39話 推理と客観的事実
「ドナルド坊ちゃまが消えたのは、こちらの芝居小屋でございます」
シャーロットたちが案内されたのは、白亜の建物だった。アーチ型の窓の形や入口の極め細やかな彫り物が施された柱、演目と現わす豪奢な垂れ幕ひとつとっても、芝居で有名な街のなかでも、かなり伝統のある劇場だと見てとれる。
「思ったより立派な建物なんだな」
ロイが馬車から降りると、感心したように呟く。
「こりゃ王都の劇場に引けを取らないんじゃねぇの?」
「金羊通りといえば、いわばメインストリート。そのなかでも、こちらは古典的な演目が多いことで知られていますわ」
シャーロットも垂れ幕を一瞥する。
深緑色に金で縁取りされた豪奢な垂れ幕に描かれるのは、とある貴族の儚い恋物語。家同士の仲が悪くて結ばれることが叶わず、心中するというなんとも悲劇的な話だ。恋に落ちた本人たちは幸せかもしれないが、残された家族の仲はより一層冷え切ることが目に見えている。200年前の話にもかかわらず、いまなお淑女たちの人気が高い物語なのだが、シャーロットの好みとは違った。物語を綴る表現技法や歴史的背景、同一作家の他作との関係性を鑑みれば興味深いのだが、好んで読む作品ではない。
「それに……なんともまぁ……男の子が気に入るような演目ではありませんこと」
シャーロットは誰にも聞き取れないくらい小さな声で呟くと、疲れたように首を横に振った。
「どうした、お嬢さん? なにか気になることでも? もしかして、この演目好き? 全部解決したら、一緒に観て帰る?」
ロイがにやっと笑い、ゆらりと尻尾を揺らす。そのまま、彼がこちらの手を取ろうとしてきたので、シャーロットは毅然とした態度で断った。
「結構です。とりあえず、なかに入りましょう」
シャーロットは杖を突きながら入口に歩みを向けようとしたそのとき、ここでずっと黙っていた執事が口を開いた。
「あの、エイプリル様。1つお尋ねをしても?」
シャーロットは足を止めると、執事を振り返る。ヴァイオレットから直々に監視役を任されたこの執事、馬車で移動している間は沈黙を守っていたのだが、ずっとなにか聞きたそうにうずうずとしているのは丸わかりだった。しかし、ここに来てついに我慢の限界に達したのだろう。耐え切れなくなったような顔で、シャーロットに詰め寄って来た。
「エイプリル様、実際のところ……どこまで分かっているのです?」
「どこまでとは?」
「犯人のことです」
執事の目が好奇心できらりと輝いた。
「エイプリル様は、これまで数々の事件を解決してきたと聞いております。今回の犯人についても、すでに目星がついているのではないかと思いまして」
「……いいえ、残念ながら」
シャーロットは答えた。
「犯人が男なのか女なのかも分かっておりません」
シャーロットが断言すると、ロイが息を飲む気配が伝わって来た。彼がなにか言いたげな顔をしているのが横目で見えたので、彼を諫めるように睨みながらこんなことを口にすることにした。
「今回は極めて難しい事件ですから。子どもの命がかかわっていることですし、ヴァイオレット様も大層心配されております。なにごとも慎重にならないと……」
「では、本当になにも分かっていないと?」
「ですので、ここで少しは手掛かりをつかめればいいのですが……ちなみに、貴方はどのようにお考えで?」
シャーロットは執事に視線を戻すと、なるべく人の好さそうな笑顔で尋ね返した。
「私の考え?」
「ドナルド君が消えたとき、ヴァイオレット様に付き従っていたのでしょう? 現場の様子や空気は、私よりも百倍分かっていると思いましてね」
「そうですね……」
執事は驚いたように目を見開いていたが、戸惑いながらも持論を述べ始めた。
「……開演前で人の出入りが激しかったので、誰が犯人でもおかしくないでしょう。ましては、ドナルド坊ちゃまは男の子のなかでも小柄ですし、ローブやマントに包んで連れ去ったということもありえると思います。大道具に隠して、搬入口から逃げ出したということも十分考えられる線かと」
彼の推理を聞きながら、シャーロットは頷いた。
「トイレには誰もついていかなかったのですか?」
「ネザーランド夫人の侍女が付き添われておりました」
執事は即座に答えた。顎のあたりに手を当て、考え込む仕草をしたまま、淡々としかし事実を的確に述べようとする空気が伝わってきた。
「ヴァイオレット様は到着してすぐにネザーランド夫人と会話をされ、立ち話をしておりました。十分ほどして坊ちゃまがトイレへ向かい、ネザーランド夫人の侍女がお供をされたのです。それから三十分経ち、演目が始まる直前になっても帰ってこないのでおかしいと感じ、私がトイレへ向かうと、トイレの前に脅迫状が落ちていたのです」
「ネザーランドの侍女は消えていたのですか?」
「はい。いまにして思えば妙ですね。もしかしたら、その侍女が……いいえ、なんでもありません」
執事はすぐに口を閉ざしたが、彼が言おうとしていたことは分かった。
ロイが眉間に皺を寄せながら、執事の言葉を代弁する。
「つまりさ、ネザーランド夫人が一枚噛んでるってこと言いたいわけ?」
「そういうことでは! ただ、私はエイプリル様に問われ、客観的事実を語ったまでのことです。あの夫人に限って、そのようなことをするとは……」
執事は少し焦ったような口調で語ると、額に浮かんだ汗をハンカチで拭った。
「執事さん。ご意見、ありがとうございました。参考にさせていただきますね」
シャーロットは微笑むと、今度こそ入口の扉をくぐった。
ちょうど午前の公演が終わったのか、入口のホールは観客たちで溢れかえっていた。どの紳士淑女も小奇麗な衣装を身に纏い、にこやかに会話する様は華やかな夜会のようだ。
「ロイさん、はぐれないように付いてきてくださいね」
シャーロットは杖を突きながら、ロイに語りかける。すると、ロイはシャーロットの背後にぴったり寄り添いながら、どこか心外そうに耳を立てるのだった。
「あのなぁ、俺には耳と鼻があるんだぜ。お嬢さんのこと、絶対に見失うわけねぇだろうが。あ……まさか、手を繋ぎたかったのか? それは気づかないで悪かった、エスコートするぜ」
「結構。一人で歩けますから」
シャーロットが拒むが、ロイは機嫌をよくしたように大きな尻尾を揺らしていた。
「で、どういうことだ?」
そう言いながら、シャーロットの耳元まで口を寄せて囁いてくる。
「俺には亡霊の仕業とか言ってたけど」
「ああ、そのことでしたら――」
シャーロットが小声で説明しようとした、そのときだった。
「ちょっと! そこにいるのって、シャーロットさんでは!?」
賑やかな声が耳を貫く。シャーロットが顔をあげれば、壮年の女性が大手を振るいながら走り寄ってくるところだった。
「……ご機嫌よう、ネザーランド夫人」
「お久しぶりですわ、いつも我が衣装店を贔屓にしてくださって、本当に……って、あらあらあらあら!」
ネザーランド夫人はシャーロットとロイを交互に見ると、なにを思ったのか嬉しそうに手を叩いた。
「まあまあまあ! そちらの殿方、もしやシャーロットさんの恋人様でいらして?」
「いいえ、護衛です」と言おうとする前に、ロイが胸の前に手を置き、紳士的に一礼をした。
「ロイ・ブラックドックと申します。まだ婚約はしておりませんが、ゆくゆくはその方向で――」
「違います。護衛です」
シャーロットがロイの言葉に被せるように否定したが、ネザーランド夫人の心についた火は消せなかった。好機と商魂で燃え上がった瞳で、シャーロットたちを眺めている。
これには、シャーロットは自分の失態を悔いた。
ネザーランド夫人は悪い人ではないのだが、商売のことになると猪突猛進。それが良い方向に進めば素晴らしい衣装を生み出してくれるのだが、今回の場合は本題に入るまでに時間がかかってしまいかねない。事実、夫人は小声で「まさか獣人が結婚相手だなんて……これは腕が鳴るわ。まずは海外の資料を取り寄せないと。白のタキシードは決定として、どんな飾りをつけようとかしら」と呟き、まだ頼んですらないのに脳内でデッサンを書き始めているようだった。
「奥様ー、お待ちくださいー!」
さて、どうやって彼女を引き戻すか――と考えていれば、やや遅れて太めの侍女が人混みをかき分けてやってくるのが目に入る。
「奥様、早いですよー」
「ちょうどよかった。私、そちらの方に話がありましてね」
シャーロットがほっと一息をつき、侍女に話しかけた。侍女は話を振られると思わなかったのか、きょとんとした顔をしている。
「は、はい、なんでしょう?」
「単刀直入に尋ねますけど、今日の午前中、ドナルドという名の少年のトイレに付き添われましたか?」
「えっ……? え、ええ。はい」
侍女はなにを聞かれたか分かっていない顔をしていたが、ゆっくりと思い出すように答えてくれた。
「付き添いましたが、途中で男の方と交代しました」
「交代した?」
「は、はい」
シャーロットが杖を突きながら詰め寄ると、侍女は委縮したように肩を強張らせる。
「男子トイレの前で待っていたのですが、出てくる気配がなくて……そしたら、ダグラス家の者だっていう男性が『代わります』とおっしゃったので、交代したのです」
「交代、ねぇ……」
シャーロットは納得したように頷くと、杖でとんっと床を叩くのだった。




