第八十六話 シュリー・ロワレの戦い(Ⅲ)
王弟アレクサンドル率いるブルグント軍の主力部隊は隘路を抜けるのを手間取ったため、先行部隊との距離が離れており、先行の将軍たちが交戦したとの知らせを受け取ったのは開戦後、しばらくたってのことである。
「人間幾つになっても名誉心からは逃れられぬと見える」
功為し名を遂げた老将軍たちの見せた貪欲さにアレクサンドルは驚いて見せた。
といっても王弟アレクサンドルは将軍たちを責めているわけではなかった。むしろその行動を褒めていると言ってよい。
自分を補佐するためにつけられた老将たちが、年寄り特有の慎重さを発揮して、敵軍を撃破する機会が眼前に現れたとしても動かず、結果として自分が武功を立てられない事態を危惧していただけに、将軍たちが互いに競い合うように敵軍に挑みかかったことは彼にとっても願ったりかなったりというわけだ。
彼らは皆、いずれも五十年戦争で名を成した老将である。戦場に勝機を見いだしたからこそ抜け目なく挑みかかったのであろう。勝利はまず疑いない。
その証左に次々と本営にもたらされる報告は味方優位の知らせばかりだった。
「二時間も経つころには勝報が届くであろうよ」
アレクサンドルは早くも勝利を確信し、気を緩めた。
だが王弟にとって恍惚の時間は長くは続かなかった。
二時間もかからずに続報は届いたが、それは王弟が聞きたかった知らせとは真逆のもの、すなわち敗報であった。
先行部隊だけでも敗残のフランシア軍の規模を大きく上回っていたはずである。敗北した理由が理解できなかった。
「ここは私が出て行ってカタをつけねばなるまいよ」
部下たちの手前、狼狽を現さなかったわけではない。心からの言葉である。王弟アレクサンドルにはまだまだ余裕があったのだ。
そもそもラインラントに派遣されたブルグント軍は総計四万を数える大軍なのである。
先行部隊の一万を失っても、今現在、ガヤエ指揮下にあり、後衛に下がっている五千の兵を除けば、二万五千もの大兵をアレクサンドルは有しているのである。
何があったかは知らないが、よほどのことが無い限り勝利は容易くアレクサンドルの手中に収まることになる。
ブルグント軍内で名を馳せる老将たちが敗れた相手を破ったとなれば、アレクサンドルの名前はブルグント国内で重きを置かれることであろう。
幸いなことに前衛を打ち破ったフランシア軍は余勢を駆ってこちら側へと向かってきているらしい。
アレクサンドルは栄光が訪れるその時をうっとりと夢見た。
「よし、全軍に通達せよ。前進してくる敵軍を迎え撃て。苦境に陥った友軍を救いに行くぞ」
少しでも早く栄光の時に近づこうと心が沸き立つのか、全軍の出立の準備が整う前にアレクサンドルは本営を踏み出すほどの勇み足だった。
「ああ、そうだ」
だがアレクサンドルは何かに気付いたのか歩を止めると、後をつける幕僚や従者たちに向かって振り返る。
「後衛のガヤエ将軍にも忘れずに伝えさせよ。軍営を前進させるとな」
だが幕僚たちは顔を見合わせることで、そのアレクサンドルの意見に不賛成な意思を明確に表した。
「わざわざガヤエ将軍に知らせることは無いのでは?」
それは現有戦力だけで十分に敵を撃砕できる目算があるだとか、一刻も早く味方を救う為に陣を前進させたいからといった前向きな理由からでは無く、単に生意気なガヤエには知らせる必要も無いだろうといった嫌がらせに近い感情からである。これ以上、ガヤエに名を為さしめてはという嫉妬もあった。
とはいえアレクサンドルは感情に流されることも、周囲の雰囲気に迎合することも許される立場に無かった。彼はブルグント王の弟なのである。
「いや・・・知らせてやれ。どちらにせよ今からでは決戦には間に合わぬであろう。ならばいらぬ恨みを買うことも無い」
このあたりはラインラントといってもモゼル・ル・デュック城近辺と違ってそれなりに平坦な地が多く、大軍を展開させる場所に不自由しないが、それでも一度に万を超える兵を動かすのに不自由しないというわけではない。険しい道が多いのだ。
敵は険阻な地に寄っているわけでも無いし、距離も離れていることもあり、例え今から通達して兵を前進させたとしても、ガヤエの軍が決戦場に到着する頃には戦いは大方終わっていると思われた。
教えようが教えまいが結果は同じなら、相手に恨みを残さぬ形をとるのが大人の知恵というものであると、アレクサンドルは心の中でうそぶいた。
敗走する友軍を勢いそのままに追撃してきたフランシア軍は愚かにも陣形も満足に整えてはいなかった。
アレクサンドルは逃げてくる味方を収容しつつ、兵を道の左右に伏せ、常道通りに引きつけた後に、不意に立って敵兵を向かえさせた。
頭に冷や水を浴びせられた形になったフランシア兵たちは慌てふためき反転し、算を乱して逃走を始めた。
自分の出した下知が見事にはまった形になったアレクサンドルは満足に笑みを浮かべると、騎兵を発して敵軍に止めを刺そうとする。
これもまた常道。教本通りの采配である。
敵は寡兵であり、大きく崩れている。もう勝ったも同然だ。それはアレクサンドルだけでなく、ブルグント全軍の共通認識だった。
フランシア軍が潰滅するまで、あるいはラインラントから追い出すまで、どこまででも追っていく気で追撃を開始した騎兵隊だったが、その追跡行は思ったほど長くは続かなかった。
ノルベールらはアレクサンドルがそうしたように騎兵の通り道に兵を伏せ、彼らの労苦に報いるべく鉛玉をもってしたのだ。
それがあることを織り込み済みで追撃を行ったフランシア兵と違い、まったくの不意打ちを喰らう形となったブルグント騎兵は演技では無く、本気でその場から逃げ出す術を探さねばならなかった。
「敵が浮足立ったぞ。この機会を逃すな」
ここで騎兵に損害を与えることが、どれだけ後の展開を左右するかを考えて、ノルベール少佐は敵に一泡吹かせたことだけに満足せずに、兵を激励し、半ば無理矢理に陣を進める。
より被害を与えるだけでなく、敵騎兵に対してフランシア軍が敗残の意気消沈した軍では無いと見せつけて負け犬根性を染み込ませるためである。
一度、負け犬根性が染みついた兵が立ち直るには相当な時間を必要とするのはノルベールらラインラント駐留軍の兵士らは身をもって体験済みだ。
今度はそれをブルグント軍に体験してもらう番である。
その急を要する一報は、戦列歩兵からなる本軍を率いて騎兵の後を追いかけたアレクサンドルの下に素早く到達した。
「敵の奇襲に遭っただと!? 敵は我が騎兵を釣りだすために逃げ出すふりをしたというのか!?」
フランシア軍はガヤエ将軍によってラインラントの片隅に追いやられた敗残の兵では無かったのか。自分の想定とは違う事態のチグハグさにアレクサンドルは思わず困惑と不快の表情を浮かべる。
「それはわかりませんが・・・ですがこのまま手をこまねいているわけにも参りますまい」
「勝利を得たとしても、騎兵を失えば九仞の功を一簣に虧くことになります」
前時代の重装甲の騎士と違ってこの時代の騎兵は軽騎兵に近い。戦列歩兵の射撃を正面からまともに喰らうという使い方は想定されていない。正面からの攻防では分が悪い。
だがそんなことは言われなくてもアレクサンドルにも分かっていた。
「ガヤエの報告が間違っていたようだな。敵は思ったほど損耗しておらず、策を弄し反抗の時を待っていたようだ。小賢しいことよ。だが正面から戦えば必ずこちらがか勝つ。恐れるな」
虎の子の騎兵を助けようとアレクサンドルは総掛かりを命じた。
内心の焦りがある。戦場の花形である騎兵は維持費もかかるが、何より育成にも時間のかかる代物だ。それを戦場で全て失えば、例えラインラント全土を手に入れたとしても、兄にあわす貌が無い。
一兵でも多くの騎兵を無力化することに集中していたノルベール少佐の下にブルグント軍の本隊が接近してきたことが伝えられた。
遠目にその姿を確認したノルベールは敵軍の足並みを見て、心中で溜息を一つついた。
「そう上手くはいかないか」
ヴィクトールの立てた作戦では虎の子の騎兵が危機に陥ったと知れば、とにかく友軍を救うことだけを考えるであろうブルグント軍は、焦りで頭に血が上って、隊列も陣形も乱して殺到するであろう。
その勢いは恐ろしいものであるが、最初の攻撃を凌ぎ、足を止めればなんとかなる。そうなれば陣形の整わぬ単なる兵の群れ、大軍であってもあしらうことは容易い。
そうヴィクトールは言っていたのだが・・・
「若いのに似合わず冷静で的確な判断をする男だが・・・やはり戦場の経験が絶対的に足りないか」
町のチンピラの喧嘩ならば、そうもなるだろうが仮にも相手は一軍を預かる将なのである。焦りがあっても、頭に血が上っても、最低限の仕事はするということであろう。
とはいえ戦いの大まかな流れはヴィクトールの立案した作戦に近い。それだけでも褒めるべきであろうとノルベールは思い直した。
「つまり、まだ主導権はこちらにあるということか」
そしてノルベールに与えられた役割はまだ終わっていないということでもある。当初の予定と違って秩序だって近づいてくる敵と相対しなければならないのはノルベールの所持している兵力では荷の重い仕事だが、それでもついこの間までの一寸先も見えない暗がりの中を歩くかのような逃避行に比べて、十分に意義の見いだせる、やりがいのある仕事だ。
騎兵の追撃を止めさせ兵を収容し、息を整えさせ、隊列を組み直させた。
同じく視界にフランシア兵を収めたブルグント軍も当初の、危機に陥った騎兵隊を救い出すという目標を果たしたこともあって、歩を緩めて陣形を整え直す。
「隊列を乱すなよ。また何かペテンにかける気やもしれん」
こういう時に危険なのは、王弟のような戦場経験もなく、驕奢な若者が司令官になったことで舞い上がって、補佐の制止を振り切って暴走することだが、総司令官アレクサンドルに気負いはない。
おかげで両軍の激突は軍隊の規模に比べて地味なものとなった。
フランシア軍は兵力差から積極攻勢に出れなかったし、ブルグント軍は確実な勝利を得ようと一部の部隊が突出することを許さなかったからだ。
とはいえ全体としては兵力に優るブルグント軍が優勢だ。ノルベールらはじりじりと押されて後退する形となった。
後退も計算の内ではある。といっても当初は一気呵成に押し出してくる敵軍に合わせて単純に兵を退くはずだったので、幾分難しい形となった。
それを可能にしたのは残念なことにノルベールの指揮ぶりやフランシア兵の勇敢さではなく、先程述べたようにブルグント軍の慎重さにある。
それでもまったくの犠牲を払わずに済むわけでは無い。攻めるよりも守りながら後退する方が何倍も難しいのである。
崩れそうになる兵を励ましながらノルベールはようやく目的地に達すると、左後方に位置する小高い丘を見上げた。
次の瞬間、それまで戦場に鳴り響いていた、マスケット銃による高い、複数の散発的な音響とは違う、大音響の重低音が兵士たちの鼓膜を震わせた。
戦場に轟いた、時ならぬ雷音に両軍の兵士は音源を探して目を左右に走らせる。
音の主は、その小高い丘の上にヴィクトールが引っ張り上げた大砲たちである。
ヴィクトールは丘の上から半ば身を乗り出すような形で、目に望遠鏡を当てて着弾点を観測していた。
「着弾点は目標を大きく外れた。思ったより風が強いな。仰角二度、方位をマイナス七度に修正、急げ!」
ヴィクトールが望遠鏡を畳んで、左後方の兵士たちに大砲を調整するように指示を出すと、右後方に位置する、次に大砲を発射する役目を与えられていたルイたちは困惑したかのように顔を見合わせた。
「俺たちも修正した方がいいんですかね?」
何しろ彼らの大砲はもう既に装填し終わって、いつでも発射できる態勢にまで移行しているのである。
それを一からやり直すのは何か勿体ない。
「いや、今は時を置かずに敵に大砲の球を浴びせて敵兵に恐怖を与えることが何よりも重要だ。第二陣は修正せずにそのまま撃ち込む」
ヴィクトールはこういうことは徹底的に相手に考える間を与えぬように畳みかけるべきだと考えていた。
実害よりも心理的効果を重要視したのだ。まだ正確な射撃ができるほど精密な作りでは無かったせいでもある。
幸い、補給直後で弾薬と火薬は十分すぎるほどあった。多少は無駄玉を打つ余裕があるようにヴィクトールは楽観的に考えていた。
「第三陣以下の兵は修正急げよ。第二射、放て!」
ヴィクトールの命令で大砲は次々と火を吐き、目の前のブルグント軍右翼に繰り返し砲弾を浴びせた。
大砲が地面を揺るがせるたびに、ブルグント将兵の心も大きくゆすぶられることとなる。




