55話 黒い狼
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貴族を乗せた馬車が転倒した。
このニュースが王都に広まるまで、そう時間はかからなかった。
大通りにもかかわらず転倒の瞬間を見た市民は少なく、馬の嘶きと御者の悲鳴で多くの者が振り返ったときには馬車は横転し、令嬢が扉から小枝のように放り出されるところだった。
「き、きゃーーーっ!?」
大通りが騒然となったのは、語るまでもない。
令嬢の身体は地面に叩きつけられ、そのまま動かなくなった。この事件を目撃した多くの人たちは、すぐに彼女の元に駆け寄ろうとした。しかし、馬が酷く暴れ狂い、誰も近づけない。御者も振り落され、制御の効かなくなった騎馬は混乱しきっているらしく、大通りを疾走しようとする。
その進路に、令嬢が倒れていることもにも気づかずに。
誰もが危ないと思った。だけど、馬と令嬢との距離はわずか数メートル。助けに駆け寄ったら、その者まで巻き添えになることは明白で、数秒後に起こる惨劇を想像することしかできなかった。
「ッ!」
ところが、馬車から巨大な黒い狼が飛び出した。
狼は馬との間に割り込むと、令嬢の身体を咥えこむ。馬よりも一回り大きい狼の出現に、荒れ狂った馬でも危険だと察したのか、狼を避けようとする。そのおかげで少し逃げる隙間が生じた。狼は馬と激突する寸前、しなやかな身のこなしで跳ね飛んだ。馬と御者を一瞥することなく、黒い閃光のように貴族街に向かって疾走する。途中、口にくわえていた令嬢をひょいっと放り、その背に乗せていたが、速度が緩まることはない。王都どころか国中探しても巨大な狼だったが、細かく入り込んだ通りまですべてが頭に入っているかのように突き進む。
ようやく狼が足を止めたのは、貴族街でもひときわ大きな屋敷の前だった。
巨大な狼の存在に門番は呆気にとられ、言葉を失った。しかし、その背に乗っている令嬢の存在に気づくと、我に返ったように声を取り戻す。
「しゃ、しゃ、シャーロットお嬢様!?」
門番はすぐさま剣を抜き、腰を落とした。いつでも狼からエイプリル家の令嬢を救い出せるようにと構えたが、それは杞憂に終わった。
黒い狼はその場に屈みこみ、令嬢の身体を背から滑らせる。緑の双眸は、早く受け取れと言わんばかりに門番を見据えていた。
「あ、ああ。分かった」
門番は狼に向かって頷くと、シャーロットの身体を受け止めた。彼女の身体はすっかり冷え切っており、普段の白い顔からはさらに血の気が失せている。
「ああ、お嬢様! 誰か! 誰か!!」
門番は自身の上着でシャーロットを包むと、屋敷に向かって走る。
すぐにエイプリルの屋敷は蜂の巣をつついたような状態に陥った。なにせ、予定では王城にいるはずのシャーロットが意識不明の状態で運ばれてきたのだ。当主のエイプリル伯爵は隣国へ外交旅行中のため、サリオスが留守を預かっていたが、妹の変わり果てた帰還には混乱を隠せない。
サリオスは妹の冷たい身体を震える手で抱きしめる。
「すぐに医師を呼ぶんだ! 僕がシャーロットを部屋まで連れて行く。昨日までに整えてあったはずだ、問題ないだろう。その間、すぐにお湯を用意するんだ。あとは……あとは……あーっ、くそ! 一体何が……何故、こんなことに!」
サリオスは矢継ぎ早に指示を出しながら、シャーロットを彼女の部屋へと運んだ。妹の部屋へと急ぎながら、サリオスは妹の身体があまりに軽すぎることに違和感を覚えた。もともと華奢な体格だったが、20代を目前とした女性とは思えぬほど軽いのだ。羽のように軽いなんて比喩表現はあるが、文字通りの重さだろう。先日、7歳の姪っ子を抱きあげたが、それと同じくらいの重さしかない。腕にかかる重みと依然として目を開けぬ妹の白い顔を見ているうちに、だんだんと焦りや怒りが込み上げてきた。
「城に行ってたんだろ!? なのに、どうして……ロイも護衛についていたはずだ! あいつはどうしたんだ!?」
「あの、サリオス様……」
執事がサリオスのあとを追いかけるように声をかけてくる。
「ひとつ、確認したいことがあるのですが……」
「なんだ!」
サリオスは前を向いたまま、執事に答えた。
「すぐに確認しなければならないことか?」
「あの、我が家の所有する馬車が大通りで横転したとの情報が入って来まして……それから、その……その犬はどうしましょう?」
「犬だと?」
執事に言われたが、なんのことかさっぱりだった。サリオスは「犬ってなんだ?」と聞き返そうと執事に顔を半分振り返ったとき、黒い毛が目に飛び込んできた。自身の腰のあたりになにかがいる。サリオスがぎょっとして足を止めると、その塊も動きを止める。
「……犬だ」
サリオスは一瞬、妹を抱えていることを忘れて犬を見下ろした。黒い大型犬だった。ふさふさと柔らかそうな毛並みの犬で、緑色の眼は悲しそうに歪んでいる。その目線はシャーロットに注がれていた。
「ロイ?」
サリオスの口から親友の名が零れる。だが、すぐに馬鹿げたことだと首を振った。
「違うな。あいつは獣人だが犬じゃない」
「サリオス様、どうしましょう? この犬を追い出しますか?」
「…………いや、そのままでいい。妹のことを心配しているようだしな。ただ、シャーロットに害を与えるような真似をしたら、速攻追い出せ。他の使用人にも伝えておくように」
サリオスは執事に指示を出すと、再び歩き出した。犬も並走するように歩き出す。尻尾はだらんと垂らしたまま、その目は依然としてシャーロットだけに向けられていた。奇妙なことに、犬は口を開けなかった。かなりの速度で歩いているというのに、口は堅く閉ざされていた。それはシャーロットの部屋に着いてからも変わらない。彼女をベッドに寝かすと、縁に前足をかけ顔を覗き込み続ける。
「鳴きもしない、か」
不気味な犬だったが、不思議と親近感があった。シャーロットの身を案じているのが全身から伝わってくることもあるが、狼系獣人の親友に似ていたからかもしれない。
犬はシャーロットの傍から離れることはなかった。
医者が来ても、侍女たちが入れ代わり立ち代わり看護に訪れても、シャーロットから離れようとしなかった。何時間経っても動かず、吼えすらしない。侍女の一人が水の入ったボウルを足元に用意したが、尻尾を一度振っただけで、それっきり見向きもしなかった。
「シャーロットが心配なんだろうが、水くらい飲め。身体が持たないぞ」
サリオスが犬の頭を撫で、ボウルを指す。
すると、ここで初めて犬はサリオスを見た。どこまでも切なそうな目をした犬は、ぐわっと大きな口を開けた。
「な、なんだ!?」
サリオスはぎょっとして飛びのきそうになった。大きな口を覗き込んだとき腕くらい貫きそうな白く鋭い牙が並んでいたこともあるが、それ以上に驚いたのは舌だった。赤い舌があるにはあったが、あからさまに切断されていたのだ。あれでは水も飲めない。水を飲むどころか、出血多量で死に至るはずだ。にもかかわらず、犬の毛並みは艶やかで、見た目は元気そうだった。
「お前……よく分からないが、大変な思いをしたんだな」
サリオスはボウルを手に取ると、犬の口元まで持って行った。
「ほら、口を開けたままにしろ。僕が特別に飲ませてやる」
サリオスは犬の口に水を垂らしながら、小さくため息をついた。
「気絶した令嬢……横転した馬車……謎の犬……シャーロット、早く起きろ。こういう謎解きは、お前の得意分野だろうが」
サリオスの呟きに呼応するように、犬も尻尾を揺らしている。まるで同意するような様子に、サリオスは思わず今日初めて笑みを零すのだった。
次回は1月4日に更新します!!
更新がなかなかできず、申し訳ありません…。




