第八十二話 援兵
その日、ガヤエにとって永遠に続くかと思われた、じりじりと焦りばかりが募る、無為に過ごすだけの時間がようやく終わりを告げた。
王弟アレクサンドル・ルイ・ド・ブルグントが援軍と共に、戦陣にようやく到着したのである。
大方の予想よりも到着が大幅に遅れたのは、色男振りで知られたアレクサンドルだけに宮中の女共が袖をつかんで離さなかったのだなどという、まことしやかな噂まで流れていた。
とはいえガヤエが待ちに待ち望んでいた時である。
援兵が到着して戦陣に一層の厚みが加わったことも嬉しかったが、これでようやく兵を動かすことができるのが何よりも嬉しかった。
そもそも手持ちの兵だけでも勝利できる目算はあったのだから、なんなら兵など後ろに置いておいて、王弟だけでも身一つで先に来てくれさえすればよかったのになどとガヤエは苦々しく思いもしたが。
といっても相手はガヤエなど普段なら影さえも踏めないような尊貴な存在である。内心の感情を押し殺し、顔に出すことなく膝をついて神妙に首を垂れて出迎えた。
遊び好きで軍事にも政治にも才気走ったところを一片とも見せずに、無能であると陰口を叩かれることもある王弟であるが、陽気かつ気さくな人柄で伏魔殿のような宮廷内でもおおよそ嫌う人物がいないという好人物である。
アレクサンドルは妾腹の出であるだけでなく、幼くして母親を無くし、さらには生まれた時には既に王の寵が冷めていたことから、父親の顔もろくに見たことも無いという過去から生じる心中にある暗いものを隠そうと、陽気さで己を包んで他者を愛し、相手を身分で分け隔てなく接するような人間に育った。
であるから傲岸不遜で宮廷内でも軍隊内でも決して味方が多いとはいえないガヤエに対しても、相好を崩して近づいて手ずから立ち上がらせるような真似までした。
「やあやあガヤエ将軍、此度の貴殿の働き、実に見事であったぞ。大慶大慶」
「王弟殿下の御参陣、百万の味方を得た気持ちでございます。長い戦でくたびれ果てた兵士たちも、さぞ奮起いたすことでありましょう」
噂は耳にしていたが、想像以上のフレンドリーさにガヤエは面食らい、慌てて深々と顔を伏せて顔の表情を隠した。
「ははは世辞は止せ。戦術なんぞ机上で習っただけの耳学問さ。戦のことは素人同然、何も知らぬ身だ。実戦においては、誰よりも将軍のことを頼りにしているぞ」
「殿下の御為に微力を尽くす所存であります」
「是非とも頼む。ま、相手は既に敗残の兵だ。二万の兵を引き連れてきたからには将軍の手を煩わせるようなことはあるまいよ」
「なんと! 陛下はこのラインラントという辺境の地にそれだけの兵を投入なされたのですか!?」
ガヤエ指揮下の兵と合わせれば、かれこれ四万もの大兵である。狭隘な地形のラインラントでは、その大軍が有利に働くとは限らないが、今や一万を切った敵軍の手からラインラントという僻地の寸土を攻め取るには過ぎたる大軍であった。
「それだけ兄上は本気だということさ」
そう言って笑い、再びガヤエの肩を軽く叩くと、ガヤエに先導する暇も与えずに引き連れてきた大勢の取り巻きに囲まれながら本営へと歩を進めた。
ブルグントにそんな動きがあった頃、ほぼ時を同じくしてフランシア側にも新たに動きが見られた。
フランシアのラインラント駐留軍はブルグント軍と一定の距離を取れたことで一安心したのか、防衛するために陣割を行っていたにも関わらず、兵士たちは大木の根元やクッション代わりになるような草むら、あるいは水場の側など少しでも居心地の良い場所へと思い思いに場所を移していた。いわば陣形を崩していたのだ。
だがもはや士官も下士官もそれを咎める様子すら見当たらないところにラインラント駐留軍が末期的な症状に陥っていることを覗わせる。
そんな彼らの中に異分子の群れが闖入した。
「お、おい。あれはどこの部隊だ・・・?」
兵士たちの目線の先には、度重なる敗戦で見るからにくたびれ果てた己の姿と違って、戦塵に汚れていない、見るも鮮やかな軍装に身を包んだ一団がいた。
その一糸乱れぬ行軍風景に、兵士たちは束の間忘れていた兵士としての誇りを取り戻したのか、情けないばかりの己が有様に赤面して、慌てて武器を手に立ち上がって取り繕う始末である。
士官や下士官も突然、降ってわいたように現れた、その新手の部隊を物珍しげに眺めた。
その兵士たちはラインラント駐留軍の苦戦を聞いてナヴァール辺境伯が送って来た援兵である。
ナヴァール辺境伯には国境地帯の守備、まつろわぬ化外の民の討伐などを行う為に幅広い軍事的な権限が与えられていたから、領外まで多少は兵を動かすことに問題は無かった。
だが厳密にいえばラインラントはナヴァールの外にあるだけでなく、フランシアとブルグントが領有権を主張する微妙な土地である。
いくら辺境伯と言えども、王の許可なくそこまで行う権限はあるかと厳密に考えると微妙な問題だった。
だがそんな事情は前線の兵士たちには関係ない。今は一兵であっても味方が欲しいところである。歓呼の声がこだました。
ヴィクトールにしても久々に聞く嬉しい知らせだった。
その総数は五百であり、戦力として数えるには疑問がある数だが、敗北に打ちひしがれていた兵士たちの心を奮い立たせるだけの効果は望めるだろう。脱走兵も減るに違いない。
しかもそれを契機に一転して、それまでの不ツキが嘘のように次々と事態が好転することとなる。もちろん、そのことを当の本人であるヴィクトールはまだ気づいてはいなかったが。
翌日にも新手の援兵が到着した。今度はてんでばらばらの一団がラインラント駐留軍の下に次々と飛び込んできた。
数は五、六人のグループが大半で、中には二十人といった大集団もあったが、場合によっては一人二人といった少人数なこともあった。武器を手にするものもあれば、まるで遠足にでも行くかのような軽装でぶらりと現れる。
敵でないことは確かだったが、さりとて味方の兵というふうにも見えなかった。ただ、概して同じ年の者よりも体が一回りは大きいものが多いといった印象である。
服装と体格から正体は明らかである。おそらくはテレ・ホートに住む者たちであろう。
今度は先程のナヴァールの兵に対する歓迎ムードとは一変して、兵士たちも明らかに不審者を見る目で彼らを見つめる。
疑わしげな眼で彼らを見つめる兵士たちの中で、ひとり喜色を浮かべたのはロドリグであった。ロドリグは彼らの中の幾人かと簡単に挨拶を終えると、巨体を揺らしてヴィクトールの下に馳せ参じる。
「喜んでください! 中尉、来ましたよ!!」
「来たって・・・何が?」
こんな状態ではもう一度ブルグント軍が押し寄せれば今度こそ全滅は必至である。手持ちの兵だけでも、なんとか活路が開けないかと地図と睨めっこして考え込んでいたヴィクトールには外で起きていたこれらの変事に気付くことはなかったから、ロドリグの言葉にも不思議そうな表情で顔をあげただけだった。
「援軍です!!」
木を切り倒して天幕で覆って作った仮ごしらえの連隊本部からヴィクトールがロドリグに引っ張るように連れ出されて見たものは、地べたに座り込んで歓談する統率のとれていない人々の姿であった。
中には昼間から酒をかっくらう奴すらいる有様だ。
「これが・・・援軍か?」
ヴィクトールがそう思わず本音を口にしてしまったのも当然のことであろう。
「中尉が兵が欲しいといったんじゃないですか。だから俺が親戚縁者に声をかけて暇な連中をかき集めてきたんですよ。もっと喜んでください」
「確かに言ったが・・・」
つまりこの目の前にいる奇妙奇天烈な集団はヴィクトールのためにロドリグの呼びかけでテレ・ホート一帯から駆けつけてきた者たちということになる。
訓練もろくに受けてないような義兵であっても使いようによっては役に立つこともあろう。戦力になるかどうかは全て指揮する者の手腕にかかっている。だから彼らが正規兵でないということにヴィクトールが気落ちしたというわけでは無い。
だがその中にはあまりに年老いた老人、あるいは年端もいかぬ少年までもが混じっていた。それではさすがに戦力として考えるのはどうであろうか。士官学校を出てもいない半端な士官であるヴィクトールですら開いた口がふさがらないといった状況だった。
「使い物になるのか?」
ヴィクトールの不審の視線をロドリグは胸を張って、その分厚い胸郭で跳ね返した。
「テレ・ホートに生きる者をなめないでくれ」
確かにテレ・ホートの男たちは不撓不屈で知られ、その勇敢さは他国にまで知れ渡っているが、だからと言ってそこに生きる者全てが一騎当千というわけではあるまい。
老人や子供では戦場で足手まといになるのが落ちである。それに彼らをどう扱うか、ヴィクトールの一存では計りかねた。
「・・・とりあえず他の連隊長の方々に諮ってみるか」
もっぱら、何ら新手を打たない上層部への不満と現状への不平を言うだけという不毛極まりない会合と化している連隊長会議を急遽開いて、ヴィクトールはこの事態にどう対処するかを他の連隊長たちと相談した。
だが他の連隊長たちからははかばかしい返事が返ってこない。
「ナヴァール伯がよこした援兵のような玄人はともかくも、単なる素人が戦場に出ても役に立つわけがない。無用の長物だ」
「とはいえ地元民の協力なくしては軍隊は成り立たぬ。不快に思わぬように適当に言いくるめて帰ってもらうのが上策だろう」
「そもそも君のところの下士官が勝手に人手を集めたというじゃないか。中尉が責任を持って任に当たるべきだろう」
などと、もっともらしい理屈を並べ立ててはヴィクトールに全てを一任し全責任を負わせたのである。
もっともその理屈は分からないでもないから、階級に大きな隔たりがあり、軍人としてのキャリアも彼らとは大きく違うヴィクトールとしては、その意見をしぶしぶながらも受け入れざるを得なかった。
一番の新人連隊長、下っ端は辛いところである。
「頼りなくても戦力は戦力・・・か」
どうせ戦力として計算できない存在ならば駄目で元々と教練を施してみるか、とふと考え付いた。
だが何よりも事態が好転したとヴィクトールに、いや、全てのフランシアの将兵に感じさせたのは、周辺の諸部隊からラインラント駐留軍に物資が届けられたことであった。
ようやく軍令部も重い腰を上げて動き出したということらしい。
残り少なくなった弾薬を補充できたこともさることながら、これで残りの分量と睨めっこしながら計算して細々と食事する必要が無くなったというわけだ。
いつの時代も食事は兵士たちの士気に直結するだけに、何よりも士官が頭を悩ませる一番の要因なのである。
夕食を一食、パンとスープの定量に戻しただけだというのに兵士たちの雰囲気はそれだけでがらりと明るくなった。
しかも届いたのは当面の兵糧と銃弾だけでは無い。
アルマンが規格の統一を考え、ラウラからソフィー経由で軍令部に持ち込まれた野戦大砲の試作第一陣が持ち込まれたのだ。職人を徹夜させ急造させたらしい。
兵は動かせなくても補給物資という形ならなんとかソフィーの力で(というよりはその父であるサウザンブリア公の力で)、しぶる大蔵官僚を動かすことができたのだ。
兵士ならば支度金以外に、飯も食えば給金も必要で、恒久的な支出となってしまうが、物資ならば製造時だけの一時的な支出で済むからだ。
新造されたばかりの金属の光沢まばゆく光る大砲をヴィクトールは愛おしそうに撫でて呟いた。
「これで、勝てる」
それはあくまで目の前にいる部下たちへのリップサービスに過ぎなかった。こちらは敗残兵と義勇軍の寄せ集めの軍隊である。士官も下士官も足りない。本気で勝てると思ったわけでは決してなかった。
だが勝てないまでも勝負にはなる。ラインラント駐留軍は再び敵軍と同じ舞台に立つことくらいはできるだろう。ヴィクトールは僅かに前途に光明を見た思いだった。




