第五十五話 メイジェーの戦い(Ⅵ)
「後退ではなく撤退?」
ヴィクトールの言葉を聞いて、兵士たちは頭に沸いた疑問を当然のこととして口にする。
「少尉殿は何を言ってるんです? 撤退とはモゼル・ル・デュック城に向かうことでしょう? 後ろに下がるほかありませんぜ」
「そもそも後ろ以外は前も横も敵兵でいっぱいだ。逃げる場所なんてどこにもありはしません」
といっても、その背後も先に述べたように第三十四連隊の友軍との間に遮るように敵兵が列を為して群がっており、簡単に通行できるとは思えず、他と状況が大きく異なるとは言い難い様相だった。
それでも兵士たちにしてみれば撤退時に多少なりとも味方の援護が望めるのではないかと考えているようだった。少しでも味方の多くいるほうに逃げたいという本能的な要因が働いているのであろう。
だがヴィクトールの見るところ、もはやピエール大尉もイアサント連隊長も自らの防衛をするのに手一杯で、こちらが脱出の為に兵を動かしたとしても、援護してくれる余裕など少しも見当たらない。
もちろんメグレー将軍が味方の危機を救う為に戦場にとって戻すことなどありえないことだった。何故ならラインラント駐留軍が撤退時に蒙る被害を少なくするために敵の目の前にイアサントらを犠牲の子羊として冷酷に置いて見せたのであるから。
さて実はラインラント駐留軍が斜行戦術によって蒙った損害も、その後の砲撃によって蒙った被害も、軍を立ち直らせられないというほどのものでは無かった。
死者だけでなく負傷者を加えても、おそらく全軍の一割にも満たない数だったであろう。
だがその二つの新戦術によって動揺してしまい、戦列を乱したところにブルグント軍の突撃を喰らって死傷者を増やしたのは痛かった。
そのうえ、撤退の命令が下って、一気に気力が失せたフランシア軍は全面潰走の様相を見せはじめ、ブルグント軍の追撃の前に今も死体の山を積み重ねている。
僅かに抵抗の気概を見せているのはメグレー将軍に殿軍を承った第三十四連隊と第三十六連隊の二部隊だけである。
だが二千に満たない兵では万の兵の攻勢を防戦するのがやっと、反撃したり救援の兵を発することなど無理な話だった。
つまりヴィクトールらは自力でこの状況をなんとかしなければならない立場にあった。
普通に考えれば第一の選択肢は、最後に下された命令、すなわちピエール大尉と一手になることを企図して、後方に充満する敵兵の中に全滅覚悟で兵を突っ込ませることである。第二の選択肢はそれが無理であると判断し、新たな命令か救援が来るまで(といっても両者ともおそらく決して来ることはないだろうが)、敵と交戦しつつ現場で待機することである。
だがそのどちらともにヴィクトールらを待つ運命は遅かれ早かれ死ということになりそうだった。
もちろん軍に入ったからには軍人が死と隣り合わせの職業だということは認識しているし、軍隊というものは全体の為に一部の兵を冷酷に切り捨てなければならない時もあるということは理解しているが、やはりこの若さで死ぬのは嫌である。なるべくなら避けたい。
それにヴィクトールには第三の道があるように思えるのだ。
「いや、ある。後方よりも撤退するのに適した方向が。我らの陣形が崩れたこの機を逃すまいと、敵は持てる兵力を全て用いて追撃を開始した。しかし敵は味方に比べて兵力が少ない。我らを半包囲するように軍を進めたが、兵数が少ない以上、無理が生じて戦線が薄くなる箇所が出てしまうものだ」
「そんな場所がありますか? いったいそこはどこで?」
戸惑う兵士たちとは対照的に一人落ち着きを見せるヴィクトールは真っ直ぐ前を指さした。
「我らの前方だ。自分たちが崖の上に攻撃できないものだから、我々も攻撃できないだろうと高を括って抑えの兵を残さなかった。斜め前方に見えるあの部隊をよく見ろ。あれは輜重の部隊だ。見かけよりも兵力は少ない。あそこを突破して敵の背後に抜ければいい」
「我々に下された命令は単なる退却ではありません。殿として戦いながら退くことで、敵の目を惹きつけて味方の後退を助けることです。例え少尉殿の考え通りにことが成功し逃れ得ても、その行動は敵前逃亡を働くに等しいことにはなりませんか? 少尉殿のお立場が後々悪くなられるのでは?」
「士官がいるのは何のためだ? 現場で急を要する変事が起きた時に対処するために各部隊に配置されているのだ。今こそ、その判断をすべき大切な時なんだ。命令違反には当たらない。それに輜重隊に攻撃が加えられたと知れば、のぼせ上がった敵の頭に冷や水をかける効果があるだろう。追撃に回す兵、少なくともその一部は輜重を守るために前線から返さなくちゃならない。我々の行動が味方の退却を間接的に援護したことになるとは思わないか?」
「敵が我々のことなど無視してしまったら? 我々は数が少ないんですよ? 実害はないと判断したら我らのことなど放っておいて味方の追撃を続けるんじゃないでしょうか?」
物事をあまりにも自分に都合よく考え過ぎてないか、楽観的すぎないかという兵士たちの危惧をヴィクトールは笑い飛ばした。
「もっともな考えだ。その危険性はあるな。だがやはり敵は俺たちを放置しておくことなどできないだろう」
だが根拠も無さそうなのに自分の策にどこまでも自信ありげなヴィクトールのその態度には兵士たちは首を傾げざるを得なかった。
「どうしてです?」
「嫌でも兵を返さざるを得ないさ。俺たちが敵の輜重隊に火を放てばな」
まだ軍の補給は現地調達や略奪に頼るところがあるような時代だが、このラインラントは元々が人口密度が希薄なうえ、長年の戦でフランシアとブルグントとの前線付近には住むものなどいない。
物資を燃やされたなら、周辺の民家から強制徴収するというわけにはいかないのだ。以降の軍事活動に重大な支障をきたすことになる。
否が応でも物資を守るためにヴィクトールたちを追い払わねばならないだろう。
「なるほど・・・確かに敵は我々を追い払うために動くかもしれませんし、その動きが我が軍の撤退を助けるかもしれません。ですが我々はその後どうなります? 圧倒的な数の敵に襲い掛かられ抵抗もできずに追い払われる。例え運よく逃げ延びたとしてもこの少数の部隊で敵地を右往左往しなければならないんですよ」
その兵士はそれならばまだピエールやイアサントと合流したほうが部隊が助かる可能性があるのではないかと言いたげだった。ヴィクトールと違って、この人数で目の前の分厚い敵の陣を突破できると考えているらしい。
ヴィクトールにしてみればその考えの方がよっぽど楽天的だと思う。
「敵はフランシアの防衛線を破って来たとはいえ、土地を占拠する動きを一切見せずに奥地へと進んだ。つまり前線にいるすべてのフランシアの兵を駆逐したわけじゃない。ブルグント軍の後方だからってブルグント軍の影響下にあるんじゃないんだ。メグレー将軍も前線の兵を動かした形成は無いし、前線にはまだ命令が来るのを待って、その場に待機している部隊が多くいるはずさ。残された彼らと一手になれば行動の選択肢は増える。退却もきっとできるさ」
「確かに少尉殿の指さす方向に見えるのは輜重隊らしい。ですがあそこまでは距離がある。そこに行くまでの間も無人の野を行くわけじゃない。途中で敵に足を止められて包囲されて終わります。無茶だ」
「敵兵が陣取る五メートルの崖を登るのは至難の業だと思った敵は、俺たちの存在を無視している。その五メートルの落差が敵の目をくらましてくれている。ここは双方、移動も攻撃もできない壁のようなものであると。だが本当は上から下へ滑り降りるのはそれほど難しいことじゃない。つまり今の我々は完全な敵の視界外にいる。油断している敵兵ならば、この人数であっても突破は容易い。それによく見てみろ。この崖上から敵の輜重がいるあの丘までなだらかに起伏のある地形が続いている。しかも敵の主力部隊との間にはおあつらえ向きに越えるのに苦労しそうな小川まであるじゃないか。見つかってもすぐに敵兵に足を掴まれるようなことは無いさ。心配するな。俺の指示に従えば、きっとできる」
着任したてで戦闘を経験したことのない(と、兵士たちは思っている)のに、どういうわけか自信満々な態度を見せるその若い新人少尉に、兵たちは皆一斉に疑わしげな視線を向けた。
この切迫した状況下で兵との会話に時間を費やすなど、傍目には余裕にも映るヴィクトールだが、それはあくまで擬態だった。
ヴィクトールの心は大いに焦れていた。
ヴィクトールが考えたこの作戦を行うにしても、第三十四、第三十六連隊が奮戦し、敵の目がそこに集中している間でないと効果がないのだ。残された時間はあまりにも少ない。
それほどまでにヴィクトールの目から見てもフランシアの敗北は決定的だった。
喧嘩ならば自信のあるヴィクトールだが、銃器の普及したこの時代に流石に一人で敵中に切り込んで暴れ回ってこの窮地を脱することができるとは思えない。一人の英雄の力が戦局そのものを左右した紀元前の蛮族の戦いと今の戦いが違うことは知っている。
戦場を脱出し生き残るにはこの目の前の兵士たちの協力がぜひとも必要だった。だから貴重な時間を減らしてでも粘り強く説得を続けたのである。
最終的に兵士たちもヴィクトールの考えに賛同した。
眼前で行われているイアサント隊の戦況が時間を経るごとに悪化し、そちらへ退いて合流するという選択肢が実行不能と判断せざるを得ないと誰の目にも明らかになったからである。
それに何かあって責任を取らされるのはヴィクトールなのだ。彼らとしてはもし途中で危険だと判断したら、作戦を放棄し、ヴィクトールを置いて全力で逃走すればいいだけなのだ。
よくよく見ればヴィクトールの言う通り、敵兵力はむしろ前面こそ手薄である。輜重隊に構わなければ逃げ去ることも簡単そうであった。
それににっちもさっちも行かなくなったら諸手を上げて降参するという最後の手段もある。
「こうなりゃ、やってみよう。一か八かだ。それに敵に背を向けて逃げるんじゃなく、敵に向かって行って退却しようというアイディアがいいじゃねぇか。気に入った。どうせ後退しても連隊の他の部隊と合流なんてできやしねぇさ。いっそ死ぬのなら派手なほうがいい」
身体つきのいい男が、半ばやけっぱち気味にそう言うと、会話の流れは一気にヴィクトールの案に傾いた。
歴戦の曹長であったその男には新任士官のヴィクトールにない人望があったのだ。
「そうと決まれば早いうちに行動するのがいい」
刻々と情勢も変化しているし、兵たちの気持ちだって変わらないとも限らない。ヴィクトールは少ない下士官を集めて、手短にざっと打ち合わせを行った。
ヴィクトールは移動の邪魔になるものを思い切って捨てることにした。
一番、行動を阻害するのはヴィクトールの両手を塞ぐ軍旗だが、流石に軍旗をその場に捨てていくわけにはいかなかったので、旗竿から外し、畳んで背嚢にしまって両手を自由にした。
その背嚢には普段は銃弾と弾薬、水筒に食料など、ざっと二十キロにもなる荷物が詰まっているのだが、ヴィクトールは兵たちに命じてそのほとんどをその場に廃棄させる。
敵がこちらの行動に気付いて追ってきた時に逃げ切るためと、崖を降りるときに重い荷物を背負ったままでは危険だからである。
確かに崖は落差五メートルといっても、直角に九十度切り立っているというわけではなく、三十度から四十度の急坂といったところであるが、重い荷物を背負っていて無事に降りられるかは難しいところだ。
当人が怪我をするだけでなく、多くの者を巻き込む事故が起きて部隊の行動に制限がつくことを恐れたのだ。
皆が身軽になったことを確認したヴィクトールの命令一下、その百名に足らない部隊は崖を一斉に下り降りた。
混戦で敵の目は眼前か、せいぜいが左右に気を配るのが精一杯であった。
そこでヴィクトールは崖を下り降りると、丘を利用し巧妙に兵の姿を隠し、そろりそろりと敵輜重隊が陣取る小高い丘へと移動させた。
だがその行動は戦場の全ての地点から見えないというわけでは無かった。
「あいつ! 何を勝手なことを!!」
イアサントはそれを見て、顔をさっと蒼ざめさせた。
メグレーがイアサントを全軍を退却させるための駒として考えたように、イアサントもまたヴィクトールをこの戦闘においてそれなりの役目を持った駒として考えていた。
確かに一時は殿軍としての働きはできまいと士官の交代を考えたが、ことがここに至ってはもはやそれは不可能なことである。だからそれに関してはもう諦めた。かといってピエールら他の士官のように兵を率いて共に戦ってくれとも思っていなかった。
ヴィクトールの手元には百人以下の兵力しかなかったし、さらに言えばヴィクトールは半人前以下の士官で兵の指揮もまだまともにできないだろうとイアサントは思っていたし、代わりに命令を伝えようにも孤立して伝えようがなかった。
だがそこに兵がいるというだけで多少の牽制にはなる。弾の一つも撃たなくてもいいから、最後までその場にいてくれればいいというのがイアサントの今、ヴィクトールに求めるたった一つのことだったのである。
だからイアサントはヴィクトールの行動を命欲しさの逃亡だと勘違いして、その卑怯さへの嫌悪と、自分が立てたプランが崩れ、一層の窮地に追いやられたことへの絶望とで思わず叫んだのだ。




