第七十九話 脱走兵
翌日の連隊長会議で早速その議題が取り上げられた。
撤退はピエール大尉の発案だったが、いくらヴィクトールの保護者面をして出席しているからといっても連隊長会議でピエールが発言するのは色々と不都合がある。
発言権のあるヴィクトールであっても、それは同じだろう。圧倒的に貫目が足らない。そこでノルベール少佐に白羽の矢が立つこととなった。
他の連隊長たちもノルベールの言葉に、それを初めて耳にした時のヴィクトールやノルベールのように、否定的な感情を抱いたことをありありと顔に表した。
だが彼らもその考えに理があることは十分に理解していた。ただ部下や同僚の目がある手前、弱腰であると取られないためにも渋面を作らねばならなかったという側面があるだけなのだ。
今の彼らは安全圏に辿り着いたことで安堵して、気力が抜けたままにそれぞれの部隊が思い思いの場所に宿営したに過ぎない。各部隊に陣営地を割り振って、万全の防衛体制を敷いたわけではなかった。
依然として背後に存在するであろうブルグント軍に接近されて、このまま襲われては、敗北は必至である。
ブルグント軍に再戦を挑む気概があるにしても、この場にいつまでも留まっているというわけにもいかない。
先にピエールが述べたように食料や弾薬の不足、兵士の士気低下といった、言い訳に便利な理屈をいくらでも並べられる状況下にあった。
というわけでノルベールのその提案は一旦は各連隊長たちから非難の言葉をぶつけられはしたが、結局のところ受け入れられた。
「敵を目の前にして退却するのは気に入らないが、確かにここで迎え撃つのは態勢が悪い。私はノルベール少佐の提案に賛成する」
「さよう。まずは後方へ下がって補給を受け、兵たちの心を落ち着かせることが肝要だ」
「軍令部と連絡を取るためにも、そのほうが良い」
彼らは口々に賛同の言を述べると、それまでの小田原評定はなんだったのかと思うほど手短に出立の順番を決め、足早に自らの部隊へと立ち去った。
やはりそれだけ皆の心に焦りがあったのであろう。そしてそれは単なる杞憂では無い。
現に一日無駄にしたことで、この時まさにブルグント軍はフランシア軍の駐屯地まであと一歩のところまで最接近していた。実に危ないところだったのである。
先行部隊からの敵部隊が再び撤退を開始したとの報告を受け、絶好の機会を逃したことにガヤエは大いに落胆した。
「逃したか」
勝利まであとほんの一歩であった。逃げるラインラント駐留軍を再び戦闘に引っ張り込んで完全に撃破し、無力化すれば、ブルグントと同じく財政ぎりぎりのところで戦争を続けているフランシアには経戦能力を失って、白旗をあげるしか術がないであろう。
だがもうここまでくれば何があろうと勝利は揺るがない、と気を取り直した。
フランシア軍が放棄した土地を確保して国境線を一気に移動させる。敵をラインラントから叩きだせなくても、戦線を前のように膠着させれば実質的にラインラント一帯を手に入れたも同然になる。
五十年戦争ほどの大規模な国家間戦争ではなく、ラインラントという狭い地域での局地戦であるが、この戦いの行く末がパンノニアの覇権国家を決めることになるはずである。ガヤエの名は歴史に残るであろう。
「どうなさいます? 兵を急がせますか? 強行軍を行えば敵の足を掴むことは可能かと思われますが」
「・・・・・・いや。あえて無理をする必要はない。退却が敵の罠である可能性もないわけではないし、逃げきれないと分かれば敵も反転して交戦しようとするだろう。その時、兵が疲れていては、せっかくの手中に収めかけた勝利を手放すことになりかねない。」
ガヤエは強行軍を行わせずに、通常の行軍速度で後退するフランシア軍を追走させることにした。
だが故意に追跡の手を緩めることも無かった。敵に心理的に圧迫をかけることは無駄ではないからだ。
というわけで両軍ともに表面上は大きな動きが無かったのだが、にも拘らずフランシア軍内部ではちょっとした変事が起きていた。
二度続けての敗北だけでなく、背後から近づく敵の軍靴の音と、それに対して戦うことなく逃げるということが、兵士たちの心に良い影響を与えるかどうかは考えるまでもない。
完全なる敗北に無力感に打ちのめされ萎れていた兵士たちの心も、やがて現状に対して何ら有効的な対策を打とうとしない連隊長たち軍団司令部への不満を抱くようになった。
兵士たちは士官の目の届かないところで一塊に固まっては、心中にある不満を互いにぶつけあった。
「俺たちはどこまで逃げればいいんだ?」
「あの臆病者どもが安心と思える場所までだろう」
「メグレー将軍がいなくなっただけでこの様か。栄光あるラインラント駐留軍が情けない!」
襲い掛かる空腹と疲労とが更に彼らの心の中に不満を広げていった。
結果として、弱気の虫に囚われたか、あるいは連隊長たちの無策に憤ったかの違いはあるが、後退する中で兵が次々と逃走して、ラインラント駐留軍は実数で一万を切ることとなる。
しかも消えたのは兵だけではない。なんと一部の士官や下士官までもが行方不明となっていた。
その中にはグランボルカ中佐やマング少佐のように激戦の中でおそらく死亡したと思われる者もいないではなかったが、二度目の敗走後の、安全になった後の点呼後にいなくなった、明らかに逃げ出したと思われる者もいたのである。
もちろん連隊長クラスをはじめとした高級士官の脱走者は皆無だったが、中隊長以下ともなれば話は別だった。結構な数の士官が行方不明となっていたのである。
問題なのは特に貴族出の若い士官の脱走が多いことだった。平民の叩き上げの下士官や士官は名誉ある地位についたという義務感や責任感からか脱走するものは少なかったのに、命大事にとばかりに一部の若い貴族は責任感を放り棄てて、姿をくらます者が後を絶たなかった。
もっとも脱走は重罪で、士官ならば助かったとしても後々問題になる。なんらかの縁故のある貴族ならともかく、平民ならば銃殺を免れないから逃げ出せないという、よんどころない事情もあるのかもしれない。
援兵が来ないことや補給が無いことよりも、このことこそが平民出の一般兵たちの不満を煽っていた。
俺たちには逃げるなと命令しておきながら、自分たちは部下を見捨てて安全な場所に逃げ出す。なにが高貴なる義務だ、というわけだ。
というわけで夜になるたびに部隊を離れて森の闇の中へ消える兵士が続出した。士官や下士官たちは睡眠時間を削って夜間、木の根を枕にして眠る兵士たちの間を見回らねばならなかった。
連隊長ともなればそんな雑事からは解放されそうなものなのだが、なにぶんヴィクトールは新米士官であるし、第三十四戦列歩兵連隊は先の戦闘で士官と下士官を失い、致命的な人材不足に陥っている。
夜だからと言って他の連隊長たちのように枕を高くして眠るわけにもいかずに、毎晩二度ばかり起きて、眠い目をこすりながら巡回していた。
敵前逃亡は重罪である。逃げるようならば即射殺だ。もちろんまず銃口を向けて脅して、部隊に戻るようにしむけるという一連の儀式はあるのであるが。
だが正直言えばヴィクトールはそうやって兵士たちを締め上げる効果に懐疑的だった。
確かに軍律を保つためには兵士たちの脱走に厳しく接しなければならないだろう。それは十分に分かっている。
だが今は危急の秋だ。何よりも問題となるのはヴィクトールという経験の浅い若い士官が指揮を執るということである。
実績と呼べるものを辛うじて見せたものの、配属されて一年未満のヴィクトールは極一部の兵としか親しんでいない。
兵士たちが士官に親しみなついていないのに懲罰ばかり行なうと、彼らは心服しない。心中に恨みを抱かせると兵はまともに動かない。
ところが逆に兵士たちがもう親しみなついているのに懲罰を行なわないでいると、兵士たちは士官を舐めてかかり、命令をまともに聞こうとせず、彼らを満足に働かせることもまたできない。だから軍隊では恩徳で兵の心を掌握し、刑罰で統制するのが常套手段なのだ。
親しんでいないのに兵たちに厳しく接するだけでは、反感を買うだけではないだろうか。
それに戦う気力を無くした兵を率いても普通に考えれば戦果は望めない。
むしろその無気力さがまだ戦闘意欲のある兵士たちに伝播して、部隊が呆気なく崩壊する切っ掛けになる危険性が高い。
やる気のない兵には出て行って、少数であっても心底自分に命を預けてくれる兵士たちを率いた方が戦場を容易く進退しやすい。
もちろん、そういったやる気のない兵であってもあえて死地に追いやることで、死力を振り絞らせる手法があることは知っているが、それには将軍に死地に追いやられても動じない並外れた胆知と、自らをも追いやった窮地を逆転できる神がかり的な神知が必要である。
さすがに自分をそこまで名将であると自惚れるほどヴィクトールは高慢では無かった。
であるからヴィクトールとしては積極的に脱走兵を見つけるつもりは無かったのだが、その夜、運悪く巡回しているヴィクトールの目の前に荷物を抱えて、今まさに脱走しようとしている兵士の姿が目に入った。
もしその場にいたのがヴィクトールだけならば見て見ぬふりをしてやることも選択肢としては存在していたのだが、「ヴィ・・・ヴィクトール中尉!!! こ、これは・・・ち、違う!!」と当の兵士が大声で騒ぎ立てたものだからヴィクトールとしても何もしないわけにはいかない。
背後で人が動く気配も感じる。騒ぎに他の兵士たちが起きてきたようだった。
「何だ何だ?」
「脱走が見つかったのか?」
こうなればヴィクトールは何としても兵士を捕らえて衆目の前で罰しなければならない。なにしろヴィクトールは今や単なる中隊付き中尉では無く、連隊長代理なのだ。
「何処へ行く気だ? 逃げると言うならば許さんぞ。隊列に戻れ!」
ヴィクトールが問い詰める間もじりじりとその兵士は後退って、逃げ出す気配を窺う。
「戻ってどうなる! メグレー将軍もおらず、イアサントの姐御が死んで部隊を率いるのはよりによってお前みたいなケツの青いガキだ!! 確かにこの前はお前の取った手法がたまたま上手くいってなんとか撤退できた。だがあれは窮鼠猫を噛むと言った、破れかぶれの一手に過ぎん!
バカバカしい!! そんな手法が毎回毎回通用すると思うか!? 俺はお前なんかに付き合って死ぬのはまっぴら御免だ!!」
「もう一度言う。自分の隊に戻れ」
ヴィクトールは兵士の繰り言に構わず、目を据えて小銃を構え、威圧した。
「ひいっ!!!!!」
兵士はヴィクトールの構えている小銃の火蓋が開いているのを見て、脅しでは無く本気で撃つ気だと気付いて、踵を返して背を向け脱兎のごとく逃げ出した。
「逃げやがった!!」
兵士がヴィクトールに注意を向けさせるためか、あるいは逃げる兵士を羨ましく思ったのか分からないような曖昧な言葉を叫んだ。
ヴィクトールは騒ぐ兵士たちに注意を向けることなく、呼吸を落ち着かせ、しっかりと狙いを定めると引き金を引いた。
銃口から放たれた銃弾は紛うことなく兵士の胴体へと吸い込まれ、兵士は大きな叫び声をあげるともんどりうって地面に倒れ込んだ。
身柄を確保しようとヴィクトールたちが近づくと、既に兵士は事切れた後だった。
ヴィクトールの連隊長代理としての最初の大きな仕事は逃亡する兵を打ち殺したことということになった。
「馬鹿な奴だ。逃げなければ命までは失わなかったものを」
「仕方ありませんぜ。これだけの兵が見てます。見せしめのためにも殺さないと脱走兵が増えてしまう」
その手で味方を銃殺するなどといった汚れ仕事は、士官学校出立ての貴族の若者には心理的な影響が大きいだろうとロドリグがヴィクトールを慰める。だがヴィクトールは落ち込んでなどいなかった。不思議と落ち着いた心境だった。
「分かってる」
だが味方を撃つということを迷い無く行えたことに誰よりもヴィクトール自身が心中、大いに驚いていた。
敵兵ですら撃つことを躊躇していたというのにだ。どうやら以前のような半人前の甘ちゃんでは無くなったようだ、とヴィクトールは喜ばしいような、悲しむべきような複雑な感情を抱いた。
一方、これまで順調に戦役を進めていたブルグント軍の方に変化が現れた。
数日間に渡って付かず離れずにフランシア軍を追いかけて、ヴィクトールたちにプレッシャーをかけていたブルグント軍だったが、どういうことか突如として追撃をやめた。
止めただけでなく、兵をまとめて後方に退いた。実に不可思議なことである。
だがそれをもってフランシア軍に有利になるような変事がブルグント軍内に起きたとは誰も考えなかった。
戦わずしてフランシア軍は後退しており、その分だけブルグント軍は領土を拡充していた。むしろ、このような有利な条件を捨てて、いったいどのような企みがあるのかと皆一様に疑念を抱いたのは、フランシア軍にすっかり負け犬根性がしみついてしまっていたのかもしれない。
だからこれを好機として反撃に転じようとは誰も言い出さず、これを機会に敵軍を一気に引き離して距離を置こうなどという考えを連隊長たちは抱いた。実に情けない話である。
だが結果としてはそれが正解だった。
もしこれを反撃の機会ととらえて反転攻勢を仕掛けたならば、フランシア軍は壊滅的な損害を受けて、ラインラント戦役はブルグントの圧倒的な勝利で終わっていたことだろう。
何故ならばガヤエが足を止めたのは、補給に難をきたしたとか、弾薬が残り少なくなったとか、軍内に疫病が蔓延したとかの純軍事的な理由ではなく、多分に政治的な理由が大きかったからである。
軍隊として何の問題もなかったのだから、総司令官を欠き、兵力で劣り、物資が欠乏しているフランシア軍側には勝利する要素が無かったのである。




