赤の放火事件
Author:大和麻也
赤かった。
夜の深い闇の中だったが、ただそれだけは赤の極みへと挑戦しているかのようで、純色として認知されている一般的な赤とはもはや形容できない。私の目を引き裂かんばかりに眩しい。
季節外れの陽炎のように、その赤は周囲の影を歪ませ揺り動かす。その赤から上へ上へと延びていく重そうな雲は、晴れた夜空の星たちを無頓着に汚していく。儚さと横暴さを兼ね備えた、美しいようで醜く、醜いようでやはり美しい、赤。
炎である。
私はその赤を目に焼き付けていた。
翌朝、私は階下の喫茶店へと赴いた。いや、正確には時刻は昼前である。
「こんにちは、タカさん。ダメじゃないですか、お仕事放り投げちゃ」
カウンターの椅子に腰かけると、いつものことだというのに小春さんがからかってきた。
「構いませんよ、特に仕事のない自営業です」
喫茶店には客の姿は見られない。一応ランチメニューはあるのだが、他の飲食店が込み合うにはまだ早い時間なのだろう。小春さんは退屈そうに、それでいてのんびりとした安らかな微笑みで、私好みのコーヒーを淹れてくれた。
毎日のように味わうまろやかな風味と控えめな香りを楽しむと、小春さんはてっきり終わったかと思っていたさっきの話を続ける。
「そうよねえ、タカさんが忙しいんじゃ、世の中物騒よね」
「私の出番があるだけマシとも言えますよ。浮気調査が必要というのはある意味では平和ですし、ときには『初恋の人にもう一度会いたい』なんてこともあります」
「へえ、そんなお仕事も受けるの。そもそも、前の職場があまりに物騒なのよね」
「ええ。いまの仕事が一番合っています」
「うん、その通りよ。さすがのお仕事の早さだもの」
「できることを後回しにしたくないだけですな。それと、小さなことについつい目が行く悪癖が、いまの仕事にはプラスになるので」
再びコーヒーを味わう。二口めは味の印象が少しだけ変わる。よりとっつきやすい、刺激の少ない愉しみを持っている。
ところで物騒と言えば、と半ば無理やり小春さんが続ける。常にのほほんとした人で、おしゃべり好きというほどでもないから、会話のタイミングが摑みにくい女性だ。
「きのうの火事、タカさんも見た?」
「ああ、ありましたな。私も見ました。正確にはきょうの未明でしょうか。時間はいつごろだったのです? 眠気もあって炎に見惚れていて、時計を見ておりませんでした」
「確か……二時くらいだったかしら?」
「その時間だと、直人さんが気づきましたか?」
「ええ、直人さんが帰って来たばかりのとき、たまたま」
遅くまでこの店舗を使ってバーを切り盛りしている直人さんだ、真っ暗なはずの寝室に赤が飛び込んできていたら、嫌でも目に留まったことだろう。妻の小春さんと違ってきっちりとした人だあるから、間違いないと思っていい。となれば、やはり、およそ十時間前のきょうのできごとである。
日付と時刻のことはうるさく言わないことにして、他のことを訊く。
「どこの火事だったのですか? 二階のうちからは見えなかった、三階のお宅なら見えたでしょう」
事務所兼自宅からの炎は、上へと延びていく印象だった。フロアひとつ高い窓から見たその炎は、いったいどのように見えたのだろうか。
「そうね、直さんが言うには五丁目のアパートみたい」
「アパート? ああ、そういえば古臭いのがありましたな。木造で、がたがたの」
でしょ? と小春さんが楽しげに言った。近所であれだけの火事があったのだ、気にもなるだろう。
しかし、そんな古いアパートで夜半いきなり火事になるようなことがあろうか? 住人がどんな人々なのかは知らないが、事件性がなければ幸いだ。夜中をふらつきまわる悪ぶれたガキどもの仕業という可能性もある。
しかし、私の心配は的中してしまったのか、からんころんとドアが鳴ってスーツの男が入ってきた。なんということか、世間の平安を乱す凶悪犯罪に立ち向かう捜査一課の刑事である。
「あ、いたいた。佐伯さん」
輪をかけて悪いことに、私は奴と知り合いである。よく見知っている。
せっかくのティータイムだったのに、すっかりげんなりとした気分になってしまった。その暑苦しく面の皮の厚い男に対して唾を吐く代わりに、私は小春さんと同じちょっかいをかけてやる。
「どうした、純。職場放棄か? 私は期待の後輩をそんなふうに腐らせてしまっていたのか、残念だ」
「何を言っているんですか、佐伯さん。おれはここに、仕事で来たんです!」
うるさいったらない。五月蠅くて、煩い。
「声が大きい、聞こえている」
「あ、はい」
我が後輩はこほん、と咳払いをして、要件を話しはじめる。
「きょう未明の火事について、話を聴きに来たんです」
やはり、か。
小春さんが首を傾げているが、それを手で制して丸椅子をくるりと回し、若き刑事と向かい合った。こいつは、春子さんではなく私に話を聴きに来たのだ。
「いいか、純。いくら私がかつて警察にいたとはいえ、自分の捜査を押し付けようとは、それも立派な職場放棄だぞ」
「ならプライベートで構いませんよ」
「そういう話をしているのではないと決まっているだろうが。これだからお前は一課で雑用係から抜け出せんのだよ」
つくづく疲れる後輩である。しかし、私の皮肉には多少なりとも男の虚栄心が逆撫でされたようで、顔を赤くしあろうことかさらに声を大にする。
「佐伯さんはもう辞めたでしょう! 一課にいもしないのに、どうしておれが雑用係だなんて言われなくちゃならないんですか!」
「……だからな、声を小さくしても聞こえる。これは何度も注意したというのに、学習しないからそう言われるんだ、な?」
学習しない欠点に関してはぐうの音も出ないようで、純は悔しそうに反論の言葉を探している。だが、私は後輩を黙らせることだって後回しにはしない。
「それにな、いま一課が忙しいことくらい知っているぞ。合同捜査、続いているんだろう? その最中に、放火か否かもはっきりしないであろう時間に火事のことを聴きに来ているんだからな――お前は相変わらず、干されている」
純は肩を落として頷いた。
合同捜査というのは、刑事部の捜査一課と組織犯罪対策部のおそらく四課か五課によるものだ。先週、この街からは少し離れたところで銃を用いた殺人事件が起こっており、高性能の拳銃が使われたとみられるそれの犯人が、どうやら犯罪組織の一員で、事件も犯罪組織同士の抗争によるものではないかと見られているのだ。ゆえに、組織の一網打尽を目論む組対と、殺人犯を検挙したい一課の協力と相成った。
私はニュースで銃殺事件を知ったのみだが、それ以降続報がないことからして、かなり慎重かつ大規模に捜査が進められていると容易に想像できていた。
「お、おれもその事件の捜査に出られていないわけでは……で、でも、そっちはまだ凶器の拳銃も見つかっていませんし、まだまだ――」
「阿呆。民間人である私や小春さんの前で、捜査情報を垂れ流しにするな」
げ、と純は苦々しく声を漏らした。まったく意識していなかったに違いない。
コーヒーを再び口にし、害された気分を多少は安らげる。その私の頭を飛び越して、純は小春さんに「すみません、忘れてください」と懇願する。これぞ鉄面皮、いや、鉄よりもずっと硬くて分厚い面の皮を持っているはずだ。
「まったく、下手な場面だったら懲役刑もあり得たぞ」
「そんな、大袈裟な……」
「罪は罪だ」
しばらくは純も反省、いや、しょぼくれていたのか私に話しかけてはこなかった。小春さんにも話しかけなかった。
背後で突っ立っていられるのも鬱陶しいなと再び腹が立ってきたころ、純は突如強硬策を選んだ。
「とにかく、検挙率ナンバーワンを誇った佐伯さんの力が必要なんです! お願いします、来てください!」
私の腕を摑み、引っ張る。
さすがに、リタイアより現役の警官のほうが腕っぷしは強い。私は下手に逆らえず、抵抗しながらも渋々席を立ってやった。情報漏洩は罪だが、後輩をあまり薄情にあしらうことができない私も甘い。
純も少しは気が利くようになったようで、私のコーヒーカップは空だった。
現場に着くと、悲惨な焼け跡があった。
そこは小春さん、いや、直人さんの言ったとおり五丁目のアパートだったところだ。いまでは、黒炭と化した材木とわずかに残った柱とが尖った先端を空に向けて突き出しているのみである。周囲の建物はかなり煤を被り焦げ付いてしまったものの、夜遅くの大火事で延焼がなかっただけ奇跡ともいえよう。住民と思しき数人が瓦礫を漁っては何かを拾っては埃を払い、目当てのものでないのかまた捨てるなどしてそれぞれ片付けをしている。
侘しい――冬の寒さが余計に身に染みる。
はあ、とふたりで嘆息を漏らしていると、消防士が歩み寄ってきた。
「あなた方は?」
「ああ、失礼。捜査一課、巡査部長の一場純です」
そう名乗って、警察手帳を見せる。こういうところだけは立派だ。それから間が明かないうちに、私も便乗して「佐伯鷹だ」と名乗っておいた。身分を警察と偽ることを言っていないから身分詐称には当たるまい、そう思っておこう。
消防士も自分の身分を名乗ると、我々にキープアウトの線をくぐらせた。そこは柱が一切残っていないようなところで、火災に関しては素人目ではあるが、ここが火元だと見て取れる。
「鑑識さんとも話し合った結果、やはりここが火元ですね。灯油が撒かれた形跡も見つかりました」
「なるほど」
形だけはしっかりした純が頷き、重ねて問う。
「遺体については?」
なに?
「焼死に断定されたと聞いていますが。放火以前に殺されたわけではないようで。……まあ、詳しくは鑑識さんにお願いします」
失礼、と言って消防士は去って行った。
去ったことを確認して、私は、後輩の胸倉を摑む。
「おい、純。聞いていないぞ」
人が死んだというのなら、私を現場に無理やり連れ出しても少しは自然というものだ。
「……ご、ごめんなさい。ほ、ほら! 情報漏洩は良くない!」
「いまさら何言ってんだ、阿呆!」
乱暴に揺さぶってから話してやった。ネクタイを直しているところに、私は問いただす。
「で? 人物像ははっきりしているんだろうな?」
「ええ、それはちゃんと。このアパートの大家だそうで、六十二歳の堂場玄一という男性です。親族はもう残っておらず、妻も亡くしています」
「はあ、それはなんとも気の毒な最期だ」
遺体こそ残っていないが、私と純は手を合わせた。しばらく冥福を祈ってから顔を上げ、話を再開する。
「しかし、どうして大家の部屋に灯油なんて物騒なものが撒かれるんだ?」
「……ストーブに灯油を足そうとしてひっくり返して、たまたま煙草に引火、たちまち爆発して大火事になり、逃げられずに堂場は死んだ。とか?」
「なんとも平坦で誰でも思いつく陳腐な説だな、あり得なくもないだろう。だが、お前は堂場が灯油ストーブを使っていて、愛煙家だったことも調べがついていた上でその説を思いついたのか? それに、夜中にわざわざ灯油を足して、あまつさえ一服までしていたというのは、いくらなんでも妙ではないか? お前、説明できるか?」
純は目を逸らす。これでは話にならない。
夜、私は直人さんのバーで昼間の疲労を癒していた。
客は少なく、直人さんは余計なことを言わない性質なので、私の英気はすっかり養われたかに思われた。ところが、奴はまだ私に付きまとう。
直人さんが入口を一瞥するのに気づき、そちらに椅子を回すと、純が来ている。
「調べて来ましたよ、佐伯さん」
さすがに一日駆け回って疲れたようで、声は大きくなかった。体力とケアレスミスだけは持て余しているから、てっきりそれらを無尽蔵に持ち合わせているものと思っていた。
「……どうしても私を引き入れたいんだな?」
「当たり前です、一課の元エースが探偵事務所で暇をしているのなら、使わない手はありませんね」
そう言って、私から椅子をひとつあけたところへ項垂れるように座った。それから、「なんでもいいです、飲みやすいカクテルお願いします」と厚かましく注文し直人さんを困惑させた。
直人さんの質問に答え、しばらく待っているあいだに私のほうを向いてくる。
「佐伯さんのそれ、なんですか? 白いですね」
「タカさん限定のお酒ですよ」直人さんが応じた。「常連なので、他の人には出しませんし、おすすめもしません」
「はあ、そうですか。強いんですか?」
「好みは分かれますね。タカさんには一番ですが」
「ふうん。そういえば、佐伯さんが酔っているところは見たことがないかも」
それきり純は諦めたようだった。やがて自分の注文した酒にありついた。
「それで、純。放火の話をしに来たのか?」
「え、いいんですか? せっかく飲んでるのに、席を外すことになりますよね?」
情報漏洩を未然に防ぐ認識はできたようだ。若者の学習は速い。
「ああ、直人さんは大丈夫。口外などしやしないさ、信用していい」
純が直人さんを見やると、店主はにこりと黙って頷いた。素直にそれで安心したのか、純はこちらに正対して話しはじめた。
「まず、堂場についてですが、愛煙家ではあったそうです。灯油ストーブも焼け跡から見つかりました」
「ほう」
「でも、住民の話によると、夜中に起きることは滅多になく、就寝は早かったそうです」
「火元にはなり得るが、堂場が過失を犯すこともない、ということか」
「そうですね。また、ガラスの破片が不自然に散らばっていて、堂場の部屋の内側にも散らばっていたそうです」
なるほど、火事で窓が割れるなら外側へ押し出されるように割れるはずだ。つまり、
「誰かが窓を割って灯油を注ぎ込み、火をつけたわけだ」
「ええ、放火以外考えにくいですね。で、問題なのが住人、入居の状況なのですが――」
純によると、こうだ。
住人は大家を含め四人、六部屋あってひとつは空き部屋だそうだ。大家の堂場はアパートの一階、最も西側の部屋を使っていて、その隣は大学生の守屋誠次の部屋。その隣、最も東にある部屋は水道が壊れて貸し出せず空き部屋になっていた。その真上、つまり二階の東の部屋には大木佐智枝という女が住み、二階の中央の部屋にはとび職の高田重明が住んでいた。そして、堂場の部屋の真上はつい最近住人が引っ越し空き部屋だった。
「――それで、そいつらのうち誰かが火をつけたとでも言いたいのか? それは甘い、外部犯の可能性だってあるはずだ」
「いいえ、そうではなくて、注目すべきは空き部屋ですよ。犯人がこのアパートのことをよく知っている人物のはずだということがわかるんです」
「ほう」
「だって、放火魔が火をつけるなら、人殺しまではしないでしょう。ガラスを割る手間で見つかるかもしれませんし、より手っ取り早い一階の空き部屋を狙えばいい」
「そうだな、もっともだ。だが、堂場を殺す目的があれば、空き部屋を狙わなくてもいいはずだろう?」
純は目を逸らした。まだまだ甘い。
私も意地の悪いことを言っただけで、話の腰を折るつもりはない。
「まあ、堂場を殺したければアパートのことも知っていよう。とにかく、アパートの事情を知る人間なんだな……そこから絞り込めたんだろうな?」
「ええ、アパートには監視カメラはひとつもないのですが、周囲の交差点なんかのカメラを確かめたところ、被疑者は三人です」
だろうな、陳腐に呆れ何も意見できなかった。それを私が素直に聞いているものだと思ったらしく、純はつらつらと語る。
「あの晩、堂場を除いてアパートにいたのがふたり。大木佐智枝と高田重明は部屋で眠っていたと話しています。どちらも、大人しく寝ていたかは証明できませんが」
「人数が足りないじゃないか。もうひとりの学生の住人は?」
「守屋誠次は大学で夜通し研究室に籠っていたと話しています。確認こそできませんでしたが、事実なら放火は不可能です」
「それじゃあ怪しいままじゃないか! カメラやタイムカードを確認したり、守衛に話を訊いたりしたのか?」
「調べましたが、確証を得られるものはありませんでした」
これでは守屋がかえって怪しいではないか。
「じゃあ、もうひとりは?」
「今朝片づけに参加していた、宗光修吾。先週車で二時間ほどのところへ引っ越したそうですが、火事の報せを聞いて車で飛んできたそうで」
「二階の西側の部屋を使っていた十人か……いや待て。時系列が前後しているじゃないか。火事の報せを聞いた奴が、どうして火をつけられるんだ?」
「それが、宗光の車と断定できる車が、本人が来たと話している時間、監視カメラに映っていなくてですね……」
確かに、交差点全体を監視すべき幹線道路は現場周辺にない。純が言っているカメラというのも、同じ通りの店舗が店頭を見張っていたものを言っているのだろう。アパートの前の通りは、主要道路でないにしては交通量が多いし、カメラそのものの性能もそう高くはないだろうから、ヘッドライトでぼやけて見分けられなかったのか。
「また、火事が起きたのは午前一時ごろなのに、アパートへの到着が五時だったんですよ」
「……飛んで行った割には遅いな」
「ええ。まあ、まだ調べる余地があるでしょうよ。あした、予定空けてくれますか?」
「……仕方ないな、どのみち定休だ」
被疑者が絞れていないとなると、かなり働く定休日になるだろう。
翌朝。いや、やはり昼前だ。
まず、工事現場にいた高田を訪ねた。また来たのかと眉をひそめる高田は昼休みが近いというので、無理を言って少し前倒ししてもらった。
やや不機嫌そうにコンビニ弁当にがっつく職人に、純はひとつずつ尋ねていく。発火当時の動向については省いた。
「高田さん、亡くなった大家の堂場はどんな人でしたか?」
「どんな? 大家としては普通だったと思うが、人間としては最悪だったぜ」
憎しみを込めたその言葉に、私たちは驚いてしまう。
「最悪って、どういうふうに?」
「悪徳な商売を持ちかけてくるんだ。ああ、思い出したくもねえ、俺も摑まされて借金してたんだよ!」憎らしげに言ったのち、訝しんだ顔で問う。「というか、おいおい、まさか放火殺人の疑いが俺にかけられているとでも?」
「いえ、形式的なものです」純は落ち着いて応じた。私の知っているころより成長が見られる。「……失礼ですが、借金とはいくらくらい?」
「さあな、法外な利子をかけていやがったから、こっちも払う気がしなくて忘れちまったぜ。最初は百万だったかな」
どっちもどっちだな、と私は思った。嘆息を我慢して質問する。
「他の人にもやっていたのですか?」
「たぶんな。誰もあの野郎のことなんか好きじゃなかったぜ」
弁当を食べ終えると、ゴミを片づけながら言う。
「野郎、きっと闇金とか暴力団とかとつるんでいたに違いねえ」
「……確証は?」
珍しく冷静に純が訪ねた。すると、少しはっとしたように高田は目を見開き、歯切れを悪くする。
「い、いや、確証はねえな。ただ悪態をついただけとでも思ってくれ」
「ところで」堂場についてこれ以上は話してくれないと直感し、私が脇から口を挟んで話題を変えた。「守屋誠次や宗光修吾、知っていますよね?」
「うん? あ、ああ。あの若い奴らか」
「彼らもまた、堂場を憎んでいましたか? まだ話を聞けていないのです」
「ええと……」高田は考え込んでから、やはり覚束ない口調で話す。「ふたりは特にそんな様子はなかったし、むしろ大家が気に入っていた感じがしたな。水道とか機械とかのトラブルがあると、俺よりもまずあいつらに見せていた」
「そうですか」
「なあ、そいつらも容疑者ってやつなのか? 呼んだら片づけに駆けつけてくれたいい奴らだぜ」
高田の疑問は手で制した。すると、高田は現場に戻ると一方的に言って帰ってしまった。
「あ、刑事さん。きのうの続き?」
大木佐智枝を訪ねるべく新居を見つけるまで居候しているという友人の家を訪れると、ちょうどそこに本人が歩いてきた。アルバイトからの帰りだという。
「運がいいのね、きょうの午後は夜に仕事に行くまで空いているの。上がって話ができるか、ちょっと訊いてくる」
まもなく、友人の許可をもらって家へ上がった。リビングに通されると、大木の友人は紅茶だけ出して席を外してくれた。
「それで、何を訊くの? 寝ていたか証明できないって話は済んだのに」
「きょうはふたりの人物について訊きに来ました」基本的には純が訊いていく。「まずひとり、大家の堂場について教えてくれますか?」
その名を聞いた途端、大木の表情が歪んだ。
「ひどい男よ、ああいうのを守銭奴っていうの。ほんの数日家賃を滞納したからって、値上げするぞ、なんて脅してくるし、嫌がらせなんかもしてきたわ」
滞納も滞納だ。あまり褒められた住人のいるアパートではなかったのか。
「ひょっとして、放火殺人の可能性もあるってこと?」
「まあ、可能性のうちとして。堂場は恨まれていたんですね?」
「誰からも」
純に替わり、高田の話と兼ね合わせて私が尋ねる。
「堂場は他の住人にも、悪徳な商売を持ちかけていたのですか?」
「ううん、それでも多少お金のある人を狙っていたのね。私や高田さんばかり狙って、若いふたりは誘っていなかったと思う」
若いふたり――守屋と宗光のことだ。
「そうそう」大木は付け足す。「うちの階なんかは――あ、二階ね――怖い顔した人がときどき出入りしてたから、大家も怖かったのかも」
これは気になる話だ。
「もう少し、具体的に」
「いや、怖い人が来ることがあった、ってだけ。まあ、極道の類の人間だとは誰が見ても思うくらいだったわ。刺青はあるし、高そうなスーツ着てるし。実際に悪い人だったのかは解らないし、誰の知り合いだったのかも知らないわよ」
二階の住人といえば、この大木と高田、宗光である。大木本人の言葉を信じるなら、高田か宗光の知り合いが裏世界の人間だということか。あくまで信用すればの話であるし、高田は高田で堂場がその界隈と関わっているのではないかと話していたから、もっと裏付けをしなければならないだろう。
そろそろいい? と大木が話を切り上げようとするので、純が「最後に」と一言だけ訊いた。
「車を持っている住人っていました?」
私も誰かに訊きたいと思っていた質問である。宗光があのアパートに住んでいたとなれば、車を購入資金力はないと考える方が妥当だ。
突飛な質問に大木は面食らい、やや訝しんだ表情で言った。
「大家しか持ってなかったはずだけど」
次に訪れたのは、大学の研究室だ。
「貴重な時間なので、手短に」
守屋の大学はアパートから車でも数時間かかるような、かなり離れた所にあった。いまは友人の家に下宿しているのもあって近くから通えていると言うが、それでも火事で狂った予定は多く、忙しい生活を送っているのだとか。
研究室を出た人気のない廊下で話を聞く。先に純が尋ねようとしたが、私はそれを止めて自ら質問する。いままでのふたりとの話を見るに、質問の仕方を変えたほうがいい。
「いま、放火殺人の疑いが出ています。堂場のことについて教えてください」
え、と声を漏らし守屋は驚いた。若い相手にはちょっと驚かしてやれば、わずかな混乱に乗じて引き出しやすくなる。
「ええと……大家さんは」学生はやや俯きがちに話す。「高田さんや大木さんからは嫌われていたようでした。でも、ぼくは大家さんとあまり話したことがなくて、よく知らないんです」
「ほう、そうですか」私は重ねて尋ねる。「聞いた話では、家の故障の修理なんかを任されていたらしいですよね?」
「それはどちらかというと、宗光さんでした。宗光さんは……大家さんをどう思っていたんでしょうかね? 大学にいる時間もあって、他の人の人間関係は解らないところが多いです」
ほう、なるほど。
私はもう一歩踏み込む。
「堂場は住人に商売を持ち込んでいたそうですね? それも、性質の悪いものを」
「はあ、そうらしいですね」守屋は眉をひそめる。「でも、僕は関わっていませんよ。アルバイト生活で、大変なんですから」
「おや、独力で学費を? 仕送りなどは?」
「ありません。以前、親にギャンブルをしていたことが知れて打ち止めされました。研究室の仲間から借りるわけにもいきませんし」
まったく、あのアパート、経済面でろくな奴はいない。
すると、守屋はもう帰してくれと訴えはじめた。よほど忙しいのだろう。私からはこれ以上引き出せないと考えたので、純に引き継がせた。
「では、もうひとつ」
「はい、ひとつですね」
「守屋くん、火事の翌朝の片付けにはいたよね? いつ大学を引き上げたの?」
「……ええと、始発電車に乗って向かったかと」
ありがとう、と純は守屋を研究室に帰してやった。
純もやはり立派になりつつある。おかげで、私もあと少しで真相が摑めそうだ。
最後に宗光を訪ねたころには、もう日は沈もうとしていた。純が話していたように、アパートに行くには車で二時間ほど必要と思われる。
インターホンを押すと、出てきたのは若い男性。しかし、宗光本人ではないらしく、純は警察手帳を見せて名乗った。その男によると話は門前で聞いてほしいとのことで、自分は土井であると名乗った。身なりからは誠実さは感じられない。
「宗光くんは?」
純が尋ねた。
「いまは仕事です」
「土井くんは宗光くんと同居しているの?」
「ええ。シェアハウス、というやつです」
私はよく知らないので聞いてみると、親しい友人同士でひとつの家なり部屋なりの資金を出し合い、共同生活を送ることをいうのだという。宗光や土井たちの場合車も共有しているらしいから、それほど資金力がないはずの宗光がどうやって車を手に入れたかははっきりした。学生や若いフリーターとしては経済的に楽な生活スタイルだろう。
期待は薄かったが、そんな生活を共にする土井に私は訊く。
「宗光くんの住んでいたアパートについて、何か知っていますか?」
「ああ、火事になったそうですね。この前は大変でした」
「宗光くんが車でアパートへ向かったのは、いつごろでしたか?」
途端、土井は眉根を寄せて表情を曇らせた。
「いや、俺は寝ていたので……ちょうど、俺の部屋は車を出すときのライトが入ってこないので。ほかの人たちから訊ければいいんですけれど、宗光を含めたほかの三人がいつ帰って来るかは、ちょっとわからないです。明日ならみんないると思いますけど」
となれば、もう一度来るしかなさそうだ。最後に、と純は宗光の人間関係で気になるところはないかと尋ねた。
「ううん、特に思いあたりませんね。あ、アパートの住人で歳の近い大学生と仲がよさそうだったかな? ……で、そんなことがどうかしました?」
土井の表情はみるみる曇っていくので、そそくさと私たちは退散した。
その次の日は、純は現れなかった。
珍しく、一課の捜査に駆り出されたからである。
さらにもう一件、拳銃による事件があったのだという――
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