60話 痕跡がない?
城内は水を打ったように静まり返っていた。
警備すら姿を見せず、蹄の音と車輪が舗装された道を進む音だけが異様なまでに響き渡っている。前庭を通り過ぎ、正面エントランス前に馬車を寄せても迎えが来る気配は一切なかった。
「……まあ、予想通りですけど」
シャーロットは馬車を慎重に降りながら、小さく息を吐いた。
普段、エントランス前に必ず配置される騎士もなく、大扉の向こう側からも気配は一切伝わってこなかった。耳を澄ませてみても、話し声どころか足音さえ聞こえてこない。
シャーロットは振り返ると、ここまで自分を送ってくれた馬車を見上げた。
「ネザーランド夫人。ここまで送ってくださり、ありがとうございました。あとは、ここでお待ちになってくださいませ」
「まあっ! この状況で私が待てるとでも?」
夫人は憮然とした表情を浮かべると、鼻息荒くドレスの裾をつまんで降りてきた。
「貴方たちを送り届けたのは、私の衣裳店が怪しげな陰謀に巻き込まれたからですのよ? 最後まで見届けさせていただきますし、こんなことをやらかした者の頬を叩かないと気がすみませんわ!!」
「……では、お好きなように」
これも予想通り。ここで従順に待つことができる女傑ではない。
シャーロットは目を伏せ、くるりと前へ向き直った。足元から離れぬ黒犬の存在を感じながら、大扉へ歩みを進める。
「あー、シャーロット?」
サリオスが駆け足で追いつくと、耳元で囁きかけてきた。
「さっきの口ぶりだと、夫人はここに置いて行った方がいいのか?」
「私としては、どちらでもかまいませんの」
シャーロットはほとんど口を動かさずに、兄へ言葉を返した。
「私には関係ないことですから」
「……お前には関係なことでも、他に影響があるのではないだろうな?」
「ご想像にお任せいたします」
シャーロットはサリオスに視線を向けず、杖を強く握りなおす。
「それよりも、兄様。扉を開けてくださる? 鍵はかかっていないはずですから、簡単に開くはずですわ」
「あ、ああ」
サリオスからは何か言いたそうな空気が伝わってきたが、言われた通り大扉に手をかける。実際、他に扉を開けられる者はいない。本来、城の大扉は鍛え抜かれた騎士が開くものだ。シャーロットの細腕と不自由な足では開くことは不可能だし、ネザーランド夫人に任せるのも気が引けた。
「ん……あ、本当だ。鍵がかかっていない」
サリオスが力を込めて扉を引っ張ると、案外簡単に開いた。
「おかしいな。警備がいない時は、必ず鍵をかけているものだが……」
「それでも、昼間はかかっていないでしょう。門番がいるのですから、怪しい者は一人も入ってきませんわ」
「……それでも不用心すぎる。こんなこと、ありえるのか」
サリオスはそこまで呟き、首を振った。
「いや、ありえないことなんてありえないのか。誰も門を通さない時点で平時ではない。だが、妙だ。何かおかしい」
彼はつかつかとエントランスホールに入ると、怪訝そうに眉を寄せた。
「オリビアたちが何か企んでいることは確実だ。恐らく、クーデターの類だろう。ここまでの推測は間違いではない……だよな?」
「ええ」
シャーロットが頷くも、サリオスの表情は変わらない。
「だが、それにしては……気配がなさすぎないか?」
「具体的には?」
「戦闘が行われた形跡がない」
サリオスの言う通りだった。
エントランスホールは平時通りの輝きを放っている。赤い絨毯には汚れはなく、大理石の床や彫刻が施された壁には傷一つない。先ほどの大扉を思い出しても、無理やりこじ開けたような痕もなかった。いつもと違う点はただ一つ、人が誰もいないということだけである。
「てっきり、僕はオリビアたちが無理やり制圧を図ったのだと思っていた」
サリオスは歴代王の絵画を見上げながら、不思議そうに階段をのぼる。
「門番だけを買収して?」
シャーロットも階段をのぼる。足が思ったように持ち上がらず、数段のぼっただけで息切れをしそうになった。足が固い。膝が持ち上がらない。杖を一段上に置き、ぐっと身体を持ち上げるように足を動かす。それが何十段も続くともなると、気が遠くなりそうだった。
「シャーロットさん?」
ネザーランド夫人が心配そうにこちらを見下ろしてくる。いつのまにか、彼女にも抜かれていたらしい。
「お気になさらず」
「あの……本当に大丈夫なのでしょうか? 顔色が悪いように見られますけど……」
「問題ありませんわ」
そう言ったはずなのに、声を搔き消すように黒犬が吠えた。吠え声に反応したのか、だいぶ先を進んでいたサリオスが引き返してきた。サリオスはシャーロットの顔を見た途端、驚いたように眉を上げた。
「シャーロット、お前……やっぱり、まだ本調子じゃないだろう? 汗が酷いじゃないか。ほら、おとなしくしてろ」
サリオスはひょいっとシャーロットを担ぎ上げた。
「兄様……?」
「しかし、本当にお前がここまで来ないといけないことなのか? 僕に全容を語ってくれさえすれば、家で身体を休めることができただろうに」
「それは……」
シャーロットは目を落とした。
さっきまで握りしめていた杖は、黒犬が尻尾を振りながらくわえている。黒犬はシャーロットの視線に気づくと、嬉しそうに目元を緩める。心なしか、尻尾を振る勢いが増したように思えたし、それは間違っていないはずだ。
「……私の願いを叶えるためですの」
「願い? また書庫へ自由に出入りする許可か?」
「いえ」
私の願い――いまの自分の願い。
シャーロットはそれを口にすることはできなかった。実現可能になる瞬間を目にするまで、言葉として世に出したくはなかった。たとえ、この場で自分の読みたい本を100積まれても、首を縦に振ることはないだろう。
「ところで、シャーロット。どこへ向かえばいい?」
「玉座の間。そこですべてが終わります」
「……やっぱり、クーデターなんだよな?」
サリオスが一瞬、本当に一瞬だけ腰に差した剣に目を向けたことが分かった。
「戦いの必要はありませんわ」
シャーロットは断言したが、彼の顔色から不安の色は拭えなかった。
「しかしだな、オリビアたちのクーデターだぞ? ろくなことをするとは思えない」
「ええ。ろくなことはしませんわ。ですが、兄様……周りをご覧になって。戦いの痕跡はあります?」
「……ない」
ひとしきり階段を上り終え、玉座の間があるフロアに辿り着いたが、依然として周囲の状況は変わらなかった。
「それが答えですわ。あの人たち、クーデターをする気概はあっても、人を殺す勇気なんてありませんもの」
「そうか? 人の命なんて、どうにも思ってないように感じるが……」
「そのように振舞っている人こそ、意外と弱いものです……ええ、ですが、この先は気を引き締めてくださいな」
シャーロットが声を潜めたことで、サリオスたちの身体に緊張が走る。その姿を見て、シャーロットは言葉選びを失敗したと思った。
「いえ、誰かが襲い掛かってくるというわけではありませんのよ。そのような段階は終わっているので」
「……戦闘はなかったと言っていただろう?」
「兄様たちがイメージするものはなかったということなのです。ここから先、気を引き締めるというのは、足元をすくわれないようにするためということ。それだけですの。剣を振り回すばかりが、戦いというわけではありませんでしょう?」
シャーロットはそこまで言い終えると、兄たちを安心させるように微笑んで見せた。
「玉座の間の前で降ろしてくださいませ。あとは、私がすべてやりますので」
「だが、玉座の間からは何も……いや、あそこは防音か」
サリオスの呟きは正しい。
玉座の間は完全防音。部屋の内部で何が起きても、それが外に伝わることはない。極端な話、いま、この瞬間、玉座の間で花火が同時に百本暴発したとしても、部屋が壊れない限り、扉の前にいたとしても何も伝わらないのだ。
「玉座の間に着けばわかりますわ――きっと、この国の行く末が見えるはずです」
瞼に浮かぶのは、自分が決して見ることのない落日のとき。
シャーロットは斜陽を思い、独り言のように呟くのだった。
投稿が予定より遅くなり、申し訳ありませんでした。
次回は8月の土曜日に更新予定です。




