21話 ドレスコードは慎重に
その日、シャロン競馬場はざわめきに包まれた。
王都の外れにあるこの場所に集うのは、貴族ばかり。数歩進めば、黒のトップハットを被った見知った顔が目に入り、軽く会釈をしたり出走する馬や展開について語り合う。女性も同じで、つばの広い帽子を被った淑女が友人同士でおしゃべりに花を咲かせる光景がいたるところで見られた。
だが、この日は違う。
「ちょっと、あの人……」
淑女は豪奢な扇子で口元を覆い、ひそひそとその人物を遠巻きに見つめる。
彼女たちの視線の先にいるのは、一人の少女だった。少女は長く艶やかな黒髪を風になびかせながら、にこやかに微笑んでいる。帽子を被っていない時点でドレスコードに反していると周りの目を引くのに加え、目が覚めるような黄色のドレスを纏っていた。
「ねぇ、あの方は誰なのかしら?」
どうしても、帽子を被っていない少女は目についてしまう。もう少しドレスが落ち着いた色合いであれば、ここまで目につくことはなかったかもしれない。おまけに、白い肩を大きく露出させているものだから、淑女たちは不快さに目を吊り上がらせていた。
「あの衣装……ここは夜会ではなくってよ」
「あんな肩を出して……はしたない。どこの成り上がりかしら」
「しっ、聞こえるわ」
淑女の一人が血相を変えると、仲間たちに声を潜めるように促す。
「なんでよ? むしろ、私たちが親切に教えてあげましょうよ。ここは貴族の社交場であって、成り上がりの庶民の来る場所ではないと」
「……あの人、オリビア・クロッカスよ」
その一言で、淑女たちの顔色が変わった。
「それって、アルバート様の新しい……?」
「そう、噂の婚約者様」
彼女たちは囁き合いながら、改めて彼女に視線を向ける。
明るい黄色の瞳を爛々と輝かせながら、彼女はモーニングスーツの男たちの輪に入っていく。彼らは戸惑いの表情を浮かべていることに構うことなく、鈴のように可愛らしい声で話しているようだった。
「節操がないこと」
一人が呟く。
「アルバート様がいるというのに、他の男を誘惑しているようにしか見えないわ」
「アルバート様、今日は午後からいらっしゃるのでしたよね。それまで、他の殿方と逢瀬を楽しむつもり?」
彼女たちはオリビアを見ながら、そのような会話を続けた。
遠巻きに見ているので会話の内容まではつかめないが、オリビアは男性の一人にドレスコードを指摘されたらしい。ちょっと不機嫌そうに頬を膨らませ、ぷぃっと子どものようにそっぽを向くのが見えた。そのまま近くの護衛に何か指示を出しながら、自分を注意してきた男を指さしている。
「え、ちょっと……あの人、指差しされてません?」
女性たちはちょっと目を疑った。
庶民であったとしても、人を指さすのはマナー違反。失礼であるというのは常識だというのに、彼女はまったく躊躇うことなく指先を男に向けていた。しかも、護衛たちは彼女が指さした男を捕らえると、会場の外に連れ出そうとしている。
最終的には男がオリビアに頭を下げ、謝罪を口にすることで退出を免れたようだが、どう考えても違反しているのはオリビアであった。
「なにあれ……女王様気分? しかも、マナーをご存じない?」
「あの人が未来の王妃になるって嘘でしょう? 礼儀作法の家庭教師はついていらっしゃるのよね?」
「ゼーゼマン夫人が家庭教師をなさっていたそうだけど……お聞きになった? お辞めになったって」
「まあっ! ゼーゼマン夫人が匙を投げだされたの?」
ゼーゼマン夫人といえば、家庭教師として超一流だ。厳しいことで有名だが、彼女の指導を受けると完璧なマナーが身につくと有名である。
「……それがね、夫人は体調を崩されたとか」
「ええっ!? あの人が!?」
1人が驚きのあまり声を上げてしまい、急いで口を押える。周囲の目が一斉に彼女に向けられ、恥ずかしそうに身を縮ませた。
「でも、嘘でしょう? あの人、あと50年は亡くなりそうにないほど元気でいらしたのに……3か月前にお会いしたときは、本当に肌艶も良くて……」
彼女は消え入りそうな声で不安な気持ちを吐露する。
ゼーゼマン夫人は厳格ではあったが大変面倒見がよく、そのおかげもあって生徒たちは最後まで諦めることなく指導を受け続けることができたのであった。
「あのね……妙な噂があるの」
「妙な噂って?」
「実はね……夫人はね……」
夫人の近況を知っている淑女は、お互いにしか聞こえないほど小さな声話し始める。他の淑女たちも額を寄せ、一字一句聞き漏らすまいと神経を研ぎ澄ませた。
「毎晩、金縛りにあうらしいの。薬を飲んでも治らないって……そのうち、身体がどんどん痩せてきて、家から出ることも難しくなったから辞めたらしいわ」
「まあ、どうして?」
「ほら、シャーロット・エイプリルって覚えてる?」
彼女がその名を口にした瞬間、一様に皆の顔色が曇った。
貴族の女性ならば、シャーロット・エイプリルの名を知らぬ者はいない。誰もが一度は顔を見たことはあるし、会話のなかで嫌な思いをしたことがあるだろう。
「忘れるはずないじゃない……あの青い目……」
彼女の恐ろしさは、すべてを見通すような青い瞳だった。
たとえば、口紅を見ただけで体調が悪いことを見抜いたり、男性に恋をしていることを見透かされたり、その相手までどんぴしゃに的中してくるのだ。彼女と対していると、自分を丸裸にされているようで震えが止まらなかった。あまりにも気持ち悪いので、シャーロットの粗を探そうとすれば、その10倍の悪い点を指摘される始末。この国の貴族の女性で、シャーロットに口論で勝った者は誰一人としていない。
シャーロット・エイプリルには近づくな。
シャーロット・エイプリルほど気味の悪い女はいない。
それが貴族の女性たちの常識であった。
「でも、ちょっと……可哀そうよね」
だが、それは2カ月前の話。
彼女はアルバートに婚約破棄され、余命一年の呪いをかけられたという話はすでに広まっていた。現に社交の場から退き、故郷の領地で静かに暮らしている。
「そう? あの人がマリリン夫人を逮捕したって話は知っているでしょう? 元気そうでなによりじゃない。故郷でのびのびと羽を伸ばしてるんじゃないの?」
「でも、例の新聞は見たでしょう? アルバート様の酷い言われ方……」
「まあ、それは……ね」
彼女たちはいっせいに黙り込む。
アルバートの株が下がったのは間違いない。以前よりうすうす囁かれていたが、シャーロットはオリビアを馬鹿にしたから死の呪いを受けることになったということが確定したことに加え、一国の王位継承者が一人の娘を名指して『死ねばよかった』と公言したのだ。
「シャーロットさんなら、忖度することなくオリビアさんに対する正直な感想を口にするでしょうね……」
「ええ、アルバート様の怒りを買った姿が目に浮かぶわ」
シャーロットが息を吐くようにオリビアの真実を口にし、アルバートの逆鱗に触れた場面が容易に想像できた。
実際、オリビアよりシャーロットの方が未来の王妃としてふさわしいのは明白だった。
シャーロットは嫌われ者だったが、少なくともあからさまなマナー違反は決してしなかったし、自分を指摘してきた相手を無理やり追い出そうとするようなことはしなかった。
「で、彼女がゼーゼマン夫人と一件と関係あるの?」
「……シャーロットさんが貴族社会を呪っているって。特に自分を死に追いやった人たちを中心に……家庭教師のゼーゼマン夫人でしょ、アルバート様に剣を教えたセドリックさんも、侍女も何人か……体調不良で家に籠っているって……」
「嘘でしょ……そういえば、私……肩が重くて……」
「わ、私も、なかなか寝つけないの」
「実は……夜になるとお腹が痛くなって……」
彼女たちの顔色がますます青ざめていった。
自分たちが直接死に追いやったわけではないが、シャーロットの陰口を言っていたのは本人の耳に間違いなく入っている。シャーロットが気にしている様子はなかったが、復讐対象に自分たちも含まれているのでは? もしかして、最近具合が悪いのは――と考えると、日差しが眩しいというのに誰もが背筋を震わせていた。
「ど、どうしよう……私、シャーロットに呪われてるのかも」
「あのですね、私は魔法を使えませんよ」
そっと入って来た静かな言葉に、彼女たちはいっせいに悲鳴を上げてしまった。はしたないほど跳び上がり、互いに抱き着いてガクガク震えあがる。
「まったく。ゴーストでも見たような目で見ないでくださいませ」
落ち着いた青色のドレスを纏い、同じ色の帽子を被った少女――シャーロット・エイプリルが呆れた眼差しで彼女たちを見つめていたのであった。




