19話 めくらまし
黒い煙は街中の人の目を奪った。
朝起きて窓を開いたとき、仕事へ向かう道中に顔を上げたとき、ご近所さんの悲鳴を聞いたとき――黒い煙に意識を向けてしまう。
そして、誰もが恐怖することだろう。
確かに、最近は火事が多かった。だが、それはすべて郊外で起きていたこと。今回は街の中心付近から煙が上がっているのだ。怯えと恐怖は住民たちの心を縛り、街の治安を守る騎士たちへの不信感は高まること間違いない。
「……くっくっく、単純な奴らめ」
放火魔はほくそ笑み、ひっそりと移動を続ける。
こんな日は騎士隊は大忙しだ。火災現場の統制はもちろんだが、パニックになった住民たちを落ち着かせるのも仕事のうち。ただでさえ人手が足りていない以上、少しでも人をかき集めなければならない。
「だからといってな……警備を減らしちゃ駄目だって」
放火魔は木の影に隠れると、警備の騎士がいないことを視認し、ますます笑みを深めた。周囲を確認しながら鉄柵を乗り越え、ひょいっと敷地内に侵入する。人の気配は感じられず、見える範囲には誰もいない。手のなかで鍵を回しながら、堂々と玄関口へと歩みを進める。念のため、屋敷のなかに誰もいないか確認しようとするも、窓という窓は分厚いカーテンに覆われ様子を確認することはできない。扉に耳を寄せ、不審な音は聞こえてこないか探ってみたが、案の定、しんっと静まり返っているようだ。
「……よし、問題なさそうだ」
おそらく今日一日くらいは平気だろうが、いつ人が戻って来るか分からない。さっさとやることをすませてしまおうと鍵を差し込み、重たい扉を押し開ける。しばらく掃除が滞っているのか、やや埃臭さが鼻についたがそれでも豪奢な室内は見ごたえがあり、放火魔が玄関ホールで思わず口笛を吹いた――そのときだった。
「ッ!?」
死角になっていた棚の影から、黒い影が飛び出してくる。放火魔が慌てて逃げようとしたときには、すでに遅かった。
隠れていた人物は慣れた様子で放火魔の足を払い、転ばせにかかる。そのままバランスを崩し前のめりになった放火魔の身体にまたがると、両脇を右腕で抱え込んで背中に押しつけた。放火魔は逃げようともがくもビクともせず、襲ってきた人物の体重がますます圧し掛かるばかりで、息をするのも苦しくなってくる。
「――ッ、助けてくれ。話せば、話せば分かる……!」
放火魔は苦し紛れに叫ぶと、背中にまたがる人物が鼻で笑う気配が伝わって来た。
「いや、お前さ……そりゃ無理だろ。勝手に人の家に侵入してんだからさ――なぁ、お嬢さん」
「ええ、立派な家宅侵入罪ですわ」
途端、世界が一気に明るくなった。
分厚いカーテンが一斉に開けられ、眩い朝の陽光が玄関ホールを照らし出す。放火魔の姿は文字通り白日の下にさらされ、部屋の隅で息を潜めて待機していた者たちの姿もあらわになった。
「観念しなさいな、放火魔さん――いえ、強盗犯さん」
シャーロット・エイプリルは扇子で口元を隠しながら、床に押しつけられた放火魔へと歩みを進めた。
「ロイさん、ありがとうございます」
シャーロットは放火魔を抑えつける男――ロイ・ブラックドッグに微笑みかけた。
遮光カーテンで放火魔の姿を確認するのは難しい。しかし、ロイは目が見えなくても、自慢の鼻で人の位置を確認できる。その力を信じて捕縛を頼んだが、どうやら成功だったようだ。
「こんな奴を捕まえるくらい、朝飯前だって」
ロイは放火魔を抑えつけながら、涼やかな笑顔を浮かべた。
「で、どうする? このまま?」
「そこから先は、ヘンリーさんたち騎士隊の出番ですね」
シャーロットは振り返ると、一緒に隠れていたヘンリーを含めた数人の騎士隊に目を向ける。
「ヘンリーさん、いかがしましょう?」
「無論、こちらが逮捕する!」
ヘンリーはやや眉間に皺をよせ、厳しい表情で進んでくる。
「まったく、最低な奴だ! まさか、放火の真の狙いは強盗だったなんて!」
役場の放火も含め、5件の放火――その真の目的はあっさりとしたものだった。
マリリン夫人宅へ忍び込み、貴重な品々を盗み出すためだったのである。
「しかし、シャーロット様。どこで気づかれたのですか?」
「1件目の放火場所を見たときです」
シャーロットはにこやかに微笑んだ。
「数ある候補から選ばれた最初の現場ですから、なにかしらの意味があるに決まっています。クックさんの家の裏にバーサーさんの家があったのは、あまりにも出来過ぎています」
国中に知れ渡った夫人の事件――夫人はすでに逮捕された現状、誰もいない屋敷は閉鎖されたまま。夫人は檻のなかで庭師は亡くなり、屋敷の鍵を持つ者はバーサーのみとなった。
「最初の火災は鍵を盗み出すため。放火は目くらましの手段でしかなかったのです」
放火で人が亡くなってしまったら、騒ぎが必要以上に大きくなり、さすがに近隣から応援の騎士たちが駆けつけ来る。そうなってしまったら、貴重な品々が眠る屋敷が燃えては敵わないと警備が増えるかもしれない。
だから、わざと人が死なないよう注意しながら放火をしていたのだ。
「本当、拍子抜けです」
シャーロットは嘆息交じりに呟いた。
彼女はしげしげと放火魔の苦しそうな顔を見下ろした。しばらく考えてみたが、どうにも知らない顔だ。少なくとも、サラマンダーについて詳しい知識層ではない。服装に目を向けてみるも、郵便配達人のような恰好に身を包んでいる。郵便配達人ならば街中を歩き回っても不思議ではないし、重い荷物を運んでいても特別変な目で見られることはない。胸のバッジの絵柄がよく見るとこの地域の物ではなく、近隣区域のものと酷似していた。きっと、本業は郵便配達人ではないのだろう。
「で、どうして火炎瓶にサラマンダーを? 私が知りたいことはそれだけです」
シャーロットは放火魔に語りかける。
「はっ、誰が答えるか! だいたい、俺はここに忍び込んだだけで、放火なんて――」
「あの瓶は燃え尽きたあと、握っていた痕が残るそうですよ。黒い瓶に手汗の白い痕がつくという噂を――あなたはご存じですか?」
「なっ! そ、そんなこと知らないぞ!? あいつからは火炎瓶の作り方は聞いたけど、そんな証拠が残っちまうなんて知らねぇ!!」
放火魔の顔から血の気が見る見る間に失せていく。
「手軽に火事を起こせるし、足がつきにくいって……!」
シャーロットは青ざめる放火魔に顔を近づけ、くすっと微笑み一言告げる。
「あくまで噂です」
「は、はへ……?」
きょとんっとする放火魔を見て、シャーロットはますます口の端を持ち上げた。
「今回、放火魔の物と思われる手汗の痕がついた物的証拠は発見されていません。ですが、あなたが火をつけたのは間違いないようですね」
「な……」
「今回の放火魔が火炎瓶を使っていたこと、どうして知っていたのです?」
「それは……新聞で……昨日の夕刊で読んだんだ!」
「おかしいですね、この情報は新聞に載っていないはずですよ」
そもそも、火炎瓶を使っていたことを突き止めたのは昨日のことだ。新聞にも載っていないし、騎士隊でもヘンリーを含めたごく一部しか知らない。その事実を知っている時点で、放火魔本人であることを自白したようなものである。
「……それで、あいつとは?」
「な、名前は知らねぇよ! 王都の酒場で聞いたんだ!」
「王都、ですか」
シャーロットは顔をしかめる。
先日――ロイが「王都でも放火騒ぎがあった」と話していたことを思いだした。それも火炎瓶によるものなのではないだろうか。
「この問題、意外と根が深いかもしれませんね」
シャーロットの口から独り言が零れ落ちる。
放火魔が手錠をかけられる姿を見ながら、今後のことに考えを巡らせるのだった。




