第九十二話 バルシローナの戦い(Ⅱ)
さすがに銃口を向けて脅したり、殴りあいの喧嘩に発展することはなかったが、それでも互いの足を引っ張るような形の競争の末、丘の頂上に先に上ったのはボードゥアン隊だった。
勝利に気を良くした彼らだったが、その場に既に先客が、つまりヴィクトール隊の兵士がいるのを見て、慌てて物陰に隠れて銃を構える。
当初の位置関係から考えても、先に行動を開始した点からも、ヴィクトール隊が先着するのが当然といえば当然であった。
丘の狭い頂上を巡っての激しい戦いが行われるかと思われたその刹那、フランシア兵は尻尾を巻いて逃げ出した。
丘に登ろうとしたフランシア軍はヴィクトール隊のみ。一個連隊に満たない。しかも極僅かな先遣部隊しか派遣していなかった。
主力部隊は今も大砲を丘に引っ張り上げているのであろう、とブルグント兵は推察した。そんな状況ならば戦わず逃げたとしても仕方がないではないか。
丘の頂上を抑えれば、眼下の敵の横腹をいつでも突くことができる。だがその前に、まずは逃げる敵を背後から攻撃し、邪魔者を排除してからだ。
ボードゥアン隊の先鋒は逃げる兵士の背中に鉛玉を浴びせようと筒先を揃えて向けた。
だが彼らは銃撃を行うことはできなかった。
丘の麓から大音響を放って飛んできた砲弾が彼らのど真ん中に着弾し、衝撃で薙ぎ払われたのだ。
悲鳴と絶叫が木霊したが、すぐさま次の砲音がそれをかき消す。
兵士たちは地べたに這いつくばり、安全な場所を探して右往左往する。もっとも着弾地点は大きく逸れたから、兵士たちに与えた影響は心理的なものに留まったが。
戦列という動く的では無くて、丘の頂上という固定の目標である。それも本来なら大砲を丘の上に上げるための時間を測量や設置に費やしたのだ。もう少し命中率があってもおかしくない。
もちろん、フランシアでは前例の無い、車輪付きの野戦砲ということで、作成時にも取り扱いにも何かと問題があり、命中率が低いということはあろうし、低所から高所への砲撃という難しい事案ということもあったが、それにしても命中率は極端に低い。錬度の低さを露呈した形となった。
だがヴィクトールはそれでかまわなかったのである。
何故なら、それはボードゥアン隊とサンシモン隊の注意を丘の麓の大砲とその部隊に集中させるための砲撃であった。命中率の高下は問題では無かったのである。
今一瞬の時間を稼ぎ出すことだけが目的だった。
丘の上に上がれば砲撃の的になると思えば、ブルグント将兵の意識はそちらにばかり集中する。
斜面にて申し訳程度の草むらの中に隠された火薬箱のことなど誰も見向きもしなかった。
「ええい! 怖気づくな! 敵は素人のようなものだ! 命中率はさほどでは無い!!」
どうやら自分たちは敵に一杯食わされたようだと気付き、ボードゥアンは悔しがったが、さりとて敵の目的も掴めず、困惑する。
まさかこの命中率の悪い砲撃でボードゥアンらを撃破するつもりでもあるまい。
戦場では一周の迷いも命取りだ。とりあえずは兵の動揺を抑え、当初の目的のひとつである丘の確保を急がせることにした。
丘の上に兵がいるとなれば、丘の下に展開する敵部隊に見えない圧力をかけることができる。無駄な動きでは無い。攻防どちらにせよ、丘の上にいるほうが優位でもある。
そう考えて、丘に出来得る限りの兵を上げたことが仇となった。
轟音とともに丘の頂上付近が爆散し、大勢の兵士が衝撃風に弾き飛ばされ、舞い上がった土砂に叩きつけられ、火炎に巻かれた。
直接の被害を受けなかった比較的幸運なボードゥアン、サンシモン隊の兵士たちも多くは、爆音で耳鳴りが生じ、舞い上がった塵で視界を防がれ、前後不覚に陥った。
「な・・・なんだ? なんだ!!?」
アレクサンドルから一兵卒に至るまでブルグント軍全体が驚愕に包まれる。
だが驚かなかった男がブルグント軍に一人だけいたのである。
「芸の無いことをする将軍が敵にはいる」
一年前に前線を突破して敵の後背部へ回り込ませたボードゥアン隊が敵拠点の火薬庫の爆発で多大な損害を出し、当初の計画を変更せねばならなくなったという事件があった。
メイジェーの戦いでも、ブルグント軍から大砲を奪取して丘を占拠し、奪還を目指したブルグント軍の兵を引きつけるだけ引きつけて丘ごと吹っ飛ばしたという事もあった。
そして今回のこれである。三度めも同じ男が行ったことをガヤエは疑わなかった。
一度に大量の火薬を爆発させるのだ。見た目も派手で、心理的影響は大きいが、見かけよりは兵の実際の損害は少ない。同じ量の火薬を使うのなら、断然、大砲や銃器で使う方が効率がいいのである。
そこをあえて敵兵力を引きつけてからの爆発にこだわった。
所持兵力が少ないから敵軍に最大の損害を与える方法を選択した、あるいは成功体験が考えの広がりを縛って同じ手段を取らせた、など色々な事情は敵将にあったのだろうが、それでも今回の策は奇策に類するものだ。
ガヤエに言わせれば、奇策などというものは正攻法の戦術が考え付かない無能者が取る非合理な手段を正当化する言葉に過ぎない。
しかも同じ奇策を続けてやるなどということは策としては下の下であると言うほかは無い。芸の無いと侮蔑するだけの理由は十分にあった。
だが、同じことをやるからこそ、敵にその不逞な意図を感づかれないように細やかに諸事を運ばねばならない。
それに三度とも、戦場の流れがブルグント側に傾きかけた、まさにここしかないという時に行っている。
そんな戦術眼の持ち主はそうそういるものではない。決して侮っていい敵ではない。
何より同じことを同じ敵に三度やって成功させるてみせるというのは、やってみるほうだって今度も成功するとは思うことはできない。そうとうの自信家でないとやり遂げることはできないだろう。
そして豪胆さは戦場で指揮官に求められるものの一つである。芸の無いことではあるが、やはり敵将であっても褒めるだけのものはあるとガヤエは感じた。
それに考え直してみれば敵仕官よりも愚かな者がいるではないか。
「いや・・・芸の無いのは毎回同じ手に引っかかる我が軍のほうか」
ガヤエは巻き上がった砂塵で曇った丘の頂上を眺めて、苦笑いを浮かべた。
ボードゥアン隊全体が風向きの関係でもうもうと舞い上がった土煙に包まれて、視界が閉ざされた。
しかも横に立っていたはずのボードゥアンがいなくなったことに副官たちは混乱する。常日頃やかましい胴間声も一切聞こえない。
だが風が砂塵を薄くするにつけ視界が開け、ようやくその姿を探し当てた。
「し、将軍!?」
副官の一人が声を上げると、爆風で吹き飛ばされ、地面に叩きつけられてより、大地に伏せたまま、ぴくりとも動かないボードゥアン将軍の身体にそそりそろりと及び腰で近づいた。
「・・・大丈夫かな?」
彼は周囲の者たちと顔を見合わせると、ようやく決心したのかボードゥアンの肩に腕を伸ばした。
「ぶわっは!!!」
ボードゥアンはむくりと起き上がると、口の中に入った大量の土塊を吐き出した。
心配して近づく副官たちを、無用なものと手を振り回して追い払うと、ボードゥアンは副官たちに兵の立て直しを命じた。
「新たな指揮官が就任したに違いない」
敵の策にはまる形となったボードゥアンはぎりぎりと切歯した。
「負け犬のように尻尾を巻いて逃げ出すだけだったフランシア軍が、たった一人の指揮官が就任しただけでこうも変わるのか!」
それは五十年戦争以来、拮抗していたラインラントの情勢を一変させた、ガヤエ将軍の例のようにあり得ぬ話では無い。
だが味方ならまだしも、敵側に現れたともなれば、その将軍と戦わねばならぬのは他ならぬ自分だ。気分のいい話では無い。
「それはいったい誰だ?」
名も顔も知らないが、きっとこの俺を何度もコケにしてくれた男に違いないとボードゥアンは確信した。
自分に三度苦渋を舐めさせた相手が同一人であることに一寸の疑いすらも持たなかった。ガヤエと同じ結論を出すに至ったのだ。
もっとも、様々な情勢を検討して結論を下したガヤエと違って、自分をペテンにかけることができるような男が、この世に何人もいてたまるかといった単純な考えからである。
この間まで自分より優れた将軍などブルグントに、いや、パンノニアには一人としていないと豪語していた男だけに、なおさらそう思った。
さて、ボードゥアンが聞いたら怒るだろうが、実はヴィクトールの策は出会い頭に敵の鼻っ柱を叩くことで主導権を取るなどの、ボードゥアン隊を主目的としたものでは無かった。
もちろんボードゥアンの部隊を丘から排除する意図もあったが、それはついでといったほうが正しくて、最終的な目的はあくまでも敵軍の撃破のための布石である。
そもそも二部隊を当面、戦力外にされたのはブルグント軍にとって痛いことは痛いが、やはりボードゥアン隊もサンシモン隊も予備兵力に等しい存在であった。
アレクサンドルにしてみれば、代わりはいくらでもきくのである。
だがその二部隊は損害を受け、陣形も乱れ、指揮系統も壊乱している。兵力再編も兼ねて後退を余儀なくされようし、その混乱に巻き込まれることを考えると、未だ硝煙燻る小丘にすぐに足を踏み入れようとする敵部隊もいないであろう。
しばらくは戦闘はヴィクトール隊より左内側でのみ行われることになる。後方を気にせずに兵を配することができる。それこそが寡兵を指揮する立場であるヴィクトールの望んだことだった。
最右翼に位置する自部隊の更に外側から敵軍が回り込みを図らないとなれば、後ろを気にせずにすむ。
後背や側面を気にせずに済むならば兵を薄く、広く配置することもできる。丘の麓に大砲を織り敷いて敵を待ち受けることができるのである。
丘に大砲を上げるのに比べて、労力も少ないし、時間も必要としない。真っ直ぐ正面に向けて撃ち放つだけだから、砲撃が未熟なヴィクトール隊でも有効な砲撃が可能だ。
しかもヴィクトール隊は労せずして、味方右翼に攻撃をかける敵主力を半包囲する形に布陣することができる。
敵主力は味方右翼へと向かったが、一部の部隊はヴィクトール隊にも向かってくる。
「まだだ、まだ早い」
一個連隊に過ぎず、友軍の援護も期待できないことから、兵士たちは恐怖心から解放されようと撃ちたがる素振りを見せるが、ヴィクトールはそれを阻止して、敵を更に引きつける。
敵の攻撃が無いことに不審を抱くどころか、居竦まっていると勘違いしたブルグント兵は隊列も乱してヴィクトール隊に向けて殺到する。
引きつけるだけ引きつけた敵に対して、ヴィクトールはありったけの砲弾と銃弾を叩きつけた。不意の反撃は苛烈だった。
砲弾が敵を一直線に薙ぎ払い、残された兵にも熱い鉛の弾が降り注いだ。戦列は寸断され、敵軍は中隊以下に細切れにされた。ブルグント軍は恐慌状態に陥った。
兵数の差から勝利は確約されていると思い込んでいただけに、その混乱は簡単に収拾がつくようなものではなかった。
このまま側面から攻勢を受けると軍全体の動静に波及しかねない。ことの重大さに気付いた他の指揮官たちは援兵を送りこんだ。数の力を持って事態の打開を計ったのだ。
だがその間もヴィクトールは部隊の一部を動かし続け、敵援兵を囲い込むよう形作る。
勇躍して進んできたブルグント軍だが、またしても十字砲火の中央に位置することになり、一歩たりともそこから動けなくなった。
たった百メートルほどの距離を縮めることができなかったのである。
ヴィクトール隊は数が少ない。だからこの好機に戦列を前へと押し進めて、銃撃と突撃で敵軍に致命の一撃を与えることはできなかったが、絶え間なく砲撃を行うことで敵軍全体を左翼からゆっくりと亀裂を与えることには成功した。
そうなれば敵の左翼攻撃に主導権を取られ、受け身になっていた他のフランシアの部隊だって黙っちゃいない。
どのような強兵であっても、陣形が崩れれば弱兵の群れに敗北する。銃器の時代、一対一の強さなど集団戦闘においてはほとんど意味をなさないのである。
ましてやフランシア兵は弱兵では無いのである。総司令官はいなかったが、これを好機と見た一部部隊が突出すると、他の部隊も歩調をそろえて全面攻勢へと打って出る。
その攻勢を受けてブルグント軍は徐々に、戦線を維持することが出来なくなりつつあった。破綻は目前である。




