第七十話 クルムの戦い(Ⅱ)
メグレーの命令でブルグント軍の左斜行に合わせるように後退を開始した右翼部隊が、敵の射程内に入る前になんとか戦列を整え直そうと四苦八苦している間に、いち早く現場に到着したイアサントは戦いに有利な丘の上を占拠し、兵をさっさと並べてブルグント軍を迎え撃った。
味方兵は敵兵を眼前にしての後退に浮足立っていて足並みは乱れている。イアサント隊は連隊としての正規の数を大きく割り込んでいる。
しかもブルグント軍はフランシア軍と違って行軍後すぐに列を整えるまでも無く、一斉に射撃を開始することができた。しかもその射撃間隔は短く、そして狙いは正確である。錬度の差は明らかだった。
イアサント連隊がブルグント軍の猛攻を支えれたのは、丘の上という高所に位置し、ところどころにある沼沢地がブルグント兵の足を引っ張っていたからである。
イアサントは戦場を見渡すことができるという利点を生かし、少ない兵力を効率的に動かすことで敵の猛攻を支えつつ、味方部隊が布陣するまでの間、支援し続けた。
その丘をこの戦いにおける戦術拠点と看做したブルグント軍が攻撃を集中させたことで、その他のフランシア軍の各部隊が戦列を整えることができたのだ。
だがそれは単に五分の条件に戻ったに過ぎない。
丘を登ろうとする敵兵をあしらいながらも、イアサントは事態を好転させるべく、布陣を整えようとしている友軍の援護をも行った。
「ケクランの連隊が敵に押されて苦戦しているようだ。速やかに態勢を立て直さなければ敵の突破を許してしまう。ヴィクトール! 中隊を率いて丘の麓まで下って、敵兵の横腹に鉛玉を撃ち込んでくるんだ!!」
「了解です」
ヴィクトールは兵を率いて速やかに丘を駆け下って、優勢さに驕り昂り、備えが疎かになった敵戦列の側面へと一斉に射撃を行わせた。
思わぬ方向から攻撃を受けたことに驚いた敵兵の目がヴィクトール隊に向いたのを確認すると、イアサントは本営から第二戦列の兵を割いて援護に向かわせた。
「敵は横合いからの攻撃を嫌って、前面の敵よりもヴィクトール隊の排除を優先しようと試みるだろう。しかしあの数ではすぐに踏み潰されるのが落ちだ。小僧がここに戻るのを援護してやれ」
ケクラン隊への圧迫を一時緩め、部隊を立て直すための時間を稼ぐことが目的である。ヴィクトールの手腕や部隊人数を考えると、それ以上の戦果は望むのが酷だと、イアサントはヴィクトール隊にすぐさま撤収を命令する。
イアサントは丘という特殊な地形を存分に利用して、少ない人数ながらも奮戦し、ブルグント軍の猛攻を支えた。
しかし全体的に見ると旗色は依然としてブルグント側に分があった。
それほど双方の兵の錬度の差は大きかったのだ。フランシアの二倍の速さで弾込めと斉射を行いながら前進するブルグント兵の戦列を押し返すことは、もたつく手で装填するフランシア兵たちには無理な相談であった。
しかも不完全ながらも斜行戦術を行ったことで、戦場でフランシア側は実質、右翼だけしか戦っていないのに対して、ブルグント側はほぼ全軍が戦いに参戦している形になっている。
戦場にいる兵数ではフランシア側が上回っていても、実際に戦場で戦っている数はブルグントが優っていたのである。
フランシア軍は徐々に兵力を損耗し、押され始めていた。
「ここだ! ここが勝負どころだ!!!」
ガヤエはフランシア軍が押し込まれた結果としてL字の形になり、その右翼と中央とのあいだの屈折点に間隙を生じさせているのを見て、勝負どころと踏んだ。
その間隙にガヤエは第二戦列の兵と予備の兵力を全て叩きつけ、攻撃させた。その動きを前線で指揮を取る各将軍たちはガヤエの叱咤の声と感じ受け取って、敵中央に現れた間隙に向かってこぞって兵を振り向け、フランシア軍を完全に分断した。
同時にブルグントの騎兵隊がフランシア軍の最右翼を防備していた騎兵隊を突破して後方に回り込み、フランシア軍の兵士たちは一斉に浮足立った。
ブルグント軍はその勢いのまま、フランシア右翼が布陣した丘の一つを占拠することに成功する。ガヤエは後方に待機していた砲兵隊を前進させ、丘の上に大砲を据え付けた。
砲口が火を放つと、一撃でフランシアの戦列は穿たれ、陣形は歪に変形した。
砲弾が直撃した運の悪いフランシア兵は命を失って倒れ、身体の部位を失った者たちが苦痛でのたうち回っていた。
戦場の空気が一変した。それまで不利な態勢ながらも、まだなんとか粘性を持って防衛を行っていたフランシア軍は大砲の一斉射撃によって何もかも崩れ去った。
戦列もフランシア軍人としての誇りも、フランシア軍のどこにも存在しなかった。もはや士官の短銃もサーベルも兵たちを押しとどめることはできなかった。
大砲が鈍重な音を響かせるたびに、見る見るうちにフランシア兵から士気が無くなっていくのが誰の目にも分かった。
砲弾が曲線を描いて着弾する度にフランシア軍は無様に戦列を寸断され、その新たにできた裂け目にはブルグント軍が切込んだ。
フランシア軍は相互の連絡を絶たれ、みるみる軍隊としての形を失って一つ一つの部隊、一人一人の兵士へと解体されて行く。
それまで丘の上に陣取って優位に戦闘を継続していたイアサント隊も次々と砲弾を撃ち込まれに至って、それまでのような組織だった抗戦ができなくなった。
轟音が響き渡るたびに兵士たちは怯えて地に伏せて身を隠し、舞い上がる土煙に視界が塞がれ、近づく敵部隊に対して連携した攻撃が取れなくなる。
そうなれば純粋に数の勝負になる分だけイアサントたちに勝ち目は無かった。
「連隊長、このままでは支えきれません!」
「丘の上に陣取っているのが、仇となってしまいました。このままでは我々は敵の大砲のいい的です!」
副官は砲弾が飛んでくるたびに急いで両耳を手で塞いで鼓膜を守る。
「ケクラン隊もナヴォワジル隊も敵に押されて後退を開始しています! このままでは我々は敵中に孤立します! 周囲の部隊と足を合わせるべきかと。我々も後退を!!」
ヴィクトールは周囲の部隊が後退しつつあることに危機感を覚え、イアサントの注意をそちらに向けようとした。
ヴィクトールや副官たちに忠告されるまでも無く、イアサントも自軍が崩壊しつつあることは十分に認識していた。
両隣のケクラン隊とナヴォワジル隊だけでなく、フランシア軍はもはや全体が後ろのめりとなって押し込まれ、ずるずると後退を開始していた。
それでも全面的な潰走では無く、なんとか秩序を保って反撃しつつ後退しているのは、なんとか反撃の糸口が無いかと、どの連隊長たちも機会を伺っているからだ。
だが同時に誰もがそれが無駄なあがきであることも理解している。破局が訪れるのは時間の問題だ。
それでも彼らは足掻かねばならない。それが戦場の駒として生きる彼らの仕事である。
「と言ってもどうやって退却するか、だ」
常識的に考えれば、兵力の少ないイアサント隊が撤退するには他の部隊との協力が必要不可欠である。
だが伝令に兵を割くような兵力的余裕は無いし、丘の上に位置して全体の状況を把握しやすいとはいえ、目の前の敵に応戦することで手一杯のイアサントには、形勢を逆転させるような手を考え実行に移すような心理的余裕も無い。
そもそも幾か所も戦列を突破され幾部隊も後方に回り込まれたフランシア軍には連絡する術など、もはやどこにもない。
「あがけるだけあがいてみるしかないか」
他の部隊とまったく同じ行動であるが、それが現場指揮官であるイアサントが取るべき何よりもの良籌に思えた。
本来ならば例え分断させられていても、予備兵力を活用することで活路を開くことは可能である。それに長年苦楽を共にした将兵たちは命令が無くとも周囲の状況を見て阿吽の呼吸で連携することも可能だ。
もっとも軍がそういった行動を取るためには司令部が明確な一つの方針を示さなければならない。
だが陣形の崩れを敵が衝いて時間が経つのに、メグレー将軍は戦いを前線の指揮官に任せたままで、傷口の手当を一切行おうとする気配を見せなかった。
そのことが部隊相互の連携をままならないものにし、イアサントら前線の指揮官たちの胸に昏い影を落としていた。
さて、この危機的状況におかしなことにメグレーがなんら動きを見せなかったのは、気が動転して適切な対策を思い付かなかったからでも、的確な判断ができなかったからでもない。
メグレーは将軍に相応しいだけの実力もあったし、数々の戦を生き抜いてきた百戦錬磨の将軍だ。どんなに敗北の色が濃くなろうとも、慌てふためいたり戦を放り出すような無責任な真似をするはずが無かった。
ただメグレーには命じたくとも命じられないだけの理由があったのである。
「退却しましょう! 味方は全局面において劣勢を示しております。これ以上、傷口を広げないうちに、さぁ、早く!!」
敵の優勢を前にして、メグレーの幕僚たちは次の戦いに備えるためにも、この場の負けは負けとして認め、一刻も早い撤退を決意して、兵力の温存を図るよう口々にメグレーに進言した。
だがあっさりと兵を退いたメイジェーの時と違って、敗戦の色濃いこの状況でもメグレーは頑強に継戦を主張した。
「退却しろというのか!? 冗談では無い!! 放せ!! 城を落とされ、預かった多数の将兵を失ったのに、我が身一人おめおめと生き残っては陛下に顔向けができぬ!!」
敵将がメグレーを上回る手腕で戦場を支配し、今まさに勝利しようとしていることは事実である。だがメグレーは同じ相手に三度も続けて負けたことが恥ずかしいからそう言ったわけでは無い。
それは単に個人の屈辱である。一軍の兵の命を預かる指揮官として、個人の感情を優先するなど許されないことだ。メグレーはそこまで愚かでは無い。
メグレーが退却を頑なに拒否するのは、もっと大局を見据えているからである。
先に述べたように、ここで兵を退けばフランシア軍はモゼル・ル・デュック城を完全に失うことになる。
モゼル・ル・デュック城はフランシアのラインラントにおける防衛の要となっていただけに、フランシア軍は全ての戦略を一から再構築する必要に迫られる。場合によっては防衛線を大きくラインラントの端まで後退することも考えられた。ここでの敗北は一敗地に塗れるに等しい大敗北になる可能性があった。
であるから少しばかり敗北の兆しが見えるからと言って、まだ粘り強く戦えば逆転の目がある状況で、簡単に兵を退く決断をするわけにはいかなかったのだ。
「こんなところで死んではなりません! 将軍はフランシア軍に必要なお方です!」
「捲土重来を計りましょう!!」
だが幕僚たちは自らの命惜しさか、あるいは戦術上の常識に囚われているのか口にするのは兵力の温存ばかりだった。
「黙れ!!」
お前らの言っていること程度が俺には分かっていないとでも言うのかと、メグレーの怒りが臨界点に達し幕僚たちを怒鳴りつけたその瞬間に、一球の砲弾が彼らの会話のど真ん中へと飛び込んだ。
炸裂弾どころかぶどう弾も無い時代で、大砲も小型の四ポンド砲であったが、硬い地面をバウンドして吸い込まれるように司令部に滑り込んできたその砲弾は、進行線上の人物を貫通、粉砕、弾き飛ばし、多くの死傷者を出して、司令部を混沌の極地へと姿を変えさせた。
轟音が止み、砂塵が収まった後には倒れ込んだ多くの将兵と静寂とがその場に残される。
一人の兵士が金切り声を上げてマスケット銃を放り出して逃げ出すと、事態の深刻さを悟った兵たちは我も我もと持ち場を離れて逃げ出した。
そのような状況下でも臆さなかったフランシア兵の幾人かが駆け寄って、負傷者の救助に当たるが、多くは既に死亡しており、残りの者も命は助かっても大出血をしているなど、とても無事とは言いかねる惨状だった。
幸いメグレー将軍は砲弾の直撃を免れて命は助かったようだったが、砲弾に弾き飛ばされた人間に当たって下敷きになったらしく胸と腹を強打して骨を折り、苦しげに呻き声を上げるのが精一杯の状況で、とても指揮を行える状況ではなかった。
兵たちは命令する者もいないままに、兵としての本能だけで、息のある者たちを抱えて、蒼ざめた顔をしながら後退を開始した。
つまり、既にフランシア軍は脳を失った状態で戦っていたのである。
勝敗は決した。




