怒りって色々な種類があると思うのです
今回は7つの大罪をテーマに徒然に書いてみようシリーズです。
怒りとは何でしょうか?
人間の原初的な感情のひとつで、様々な要因・理由で起きるもの。例えば目的を達成できない時、身体を傷つけられた時、侮辱された時などに起きるものである。と定義されており、7つの大罪に当て嵌められている感情ですが、私は怒りをさほど嫌っていません。
悔しさをバネにとかいう言葉にもありますように、自分の不甲斐なさに憤りを感じて頑張る人もいます。怒りはエネルギーであると私は感じています。
不思議なことに7つの大罪に憎悪は含まれていません。恐らくは怒りと憎悪を同義にしているのではと感じています。
憎悪の対義語として愛情をあげる人が多いです。でも、本当にそうでしょうか?
私は憎悪も愛情も単なるベクトルの違いだと思っています。怒ることって疲れませんか? 好きな人だからこそ怒る事もあると思っています。
私の定義では、愛情や憎しみの対義語は無関心になります。これはマザー・テレサが仰られていたといわれる言葉ですね。私には深く感銘を受ける言葉です。
だから私は人に対してどうしようもないと思ったら、これから無視して良い? と聞くことにしています。人は人の中にいるから人であり、無視をされるとおかしくなると思っています。人々の関心を集めたくて無差別殺人をする人もいます。関心を集める方法なんていくらでもあるので、変な方向にいかないで欲しいです。
人は人と人の間にいるからこそ、人間と呼ばれるのであり、人の間にいることを外されたとき単なる生き物になった時にどうなってしまうのかと恐怖を感じます。
結局何が言いたいのかという話ですが、人は関心があるから怒ることができるのであり、お互いに関心を持つ状態を作ることが幸せなのかなぁと感じているという感じです。
一方で自分が不遇であることを嘆いて一方的に怒りを振りまく人がいます。私はこれを羨みからくる怒りと位置づけています。前回書きましたが、嫉妬のコントロールができないから不幸なことが発生するのだと思っています。そう考えると、やっぱり怒りはエネルギーだと思います。
そうであれば、怒りというベクトルをどこに向けるのかということが重要になるのではないでしょうか? 私には答えがあり、それは自分自身に向けるべきだと考えています。自分が不甲斐ないと認識できることから、自分に発破をかけることができ、次につながる原動力を生み出せるのではと感じています。
とはいえ、仏教の世界では、不動明王や三宝荒神のように、貪瞋癡を許さんという慈悲が極まり、憤怒の相で表れて不浄を厭離し、仏法僧を守護する仏も見られます。磨滅するために怒りをわざと高めて悪しき心を陳伏するらしいのですが、結局怒ってるんですよね。
大罪と言われる憤怒とは一体何なのでしょうか? なぜこれが大罪と言われることになったのでしょうか?
答えはこの感情が最も単純で恐ろしいエネルギーを生み出すため宗教上において不都合を生み出すからではないかと考えます。
小説やアニメで、人が人でなくなる瞬間を描くシーンがあります。人間があるが故の狡猾さに絶望し、人外の力を持って絶滅に追い込む。でも、私はそれすらも人間の愚かさに天誅を加える人の行為に思えます。一番恐ろしいのは結局人なのでしょう。
そして、最も恐ろしい神は、人の愚かさを傍観して歴史を見守るでしょうから……
先ほど少し触れましたが、神の怒りをみていきましょう。
「御子を信ずる者は永遠の生命をもち、御子に従わぬ者は生命を見ず、反って神の怒その上に止まるなり」 —ヨハネ3:36、文語訳聖書
明王は一般的に忿怒の相で火炎を背負い、髪は怒りによって逆立ち、法具や装飾品は極力身に付けず、法衣は片袖を破って動き易くし、武器類を手に持った姿で表現されることが多い。
ネメシスと呼ばれる女神は、人間が犯す様々な罪のなかでも、特に、神々に対する傲慢や不遜に対して罰を与える。
神様……怒りまくってますよね……人に大罪だって言っておきながら、あなたが怒ってどうするのですか……と私はツッコミを入れたくなりました。
小説を書くにおいても、怒りはとても素晴らしい題材になると考えています。怒りを上手く表現する小説をみたときなどには、とても感銘を受けます。そのような書き手になりたいものです。




