第八十四話 シュリー・ロワレの戦い(Ⅰ)
敵軍動くの一報に大なり小なり浮足立ったラインラント駐留軍の将官の中で、ただ一人ヴィクトールだけは動じなかった。
ヴィクトールはこのような事態が必ずや早晩来ることを確信していた。そうでなければ悪戯に兵を疲れさせる教練を施そうなどと考えるはずもない。
だがヴィクトールが指揮する一個連隊だけで敵軍を迎え撃って勝てると言い切るのは、自信があるとか勇気があるとかいった段階を通り越して、単なる慢心、無謀である。
幸い、他の連隊長たちもいつまでも狼狽していても事態は何も好転しない、むしろ悪化するばかりであるとようやく気付いたのか、重い腰を上げて連隊長会議が開かれた。
しかし本来ならば主導的立場に立つはずのセヴラン大佐がこの期に及んでも同僚たちの顔色を窺うばかりで、決断を下す様子を見せない。
「このままではジリ貧です。王都からは色よい返事が来ない。座して死を待つよりは戦って戦局を打開しようではありませんか」
とうとう業を煮やしたノルベール少佐がヴィクトールら若手を中心に纏め上げて主戦論を展開し、会議を主導して意見の集約を図った。
「若い者は待つのが苦手だ。事態を変えようと動きたい気持ちは理解できる。だが風向きが変わるまで待つのが大人の分別というものだ。メグレー将軍の下で軍歴を積んできた百戦錬磨の諸卿らがノルベール中佐やヴィクトール中尉ら、若い者の意見に引きずられてもらっては困る」
ノルベールの弁舌に対して良い顔を見せないベテランの士官たちはセヴランの言葉に利を見、頷いて見せる。かといって彼らもこのままでは八方塞がりであることは十分承知している。
意外なことに撤退一辺倒だったこの間までの議論の流れと違って、有利な地形に陣取って防衛することが前提ながらも前に出て敵と戦おうという意見が他の連隊長たちの口からも飛び出した。
援軍と補給を受けて気が大きくなったか、軍令部の命令なしには撤退できない国境ぎりぎりの土地まで追い詰められ、捨て鉢な気持ちになったからか、あるいはその両方なのかは分からない。
外堀を埋めれば及び腰のセヴラン大佐とて、周囲に流されるだろうとノルベール中佐は軽く考えていたが、セヴランは一人、主戦論に抵抗した。
「もしも陛下と軍令部が此度の敗北に狼狽え動転し、為すことをしらぬような状態なら、朝令暮改に命令を発し、各部隊は右往左往するものである。だがその様子は見られない。時間を稼ぐことで上の者たちは何らかの事態の打開を計ろうとしているに違いない」
「それでは我々は捨て石ということになりませんか」
「我々は捨て石になるかもしれないが、大局の為というのならばそれも止む無しだ。我らが迂闊に動いて敵に隙を見せるのは得策では無い」
「確かに正論です。それが本当だというのならば、ですが。軍人であるからには死を恐れるべきではありませんし、最終的にフランシアの利益につながるのなら厭いはしませんが、本当に我々を遅滞戦術の駒にするのなら、明確になんらかの命令を下すべきです。現状はそうではなく、ただ単に一切の命令が軍令部から下されないという状況です。軍令部の考えを前線指揮官が勝手に斟酌して自らの行動を縛るなど本末転倒です。敵を利するだけです」
老練のセヴラン大佐にしてみれば、まだ小僧に過ぎないヴィクトールのその言葉は非礼で僭越に聞こえ、思わず眉を持ち上げ、怒色を顔に表すほどだったが、他の連隊長たちにはセヴランの主張を否定的な見方にするだけの効果はあったようだ。あちらこちらから賛同の声が上がった。
セヴラン大佐はとうとう多数に押し切られる形で了承する。大勢に逆らえない、腰の引けた男なのである。
「そう言うのならば、敵軍を迎え撃つ方策を至急、立てるがいい。時間が経てば我が軍が取れる選択肢が狭くなると言っただろう?」
「小官が立案してよろしいのですか?」
「この件はノルベール中佐に一任する」
セヴランは投げやり気味にそう言った。
言質を取ってしまえばこちらのものである、とばかりにノルベールは親しい連隊長を集め、さっそくどのようにして敵軍を迎え撃つかを議題に会議を始めた。
もちろんヴィクトールもそのメンバーの一人である。
「そうと決まれば善は急げだ。敵も今日まで居竦まっていたこちらが急に動き出すとは考えないだろう。その隙をついて早急に軍を動かせば、有利な地形に陣取ることができる」
といってもここまでの戦いでフランシア軍が不利な地形ばかりに布陣していたわけでは無い──むしろどちらかといえば有利な地形に陣取っていたから、有利な地形に陣取ったとしても、それがすなわち勝利に結びつくわけではない。
だがいかにして有利な布陣で敵を迎え撃つかは、兵の多寡と並んで勝利するための基本条件のひとつであるから、考えること事態は決して無駄では無い。
「双方の軍が展開するのに相応しい開けた土地は三か所ある」
「援兵を得たとはいえ、敵軍との差はあまりにも明確。我が方は劣勢、これまでの戦いのように平原に陣取って敵を撃破するといった戦い方は無謀ではありませんか?」
「その通り。敵の進出に対し、防衛線を敷いて迎撃する。そうなれば軍令部も重い腰を上げて新たな命令が下されるであろうし、そうでなくてセヴラン大佐の考えが正しいとしても、我々が予想外に奮闘すれば軍令部も考えを改めるはずだ。結果としてなんらかの命令が下されるのは間違いない」
「僅かばかりであっても勝利を手にしていれば、例え敵軍の攻勢の前に我々がラインラントから追い出されようとも許されよう。なんとでも言い訳が立つ」
それはこれまで行っていたような当てのない退却や、命令待ちという名の単なる無駄な時間の浪費、あるいは自暴自棄から来る無謀な玉砕戦法ではなく、意義のある戦いである。
ラインラントにおける全権が与えられたが故、域外への移動に原則的に軍令部の許可が必要なラインラント駐留軍を敗北の中で撤兵させれば命令者は責任を負わされかねない。
だが戦って勝つ算段も見いだせないし、かといって座していても大敗は必至である。このままでは戦死か捕虜かという不名誉な二者択一を迫られるのではないかと連隊長たちは半ばやけっぱちになっていた。
すなわち生きる方策があると指し示したノルベールのその一言は説得力があったし、とりあえず先程はノルベールに賛同したものの、ノルベールが勝算も無く蛮勇だけをもって無謀にも戦いを挑むだけではないかと不安半分だった連隊長たちの顔にも生色を甦らせた。
そして明確な目標があれば、先程まで思考停止していても、頭が高速で回転しだすのは軍人の本能である。
どこで迎え撃つのが最も敵の攻勢を支えられるかを熱をもって語りだした。
野原の端の稜線に沿った坂に防衛線を敷く。狭隘な渓谷に敵を誘い込み、両側から挟み撃ちにする。あるいは渓谷を流れる川を防衛線とする。多数の案がその有利不利両面から話し合われる。
結局のところ、渓谷を流れる川を主防衛線として付近の丘陵と断崖絶壁を利用して迎え撃とうということで議論は決着した。
渓谷を走る河川ということは付近は軟弱な地盤である。守備側に有利で攻勢側に不利ということになる。
といってもその川は幅一メートルも無い、防衛の為の要害として使うには極めて頼りない代物であった。
地形条件だけならば他にもっと良い場所があったにもかかわらず、そういったあやふやに優位な条件の場を選んだのは理由がある。
自軍と敵軍とを繋ぐ経路の中でどうしてもその地点を突破しなければ会敵できないからだ。
有利な地点を選んで布陣したのはいいが、敵がその場所を通過しなければなんの意味も無い。数において優勢な敵は軍を二つに分けて進撃することも考えられる。
敵軍に後背に回って連絡と補給線を絶たれては、ラインラント駐留軍は戦わずして崩壊してしまう。
「幸い、川までの距離はこちら側が圧倒的に近い。直ぐに占拠して、陣営地を構築すれば戦闘を更に有利に運ぶことができる」
ノルベールの言葉に皆、一斉に賛意を表した。
そうと決まれば、まずは防衛線を敷くことが何よりもの優先事項だと連隊長たちは自分の部隊へと早足で帰って行った。
ブルグント軍だって馬鹿では無い。幾人もの偵察兵を出してフランシア軍を監視していた。
フランシア軍に動きがあったことは、動き出したその日のうちに知ることとなる。
だが既に長い縦列を形成して行軍を開始していたブルグント軍は、先陣の将軍たちと本営の王弟アレクサンドルとでは、その知らせが届くまでに時間差があった。
それを良いことに、先陣を形成していたブルグントの将軍たちは少しでも良い場に布陣しようと軍勢を進めて、抜け駆けを計った。
敵軍が当初の予定の位置より前進して迎撃することを耳にした王弟が狐疑して軍を止めたり、進軍の順序を変えたりして天与の機会を逃すことを恐れたからだ。
五十年戦争で数多くの戦いに参加した彼らにしてみればガヤエ将軍などまだまだ尻の青いひよっこである。
その五十年戦争でフランシア軍やメグレー将軍と戦って苦い思いをした経験もあるのだが、ガヤエに苦も無く赤子のように手を捻られたのだから、今のフランシア軍は弱兵であるとみくびった。
ならば味方の他の将軍、とりわけガヤエが戦場に到着する前に自分の力だけで蹴散らしてやろうと考えたのだ。
敵を舐めていたということもあろうが、要は功名心に焦っていたのである。
ブルグントの老将軍たちは迎撃の陣を敷いたフランシア軍を目にすると、想像以上の数の減じぶりに思わず目を疑った。
万を切っているとは聞いていたが、将軍たちの見るところ多くて六千というところであった。
これならばガヤエの兵や王弟の本営どころか同じく前軍に配された同僚たちの兵を当てにせずとも鎧袖一触で屠ることができると値踏みする。
別にガヤエと違って他の将軍たちとうまくいっていないとか仲が悪いといったことは無いが、話が武功のこととなるとそれはまた別の問題だった。
先陣を承っていたクリューベ将軍とボーテ将軍は攻め口に良さそうな場所を選んで各々勝手に布陣すると、全軍が到着するより前に兵に火蓋を切らせた。
普段ならばありえぬことである。
発砲しながら近づくブルグント兵に対して、フランシア軍も負けずに応戦する。
風のないその渓谷はまたたくまに両軍のマスケットが吐き出す硝煙で充満した。
その時点で戦場に投入された兵の数に差が無かったことや、攻め込むには不向きな足場の悪さもあって、フランシア軍が優勢を示した。
激しい攻勢を前にして幾度か戦線の一部を破ることに成功することもあったが、急遽構築した野戦陣地を前にして悪い足場で戦わねばならぬことから、ブルグント軍は苦戦を強いられ、最初の攻撃はあっけなく撃退され、再び川の向こう側に叩き返された。
クリューベ、ボーテ両部隊の次に戦場に到着したサンシモン将軍はまず既に戦闘状態にある味方を見て眉を顰め、次いで味方の醜態に顔を顰めた。
「敗兵相手に不覚を取るとは情けない」
クリューベ将軍とボーテ将軍は攻め口を選んで離れて布陣した。ならばその両部隊の間に入り込み、戦列を繋げて敵の防衛線に対抗するのが王道の戦い方であろう。
だが野戦においては有効なその戦術も陣地防衛の形をとる今のフランシア軍に対して有効に働くとは思えない。戦列を繋げる必要は敵兵に側面ないし背後に回られないために形成するのである。今のように頑なに防衛線を守って打って出ない敵には意味の少ないものだ。
「そもそも敵は居すくまっており、劣勢だった。険阻な地形を選んで防衛線を張って、戦況を膠着させようという目論見だろうが、小賢しい。その程度の小細工で我らの足を止められると思うとは浅はかである。左方に見える山は低い丘陵であるが、この一帯を抑える要衝であると見た。ここをめぐる戦いがこの戦闘の帰趨を決めることとなろう」
サンシモンは幕僚にフランシアの右翼前面に位置する小さな丘を指さし、断言した。
「では兵をそちらに向けますか」
「ああ。今からクリューベやボーテの後塵を拝しても良いことは何もない。迂路を取ることになるが、あの丘を抑えて攻め口にすることこそ、この戦いの勝敗を決する最短距離となることであろう」
各部隊に命令を伝えるために幕僚が散っていった後、一人残されたサンシモンは呟いた。
「いくら兵が少ないとはいえ、あの丘に押さえの兵を一兵も回さぬとは愚かな事よ。敵には目端の利く将軍が一人もいないと見える」
どうりでガヤエごときの若造に功を為さしめるわけだ、とサンシモンは納得した。
なんの妨害も無くその丘を占拠し、サンシモン将軍は一部の兵に防備の陣を敷かせると、残りの兵をもって丘を駆け下ってフランシア軍の右翼側面を強襲しようと試みた。
なんと愚かなことにそこを攻め口とされることに想像もしていなかったのか、フランシア軍右翼は銃撃を受けただけで浮ついたところを見せる。
「よし、敵は側面の備えを怠った。一気に攻勢をかけて突破し、敵の後ろに回りこむぞ」
そうは言ってみたが、丘を占拠する形を見せれば、フランシアの司令官がいくら無能であっても、遅まきながらもその丘の戦略的な価値に気付いて慌てて兵を動かすだろうと思っていた。
しかしサンシモンが頂上を確保し、兵を丘の上に上げ終わるまでフランシア軍がこれといった動きを見せることは無かった。
だがそれはサンシモンにとっては功を立てる絶好の機会が訪れたということである。そして目の前を幸運の女神が通る過ぎるのを黙って見過ごすほどサンシモンは謙虚な男では無かった。
「敵は明らかに浮足立ったぞ! 我々の手で勝利を決定付けようではないか!」
サンシモンの気概が乗り移ったかのように、兵たちも勇躍して喊声を上げて丘を駆け下った。




