」
「私と手を組むという事か……いいのか?」
「榊原さんの事ですから事件を調べているのでしょう。それなら、こうするのが事件解決のために一番だと判断したまでです。榊原さんの実力は、私自身が嫌というほど知っていますから」
一里塚はそう言うと榊原の返答を待った。全員が見つめる中、榊原はしばらく考え込んでいたが、やがて何か決断したように頷くと、
「わかった、手を組もう」
と、首を縦に振った。
「ありがとうございます、では、後の事は……」
「ただし、条件がある」
不意に榊原は一里塚の発言を遮ってそう述べた。
「条件、ですか?」
「というより、頼み事だな」
そして、こんな事を言い始めた。
「私も新潟に同行したい」
それは、全員の予想の斜め上を行く発言だった。
翌日、すなわち十一月二十四日土曜日早朝。福岡空港のロビーに二人の人影があった。
「この段階で榊原さんが新潟行きを希望するとは思いませんでした」
「私は新潟県警に首は突っ込まない。そっちは一里塚君に任せる。私は私で、勝手に現地で動く。あとは頃合を見て合流し、それぞれの情報を交換する事にしよう」
人影……一里塚と榊原はそう言いながら搭乗開始を待っていた。
「ですが、どうしてまた?」
「いや、昨日の調査で気になる点があってな。それで、少し三条事件を調べたくなった」
「気になる点というのは?」
「まぁ、それについては追々話す。とにかく、事件解決のためにはこれが最善だと判断した」
「あくまで、今回の事件解決のために、という事ですか? つまり、榊原さんは山口事件でだけではなく、三条事件も今回の事件がつながっていると?」
「……それを確かめるために新潟に行く。調べるのは一日でいい。それで何も出なければ私の考えが間違っていたという事。また山口に戻って推理をやり直す」
「そうですか。……しかし、また榊原さんとコンビを組めるとは思っていませんでした」
「私もだ。問題は、あちらのコンビがうまくいくかだが……」
「私は彼を信用しています。だからこそ、この案に同意しました。榊原さんもそうではないのですか? 彼女を信じているからこそ、新潟行きを決断できた」
「まあ、そうでなければこんな作戦には出ないがな」
榊原はそう言うと、その視線を思わず山口の方へと向けた。
「山口事件の方は任せるぞ」
「で、何で私なんですかぁ!」
早朝の山口市。パトカーの後部座席で瑞穂はそう叫ぶと、運転席で苦々しい表情をしている光沢を見つめた。
「まさかこのコンビで行動する事になるとは……警部も何を考えているのか」
「いいんですか? 刑事が女子高生と一緒に捜査するなんて?」
「捜査じゃない。捜査そのものは私がするから、君はその情報を新潟にいる警部や榊原氏に伝えるのが仕事だ。捜査本部にはあくまで君は『参考人』として同行してもらっていると報告してある」
「つまんないなぁ」
「一応言っておくが、現行の法律では一般人に捜査権はない。覚えておきなさい」
「……でも、向こうは凄いですよね。日本有数の私立探偵と県警一の実力の警部のコンビなんて、追い詰められる犯罪者がかわいそうになってきます」
「その代わり、こっちは刑事と女子高生の凹凸コンビだが」
「それ、言わないでください……」
予想外のコンビ入れ替え劇に、光沢と瑞穂はそれぞれ大きなため息をついたのだった。
午前十時、新潟空港。新潟市の阿賀野川河口にあり、自衛隊の基地も併設されている国際空港である。そのターミナル入口に、榊原と一里塚は出てきていた。
「私は新潟県警から迎えが来る事になっていますが、榊原さんはどうしますか?」
「一里塚君が行った後で適当にタクシーを拾う事にする。後は各自で捜査をして、折を見て落ち合う事にしよう」
「榊原さんが何を調べようとしているのかはわかりませんが……それで結構です」
と、やがて道路の向こうから一台のパトカーが近づいてきた。一里塚の前で停まり、中から誰かが出てくる。
「一里塚さん、お久しぶりです」
出てきたのは三十代中頃辺りの女性だった。なかなかに美人であるが、榊原は一切反応する様子はない。一方、一里塚はやや驚いた表情をしていた。
「あなたでしたか、桜警部補」
「もう警部になりましたよ。一里塚さんが山口県警に移動した後でね」
女性はそう言って笑った。
「榊原さん、紹介します。私が新潟県警にいた時代に私とコンビを組んでいた、桜京刑事です。当時は警部補だったのですが……」
「今は警部に昇進して、新潟県警刑事部係長をしています。えっと、一里塚さん、こちらは?」
「榊原恵一さん。私の昔の上司で、今は警察を辞めて私立探偵をされています。飛行機でたまたま一緒になって、こうして一緒に出てきたのですが……」
「あなたが榊原探偵ですか?」
桜は驚いた表情をした。
「知っているのですか?」
「去年、新潟県で起こった事件を解決されていますよね。私は担当じゃなかったので面識はありませんでしたけど、そのときに名前と実力は拝見させて頂きました」
「それは、恐縮です」
榊原は頭を下げる。
「け、警部ぅ~。早く出さないと本部長が怒っちゃいますよぉ~」
と、運転席から若い女性刑事が顔を出した。何というか刑事なのに弱気オーラ満載で、子リスのようにクリッとした瞳をし、どこか守ってあげたくなるような風貌をした人物だった。
「あぁ、私が今コンビを組んでいる柏崎鈴巡査部長です。最近になって刑事部にやってきた新人で、今は私が世話をしています。鈴、こちらは一里塚警部。私の昔の上司よ」
「よ、よろしくお願いしますぅ」
柏崎はおずおずと挨拶した。
「では警部、早速ご案内します。榊原さんはどちらへ?」
「あぁ、私は個人的な仕事でして。タクシーでも拾いますよ」
「そうですか……。よろしければ、また県警に顔を出してみてください。課長も喜ばれると思います。では、失礼します」
二人の女性刑事が車の前に乗り、一里塚は後部座席に乗り込む。
「では、後ほど」
乗り込む際に一里塚は密かに榊原にそう耳打ちし、榊原も頷く。そんな榊原を残して、パトカーは三条市の方へ走り去っていった。
「……さて、と。私も動くとしようか」
榊原はそう言うと、近くのタクシーを探し始めたのだった。
「新潟県警の状況を教えてください。それと、なぜ私が呼ばれたのかも」
パトカーの中で、一里塚はそう桜に切り出していた。
「今回の『三条事件』の再捜査に当たって、上……警察庁は新潟県警が捜査に手心を加えるのではないかと警戒しています」
「同じ新潟県警だからというわけですか?」
「はい。なにぶん警察主導の冤罪事件の再捜査など初めてのことですから何が起こるか想像もつきません。マスコミの目もかなり厳しいですし。ですから、上はそのお目付け役として他県警からの監査役を要求していたんです。それで、本部長は元新潟県警で私たちとも面識があり、なおかつそういう事には公平なあなたを推薦し、上もそれを認めたと聞いています」
つまり、服部の思惑と警察庁の思惑がうまく合致し、そこに大野塚が便乗したという事なのだろう。
「確か、事件はすでに新潟地裁によって再審決定がなされているのでしたね」
「事実上の冤罪決定です。裁判所は、被告人の自供、及び最大の証拠だった凶器のナイフの証拠能力を完全に否定しました。検察の判断で、被告人は即時釈放されています」
「支援者の検証で、ナイフが凶器ではないと判明したと聞いていますが」
「解剖記録に残っていた被害者の致命傷の形状と、凶器として提出されたナイフの形が一致しなかったようです。非常に微妙な違いで事件当時は見過ごされていたようですが、最新の検査で判明するに至りました。また、同じ検査で傷口が実は二回刺されていて、最初の致命傷の上から凶器とされたナイフが突き刺さっていた事実も明らかにされています」
「つまり、真犯人は本物のナイフで被害者を殺害した後、罪を着せるために太田の指紋がついたナイフを傷口に刺し込んでいた、という事ですか」
「その通りです」
「しかも、自白は強要されたものと認定されたようですね」
「あまりにも現場の状況と食い違いが多すぎましたから。ある意味やむを得ないと思われます。というより、よくこれで当時の捜査担当者が逮捕に踏み切れたと呆れ返っているところです」
「その捜査担当者は今どこにいるのですか?」
桜は少し押し黙ると、こう言った。
「当時の新潟県警刑事部捜査一課から派遣されてきた捜査担当刑事は小野坂玄輔です。当然、知っていますよね」
「現在の新潟県警刑事部捜査一課課長……私の元上司で、桜警部、あなたの今の上司でもある人ですね。そうですか、小野坂さんが……」
一里塚は感慨深げに呟く。
「しかし、それなら捜査本部が置かれた三条東署の刑事課にも担当刑事がいるはずですが、そちらはどうなっているのですか?」
「いるにはいましたが事件解決直後に警察を定年退職し、その数年後に病死しています。ゆえに、こちらの方面から追求するには難しいと判断しました。それで今回の再捜査では小野坂さんも再捜査における参考人という形で捜査本部入りしています。今回は立場が立場ですので課長自身は再捜査に直接関与せず、当時の事情を知る人間として私たちが証言を聞く予定ですので、その点ご了承ください」
「なるほど」
一里塚は小さく頷く。
「あ、あのぉ~。山口では今『山口事件』が大変な事になっているって聞いたんですけど、本当なんですかぁ~?」
と、不意に運転席から柏崎がそう呼びかけた。一里塚は苦笑する。
「やはり、こちらでも話題になっていますか」
「真中部長が随分気にしていましたからぁ~」
「真中?」
初めて聞く名前に首をひねる一里塚に、桜が答えた。
「真中義光新潟県警刑事部長です。一里塚さんの転勤後に異動してきたキャリア組の人間で……」
続いて発せられた桜の言葉に、一里塚は珍しく驚いた表情をした。
「『山口事件』被害者、奥浜伊代子さんの幼馴染だと聞いています。ご本人も山口の出身で、事件当時は広島県警本部の警務部に所属していたとか」
こんなところにも『山口事件』の関係者がいた。
「どんな人ですか?」
「仕事じゃなかったら、あまりお近づきになりたくはない人ですね」
桜は苦笑しながら言う。
「というと?」
「真中部長、昔、警視庁警務部監察官室にいたことがあるんです。それも三年間」
「ほう、元監察官ですか」
監察官とは警察内部の監督監査を行い、いわば「警察の警察」とも言うべき部署だ。警視庁の場合は監察官全員がキャリア組の警視で構成され、主席監察官はノンキャリアの警視正が就任する。しかし、主席監察官を除けば監察官の通常の任期は一年前後で、三年も在籍していたというのはやや特殊である。有能ゆえに留め置かれたのだろうか。
「そのせいか随分お堅い人で、警察の内部犯罪は絶対に許さないって感じです。でも、見るべきところはちゃんと見てくれている、仕事の上司としては有能な方ですよ」
「だから、今回の『三条事件』の再捜査もかなり積極的に推進されていたみたいです~。警察のミスは明らかにされるべきだって~。だから、本部長とは少しそりが合わないみたいですよぉ~」
柏崎がそう言い添える。
「でも、未だに独身なんだそうです。『山口事件』で亡くなった奥浜さんの事が忘れられないんじゃないかって、部内では噂になっています」
「そんなに仲がよかったのですか?」
「広島県警時代もよく連絡していたとご本人が言っていました。彼女が誰かと付き合っているのは知っていたみたいですけど、あくまで友人として相談に乗っていたと。だから、『山口事件』については無関心でいられないみたいです」
そう言うと、桜はこう付け加える。
「ここだけの話、一里塚さんを呼ぶという話に一番積極的になっていたのは真中部長です。このときだけは服部本部長と意見が一致したみたいで、一里塚さんの新潟県警への派遣もあっさりと決まったようです」
「そうですか……」
こちらの警察も一筋縄ではいかない。二年ぶりの帰還に一里塚はそう感じながらも、黙って懐かしい外の景色を眺めていた。やや曇った空の下、景色はすでに三条市内に入っている。
「もうそろそろ着きますよ」
桜がそう言って間もなく、パトカーは新潟県警三条東署に到着した。同時に、中から一人の男性が姿を現す。
「お待ちしていました。ようこそ、新潟県警へ。私、三条東署刑事課係長の針本英弘といいます。階級は警部です。今回はよろしくお願いします」
「一里塚です。こちらこそどうぞよろしく」
「本部長と刑事部長、捜査一課長がお待ちです。ご案内します」
きびきびした動作で針本が先導する。
「随分張り切っておられますね」
「二十年前の三条事件当時、彼はここに着任したばかりの新米警官だったそうです。当時は交通課だったので直接事件捜査に携わったわけではなかったようですが、着任後最初に起こった事件という事で、彼なりに思い入れのある事件みたいですよ。その事件を二十年後に自分が担当する事になって、かなり張り切っていると言っていました」
桜が解説するのを聞きながら、一里塚は針本に続いて署内に入っていった。しばらく歩くと、会議室とプレートに書かれた部屋に案内される。
「どうぞ」
促されて中に入ると、中には何人かの刑事がすでに着席していて、その正面に三人の幹部……服部法助新潟県警本部長、真中義光新潟県警刑事部長、小野坂玄輔新潟県警刑事部捜査一課長が腰掛けていた。
「来たかね。遠路はるばる、ご苦労だったね」
服部本部長の言葉に、一里塚は軽く頭を下げた。一里塚自身も、二年前までここに在籍していた身だ。当然、当時から現職にある服部本部長は元上司であり、顔見知りである。とはいえ、事実上、大野塚と組んで一里塚を山口の捜査本部からはずした張本人だ。油断はできない。
「お久しぶりです、服部本部長」
「二年ぶりかね。君が山口県警に異動して以来か」
「急な申し出でしたので何も用意はできていませんが……」
「構わない。今回は私のわがままで来てもらっているのだからね」
そう言うと、服部は一里塚に席を勧めた。途中、小野坂捜査一課長も軽く手を上げる。
「一里塚君、あちらでも随分活躍しているそうじゃないか」
「小野坂さんも元気そうで何よりです」
「今回の私は参考人という立場だ。聴取の際はお手柔らかに頼むよ」
「……ベストを尽くします」
一里塚は無難にそう返す。一方、ただ一人一里塚にとって初対面の男……一里塚の異動後に新潟県警にやってきたという真中刑事部長はしばらく観察するかのように眼鏡の奥から一里塚を眺めていたが、やがてこう切り出した。
「真中です。お噂はかねがね」
「一里塚です。今回はよろしくお願いします」
「あなたほどの方なら、もっと上に行くことも簡単でしょうに。刑事課一筋とは随分変わった方ですね」
「……監察に三年も在籍していた真中部長ほどではありませんよ」
互いに探るような視線を一瞬交わらせると、一里塚はそのまま自分の席に座った。どうやら、この刑事部長も何か一物抱えているようである。同時に、一里塚は彼が相当な切れ者だとも感じ取っていた。
「では、早速だが事件の概要を説明してくれ」
誰も彼もがそれぞれの思惑を秘めたまま、この戦後初となる冤罪疑惑事件再捜査本部は、静かに幕を上げた。
「ありがとう」
同じ頃、榊原はそう言ってタクシーから降りると、走り去っていくタクシーを横目に周囲を見回しているところだった。
三条市内の古い閑静な住宅街。その一角に、榊原は立っていた。曇り空で周囲がやや薄暗い中、榊原は住宅街をゆっくりと歩き始めた。
「……この辺りか」
榊原はそう言うと、ある空き地の前で足を止めた。駐車場になっているらしく何台かの車が停車しているのが見える。だが、榊原はその空き地に何か他のものを見ている様子だった。
榊原はしばらくその場にとどまっていたが、やがて踵を返すと再び何かを探し始めた。先ほどの空き地から五分ほど歩くと、今度は古い建物が見えてくる。
『井倉刃物』
看板にはそう書かれていた。榊原は少しの間看板を見つめていたが、やがて引き戸に手をかけて中に入った。
「いっらっしゃい」
中には三十代後半くらいの職人風の男性が一人で何か作業をしているだけだった。
「ここ、井倉刃物ですよね。ご主人ですか?」
「はい。二年前に家業を継いだばかりの駆け出し者ですが、まぁ、何とかやっていますよ」
男は頭をかきながらそう答える。
「それで、ご用命は?」
「あぁ、すみません。実は、私はこういうものでして」
榊原は男に名刺を差し出す。男はちらりと中身を見た後、訝しげな表情になった。
「探偵さん、ですか?」
「ある調査で少しお話を伺いたくてやってきた次第です。構いませんか?」
「はぁ、まぁいいですけど。でも、何を調べているかは知りませんが、私は一年ほど前に帰ってきたばかりだから、最近のこの辺の事はわかりませんよ」
男は申し訳なさそうに答える。
「どういう事ですか、ええっと……」
「井倉武人です。実は、一年前までは親父がずっとこの工場を仕切っていたんですよ。俺はずっと大阪の堺で刃物会社に勤務していました。で、一年前に親父が脳溢血で急死したので、急遽俺が家業を継ぐ事に」
「そうだったんですか……」
「それで、何を調べているんですか?」
井倉の問いに、榊原はこう尋ねた。
「二十年前の出荷記録を見せてもらいたいのですが。ちょうど、この近くで殺人事件が起きた頃のです」
「殺人……あぁ、もしかして吉倉田商店の? もしかして、それを調べているんですか?」
「当たらずとも遠からず、ですね。今現場を見に行ったら、空き地になっていましたが」
榊原の言葉に、井倉は苦笑する。
「向こうは天涯孤独だったもので、事件から何年かして取り壊されたと親父からは聞いています。でも、何で今になって、それもうちに?」
当然の疑問に、榊原はこう切り出した。
「実は、私が今調べているのはその事件とは別のものでしてね。山口の刃物店を調べていた中でこの店の名前が出てきまして、その事実の有無を確かめに」
「そういう事でしたか。まぁ、親父は几帳面だったから出荷記録も全部残っているとは思いますけど……」
そう言いながら、井倉は店の奥にある棚から一冊のファイルを取り出した。
「ええっと、いつの話ですか?」
「一九八七年十二月一日、つまり吉倉田商店の事件のあった辺りです。山口に出荷している記録はありますか?」
「山口ねぇ……あぁ、これかな」
井倉はファイルの一ヶ所を見ながら言った。
「確かに、十二月一日の早朝に出荷されていますね。主に関西圏への出荷で、山口、広島、岡山の三県にある刃物店や百貨店なんかに納品されています」
「山口の納品先に『谷田川刃物』という個人経営の店はありますか?」
「『谷田川刃物』……えぇ、ありますね。二十本ほど納品されていますよ」
「そうですか」
榊原は満足げに頷いた。
「ちなみに、ここの出荷は早いんですか?」
「親父の頃からの伝統だとかで、一週間に一度、朝の六時頃に契約している運送会社のトラックがやってきます。俺の生まれたときからずっとそうですよ」
「出荷前の商品はどこに?」
「出荷までは裏手の倉庫に保管してあります。何しろものが刃物ですからね。五年ほど前までは南京錠だったんですけど、その頃に近くで強盗があったとかで最新のセキュリティ装置を導入したと親父は言っていました」
「なるほど、ね」
榊原は意味ありげに頷くと、小さく頭を下げた。
「お忙しいところ、ありがとうございました」
「もういいんですか?」
「はい。おかげで色々とわかりましたので。では」
榊原はそう言うと、店を出ようとする。
「そういえば、吉倉田さんの事件って冤罪って事になったんですよね」
と、不意に後ろから井倉が呼びかけた。榊原は足を止める。
「知っていましたか」
「そりゃ、あれだけ騒がれたら。でも、この辺の人間はまだ太田さんが犯人じゃないという話に疑いを持っているみたいで……」
「あなたは?」
「俺は……わかりませんね。事件当時は関西の高校で下宿していて、家業を継ぐまではここにも帰ってきていませんでしたから」
井倉はばつが悪そうに言う。
「ただ、もし真犯人がいるなら、絶対に許す事はできない。そう思いますよ」
「……失礼します」
榊原はそう言うと、そのまま店を出て行った。井倉は何ともいえない表情でそれを見送ると、やがて首を振って作業に戻った。
それから一時間ほど時間が経過した。榊原は再びタクシーを拾うと、三条市内の外れにある小さなビルの前にたどり着いていた。
「ここだな」
榊原は階段でビルの三階に上がると、そこにあるドアの前に立つ。ドアにはこう書かれていた。
『三条事件支援会事務所』
三条事件の支援者たちが詰めている事務所で、被疑者・太田竜馬の保釈後は太田の拠点にもなっている場所だ。
榊原はいったん深呼吸すると、軽くドアをノックした。
「はい、どうぞ」
中から返事がし、榊原はドアを開ける。中には数人の男女が何事か話し合いをしているところだった。
「どちら様ですか?」
その中でもリーダー格と思われる男が警戒気味に尋ねる。
「……こちらは三条事件の支援事務所と聞いてきたのですが」
「そうですが、あなたは誰ですか? マスコミ関係者ならお断りです。今はそれどころではありませんし、必要な事は記者会見で話しているはずです」
明らかに敵意のこもった声で言う男に対し、榊原は正直に名乗った。
「私立探偵の榊原恵一といいます。少し、お話を聞きたい事があってこうして参りました」
「私立探偵? はっ、随分胡散臭い方ですね。あなたみたいなわけのわからない人間に話す事なんか……」
「榊原?」
不意に、サブリーダーらしき別の女性が声を上げた。突っかかっていた男が振り返る。
「知っているのか?」
「え、ええ。噂だけだけど、東京界隈の弁護士業界では有名な人よ。今までに数々の事件を解決してきた名探偵だって」
「名探偵? そんな小説みたいな人間がいるわけ……」
「確か、今年の六月に東京の生命保険会社で起きた殺人事件を解決していますよね? 表向きは警察が解決したとされていますが」
女性は急にそのような問いを発した。
「……どこでその話を聞いたのかは知りませんが、確かに。それが何か?」
それを聞いて、女性はピンと背筋を伸ばした。
「失礼しました。私、あの事件の被告人の国選弁護人をさせて頂いています、弁護士の森晴香といいます。あなたと付き合いのある、警視庁捜査一課の斎藤孝二警部とは大学時代の同窓で、あなたの話は常々よく伺っています」
女性……森の挨拶に、榊原は珍しく驚いた表情をした。斎藤孝二は現在の警視庁捜査一課の中心にいる警部で、榊原の後輩に当たる。今でもいくつかの事件のアドバイスを榊原に求めてくる事があり、森の言った生命保険会社の事件や瑞穂が弟子になるきっかけとなった立山高校の事件でも協力関係にあった。
「斎藤の同窓でしたか。それに、あの犯人の弁護人とは……」
「念のため、生命保険会社の事件の内容をここで話して頂けますか? 本人なら話せるはずですよね」
「……解決した事件について語るのはあまり好きではありませんが、致し方ありませんね」
榊原はそういうと、淡々と事件内容を語り始めた。その場にいた人間たちはしばしその話に聞き入っていたが、榊原がすべてを語り終えると呆けたように榊原を見つめた。
「満足ですか? 何なら、斎藤に直接聞いてもらってもかまいませんが」
「……いえ、結構です。どうやら、あなたは本人のようですね」
森はそう言うと、改めて鋭い視線を榊原に向けた。
「でも、それならなおさら疑問です。どうして、あなたがこの場にいるのか、説明してもらえますか?」
「……ある事件の捜査で、三条事件に関する情報が必要になりました。それで、話を聞いて回っているところです」
榊原はそう言って森の言葉を牽制する。
「事件、といいますと?」
「そこまで言うには時期尚早です。私自身、まだ確認の段階でして」
「ずるいですね。それで我々の話を聞かせろと?」
リーダー格の男の方が皮肉る。
「あなたは?」
「ここの代表をしています、同じく弁護士の岩佐友則です」
男は警戒した表情のままそう答えた。
「今は微妙な時期なんです。警察とつながりのあるらしいあなたにおいそれと情報を渡すわけにもいきません」
「県警は事件の再捜査に踏み切ったようですが」
「えぇ。ですが、相手は二十年前に太田さんを冤罪に陥れた相手です。再捜査の結果、やはり太田さんが犯人だと言い出すかもしれない。我々からしてみれば、信用できませんね」
岩佐ははっきりと言った。どうも、取り付く島がない。榊原はこれ以上の説得は無駄と判断した。
「……わかりました。お忙しいところ、失礼しました」
そう言うと、榊原は一礼して部屋を退出した。ビルから外に出ると、事務所のある部屋を眺めて軽くため息をつく。
「さて、どうしたものか……。一応、当事者からも事情は聞いてみたかったが、無理となると厄介だな」
すでに日は傾きかけている。明日にはまた山口に戻らなければならないにもかかわらず、まだ結論らしい結論は出ていなかった。
「……とりあえず、時間も時間だから一里塚と合流するか」
そう考えて携帯電話を取り出したときだった。その携帯電話が突然震え始めた。見慣れない番号からの着信である。榊原は訝しげにその電話を取った。
「榊原です」
『……私です』
その声に榊原は聞き覚えがあった。
「森弁護士ですか?」
『先程は岩佐が失礼しました』
「それより、どうやって私の番号を?」
『警視庁の斎藤君に電話して聞きました』
警視庁の後輩の名前を出されて榊原も苦笑する。
「それで、そこまでして私に何か?」
『三条事件の話を聞きたいとの事でしたね。私でよろしければお話しますが』
思わぬ申し出だった。
「それは……こちらとしては願ってもない話ですが、よろしいのですか?」
『もちろん、岩佐には内緒です。それに、その代わり一つお願いがあります。それと引き換えでしたら、榊原さんのご要望に答えたいと思います』
つまり、取引をしないかという事だ。
「構いませんが、その『お願い』の内容は?」
『それは会ってからお話します。いかがでしょうか?』
「……いいでしょう。こちらとしても情報がほしいところでしてね」
『交渉成立ですね。それでは、一時間後にこれから言う喫茶店で落ち合いましょう』
ある店の名前が告げられ、それからしばらく話した後に電話は切れた。榊原はゆっくり電話をしまう。
「結果オーライ、か」
榊原はそう呟くと、そのまま指定された喫茶店に向かった。
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