42話 亡霊の世迷言
ロイが草むらから飛び出したのと、御者がヴァイオレットに襲いかかったのは同時だった。
御者はヴァイオレットの腕をつかみ、強引に引き寄せようとする。
当然、ヴァイオレットは恐怖で目を見開き、抵抗しようとしていた。
「な、なにするのっ!? やめて!」
「おとなしくしろ! 君を傷つけたくないんだ!」
御者は言い聞かせるように叫んではいたが、ヴァイオレットが騒がないように口元にハンカチを押しつけ、馬車へと乗せようとしていた。ヴァイオレットが驚いて落としてしまった金貨袋には興味もくれず、暴れる彼女を乱暴に抱え込み、ひきずるように運んでいる。
「おいおい……言葉とやってることが違うぜ?」
そんな男に向かって、ロイは嫌悪の色を隠すことなく跳躍した。ヴァイオレットのもとに長い脚で飛ぶように駆けつけ、御者の首筋に手刀を叩き落す。御者はきっと何が起きたか分からなかったに違いない。ロイの接近に気づいて振り返ることもせずに喰らったのだから、本当に理解が追い付かないはずだ。茂みから事の成り行きを見守っていたシャーロットから見ても、ロイの動きに一切の無駄がなく、しなやかな狩猟動物のように鮮やかな一撃だった。
「っ……っ!?」
「よっと!」
御者が前のめったところで、ロイは御者をヴァイオレットから引き離し、地面に叩きつけた。彼の背中に腰を降ろし、慣れた手つきで彼の腕を後ろでまとめると、ポケットに隠し持っていた手錠をかける。
「お嬢さん、これでいいだろ?」
ロイがこちらに声をかけてきたので、シャーロットも茂みを出た。夜道に気をつけつつ、杖をつきながら近づいていく。
御者は依然として藻掻いでいたが、ロイがしっかり抑えているのでビクともしない。
「ええ、大丈夫そうね。あとは吐かせるだけ」
「……シャーロット、説明してくれるのでしょうね?」
シャーロットが御者を冷たく見下ろしていれば、ヴァイオレットがおずおずと話しかけてきた。彼女はすっかり腰が抜けて座り込んでしまっており、心なしか目元に涙が浮かんでいる。あのような襲われ方をしたのだから、いまも恐怖でふるふると小刻みに震えているのは無理もないだろう。
「この男がドナルド君をさらった張本人ですが……まあ、顔を見た方が早いですね」
シャーロットは屈みこみ、御者の帽子とスカーフを剥ぎ取った。黒い覆面が剥がされ、病的なまでに白い顔が露になったとき、ヴァイオレットがひゅうっと息を飲むのが分かった。
「あなたは……ス、スピリット……!?」
「ヴァイオレット様、お知り合いですよね」
シャーロットが顔を向ければ、ヴァイオレットは小さく頷いた。
「え、ええ……知り合いでして……」
「ただの知り合いですか」
シャーロットが冷ややかな視線を向ければ、ヴァイオレットの顔からさらに血の気が引いていく。
「知り合い、というか、昔馴染みといいますか」
ヴァイオレットはあわあわと口を開いていたが、そこから出るのは要領を得ず、誤魔化すような言葉ばかり。いまこの瞬間にも自分の息子の命がかかっているというのに、この人は本当に保身ばかりだと、シャーロットは心底軽蔑する。
「ただの知り合いではないのでしょう? 正直に、夫の目を盗んで芝居小屋に行く仲とはっきり申されたらどうです?」
「なっ……!?」
ヴァイオレットが絶句する。すぐに否定する言葉が出てきても不思議ではないのに、愕然とするばかりで肯定も否定も口にしない。それが答えだと言っているも同然だった。
仕方ないので、シャーロットは執事から貰った情報を確認するように繰り返すことにする。
「スピリット・ブラウン。この街の騎士隊所属。貴方の乳母の息子さんですね」
「シャーロット……ッ! あなた、どこまで知ってるの!?」
「貴方が想像する程度には」
シャーロットが淡々と答えれば、彼女は完全に固まる。
「貴方の旦那様、家柄のつり合いは取れてますけど、あまり仲が良くないと聞きました。ですから、息抜きに実家へ戻って来たのでしょう?」
結婚して家を出た娘が子どもを連れて実家に戻って来るなんて、よほどのことがない限りありえない。ダグラスが身辺整理をしているとはいえど死が迫っているわけではないし、他の家族にも健康上の噂を耳にしたことはなかった。ヴァイオレットが妊娠しており、里帰り出産を考えているなら話は変わってくるかもしれないが、彼女の腹が目立っているわけでもない。
では、結婚相手の大商人側の事情かとも予想したが、わざわざ妻と息子を屋敷から出す理由もない。少なくとも、彼の商売が傾いたという話は聞いたことがなく、むしろ右肩上がり。
ともなれば、ヴァイオレットが旦那と距離を置きたいと考えるのが自然だ。
「気晴らしに、かつての浮気相手と火遊びをするつもりでしたのね。ドナルド君を芝居小屋に同行させたのは、カモフラージュでしょう」
浮気が発覚し、万が一にも離婚となってしまった際、ダグラス家側が慰謝料を支払うことになる。さらにいえば、ヴァイオレットから旦那への愛はなくとも、嫁ぎ先は右肩上がりの商家なのだから易々と離婚に踏み切れない。浮気相手でもあるスピリットと結婚すればいいではないか、とも思うかもしれないが、これはありえない。彼の実家は伯爵家の乳母を勤める程度には良家だが、ダグラス伯爵家における一人娘の嫁ぎ先としては、格落ち感が否めなかった。
実際、ヴァイオレットはスピリットのことを浮気相手としか見ていなかった。ヴァイオレットが独身時代に「恋文を頂きましたのよ」と自慢して回っていたのは、とある国の王族や高名な騎士たちばかり。もし、本当に愛し合っていたのならば、ずっと互いに想い合っている幼馴染の騎士との純愛物語を熱弁しても不思議ではなかった。
「貴方としてみれば、スピリットは一時の遊び相手。生涯のパートナーとしては見ていないのでしょうね。ですが、彼は違った」
スピリットがいつからヴァイオレットに好意を抱き始めたのかは、本人以外に知る由もない。
ただ確実に言えることは、スピリットのヴァイオレットに対する熱い想いは彼女の結婚と共に死んだ。以後、彼は特定の恋人を作ったり、結婚したりすることもなく過ごし、彼女がこの街に戻って来たタイミングで蘇った。
「おそらく、どこかのタイミングで駆け落ちを提案されたのではなくって? ですが、貴方は正直に断ったのでしょう? それが、今回の事件の発端となります」
スピリットはヴァイオレットを諦めなかった。
一度死んだ想いは再燃し、狂おしいまでに恋焦がれた。だから、ドナルドをさらい、ヴァイオレットも連れ去ることで、強引に駆け落ちを実現しようとしたのだ。
「まるで、亡霊の世迷言。つまらない幕引きですわ」
そう言いながら、スピリットが率いていた馬車へ足を進める。扉を押し開ければ、暗い車内にかすかな息遣いが聞こえてくる。
「ドナルド君ですよね」
そう語りかければ、うめき声が大きくなった。瞬間、ヴァイオレットが勢いよく顔を上げ、ドレスを捲し上げながら駆け寄って来た。
「ドナルド!? いるの!?」
ヴァイオレットはシャーロットを押しのけ、ランタンを黒く染まった車内に突き出す。ぼうっと映し出された狭い車内には、小さな男の子が転がっていた。恐怖と涙でくしゃくしゃになった顔をした少年は口に猿轡を嵌められ、縄で動きを拘束されていたが、健康状態に問題はなさそうに見える。
「よかった……よかった……」
ヴァイオレットは息子を抱き寄せると、再び座り込んでしまった。
涙で頬を濡らしながら力なく座り込む姿は、息子を心配する母親の顔をしていた。
※
「『――ということで、誘拐事件は幕を下ろした』」
後日、シャーロットは自室で筆を走らせていた。
自身の記録と記憶もかねて日記を書くのは昔からの習慣であり、こうして現在でも続けている。記憶力は良い方だという自信はあったが、抜け落ちているところもなくはないので、こうして読み返せる日記という存在は実に便利であった。
「『ネザーランド夫人と侍女にも顔を確認してもらったところ、あの日、ヴァイオレットと行動を共にしていた男であり、ドナルド少年のトイレ番を変わると申し出た男と同一人物であるとも判明した』……はぁ」
ペンを走らせながら、なんて単純な話だったのだとつくづく思う。
ただ地元の騎士隊に調査を依頼していた場合、上手くことは運ばなかったとは感じた。なにせ、騎士隊でも高位の男が首謀者であり、もみ消したり自分の好い方へ事件を誘導したりすることができてしまう。ある意味、自分がダグラス家を訪れていて良かったのかもしれない。
シャーロットが自虐地味に笑った、次の瞬間だ。
「――ッ、う」
どくんっと心臓が早鐘を打つ。まずいと思ったときには、心臓が内側から抉られるような痛みに襲われていた。あまりの痛みに悲鳴すら出ず、ペンが指から零れ落ち、シャーロットは苦し紛れに胸をつかんだ。荒い呼吸を繰り返すも、喉まで熱せられた鉄を当てられているようで、息をすることすら辛い。
「――ッ、ぅ、あ……っん」
奥歯を噛みしめ、必死に痛みをこらえる。
そのうち、波を引くように痛みは消えて行ったが、背中が冷や汗でびっしょり濡れているのが嫌というほど感じた。
「……あと、8枚……」
胸に刻まれた花弁を想う。
そろそろだとは思っていたが、なかなか慣れるものではない。
シャーロットは数分かけて呼吸を整えると、日記に戻るためペンを指にとって――異変に気付いた。
「……力が……はいらない?」
いつも通り持とうとするのだが、上手く持てなかった。筆を走らせようとするのに、かたんっとよろめいて字が崩れてしまう。直前までの自分が刻んでいた几帳面で丁寧な文字と、たったいま書いてしまった幼子が失敗したような文字を見比べ、シャーロットは寂しげに微笑んだ。
「……そう……やっぱり、この魔法は……そういうことなのね」
この推論こそ、亡霊の世迷言であればいいのに。
その呟きは誰にも聞き届けられることはなく、ただただ静かに零れ落ちるのだった。
4章は終わりです。
残り寿命は8カ月となりました。
最期まで読んでいただけると幸いです。




