第五十一話 メイジェーの戦い(Ⅱ)
一列縦隊で行進するブルグント軍は既に布陣したフランシア軍を横目に平行になるように右に九十度回頭し、二列、そして三列へと素早く陣形を変化させる。
「早いな。よく訓練されておる」
メグレーは敵軍のその一糸乱れぬ華麗な行軍を見て目を見張った。
今からすると信じられないことだが、この時代、軍事教練などろくに行われていなかった。さすがに前進や後退の仕方、隊列や陣形の組み方、戦場でいかに行動すればよいかくらいは教えなければならないこととして理解が進んでいたが、常時、訓練して錬度を上げるといった概念はまだ無かった。実戦こそが最上の訓練であるとでも思っていたのかもしれない。
あるいは五十年戦争で戦場の主役だった傭兵という存在がそうさせたということも考えられる。
傭兵は基本的に戦争の、雇い主が必要だと思う僅かな期間の間にだけ雇われる。勝利などの成功報酬は無く、雇われている間だけ給料が貰える期間工のような存在だ。
傭兵隊長は纏め上げた傭兵たちをひとつのパッケージとして領主に売り込む。その際、金銭報酬の基準になるのは傭兵隊長としての名声も多少はあるが、何よりも数が問題となる。
戦闘教練をして錬度の高い部隊を作り上げても金に結びつかない以上、それを行わないのは当然のことである。
しかも傭兵の多くはあぶれた食い詰め者が多く、戦士になる覚悟や高い職業倫理など持ち合わせない。生きるために傭兵という職業を選んだだけなのだ。
彼らは不利となれば躊躇せずに逃げ出したし、しばしば金の為に敵味方の傭兵隊同士が示し合って戦いを長引かせようとするほどだった。
五十年戦争中は傭兵があふれかえったこともあり、待遇も悪かった。平時に教練など施そうものならば兵士たちは逃げ出しかねなかった。そんなめんどくさいことをやるに値するだけの金をもらっていないというわけである。
それに戦争をしていない時には略奪、身代金目当ての誘拐、憂さを晴らすために酒をかっくらうなどの彼ら曰く『大事な仕事』があるのであった。
軍事教練というサービス残業をやる時間などないというのが兵士たちの言い分であった。
つまり行われないが故に軍事教練の技術や知識が堆積しなかった、無いものは誰にも教えられないといった理由もあったろう。
というわけで五十年戦争が終わり、傭兵は数が減り、一部が常備軍の中に組み込まれた形となった今でも正規軍であっても不十分な軍事教練しか施されておらず、現代の軍組織から見ればまだまだ教練不足も甚だしいような、中学生の体育並みの不十分な行軍であっても、メグレー将軍の目には驚異的な行軍であると映ったというわけである。
だが行軍が戦争の全てではない。メグレーは敵軍が陣形を整え襲い掛かってくるのをじっと待った。
フランシア軍が軍事的要所を占拠し、防衛を主眼とした方陣主体に陣形を整えたのに対し、ブルグント軍は絵に描いたような三列の戦列を横に並べたということ以外は、双方とも中央の歩兵、両翼に騎兵を配したごく常識的な布陣である。
歩兵一万七千、騎兵五千のフランシア軍に対して、ブルグント軍は歩兵一万一千、騎兵四千の兵力である。
ここで一般的に問題となると考えられるのは騎兵一千の差ではなく歩兵六千の差であった。
兵力の大規模化、槍兵を中心とした野戦築城のような防御陣形の普及などによってかつて戦場の花形であったフルプレートで覆われた騎士は衰退し、騎兵と言っても主力は軽装騎兵で、残りの重騎兵もせいぜいが胸甲を付けた程度であった。銃弾にも負けない金属鎧ではあったが、一式を購入、保持するのに金がかかり数が揃えられないからである。
また銃器の普及に伴って、騎兵がかつてのように戦場で主力として決定的な役割を果たす割合は減少し、今や戦場の主役はもっぱら歩兵に変化していた。
もちろん騎兵には機動力を生かして敵の側面を突く、あるいは背面に回って攻撃するといった使用法もまだまだあったのではあるが、銃器の使用や方陣を組まれるなどの対策が普及し、以前のような戦局を決定づけるほどの破壊力をもたらすことができなかった。
今の彼らの主な役目は偵察、敵騎兵の牽制、そして勝敗が決した後に追撃を行い、敵の損害を少しでも増やすことであった。
であるから一万七千対一万一千の歩兵の数こそが勝負の鍵を握る一番の要素ということになるはずであった。
ガヤエ将軍はまず幾人もの伝令を走らせ、念入りに戦場の地形と全体の陣形を確認させた。最初の布陣に小さな綻びがあれば軍を移動させていく間に全面的な破綻へと繋がりかねない。
その間も敵陣に動きがみられないことを確認すると、片手を真っ直ぐ振り上げて進軍の合図を全軍に通達した。
「始めるぞ。全軍、打ち合わせ通りに移動せよ」
ガヤエの合図に合わせて、各半旅団(ブルグントにおいて連隊に相当する組織)付きの鼓笛隊が戦場に楽の音を大きく鳴り響かせた。
「行くぞ!! フランシア訛りの舌足らずどもの口の中に銃弾を叩き込んでやれ! そうすれば少しは奴らもまともな言葉を話せるようになるかもしれんぞ!」
「奴らをカエルのミンチにしてしまえ!」
各隊の部隊長が憎悪を掻き立てるような言葉で配下の兵たちの戦意を煽ると、兵たちは各々気合を入れるために唸る。男たちの野太い声が一つにまとまって野に震え渡った。
その怒声は戦場の反対側の陣営にいるヴィクトールの耳にまで届いていた。
ヴィクトールは初陣ということもあり、ピエール中隊長指揮下の部隊で構成された方陣の前方ではなく、味方部隊との距離も近く敵兵が割り込んできそうもない左方に旗手として配置されていた。
目の前真正面は部隊配置に適さない崖で、そしてその向こうには味方の戦列歩兵からなる縦隊の側面があった。
戦場の様子を窺うためにヴィクトールは首を伸ばして横に向けなければならなかった。
「少尉殿、気張る必要はありませんや。敵が正面を通った時だけ注意すりゃいいんです。めったなことでは方陣は崩れやしません」
兵士が肩寄せあってマスケットとパイクでくまなく武装した方陣は、四面に兵を配することから遊兵が出ることと移動が儘ならないという大きな欠点があるものの、騎兵の突撃も戦列歩兵の銃弾でも容易くは打ち崩せないことから、攻撃の対象となりにくく、兵士の死亡率は通常の横列よりは格段に低くなる。
ましてや攻撃の受けにくい側面に配置されているのであるならばなおさらである。
だからいかにもベテランといったその兵士は、ヴィクトールの落ち着かない態度を初めて死の恐怖と向かい合う初陣というものから来る緊張だと思ってか、そう慰めの言葉を言ったのだ。
ヴィクトールは単に敵がどのように動いているのか興味を抱いて確認したかっただけだったのであるが。
「・・・敵が真っ直ぐこっちに来ていない気がするのは・・・俺の見間違いかな?」
近づいてくるブルグントの戦列に違和感を覚えてヴィクトールは目をしばたたかせた。
攻め寄せる敵軍を堅所に寄って防衛し、敵の攻撃の綻びを待って反撃し、浮足立ったところを余剰戦力を叩きつけて勝利する。それがこの戦においてメグレーの立てた方策である。
その方策を大きく揺るがすような動きを敵が見せない限りは個別の戦闘は連隊長、中隊長に任せて、戦場全体を眺め、命令を下して全体のバランスを整えたり、必要に応じて援兵を派遣するのが軍団長であるメグレーの主な仕事である。後は敵が側面あるいは後方を襲おうと遊撃部隊を編成した場合にそれに対処するくらいだ。
歴戦の老将であるメグレーは落ち着き払ったもので、敵軍が近づいてくる様を腕を組んで悠然と眺めていた。
そこに戦場に銃声が二度響き渡った。だが全周から聞こえてくるような耳をつんざくほどの轟音ではなかった。銃声は少し離れた場所で起きた時に聞こえる乾いた軽い音だけだった。
その証拠にメグレーの前面の部隊は双方、まだ発砲していなかった。それもそのはず、双方の距離は誰が見ても明らかに発砲距離ではなかった。五百メートルは離れていた。
「待ちきれずに発砲したな。どこのマヌケが率いる部隊だ」
自軍が発砲したと判断した理由は銃声が続けざまに二度響き渡ったからである。ということは双方が発砲した証になる。
だがこれだけ両軍の距離は離れているのである。例えどちらかの部隊の指揮官が勇み足で発砲しても、反対側の指揮官がそれに合わせて発砲する義務はない。弾を込めるのにはそれなりの時間を無駄にする。
更に再びまとまった大きな音と小さな音が連続して長く響き渡ったことをメグレーは不思議に思い、銃声の鳴った右方へと視線を移動させた。
右翼では既に歩兵同士の銃撃戦が開始されていた。さすがのメグレーもこの異常事態に狼狽を隠せなかった。目の前の敵戦列との間は未だ五百メートルを超えている。だのに何故、右翼だけ戦闘が開始されているというのだろうか。
しかも単なる戦闘であったならばメグレーとしても部下の前で狼狽するといった醜態をさらすまでには至らなかったであろう。
そうなったのはフランシア軍の右翼がブルグント軍に前方からだけでなく、右側面と後背という三方からの集中射撃を受けてこの僅かな時間のうちに壊滅しつつあったからだ。
「馬鹿な!! ありえん!!」
フランシア軍の最右翼には騎兵隊が陣取っていたのである。歩兵が回り込みを図ろうとしたならばそれを防がなければならない。
だが陣取っていたはずの騎兵隊は影も形も見えず、敵歩兵がその場所に充満していた。魔法でも使ったというのだろうか。
もちろんガヤエは魔法を使ったわけではない。
戦闘開始時から順を追って説明すると、ガヤエはフランシア軍と正対する形に陣を敷いて、まずはメグレーにこれから通常のよくある正面衝突が起きると錯覚させた。
そしてブルグントの戦列歩兵隊はフランシア軍の展開した歩兵の横列に正面から攻撃すると見せかけながら、実はフランシア軍右翼側面、すなわち南西側に回り込むように斜めに前進した。
そして歩兵が進軍開始すると同時に左翼に集中的に配置されたブルグント騎兵隊がフランシア軍右翼騎兵隊を後退させ、さらに後方に回り込みフランシア左翼の歩兵隊を揺さぶった。
それが可能だったのは、総数では上回っていてもフランシア軍は左右に等分に騎兵を配備したことで左翼ではブルグント軍が局地的に数を上回ることができたためだ。しかもその攻撃で混乱したところに斜行してきた戦列歩兵隊の一斉射撃を喰らってフランシアの騎兵隊はなすすべもなく追い払われてしまった。
次いで見事に斜行を成功させたブルグント歩兵隊はがら空きになったその場所を占拠し、フランシア軍側面を半包囲するような形で素早く布陣し、一斉射撃を繰り返しながら前進したのである。この一連の攻撃の前にフランシア軍は先手を取られたことで浮足立ち、次々と潰走したのだ。
この複雑な部隊機動を可能にしたのはガヤエ将軍が一年かけて施した教練の賜物である。この当時、パンノニアにおいて敵を目前にしながら逸る気持ちを抑えて、陣形を崩さずに前に進んでいるように見せかけながら斜行して相手の側面に回り込むなどという曲芸を披露できる軍隊は他にはなかった。
ここでようやく右翼から逃げ散った騎兵隊の一部がメグレーのいる本陣に到着し危急を告げる。右翼に陣取った戦列歩兵連隊からの救援要請も相次いで飛び込んできた。
「報告が遅い! 何をしていた!?」
メグレーはそう雷を落として八つ当たりしたが、雷を落としたことで少し冷静にもなった。口から出かかった、敵に合わせて部隊を移動させろという命令を飲み込んだのである。
簡単に考えれば斜行して斜めになった敵戦列に合わせる形にフランシアの戦列を回転させて正面を向ければいいのであるが、敵を眼前にしながら戦列全体に複雑な動きをさせることは危険を伴う。
なにしろそのような訓練、一度もしたことが無いのだ。しかもフランシアの各部隊の傍には細かい起伏、丘、茂みや林、小さな崖、小川や沼地などありとあらゆる障害物が揃っていた。
回転中に必ずや陣形は乱れ、横列の体すら為していないようになることだろう。それでは敵の正面を向いたところで何の意味もなかった。それにこうまで接近しては回転途中で敵の攻撃を受ける危険性も高い。
そこでメグレーは右翼の方陣でなかった連隊にも方陣を形成するように命じると同時に、左翼の連隊の過半に移動隊形を取り、中央後部へ回り込んで南面の敵主力に対して戦列を形成して対抗するように命じた。
敵がフランシア右翼、すなわち敵左翼に斜行したということは逆に位置するフランシア左翼の前面に展開する敵はいないか数が少ないということであるから、部隊を間引いても問題なかろうと判断したのだ。
問題はフランシア軍右翼が崩壊する前に間に合ってくれるかどうかであったが、それに関してはメグレーは多少、楽観視をしていた。
左翼の歩兵が行軍態勢に変化して移動してくるまでに時間はかかるだろうが、左翼の騎兵はそれほど間をおかずに駆けつけてくれるはずだ。
その騎兵隊に右翼から逃げてきた騎兵を加えて敵部隊を牽制させればブルグント軍の攻撃速度は緩むはずなのだ。
それに右端から順番に一方的に喰われつつあったフランシア右翼の戦闘集団だが、順に食われつつあるということは最右翼部以外は戦闘に入るまで時間が与えられたということである。
ラインラント駐留軍はフランシア一の強兵である。幾つもの死線を超えてきた彼らは、ガヤエに鍛えられたブルグント軍のような特殊な動きはできないが、混乱した戦場においてもやるべきことをすることができる存在である。支えきれないと分かれば傷ついた戦友を抱えて後退するが、一方で少しでも支えきれると思う間は劣勢の中も戦線を支え続けた。
彼らがメグレーに立ち直る時間を与えてくれるはずだった。
特に感心すべきは───
「あれはイアサントの連隊だな。さすがというべきか。この混乱時にもとるべき術を心得ておる」
イアサントは指揮下にある部隊の全てに方陣を組ませ、それをゆっくり移動させて近づけさせ、敵の斜行陣に合わせる形に並べつつあった。
通常の戦列歩兵の横列より密集した方陣から放たれる銃弾は隙間が無く、それだけ死傷率が高くて戦列歩兵隊も進軍を躊躇せざるをえない。ならばと騎兵たちが至近距離まで近づけばパイク兵が前に出て押し返す。まさに移動する城塞である。
しかもイアサントが方陣間の距離を詰めたために各方陣は互いが互いをカバーする形となりその威力は更に高まることとなった。
だがそんな彼らもブルグント軍の猛攻の前に押されて後退することとなる。
ガヤエ将軍はこの戦で斜行陣の他に、軍事史を塗り替える二つの新たなものを持ち込んでいたからである。




