カニバル=ゴーメット氏来たりて曰く 後
「まず警察諸氏に対してだが、私はこの事件の解決を依頼されたのではなく、外部識者として(ここで老刑事が苦い顔をした)君達に意見をするに過ぎない。参考になるといいのだがね」
警察官僚氏が固まる。
老刑事の眉間の皺が一挙に深くなる。
若い刑事は驚愕に目をパチクリさせている。
私は。
私は多分、何もしなかった。
「つまり、これだ」
ゴーメット氏はディスクの入ったケースをポン、と叩いた。
「これが問題の要だ」
「しかし、中は脅迫状のデータと、音声ファイルだけだ」
警察官僚氏が怪訝な顔をする。
「そうだ。この中には脅迫状のテキストデータが入っていた。何故かね?」
ニヤニヤと笑うゴーメット氏は、ケースを取り上げて翳す。透明のそれは蛍光灯の光を透過して、白く輝いた。
「脅迫状の、送付のためじゃ」
「全くその通りだ。しかし、これでもって脅迫状を送付した理由とは何だったのか、というのが私の提示するメインディッシュだ」
状況を飲み込めない、私を含んだこの場の全員が互いの顔を見合わせる。
「ディスクで脅迫状を送付する理由は色々あるだろう。在庫処理とか、印刷機が無かったとか、紙が嫌いとか、この方がカッコいいと思ったとか、まあこの辺にしておこう。だが、そのどれもが決定力に欠ける。まだオードブルといったところだ」
四角いケースを弄びながら、彼は場を睥睨する。ニヤニヤと。
「では、何故か。どうすればこの無駄に思える行為に必然性を見いだせるのか、という事だ。単純に考えればいい。最高級の肉には、ソースをかけてはいけないのだ。つまり、このディスクは、ディスクであるが故に一つの要素としてある、ということだ」
「……意味が良く理解出来ないのだが?」
遠慮がちに手を挙げたのは例の警察官僚氏で、ゴーメット氏はふふん、とせせら笑ってそれに答える。
「これが送られた理由は只一つ、脅迫状はディスクでなければならなかったからだ。なぜディスクでなければならなかったか、という問題を見れば、自ずと答えは明らかになる。では」
ゴーメット氏はディスクを、私に差し出した。
「これを、読んでくれたまえ」
「……内容を、という事でしょうか」
「そうだ」
ゴーメット氏はニヤニヤ笑う。
「この中にテキストデータが入っている。読んでくれたまえ」
「このままでは読めません。何か、読み取り装置が無くては」
「素晴らしい」
ゴーメット氏はぱちぱちと両手を叩いて、それから警察諸氏の方に向き直る。
「彼女は、いいね」
「それはまあ」
若い刑事が相づちを打ったが、横に立っていた壮年の刑事に足を踏んづけられて呻き、黙った。
「彼女が正解を言った。これはディスクであるからして、内容データを見るには専用の読み取り機が必要だ。それはUSB媒体でもそうだし、メモリーカードでもそうだし、あるいはフロッピーでもそうだっただろう。犯人はUSBを使用した。これらはありがたい事に私のPCにある接続用ポートを使う事で即座に内容が把握できたが、ディスクはそう出来なかった。何故かね?」
「……ドライブが」
「無かったから、だろ」
官僚氏がぽつりと漏らして、壮年の刑事が続けた。
ゴーメット氏は頷いてパソコンを叩いた。
「そう、つまり、結果として内容の確認が遅れたためだ。これが、犯人の狙いだったとしたら?」
「ね、狙い?」
警察官僚氏の絞り出した声は、震えていた。
「そう、このディスクの内容はひどく重要だったにも関わらず、機器の問題で読み取りが遅れたために、満足な対応が出来なかった。大変奇妙だ」
ゴーメット氏は、また私に向き直った。
「また奇妙なのは、この件の『最初』だ。君にとってはお父上が誘拐されてからだろうが、私や警察にとっては私の秘書が誘拐されたのが『最初』だ。そう、これは誘拐事件だったはずだ。ところが私の秘書は死んだのか死んでいないのか分からず、君のお父上は殺されて発見された。家族である君への要求も無く、只殺された。誘拐事件としては奇妙に過ぎる。蕎麦屋でビーフステーキが出てきたようなものだ」
良く分からない例えを聞いていたのか聞いていなかったのか、とにかく場の全員が一切のリアクションを起こさなかった。ゴーメット氏はニヤニヤしたままため息をついて、私に向かって肩をすくめてみせた。
ようやく警察官僚氏が口を開いたのは、たっぷり三十秒の沈黙の後だった。
「き、君が言いたいのはつまり、これらの事件には関連が無い、という事かね」
「おいおい、どうしてそうなる。私の秘書をどこかにやってしまった犯人と今回の誘拐殺人犯は一緒だ。そうでないと一般に公表されていない部分、つまり音声データでの声明が一緒になる訳が無い」
ゴーメット氏は呆れた風にニヤニヤ笑いを浮かべ、老刑事の方を向いた。
「さらに犯人は、私の事を知っていた人間だ。私を『探偵』と呼ぶのは戴けないが、まあこういう類の事件に首を突っ込んでいる事は知っているのだろう。もっと言ってしまえば、犯行が露見するのを遅らせるために私のパソコンを利用しようとしたのだから、私のパソコンの事を知っている人間だね」
「そ、それは限られるんですか?」
若い刑事が身を乗り出す。確かに、それを絞り込む事が出来れば。
微妙だね、とゴーメット氏は適当な返事で返した。
「このパソコンは大体机の上に置いていたし、ここに来た事のある人間ならば知っていただろう」
刑事は意気消沈して引き下がり、老刑事が歩み出て机を激しく叩いた。
「無駄な話はいい! お前のいう犯人ってのはどいつだ!」
「では答えよう」
ゴーメット氏は、頬杖の上にニヤニヤ笑いを載せて、静かに話し始めた。
「私を知っていて、私の事務所のパソコンでディスクの読み取りが出来なかった事を知っていた人物、本件を把握しきっていた人物、ディスクが届いた時も警察署へ持っていこうとせず、即座にこの事務所で開封した人物。つまり犯人は」
ゴーメット氏はたっぷり間を取って、ニヤニヤ笑いを、彼に向ける。
「君だ」
警察官僚氏は、ぎくりと身を震わせた。
「そ、そんな」
「この私のところに依頼を持ってきたのは君だ。警察のパソコンにはディスクの読み取り機器が常備されているだろうから、状況を遅延させる事は不可能だったろう。だから警察とのパイプがあって、且つパソコンの事情を知っていた人物である私を対象に選んだという訳だ。何か弁明はあるかね?」
「そん、な」
「……で、でも、この人にはそんな時間は無かったですよ」
若い刑事が口を開く。
「ここを出てから、殆ど俺達と一緒に行動してたんですよ?」
「当たり前だ。これは彼がここにいた理由は、完璧なアリバイのためなのだ」
ゴーメット氏は平気なようで、ニヤニヤ笑いは崩れない。
「つまるところ、この男には共犯がいてしかるべきだ。さもないと今回の件は起こせないからね。ディスクを使ったのも、共犯者が死体やら何やらを運搬する時間を稼ぐためだろう」
「きょ、共犯?」
「共犯だ。ここにいないもので、私のパソコンの事を知っている者がもう一人いる」
もう一人ぃ、と呻いて、若い刑事は沈黙した。混乱のあまり思考回路がパンクしたのだろう。その気持ちは良く分かる。
ゴーメット氏はそれを見ながら、楽しげにパソコンをコツコツと指で叩く。
「当然、それは私の秘書だ」
老刑事がため息を吐く。馬鹿にしているのか、あるいは感心したのか。ゴーメット氏は彼の方を横目でちらっと見やって、肩をすくめた。
「彼は誘拐された事になっているが、状況が不自然すぎる。まず、雇い主の私に連絡する理由などどこにも無い。彼の実家に連絡すれば済んだだろうし、まあ私は割と給料の払いはいい方だと思っているのだがね」
ゴーメット氏はニヤニヤしながら、黙りこくったままの警察官僚氏を見やる。
「金目当てだとは思わないが、私の秘書に何の嫌疑もかからないようにするのが君の狙いだろう。つまり君の息子にだがね」
何ぃ、と声を荒げた老刑事は、ぎろりと官僚氏を睨んだ。官僚氏は答えない。ゴーメット氏が秘書の誘拐について話していた時、彼が苦い顔をしていた理由が何となく分かった。
ゴーメット氏はちょっと顎を上げて、椅子に座りながらにして官僚氏を見下ろす格好をとる。
「君の家に届いた音声ファイルの『警察には知らせるな』という文句は言い得て妙だった。君は警察官なのだから、それは元から不可能だったからだ。結果として警察に知らせないわけにはいかないし、まず自分が事件に関わってしまえば捜査からは外れるし、当然被害者だから嫌疑もかからない。完璧だ」
ゴーメット氏はぐるりと椅子を回転させ、出窓に置いてあった急須を掴んでまた半回転し、元の位置に戻ると、少し濃くなってしまった日本茶を湯呑みに注いだ。
「私からは以上だ。動機やらは勝手に調べたまえ。ああ、そう言えば君には言っていなかったね」
ゴーメット氏はどうやら、私の事を言っているようだった。
「彼の息子は元警官でね。警察を辞めて私のところに来ていたのだ。そして、彼自身は今回の事件は親族が標的なので捜査陣として参加出来ない。故に私のところに依頼しに来ていたのだ。君を連れ出す時は、まあ、ああ言ってもらった方が君も出てきやすいかと思って、私が進言した。この件は徹頭徹尾、彼が私に仕組んでいたという事だ」
ゴーメット氏は日本茶を一口飲んで、また机に頬杖をつき直した。
「何かあるかね」
官僚氏は答えない。
老刑事は黙って官僚氏の腕を取り、ドアの方へ促した。ずっとぼーっとしていた若い刑事が我に返って、ドアを開けた。
事件は、解決したのだ。
解決、したのだろうか。
胸の奥がちくりと痛む。
何故なのか分からない。
良く、分からないのだ。
パチパチパチパチ。
老刑事が振り向く。
パチパチパチパチ。
若い刑事も振り向く。
パチパチパチパチ。
官僚氏も、振り向く。
パチパチパチパチ。
私は。
私は、ずっと彼しか見ていなかった。
ジャック=カニバル=ゴーメット氏。
「残念ながら、ここまでが君のために用意された晩餐だ」
ゴーメット氏がそう言うと、警察官僚氏はぐるりと回って扉の前に立った。若い刑事も、ひどく思い詰めたような顔で官僚氏の手を離し、黙って暗い顔を向ける。
「デザートには新鮮な味と、そして新鮮な驚きが必要だ。お陰でまあ、楽しませていただいたよ」
ゴーメット氏は笑う。
「あからさま過ぎたのだよ。自分はパソコンに詳しくなく、状況がさっぱり理解できない、という演技がね。ところが襤褸を出すのもまたあからさまだった」
ゴーメット氏は、私を指差す。
「先ほど彼は『ドライブが』と言い、君は『無かったから』と続けた。しかしパソコンの事がさっぱり分からないのに『ドライブ』という専門用語が理解できる訳が無い。今までずっと『読み取り機器』とか言っていたのだからね。よって君はパソコンの事をある程度理解している、という事になり、つまり君は嘘をついていたのだ」
状況を理解したらしく、相手は目を見開いて硬直した。
「ああ、それから私のパソコンを初見で『パソコン』と理解したのも君の詰めの甘さだ。パソコンを知らない者から見ればこんな銀色の扁平なモノ、インテリアか何かにしか見えないだろうからね」
ゴーメット氏はパソコンを叩く。くすんだ銀色の中央に光る白い林檎は再三の攻撃に文句も言わず、そこにある。
「君が事件に関わっていたとすると、色々と頷ける事が出てくる。例えば君は先ほどここから出て行く時、ディスクは私の机に置いていこうとしたが、それは論理に合わない。持っていかなければ何も分からないのだからね。激昂の余り、というにしても演技の臭いがぷんぷんする。それからやたらと彼を排除したがっていたが、それについては彼が引き下がらないであろう事を知っていて、事件に巻き込まれた状態を持続させるためだ」
彼、とは多分官僚氏の事だろう。
老刑事は、顔を赤くしてゴーメット氏を睨む。
「な、馬鹿な」
「先ほど死体発見の報を貰った時に、君に対する演技指導とそちらの若い刑事君への伝達、後はちょっとした調査を依頼しておいた。今頃君の家に捜索が入っている。死んだ事になっている人間を隠すには、警察官舎が一番だろう?」
老刑事は赤かった顔を一瞬で青くし、まるで幽霊でも見たかのように怯えて床に尻餅をついた。
「ディスクを使った理由は、先ほどと同じで捜査の攪乱と遅延だ。殺害に協力した可能性はあるが、君は事件担当で、殆ど身動きが取れなかっただろう。大の大人をトランクに詰め、部外者としてこっそり警察官舎を抜け出し、公園まで引きずって行って遺棄し、戻る。これは一人では大変だ。時間が必要だろう」
ゴーメット氏は加虐的な笑みを浮かべ、人差し指で自分のこめかみを小突く。
「ああ、この件が君と私の秘書との共犯である事も疑い様が無い。君はその歳で所轄の平刑事なのが引っかかっていたのだが、聞いたところ、君はだいぶ前に問題を起こして、彼女のお父上に降格、左遷させられたそうじゃないか。つまり私の秘書と同じ道を辿ったという事だ。彼は辞めたが君は残った。しかし動機には十分に過ぎるね」
老刑事は一挙に歳を取ったようで、先ほどまでの恫喝の勢いはどこかへ消えてしまったらしく、ただ口をぱくぱくさせながら呆然とゴーメット氏を見上げていた。
「そのへんの深い事情は今回の事件には本質的に関係が無いから、つまり私も興味が無い。さて」
ゴーメット氏はニヤニヤ笑いを官僚氏の方へ戻した。官僚氏もまた暗い顔をしていて、ただ漫然と動き、若い刑事と一緒にふぬけた顔の老刑事を引っ立たせようとしていた。
「君の息子については、私から言えるのは只一つだ。要するに、クビという事だがね。そう伝えておいてくれたまえ」
官僚氏は、答えなかった。
二人の刑事と一人の犯人が事務所から去り、事務所にはまた私とゴーメット氏だけが残った。ゴーメット氏は頬杖をついたまま彼らを見送り、その形から動く気配がなかった。
私は彼らが開け放ったままにしていったドアを閉め直し、ゴーメット氏の前に戻ってきた。
「……これが」
これが、解決なのか。
「違うよ」
ゴーメット氏は、ひどくあっさりと言い放った。
「一応あちらが先約で、私は複数の依頼をいっぺんに片付けられるほど大食漢ではない。さっきはメインディッシュ、デザートと表現したが、大局的見地から言えばあれ自体が全てオードブル、いや、仕込みだね」
「仕込み」
「そうだ。美味い料理というモノは最初から美味い訳ではない。数多の時間と調味料が生み出すのだ」
自らの言葉に機嫌良く頷いて、ゴーメット氏は椅子に座り直し、今度は腹の上で手を組んで、大きな背もたれに寄りかかった。
「では、君の依頼を果たそう。君の事件を、解決しよう」
私の事件。
私の父は、一体なんだったのか。誰だったのか。否、どれだったのか。
ゴーメット氏は、それを理解しているのだろう。
「まず、君は」
ニヤニヤ笑いが微かに開いて、人を小馬鹿にしたような響きが漏れ出てくる。
「本当に事件の解決を望んでいるのかね?」
「な」
「解決するだけならいくらでも方法がある。私にも出来るし、警察にも出来る。道端の猫にも出来るし、郵便ポストにも出来るだろう。だが、私はジャック=カニバル=ゴーメットだ。私にしか出来ぬ事がある」
「それは、何ですか」
ききき、と擦れた金属音のような音。
ゴーメット氏が肩を震わせている。
笑っているのか。
「いい、実にいい。いいぞ」
消え入るような声でそう呟いたのだけが聞こえた。
「いい傾向だ。やはり、君はいい。では始めよう。君が望む『解決』を提示しよう」
彼の声は、先ほどまでと比べるとひどく静かで、何かを感じさせるものだった。
その『何か』は、良く分からない。
ただ、また胸の奥がちくりと痛んだ。その理由もまた、良く分からない。
ゴーメット氏は机の上に頬杖をついて、ニヤニヤとこちらを見ている。
「簡単だ。私は君に質問する。君にとってはいつもの事だ。難しい事ではあるまい」
そうだ。
「結構、では始めよう。第一に、君のお父上は殺された」
そうだ。
「第二に、君のお父上は、誘拐されて殺された」
そうだ。
「ところが両方を是とする事は出来ない。何故なら、君のお父上は誘拐される前に殺されたのだから、誘拐される事も殺される事も出来なかったからだ」
そこだ。
そこが良く分からない。
良く、分からない。
「では、こう聞こう」
そうか。
「君のお父上は、いつ殺されたのかね」
それは今日だ。
誘拐されて、殺されたのだ。
「その通りだ。だが、その通りだとすると最初がおかしい。誘拐される前に殺されたお父上が、いつ死んだのかが問題になる。彼はいつ、そうなったのかね」
それは、この間だ。
そうだ。
「具体的にお願いしたい。何日前、何ヶ月前、何年前だろうね?」
いつ。
いつ?
つい最近のはずだ。父はずっと連絡を、電話をくれていたのだから。
今朝だって。
いや、今朝はくれなかった。そうだ。
では、父が死んだのはやはり今日なのだ。
「結構。整合を得るのは難しそうだが簡単だ。栄螺の身を取り出すのに似ているね」
良く分からない。
「今言った通りだ。この二つは矛盾しているように思えるが、その実それは全く整合とする事が出来る。つまり、君のお父上は二人いたとするならば、だがね」
二人。
「その通り。君は良く電話をしていたといったね」
そうだ。
「ところで、お父上はいつ頃から電話をくれるようになったのかね」
いつだろう。
気がついたら、ずっと電話をくれていた気がする。
ずっと。
「電話とは理屈が分かっても不思議なものだ。人は遥か遠くにいるのに、人の声が聞こえるのだから。しかしこの場合もっと不思議なのは、一つ屋根の下に住んでいたはずの君とお父上の間に、電話をするような状況があったのか、という事だ」
そうだ。
そうなのだ。
「もっと言えば、電話で顔色や髪の毛の具合が分かるはずが無い。見えないのだからね。つまりそれは電話ではなく会話だったとするのが妥当だろう。まあ、一方通行だったのだから、厳密には『会話』ではないかも知れないがね」
会話。
相互交信。
父は、私の言葉に殆ど反応しない。
「君の『記憶』たる暴力的なお父上と、君と会話を持つ優しいお父上、これが君の『父』が二人いた証拠だ。私が、このジャック=カニバル=ゴーメットが思うに、君は一つ重大な事実誤認をしている」
誤認?
間違い?
「最初に戻ろう。一人の『父』が死んだのは今日だ。では、もう一人はいつ死んだか、だ」
いつ。
いつ?
今日ではない。
「そこが、記憶がこんがらがっている部分だ」
ゴーメット氏が言う。
こんがらがる。
何が?
「殺人があったのは、つまりお父上が『記憶』になったのは、もう三年も前なのだ」
三年?
「さん、ねん」
「三年だ。そこが、君に取っての事件の始まりだ。最初が違うのだから、事件も違って見える」
最初?
最初だ、とゴーメット氏は言う。
「私の調べによれば、君の最初のお父上は三年前に殺され、事件は未解決だ。君はその間、自分が何をしていたか覚えているかね」
何を、していた。
何を。
何を?
「覚えていまい。何故なら君はその際、何者かに、恐らく犯人に頭を殴られ昏倒し、まるきり三年、目を覚まさなかったからだ」
暗い部屋。父と私。
父は、目の前にいる。
床に倒れた父。
それを見下ろす父。
「君が目を覚ましたのは、ほんの一週間前だ。記憶がこんがらがっていても無理はない。君が昏倒している間ずっと『お父上』が君の看病をしていた事になっている。まあ、君に遺伝子的責任のある『お父上』ではない訳だが」
父。
私の父。
「今回誘拐された『お父上』については、君が誤認していたわけだから少なくともお父上ではないということだ。それが誰だか、分かるかね」
分からない。
よくわからない。
わからない。
「それは、君が言うところの『警察官僚』氏だ。無論、最初のね。彼は君のお父上の部下で、大学の後輩でもあった。事件捜査の指揮を執ったのも、その後辞職し、その後君の看病をずっとしていたのも、彼なのだ」
優しそうな父の顔。いつでも優しい声をかけてくれる父。
それは、どちらの父であったか。
「彼は君を自宅療養させるようにして、病院には入れなかった。君はずっと自分の家の自分のベッドにいた。君が『電話』していたのは彼だ。彼はずっと君に語りかけていたのだ。君はそれをずっと聞いていて、そしてそれを『電話』だと思ったのだろう」
父は仕事の話をしない。
父はいつでも「おはよう」という。
父は私の質問には答えない。
「君が目を覚ましたのは彼が誘拐されてからだ。そして『警察官僚氏』が再登場する。それは勿論さっきまでそこにいた男で、彼は最初の警察官僚氏の元部下で後輩だ。あの連中は大体同じような格好をしているし、話が噛み合ってしまったが故に、君は気づけなかったという訳だ。気づく機会はあったがね」
「機会?」
「彼は先日君を迎えに行った時、彼の名刺を渡しただろう。ところが君の記憶に従えば、最初にお父上の死を告げにきた『警察官僚』も名刺を渡している。初対面の時ならともかく、二度目に名刺を渡すのはおかしい。つまり二人は別人だったという訳だ。君は『寝起き』でぼんやりしていただろうから、気づかなくても仕方が無かったかも知れんが」
ようやく理解しつつある。
「これが解決だ。このジャック=カニバル=ゴーメットが言うのだから」
間違いない、と彼は締めくくった。
ようやく、もう夜になっていて、部屋の中が暗い事に気づく。月光か街灯か、とにかく白い光が窓から入って来て、大きな椅子の背もたれが机に影を下ろしている。そして、その影の中に、ニヤニヤと笑う人の気配がある。
「何か、質問はあるかね」
「……はい」
「素晴らしい。何かね」
「私が昏睡状態だったのなら、最初の警察官僚氏を知らないし、彼が私に『父が死んだ』と伝える事は出来ないのではないでしょうか」
「だから記憶がこんがらがっている、と言ったのだよ。君は、君の言う順番なら会った事の無い警察官僚氏を知っていた。つまり記憶が前後しているのだ。君が警察官僚氏に会ったのは、君のお父上が殺される前だ。そうでないと辻褄が合わない。君のほぼ完璧な記憶力が災いしたのだろうが、最初の『警察官僚』は、お父上が死んだ、とは一言も言っていないのではないかね?」
「では、父を殺した犯人は、誰なのですか」
「君は先ほど、お父上についていくつかの興味深い話を提供してくれた。その中に、お父上が眠っているところ、そしてそれを君が見下ろし、その横にまたお父上がいた、という話があったね」
私は頷く。
胸の奥が、何だか息苦しくなる。
影の中のニヤニヤも、微かに頷く。
「宜しい。これは他の話と総合すると大変に暗示的だ。つまりお父上が二人いた前提なら、これは成立する。倒れていた方が『お父上』で、横にいた方は多分『警察官僚』だろう。さて、ここで問題になるのは、君の意思だ」
「私の、意思、ですか」
「そうだ。君はお父上を助け起こす意思も、声をかける意思も起きなかった、と言った。それは何故か、だ」
ちくり。
「君がお父上を助け起こさなかった理由も、お父上に声をかけなかった理由も、完全な一致を見る。つまりそれが不必要であり、無駄であると理解していたからではないかね」
ちくり。
胸の奥から、何かが突き上げてくる。
「助け起こしても起きない。声をかけても反応は無い。床で寝ている人間に対する一般的な見解ではないね。つまりそうなる理由があるのだ」
「理由?」
「その通り、理由だ」
ゴーメット氏は言葉を切り、ニヤニヤ顔だけが残った。
そして、それきり黙ってしまった。
「……あの」
「考えてみたまえ。答えのために必要な情報は全て出揃っている。君の理由で、君の『記憶』だ。さあ、どうかね?」
私は記憶をたぐる。
父は床に寝ている。
否、倒れているのだ。
私は、父が倒れている事を知っている。
ちくり。
父は倒れている。
起きない。
私は起きない事を知っている。
ちくり。
父は反応しない。
揺すぶっても、叩いても無駄だ。
私はそれを知っている。
何故、父は起きないのか。
父は何をしても起きない。
ちくり。
そうか。
父は。
父は、死んでいるのか。
何故それが分かる?
私から見る限り、父は寝ているだけだ。
血が出ている訳でもなく、傷が見える訳でもない。
ちくり。
父は死んでいる。
私はそれを知っている。
死んでいるようには見えないのに、死んでいる。
「ああ」
そうか。
父が死んでいるのを知っている理由。
それは。
「私が」
私が。
「私が」
わたしが。
「私が父を」
父を。
わたしがちちを。
「私が、父を」
わたしがちちを。
殺したのですか。
「ころして」
私が、父を殺したのですか。
「私が、ころし」
パチパチパチパチ。
気がつくと、私は殺風景な事務所の真ん中に立っていた。
目の前には大きな木製のデスクとさらに大きな革張りの椅子があって、椅子にはニヤニヤと笑いを浮かべる男が一人座っている。
私の記憶が、蘇る。
「素晴らしい」
鳴り止まない拍手の裏側から透ける、ニヤニヤ顔。
あれは。
「素晴らしい、素晴らしい。誰が何と言っても、このジャック=カニバル=ゴーメットが認めよう。素晴らしいと」
ジャック=カニバル=ゴーメット。
ゴーメット氏。
「君は初めて『記憶』を喰らった。その味を確かめた。君が感じたそれは、君だけのものだ」
ゴーメット氏は拍手をやめていた。
「よろしい。君は思い出したのだ。君がお父上の死体を見ていた事、お父上がそれを見ていた事、お父上の事をだ。これで私は先に進める。私は君を喰らって、私の味を確かめよう」
ゴーメット氏はそう言い、目を下弦に細め、口は上弦に歪んだままで、私を見る。
「君が重要視していないのは、君の横に『お父上』がいる事だ。うむ、面倒だから『死体』と『お父上』に呼称を変更しよう」
心底楽しそうに、彼は擦れた笑い声を立てる。
「もし君が『死体』を制作したのであれば、それを『お父上』が黙って見ている状況は不自然だ。さらに、君が何者かに殴られて昏倒した理由も分からない。そこに焦点を当てれば、自ずと見えてくる像があるのだ。つまり『死体』を『死体』ならしめたのは君ではなく、君を昏倒させた相手と同一であるべきだ。そして、それはその場にいた君以外の誰かである。つまり」
「それは、父なのですか」
ゴーメット氏はただ、ニヤニヤ笑うだけだった。
「これで君の『お父上』が『お父上』になった理由がはっきりする。何があったかは知らないが、君の『お父上』は『死体』を生み出し、それを君に見られたが故に君を昏倒させた。しかし思いのほか威力が高く、君は起きなくなってしまう。事件捜査の責任者が犯人なのだから、見つかり様もない。辞職して君の世話をしていた理由は、有り体に言ってしまえば、贖罪だったのだろう」
これが解決だ、とゴーメット氏は笑い、両手を大きく広げた。
「質問はあるかね?」
ある。
なくてはならない。
「これは、解決なのですか」
「そうだ。私は解決した。私は事件の答えを示したが、証明は私の仕事ではない」
「間違っていたら?」
「ありえない。少なくとも、君に関する限り事件は終結したのだから」
「私に、関する限り」
「その通り」
ゴーメット氏は、静かに私を見る。口元のニヤニヤ笑いは消える気配がなく、黒々とした眼は微かに光っている。
「当然だ。私は君に、君の事件を解決するよう依頼された。そして私は今、事件を解決した。何故なら、私はジャック=カニバル=ゴーメットだからだ。依頼を調理しテーブルに並べ、食べさせて満足させるのが私だ。料理とはすなわち結果だ。過程はどうあれ、それが食卓に出されたなら、それを作り直す事など出来ない。そこで私の役目は終わりだ。スプーンで掬い、口に入れ、咀嚼して飲み込み、味わうのは君の役目だ」
「それが、真実でないとしても?」
「それが、真実でないとしてもだ」
良く分からない事だらけだが、一つだけ分かった事がある。
光を背にするゴーメット氏の笑みは、まったく真剣なものであるという事だ。
本当に笑っているのだ。
「貴方は」
私は尋ねる。
尋ねなくてはならない。
「貴方は、何なのですか」
ゴーメット氏の言葉が良く分からない。
ゴーメット氏の理屈が良く分からない。
ゴーメット氏の思考が良く分からない。
否。違う。そんな言葉はもう要らない。
私は、ゴーメット氏が良く分からない。
何なのか。
ジャック=カニバル=ゴーメットとは、何なのか。
私の目の前に鎮座するニヤニヤ顔は、その半月めいたシルエットを引き延ばし、薄い三日月になろうとしていた。
三日月は言う。
「私はジャック=カニバル=ゴーメットだ。私の事を『探偵』と称する輩もいるが、それは大きな間違いだ。探偵は事件を解決する。方法は二の次で、いかに正答を導きだすかが彼らの役目だ。しかし私はジャック=カニバル=ゴーメットだ。私がするのは人を喰らう事だけだ。結果のために喰らう訳ではなく、腹が減ったから喰うのであって、栄養を摂るために喰らうのではない」
「カニバル」
「そうだ。それが私だ」
ゴーメット氏は笑う。
「月並みだがこれだけ言っておこう。この国が生み出した、至って偉大な感謝の言葉だ」
彼はニヤニヤ笑いの前で、両の手の平を合わせる。
御馳走様でした。
気がついたら、最早日が昇りかけているようで、窓から入ってくるのは硬質な白い光から柔らかい温かな陽光に変わりつつあった。
ゴーメット氏は両手を離し、机の上で組み直す。
「一つ、頼みがあるのだがね」
「何でしょう」
「私はここのところずっと不便をして来た。つまり秘書がいなくなったからなのだが、君は私の求める人材にぴったりだ。有能な秘書としてのね」
そうか。
「どうかね、私の有能な秘書として、働いてみる気はないかね?」
ゴーメット氏はニヤニヤ笑い、頬杖をついて私を見る。
「まずもって秘書とは難しい。召使いではない、と言えるだろう。その価値は雇用関係にある。雇用と従属とは天と地、月とスッポン、金の延べ棒と鼻眼鏡くらいは違う」
訳の分からない自分の言葉に何度も頷いて、そしてニヤニヤ顔をこっちに向けた彼は、人差し指を立てた。
「つまるところ、君は天であり月であり、また金の延べ棒であるわけだ。この事件が起きた時、私の運命は決まっていたようなものだ。君は私の要求を満たす、完璧な秘書だ」
そう言って、ゴーメット氏は机の下からバインダーを取り出し、腕を伸ばして、高価そうな万年筆と共に私に差し出した。
「食に完璧は無い。悲しい事だ。ただ少なくとも言葉の上に於いて存在するのであればそれはあるのだ。では、署名をしてくれたまえ。それで契約成立だ」
私は受け取ったそれに軽く目を通す。正確には『軽く』以上の目通しが出来なかっただけだ。その書類には『署名者はジャック=カニバル=ゴーメット氏の秘書として雇用契約致します』としか書いていなかった。
彼はふふん、と鼻で笑う。
「それを見て無反応だったのは君だけだ。本当に素晴らしい」
私の気持ちに気づいたようで、彼は口角を吊り上げた。
「まあ、それを見せたのは君が初めてだから当然だが。全て物事には始まりがある。人間が火を得て食物を炙ったのが料理の始まりだ」
「肉を切り取る行為は、料理に入らないのでしょうか」
「それは調理だ。料理と調理は有能な秘書と只の秘書くらいの差がある」
私は署名した書類バインダーを彼に返した。受け取って一瞥した彼は、ひょいとそれを私に放って寄越した。
「後で書類戸棚に入れておいてくれたまえ。君の仕事第一号だ」
とりあえずこれだ、と彼はやけに豪華なクッション付の木製椅子をゴトゴトと部屋の端から引きずって来て、堂々と彼の正面に据えた。言うまでもなく、私は今まで直立していた。
「君の椅子だ。どうぞ座ってくれたまえ」
お辞儀してからそれに座る。
なるほど、いい椅子だ。
ゴーメット氏は満足げに頷いて、自分の席に戻った。そして、目を閉じた。
一日目は、それっきりだった。
***The Next is:『隠蔽凶器 第一章「冤罪事件」』




