第七十四話 イアサントの死
「相変わらず無茶な隊長だぜ!!」
ルイ曹長は舌打ちし、後方の兵からパイクを奪って小脇に抱えるとヴィクトールの後を慌てて追いかけた。
高密度の金属がぶつかりあう重低音と、相手を威嚇し己を奮い立たせる怒号とが飛び交う中にヴィクトールは駆け込む。
イアサントに迫る命の危険を察して、ヴィクトールだけでなく他の中隊からも援兵が出たことで、一旦蹂躙された連隊中央部分は破滅の危機を脱した。
だが敵を押し返すことができない。勢いを止めることもできない。兵たちに以前のような気力が見られないのだ。
それは度重なる戦いで定員不足になっていたイアサント隊の戦闘員が少なく、局地的に見れば三倍以上の敵兵と戦っているという理由もあったが、何よりも先程の突撃で本営が打ち破られた時にイアサントが負傷したということが大きな要因だった。
しかも状況は悪い。イアサントは傷を負っただけでなく、地面に伏せたままで、立ち上がろうともしない。
そのイアサントを敵の魔手から救おうと、兵が一斉に殺到し周辺の敵兵を追い散らした。
その場には士官を中心とした十人程の兵が倒れていた。誰もが傷だらけで血まみれであった。それだけここで行われた戦闘が苛烈であったのだろう。
一人の男が俯せていたイアサントの身体をひっくり返し、脈を測ろうと首に手を近づけた瞬間、イアサントは口から吐血し、大きく二度息を吐くと弱弱しく手を動かした。
「まだ息がある!」
イアサントは事態を把握しようとしたのか懸命に目を左右に動かし、次いで命令を発しようと唇を動かす様子が見られたが、口腔内から声が漏れることは終ぞ無かった。
大きな傷口はぱっと見、見つけられなかったから他人の血であるかもしれなかったが、とにかくイアサントの上着もズボンも血だらけである。
もしこれがイアサントの血であるならば、早急に止血を行わなければイアサントの命はない。
「はやく後方へ運べ!! 援護しろ!!」
誰かのその叫びに応えて兵が発砲すると、それをきっかけとして双方の間で激しい銃撃戦が始まる。
狭い戦場、両軍入り乱れての白兵戦を行っている中での銃撃戦だ。狙いも適当だし命中精度の悪い銃を使っていることもあって、弾丸は敵味方区別なく当たり、戦場は一層混迷を深める。
力が入らないのか自力で立ち上がる素振りを見せないイアサントの体を両側から持ち上げ立たせようとするが、足場が不安定で上手くいかない。
ヴィクトールらは力任せに引き摺って、まずは安全な場所に運び出そうとする。
「ルイ、前に戦列を作って壁になれ!!」
ヴィクトールはルイについて来たテレ・ホート出身の体の大きな兵を並べて盾にして、まずはこの乱戦からイアサントの身体を隔離した。
彼らは銃弾が顔のすぐそばをかすっても動じることなく盾となって立ち続け、しかも銃撃して敵兵の再度の接近を防いでいる間に、ヴィクトールらは大きな欅の木の影にイアサントの体を引っ張り入れた。
倒れた場所から欅の後ろまでべっとりとした血で赤い一本の道が作られる。イアサントは出血していた。
「傷はどこだ?」
止血しなければならない。それも早急に。ヴィクトールらが傷を探すためにイアサントの身体を横に倒すと、イアサントは痛みで顔を歪ませる。
傷口は直ぐに見つかった。背中の肩口に大きく傷口が開いており、そこから大量の血が噴出していたのだ。
射入口はあるが射出口が無い。つまり銃弾が体内にとどまっているということだ。
普通ならばまず銃弾を取り出して傷口を消毒することを優先するが、今回は他に大きな問題がある。
「動脈をやられた!」
脈動と共に傷口から激しく噴出する、この独特の出血の仕方は末端の血管ではなく大動脈が傷ついたことを現している。イアサントを囲んだ将兵たちは皆一同に顔を青ざめさせる。
一刻も早く出血を止めなければ命を失う。
一旦は基本通りに布地を押し当てて固定し止血を試みるが、血はそれくらいでは治まらずに奔流となって荒れ狂った。
「軍医は!?」
連隊には三人の連隊付き軍医が本営にいるものなのだが、この混戦の中、はぐれたのか、敵に倒されたのか、あるいは敵と戦っているのか、付近には軍医の姿はない。
軍医の姿を探しに三人の兵が三方へと散っていった。
とはいえいつ来るかわからない医師を待っていては手遅れになりかねない。
「強く抑えて傷口をしばれ!」
手の壊死をも覚悟して圧迫止血法を試みるが、出血した部位が悪いのか、幾人もの応急手当てを行ってきたベテラン兵ですらうまくいかなかった。血は絶え間なく地面へと滴り落ちる。
その間、苦痛に耐えて口を結んで必死で声を堪えていたイアサントだったが、その顔色はみるみるうちに悪くなっていった。
「どこだ?」
取りあえず形だけの止血が終わると、イアサントがかすれた声を口から出した。
「・・・・・・グランポルカはどこだ?」
イアサントは彼女の信任篤い連隊副官の居場所を尋ねた。
「姿が見えません。行方不明です」
彼は副官として常にイアサントの側に控えていたのだが、連隊の本営を敵が抉った混乱時に、安全を求めてどこかに退いたか、あるいは負傷して先程のイアサントと同じように行動不能に陥って、今も地面に伏せているものと思われた。
「そうか・・・ではマング大尉を呼べ。マングはどこだ?」
イアサントは自分を取り囲む顔が連隊司令部のいつもの面子でないことを確認すると、自分の怪我と相まって自分の身に何が起きたのかを把握し、一人の中隊長の名前を呼んだ。
マング少佐は第三十四戦列歩兵連隊の第一中隊の隊長、いわゆる首席中隊長である。彼はイアサントら連隊首脳部を守る直援する第一中隊の指揮官と言うだけでなく、第三十四歩兵連隊で兵から最も信頼と尊敬を集めていた歴戦の中隊長であった。
「マング少佐も姿が見えません」
「弱ったな・・・後のことを誰かに託さなきゃいけないんだけどな」
「なにを弱気な!!」
「中隊長は何人残っている?」
本来ならば一個連隊は二個乃至三個大隊で構成され、一個大隊は六個中隊で構成される。
つまり一つの連隊には少佐である大隊長が二、三人存在して連隊長を補佐するものなのだが、ラインラント駐留軍は特殊な成り立ちでできた戦時編成軍だったために、大隊長を置かずに直接連隊長が各中隊長を指揮していた。
つまり連隊副官であるグランボルカ中佐がいないとなれば、次の階層にあるのは九人いる中隊長、三人の中隊長代理ということになる。
その中で実力と実績共に抜きんでていたのが首席中隊長であるマングだったのだが、彼の行方が分からないとなると、先任であるかないか、あるいは正式な中隊長であるかないかなど多少の差はあるものの、他の中隊長はどんぐりの背比べで大差が無いようにイアサントには思えた。
「確かなことは言えませんが、マング少佐以外の十一人は健在かと思われます」
十八個中隊で構成される第三十四戦列歩兵連隊だが中隊長はこれまで幾度も述べたように士官不足の折から半人前のヴィクトールを入れても僅か十二人しか存在しない。
「不正確で不明瞭な報告だな。当て推量では無く正確に分かっていることだけ述べろ」
「敵の攻勢が激しさを増して各中隊とは連絡が取れません」
ということは最悪、目の前にいるヴィクトール以外の全ての中隊長が戦死しているということも考えられるわけかとイアサントは悲観する。
もちろんそんなことはありえないことである。だが考えられる限り最悪の状況を考えて手を打っておかなければならないとイアサントは油断すると気が遠くなりそうな頭を振り絞って考え続けた。
「至急、命令系統を立て直して中隊同士を繋げ直し、撤退を再開しないといけない。この場に留まるのは自殺行為だ」
「はい」
「ヴィクトール・・・お前が当面、連隊の指揮を取れ」
指先をヴィクトールに向けて、さも当然のことのようにイアサントが命令するが、言われたヴィクトールと周囲の兵士たちは驚愕する。
それもそうであろう。任官一年にも満たない中隊長が連隊を指揮するなど無茶振りにもほどがある。
中隊の指揮をなんとか探り探りやっているに過ぎないヴィクトールにしてみれば、一足飛びに連隊の指揮を行うことができるかどうか不安だったし、指揮される方の兵士たちにしてみればヴィクトールのような若造に己が命をを委ねなければいけないのだ。不安以外の何物でもなかっただろう。
「・・・!!!」
「・・・な!?」
「私は正式な士官ではありませんし所詮は中隊長代理、中尉です。連隊には大尉に任じられた中隊長が多くいるじゃないですか。彼らに任せるべきでは!?」
「現状、誰が生き残っているのか分からないと言ったのはお前たちだろう? ここにいる士官の中で最上位はどうやらお前らしい。お前がやらなくて誰がやるというのだ? それにな、今は一刻を争う事態だ。誰が生きているか調べている暇もないし、指揮を引き継がせようにもここに来させる余裕も無い」
「で、ではピエール大尉ならばどうでしょうか? 大尉の連隊は健在です。他の中隊と違って乱れが見られません。おそらく大尉が健在だからでしょう。ここから距離も近い。あの方ならば何の問題も無いはず」
ヴィクトールはちらりと右翼にて組織的に反撃を行っているピエールの中隊に視線を送ると、そう遁辞を構えた。
「ピエールには右翼を支えてもらわなくちゃならんだろう? 今、あそこからピエールを引き抜いたら誰が右翼を守るんだ? 右翼は崩壊し、我が連隊は敵に呑み込まれる」
「しかし私には経験がありません」
なおも遁辞を構えて逃げ腰のヴィクトールにイアサントは言い聞かせる。
「経験がないのは誰しも同じだ。連隊一の古株のピエールであろうとも連隊長をしたことは一度も無い。経験という点では誰がやっても同じだ」
ヴィクトールは後々の世の人々が考えているような飽くなき上昇志向を持った権勢欲の塊のような人物でも、他者を押しのけて何が何でも己が志望を実現させようとするような自己顕示欲の持ち主でもなかった。
どんな時でもただ自分らしく、誇り高く気高く生きたいと考えているにすぎなかった。
それが証拠に、もしもヴィクトールが計算高く我欲が強い人物であったならば、否も応も無く二言目には、この役目を引き受けていたであろう。
今は既に敗走が決定しており、連隊長が指揮不能に陥る緊急事態なのである。指揮を執った結果、例え連隊が潰滅的な被害を被ろうともそれで責められることは無い。もし万が一、少しでも損害を軽くできれば、それだけで褒章ものである。
すなわち負けの要素が無い、極めて分の良い賭けなのである。少しでも上昇志向があるのならば受けない手は無い。
だがそれを断った。
イアサントはヴィクトールが寡欲であり誠実であるから、連隊長という千人近い兵士の命を預かる重責と自分の出世の機会とを慎重に秤に掛けて判断したと十分に理解していた。
しかし周りにいる兵はそうは捉えず、ヴィクトールに知恵と勇気が足らないからだと考えるであろう。
「ぐだぐだ言っている時間は無いぞ。国王陛下から預かった大事な兵士を無駄死にさせるつもりか?」
だからイアサントは半ば命令口調でそう言って、ヴィクトールの口を塞いだ。
これからヴィクトールが指揮するにあたって少しでも悪条件を減らしてやろうと親切心で思ったからだ。
もちろんそれだけではない。なにより時間が無いのだ。こうして会話している間も敵の攻勢によって戦況は悪化の一途を辿っていたし、イアサントの声もますます弱弱しく途切れ途切れになっていた。
「お前らも文句はないな」
イアサントは眼光で威圧しながら、少尉や曹長、伍長といった第一中隊の残された士官や下士官に念を押した。自分がいなくなっても、異見を挟んでヴィクトールに不服従の態度を取らないように釘を刺したのだ。
「はい」
皆から承諾を取り付けると、イアサントはにこりと微笑んだ。
「よかった」
ヴィクトールに後事を託し、周りの者にそれを受け入れさせた。自分のすべきことを全て終えたとイアサントは晴れやかに笑った。
「よかった。これで心置きなく死ねる」
「姐御!」
「姐さん!!」
「ヴィクトール、抱いておくれ。寒いんだ」
神に救いを求める時のように両手を伸ばしたイアサントをヴィクトールは抱え、軽く上半身を起こした。
抱き上げたイアサントは思っていたよりも軽く、小柄だった。
「お前を弟のように思っていた」
それは本心か、あるいは本心を隠した照れ隠しか。
「いい男の腕の中で死ねるんだ。あたいは幸せ者さ。だけど多くの兵たちは違う。死体となって転がっても泣いて抱きしめてくれる美人はここにはいないんだ。ヴィクトール、彼らを導いてやってくれよ。ここへ来てからとんでもない難局をいとも容易く切り抜けた。お前は特別なんだ。その力がある」
「私にそんな力があるかは分かりませんが、できる限りのことはやるつもりです」
ヴィクトールの言葉を聞き満足げな笑みを浮かべるとイアサントは、荒い呼気と共に途切れ途切れに呟く。喉だけの、肺から声が出ていないか細い声だった。
「必ず・・・勝利し、彼らを・・・一兵でも多く・・・か、家族のところへ・・・・・・帰してやっておくれ」
「必ず」
「・・・頼んだよ」
それがイアサントの最期の言葉となった。
荒く細かく激しく呼吸していたのが、急に大きくゆっくりした呼吸になったかと思うと、しばらくしてイアサントは唸るような声を出して動かなくなった。
周囲を取り囲んだ将士たちは皆一様に沈痛な面持ちになる。中には涙を浮かべている者さえあった。
一帯が重苦しい雰囲気に包まれる中、ヴィクトールだけは一人、冷静である。
「イアサント連隊長は死んだ。だが我々に悲しみに浸っている余裕は無い。敵は足を止めた我々を殲滅しにかかるぞ。急いで味方を追いかけて一手になる必要がある」
イアサントが倒れたことによって生じた指揮の空白期間にますます劣勢に追いやられた第三十四戦列歩兵連隊を急いで立て直さなければならないということをヴィクトールは十分認識していた。
しかし問題は山積みである。
ただでさえ全軍の後尾に位置していたのに、第三十四戦列歩兵連隊はイアサントの死に纏わるゴタゴタで足を止め、戦場に大きく取り残されることとなった。敵に包囲されつつさえある。
しかも指揮を行うのは熟練の指揮官であるイアサントではなく、素人同然のヴィクトールだ。上手く指揮できるか分からないし、よしんば正しく指揮できたとしても若輩者のヴィクトールの下に立つのを良しとしない中隊長が出るかもしれない。一つの中隊でも違う動きをすれば敵にそこを付け込まれて連隊は全滅しかねない。
不安材料は幾つもあった。だがそのほとんどは時間を費やして考えても容易に結論が出る問題とは思えなかった。
「ここまで来たら腹をくくるしかない」
ヴィクトールは頭の中から迷いの素を一掃する。
まずは正面の敵を追い散らして混戦の中から第一中隊を引き剥がし、司令部が健在であると連隊全体に知らしめなければならないとヴィクトールは考えた。




