第八十五話 シュリー・ロワレの戦い(Ⅱ)
高所に布陣して側面からの奇襲攻撃。攻撃側に絶対的に有利な態勢である。
サンシモンが手持ちの兵力を余すところなく眼下のフランシア軍に一騎に叩きつけると、部隊は河川沿いに陣取った敵兵を蹴散らし、あっけなく渡河に成功する。
崖っぷちに追いやられたからといっても、逃げ回る一方だったフランシアのラインラント駐留軍がブルグント軍の動きに呼応して応戦したからには、
決死の覚悟で奮戦するだろうから、厳しい戦いになると思っていただけに、その手応えの無さにサンシモンは首を傾げた。
「一度ついた負け癖はそう容易くは払拭できぬか」
長考して時間を費やしてもバカバカしいだけだと、サンシモンはそう一人で納得し、兵に更なる前進を命じた。
散発的ながらも行われたフランシア軍の反撃に苦しみながらも、兵たちはサンシモンの命令に従い、着実に、一歩一歩前進する。
その味方の奮戦に勇気づけられたのか、川を挟んで一進一退の攻防で足が止まっていたブルグント軍全体が俄かに活況を示した。
クリューベ、ボーテ、サンシモンに引き続いて戦場に到着した部隊が手柄を求めて、布陣もそこそこに参戦したことで数的に優位に立ったということもある。
もちろん、眼前でサンシモン一人に功を独占されることを恐れた他の将軍たちが尻を叩いて、兵を無理矢理に前進させたという理由もあったのだが。
ともかくもブルグント軍はフランシア軍に比べて士気は高く、兵力も優勢である。
側面から強襲を受けたことでフランシア軍は戦線を支えきれなくなり、ズルズルと後退を始めた。
押されて歪に陣形が崩れるフランシア軍だったが、中央戦列を指揮するノルベール少佐が自ら銃を手にして戦う勇敢な姿に兵も鼓舞されて、なんとか全面崩壊だけは食い止める形となった。
だがもはやその劣勢は誰の目にも明らかだった。
「行けい行けい!! 敵は崩壊寸前だ! 手柄を立てるのは未だ! 皆殺しにしろ!! ここを連中の墓場にしてやれい!!」
勝利の女神が目の前に絶世の美女の姿で現れて、誘惑でもしたかのように、鼻息荒く興奮したサンシモンの姿に、幕僚たちも目を丸くした。
だが興奮したのはサンシモンだけでは無かった。ブルグント軍の将軍たちは皆一様に一番手柄を奪われてなるものかと、兵士たちにより一層の前進を命じる。
劣勢に押されてフランシア軍が退去した場所を素早くブルグント軍の兵卒が埋めていく。
城壁もどころか柵も無い。ブルグント軍の前進を阻害していた小川をブルグント軍が渡り切った今、両者の間にはなだらかに傾斜した坂があるのみだった。
おあつらえ向きに坂は登るにしたがって幅を狭めていた。つまり逃げる兵たちで渋滞が巻き起こり、フランシア軍をより一層混乱させるであろう。ブルグント軍はやすやすと敵兵を撃つことができる。
ブルグント軍の猛威の前にフランシア軍が呑み込まれるのは時間の問題かと思われたし、事実、坂の途中までは事態はその方向で動いていた。
だが勝利の女神はブルグントの将軍たちが差しのべた手をあと一歩のところで振り払う。
獲物を駆り立てる狐のように目を血走らせて坂を駆けあがったブルグントの兵たちを待ち受けていたのは鉛の球だった。
坂の両脇にある小山の森の木々に伏せていた兵が一斉に立って、両側から激しい銃撃を浴びせたのである。
ブルグント兵たちは手柄を求めて、同僚を押しのけて我先にと殺到した、その詰めの甘さを大いに痛感することになった。
もっとも悔いる時間を与えられずに死んだ兵も多かった。ブルグント軍は予期せぬ攻撃を受け、思わぬ損害に腰が浮ついた。
組織的に反撃しようにも、命を下すべき将軍は遥か後方にいたし、何よりもフランシア兵を狩ることに夢中になっていたことでブルグント軍は陣形を大きく乱していた。
後から到着した部隊なぞは隊列を組んでいなかったし、クリューベ、ボーテ、サンシモンの部隊も小川を越え、味方と競い合うように坂を息せき切って駆け上がったことで隊列などあってないようなものだったのだ。
どうしていいか分からずに惑い立ち尽くしたブルグント兵たちに追い打ちをかけるように再び両側から激しく銃撃が浴びせられると、これまで追い立てていたはずの前方のフランシア兵が反転して襲い掛かって来た。
今までの敗走は見せかけ、敵を誘い込む佯敗だったのである。
三方からの猛攻にブルグント兵は堪らず崩れ去った。
逃げるブルグント兵を追って、フランシア軍は坂を駆け下った。流れは完全にフランシア軍に転じていた。
「数こそ多いが敵兵の腰は脆い。勝てる、勝てるぞ!」
ノルベール少佐が兵を叱咤し、激励する。
とはいえ勝利に昂った敵が思わぬ奇襲に浮ついただけである。この流れを本物の勝利に結びつけられるかどうかは、まだ確実なものでは無い。
だからその言葉は兵に聞かせるというよりは、自身に言い聞かしていたのかもしれない。
ノルベール少佐ら、ラインラント駐留軍主力の反転攻勢に呼応するかのようにヴィクトールは兵を立たせ、逃げる敵兵を側面から襲わせた。
大きく定数を割った第三十四連隊に戦線を支える一角を担わせるのは無理とノルベール少佐が判断し、側面から敵を狙撃し、敵の動揺を誘う役割を与えられていたのだ。
「我らを脇へと追いやったあいつらに、我らがまだ戦えるというところを示すんだ! 第三十四連隊の意地を見せよ! イアサント連隊長の弔い合戦だ!!」
ヴィクトールの声に応えた兵たちは、疲れの癒えぬ体に鞭打って戦い、他のどの連隊よりも敵を打ち崩すのに重要な働きを果たした。
だがここで一番の活躍したのは第三十四歩兵連隊の兵では無く、ロドリグの呼びかけに応えて集まって来たテレ・ホートの民たちである。
まともな武装も無く、教練といえばヴィクトールが施したあの型破りな教練しか受けたことなどない急ごしらえの兵だった彼らがである。
彼らは確かに組織戦では使い物にならないであろうが、彼らが元々持つ、恐れを知らぬ好戦的な気質は兵士向きとして知られていたし、何より日々、山地を駆けて作り上げられた強靭な足腰を持っていた。
それだけあれば崩れ去った敵兵に追い打ちをかけるのには十分であった。
ブルグント兵は来るときは難なく渡れた、あの狭い小川を渡河する時に想像以上の犠牲者を出さざるを得無かった。
とはいえ崩れたのは先陣だけといった見方もできるのである。ブルグント軍がその小川を越えるのに手間取ったように、フランシア軍も容易くはその川を渡れない。
その間に手持ちの兵や隣の部隊と連携し、縦に伸びて崩れた陣形を整え直せばブルグント側にも勝機はまだまだ十分にある。
後方には王弟率いる本軍が無傷のまま残っているのだ。まだまだ兵力的には有利なのである。
それに気付いたクリューベ将軍らは懸命に立て直そうと奮闘し、一時は持ち直したかに思われるところまで漕ぎ着けたが、側面に位置したサンシモン将軍が占拠したはずの丘をヴィクトール隊が奪取し、砲撃加えたことで、ブルグント全軍が一気に崩壊の様相を呈した。
サンシモン将軍は自分の部隊を一斉に丘を下らせて攻勢をかけたから、大隊規模に落ちぶれた第三十四戦列歩兵連隊の攻撃を跳ね返すことができなかったのだ。
なにしろ投入した兵は逃走するのに逃げやすい平地を選んで後退したため、サンシモン将軍のところに戻ってくる兵は一人たりともいなかったのだ。僅か二十人に満たぬ、それも多くが幕僚や書記官などの戦闘向きでない兵では逃げて重要な拠点である丘を明け渡すしかなかったのである。
その丘にヴィクトールは手持ちの兵だけでなく、配備されたばかりの野戦用大砲を引っ張り上げたのだ。
無用の長物ではないかと疑い、金を出し渋った大蔵官僚と違って、ヴィクトールはその威力を身をもって知っている。大砲はここでもいかんなく、その効力を発揮してくれた。
大砲の轟音と威力に脅えた兵だけでなく、二方面から攻撃を受けては支えきれないと判断し、士官や下士官までもが将軍の下知に従わずに遁走する。
フランシアにとって久々の勝利は快勝となった。
フランシアの将兵は、これまでの鬱憤を払うかのようにブルグント兵に襲い掛かり、逃げる敵兵を追った。
だがヴィクトールは戦場の狂騒に巻き込まれるのを嫌って早々に兵を撤収すると、急ぎ戦場を横断して全体の指揮を執るノルベール少佐の下を訪れた。
「敵は王弟を迎えて増強したと聞きました。目の前の軍は敵の一角に過ぎないでしょう。敵を追撃するのは結構ですが、敵を追うことで我が軍勢は陣形を崩しています。万が一、そこに襲い掛かられては危険です。敵と違って我が方の兵力は不足しています。陣形が整わぬまま、敵の攻勢を支えるのは不可能に近いでしょう。それにもう一度、敗北すれば今度はきっと全てが破綻します。ここは慎重に動くべきかと。勝ちに奢るのは危険です」
確かに敵はヴィクトールたちの思惑通りに罠にはまった。だがそれは敵が愚将だったからでは無く、ひとえにフランシア軍を敗残の寡兵だと舐めていたことに由来する。
一時の勝利に気を良くし、敵を舐めてかかっては今度はこちらが罠にかかる番ということもありうる。
「・・・・・・そうだな。その通りだ」
ヴィクトールの言葉に一瞬、顔を背けて何事か考え込んだノルベールだったが、向き直ると納得したかのような表情を浮かべた。
追撃したい素振りを見せる兵や連隊長たちの不満を握り潰し、部隊の手綱を握り直したノルベールは、ヴィクトールの言葉に従って部隊を集結させる。
だがヴィクトールはあくまでも無秩序な追撃を止めさせただけで、敵を追う手を緩めるつもりは無かった。
この局地戦での小さな勝利に満足しようというのではなく、この局地戦の勝利を大きな勝利に結びつけようと考えていた。
「我々は勝ちました。ですが敵本隊を破ったわけではありません。敵は依然としてこのラインラントの過半の地を占有し、我々を上回る兵数で闊歩しているのです」
「敵の本隊と戦って勝たねば真の勝利とは言えないということだな」
「はい。ですが真正面から敵と戦っては勝算は薄いでしょう。我々はモゼル・ル・デュック城を取り戻し、最終的にはラインラントからブルグント兵を一人残らず追い出さねばなりません。なるべく戦力の損耗は避けたいところ、奇策を用いる必要があります」
勝算が薄いとはなんとまた傲慢な言葉であろうか。平地で決戦を行えば、控えめに見積もってもブルグント軍の勝利はゆるぎないところだ。
もちろん、ヴィクトールがそれすらも見えなくなるほど手にした勝利に酔っているということではなかった。
若輩者で階級も低いヴィクトールには自分の考えを軍議で押し通すには、せっかくの勝利に気を良くしている連隊長たちに本当のことを言って冷や水を浴びせることで反感を抱かれぬためにも、言葉を選ぶ必要があったのだ。
「奇策とは?」
「敵をもう一度誘い込むのです」
ヴィクトールの言葉に他の連隊長たちは顔を見合わせた。その態度には得心がいってない雰囲気がありありとうかがわれた。
「・・・確かに今回は上手くいったが、敵も油断していたのは否めない事実だ。今度は敵も用心してくるだろう。わざと逃げても敵が追いかけてくるとは限らぬ」
「確かに今回のように両側が山地というあからさまに兵が伏せられ挟撃に有利な地形に足を踏み入れたり、戦術的に有利な坂の上に陣取る兵や、渡るのに困難をもたらす河川の向こうを攻撃しようなどとは思わないかもしれませんが、味方を救うためとなれば話は別でしょう」
「つまり逃げる敵軍を追うことで、敵の本軍を意中の場所に動かそうということか?」
「そうです! その通りです!」
「ならば何故、一旦兵を退き上げさせた?」
責めるような口調で言うその連隊長には追撃を諦めさせたというヴィクトールに対して不満があったのだ。
「我々が追撃すれば前軍の潰滅を防ごうと本軍が出張ってくることでしょう。優勢な敵を我々が迎え撃ち、勝利するには様々な条件が必要になることでしょう。無秩序なまま敵にぶつかっては粉砕されるだけです」
「とはいえ数の差は圧倒的だ。今回のように敵をおびき寄せ、挟撃が成功したとしても、それだけで全軍が崩れ去るというには敵兵は多すぎる」
「そこで、です。少し工夫をしてみるというのはいかがでしょう?」
ヴィクトールは腹案を披露した。それは受け身のこれまでと違い、初めてフランシア軍が自ら動くことで事態を打開しようという作戦だった。
「やってみる価値はあるかもしれない」
それを聞いてノルベール少佐が乗り気になったことで流れが変わり、ヴィクトールのその作戦を取ることに最終的に皆が同意する。
ヴィクトールの作戦で敵を見事に打ち破っただけでなく、届いたばかりの新型大砲が戦場で見せた威力に気を良くしたと言った理由もあった。
何より一回とはいえ勝利したことで将軍たちにも闘争心がよみがえって来たようだった。
「戦は仕切り直しだ。機先を制するのも悪くは無い」




