27話 酒場のプリンス
東の空に星が輝き始める頃、王都の裏通りは盛り上がり始める。
ハンチング帽を被った労働者たちは馴染みの酒場に足を踏み入れ、ジョッキ一杯のエールを浴びるように飲むのだ。疲労の色が濃く残っていた彼らも酒を飲むと、だんだんと赤らみ始めた顔は緩みはじめ、喧騒に身を投じる者もいれば、おいおいと涙を流し、日頃の愚痴をつらつら語る者もいる。
「お、嬢ちゃん。見ない顔だな」
そのなかに、一人――ちょっと珍しい毛色の娘がいた。
日焼けした麦わら帽子を被り、泥で顔が汚れている娘はカウンターに座ると、ちょっと勝気に笑うのだった。
「うん、さっき王都に着いたんだ。おにいさん、とりあえず一杯! おすすめちょうだい」
「おう!」
バーテンは娘にエールをジョッキ一杯に注ぐと、どんっと音を立てながら出した。娘は物おじすることなくジョッキを手に取ると、喉をうならせながら一気に飲み耽る。半分ほど飲んだところで、口の周りに泡をつけながら気持ち良さそうに息を吐いた。
「くっー、美味しい! ここのエールは最高だね、おにいさん!」
「ありがとよ。嬢ちゃんも良い飲みっぷりだぜ。気に入った、どこから来たんだい?」
「リリエンタールから」
「ほう、かなり遠くからだな。観光かい?」
「いや、働きに」
ちょっと目を見開いて驚くバーテンをよそに、娘はエールを再び煽った。
「父さんが病気でさ。かといって、母さんはとっくに死んでるし、弟たちも小さいし……王都のええっと……サウスカリ……なんとかいう場所にある帽子屋が針子として雇ってくれることになってんだ」
「サウスカリーナ街かな。あのあたり、衣装店がたくさんあるから」
「そう、そこ! おにいさん、詳しいね!」
「そりゃ、おにいさんは王都に住んで長いんだ。それこそ、嬢ちゃんが産まれるずーっと前からな」
バーテンは上機嫌に笑った。年頃の娘に褒められ、嬉しくないはずがない。それを冷やかすのは、常連の労働者たちだった。一人がひゅうっとはやしたてるように口笛を吹く。
「おい、ボブ! おまえ、おにいさんって年齢じゃねぇだろ!」
「もうすぐ50に手が届くおっさんさんじゃねぇーか!」
「うるせぇ! まだまだ心は若ぇんだよ!」
バーテンが言い返すも、常連たちはからからと楽しそうに笑った。
「嬢ちゃん、おっさんバーテンなんて放っておいて一緒に飲もうぜ!」
「よーく見ると可愛いじゃないか!」
「針子なんかやらなくても、もっといい給料の店もいけるんじゃねぇか?」
常連たちはどこかいやらしい目で娘を舐めるように見渡した。
全体的に薄汚れた雰囲気の娘だったが、顔立ちは整っていた。吊り目がちの青い瞳は一見すると冷たい印象を与えるかもしれないが、少なくともこうして楽しそうに酒を楽しむ姿は愛嬌を感じる。古びた麦わら帽子の間からざっくばらんに伸びている金髪も洗えば美しく輝くかもしれない。
「あのさー、そういうことができるなら、ここまで働きに来てないっての」
娘は呆れたような目で常連たちを見ると、彼らは「こりゃ失礼した」と笑った。まったく失言したと思っていない笑い声が酒場に響き渡る。
「で、嬢ちゃんの名前は?」
「マリリン」
「ほー! 最近、話題沸騰中の名前だな!」
「え、なになに!? あたし、有名人と同じ名前だったり!?」
マリリンと名乗った娘は、ちょっと目を輝かせて身体を前に乗り出す。そんな彼女を前に、バーテンはにやっと意地悪そうに笑うのだった。
「おー、そうさそうさ。貴族様の犯罪者」
「げぇ……有名ってそっちかよ……」
マリリンは見るからに嫌そうな顔になると、すごすごと引っ込んだ。苦虫を嚙み潰したような顔を見て、バーテンを含めた周りの常連客達は声を上げて笑うのだった。
「まーまー、嬢ちゃん。嬢ちゃんには縁のない話さ」
「そーそ。だいたい、おいらたちの住んでる場所まで、貴族様は滅多に降りてこないからなー」
「……滅多にってことは、たまには来るってこと?」
マリリンはジョッキを抱え込みながら尋ねれば、常連客は大きく頷いた。彼らは互いに顔を見合わせ、わずかに声を潜める。
「たまにさ、どうみても貴族って兄さんが来るのさ」
「服装こそ俺たちみたいなもんをしてるが、白い顔してるし、立ち振る舞いもなー」
「へー。バレバレなんだ」
「おうさ。たとえば、ほら……あいつ」
常連客が酒場の奥に目を向ける。マリリンが視線を追いかければ、最も奥まった場所で酒を片手にカードゲームを楽しむ男がいた。ハンチング帽こそ被っているが、まったく汚れていない綺麗な顔立ちをしていた。しっかり整った口髭を生やし、意地悪そうな黒い眼をしていた。
「ふーん……あいつが貴族様、ねぇ?」
マリリンは目を細め、じっと男の顔を見据えている。その眼差しは獲物を狙う狼のように静かなものだったが、それに気づくものはいなかった。
カードゲームを楽しむ彼らも見られていることに気づいていないらしく、特に貴族だと指摘された男はゲームに勝ってにやにやと得意げな笑みを浮かべていた。
「汗ひとつかいてねぇだろ。普通、こんな時間まで働けば、汗で服はべとべとさ。顔だって、洗ったばかりみてぇだろ?」
「ってことは、ふーん。貴族様ってこと? もしかして、王族とか?」
「さすがにそりゃねぇな……と、言いたいとこだが」
ここで、常連客達は更に額を寄せてきた。
「酔っぱらうとさ、自分のこと『プリンス』って呼ばせてるんだ」
「じゃあ、本当に?」
マリリンが少し声を弾ませると、彼らは一斉に首を振った。
「まさか。本気にする奴はいないさ。一人だけ、本気にした野郎もいたが……そういや、最近、あいつを見ねぇな」
「あー、なんだかやばい事件に手を出したって噂聞いたぜ。この間、軽い調子の兄ちゃんが探してたじゃん」
「ま、関わらない方がいいってことさ」
「……へー、ご忠告ありがとう」
マリリンは面白いことを見つけた子どものように口元を緩めると、残っていたエールを全部飲み干した。ジョッキを乱暴にカウンターに置くと、カードゲームを楽しむ男たちの方へと歩き始める。常連たちが「ちょっ、嬢ちゃん!」と呼び止める声が背中にかけられるも、ひらひらと片手を挙げて答えた。
「なー、あんた。カード強いの?」
マリリン――という名の娘に扮した令嬢、シャーロット・エイプリルは自称プリンスの前に姿を現すと、挑発的に笑いかけるのだった。
「さっきから勝ってるじゃん。コツ、教えてくれない?」




