第五十話 メイジェーの戦い(Ⅰ)
メグレーの執務室を出た連隊長たちは足早に自分の部隊へと戻った。次の瞬間にも敵が攻めてくる可能性は無くはないのである。
既に命令は下されているのだ。ぐずぐずして敵が攻撃をはじめ、その時になってメグレーに準備が整っていないと泣き言を言うわけにはいかない。
イアサントも部隊に戻ると直ぐに士官、下士官を集めて命令を下した。
「というわけさ。しばらくは二十四時間、臨戦態勢を取ることになる。兵に荷造りをさせて気持ちの準備をさせておきな」
これまでもメグレーは軍がいつでも出動できるように物資や輜重を整え、出発する順番や向かう場所によってどの経路を取るかなどを決めて通達していたが、今回はそれより一歩進んで、命令があれば十分以内に部隊を整列させ出発できるように全ての連隊に城内でも戦場と同じ態勢を取らせたのである。
これは会議の形を取っているが、上意下達式の命令である。否やは無いはずだった。部下たちの反応を待たずにイアサントは会議を終わらせようとする。
「質問は無いな。では解散!」
軍団規模の出兵になるから輜重も後方からついてくることにはなるのだが、連隊としても当面の食料と弾薬を手配する必要があった。
この頃には軍隊も昔と違って官僚的な組織になっている。経理官や副官に命じて書類を作成し提出しなければ、弾一個も連隊には送られてこないのである。
その作業に一刻も早くとりかかろうとイアサントは背を向けた。
こういった時のイアサントに無暗に声をかけることが禁物であることを部下たちは承知している。イアサントは何かに集中したい時、周囲の雑音に気を散らされることが何よりも嫌いなのだ。
だがそのことを部隊に加わって日が浅いヴィクトールはまだ知らなかった。
「あ、大佐殿」
「なんだ?」
皆の視線が一斉に声の主に集まった。周囲の者の心配を余所に、イアサントは振り返ると不遜な声の主、すなわちヴィクトール対して笑んでみせた。
「余計なことかもしれませんが、連隊長がおっしゃるとおりでしたら、敵は我が軍の目をその突出部に向けさせるだけでなく、近辺の兵力を増強させることを狙っているのではないでしょうか? 他を手薄にさせてその隙を突こうというのならば、我が軍が警戒態勢だけで動きを見せない場合、攻撃は行わなわれないかも。あえて敵の誘いに乗り、部隊を動かして、逆に敵を誘い出してみるというのはいかがでしょうか?」
だがそのイアサントの笑みは苦労して作られたものだった。よくよく見れば目は据わっている。
次の瞬間、イアサントは会話の中身を吟味することなく、ヴィクトールに対して雷を落とし、その口を塞ぐ。
「そんなことは分かっている! 少尉風情が余計な口を叩くんじゃないよっ!!」
イアサントはヴィクトールを怒鳴りつけたついでに部下を追い出すと、何を思ったか、再び部屋を飛び出して、メグレー将軍の執務室へと逆戻りした。
出ていったと思ったらすぐに戻ってきたことに奇異な視線を向けるメグレーに、イアサントは聞いたばかりのヴィクトールの意見を述べて感想を求めた。
「・・・という意見が閣下から預かった例の問題児の口から出たのですが、いかがでしょうか? 若輩者とはいえ、その意見には一理あると思うのですが・・・」
イアサントの言葉を聞き終わるとメグレーは二度三度と頷いて見せた。
「シモンの連隊に援兵として出っ張り周辺の前線へ向かうように既に命じてある。僅か一個連隊だが、もう少し大規模な部隊が援兵として到着したと敵が思ってくれるように、分散させ後方の少し離れた場所に屯するよう命じておいた。抜かりはない」
「なるほど。既に手を打たれておりましたか、さすがですね」
「これくらいのことは基本だ。特別なことではない」
「申し訳ありません。余計な気を回しました」
「いや、何か思ったことがあれば、これからも遠慮なく献言をしてくれ。常に今回のように私が考え付き、先んじて行っているとは限らないからな。しかし面白い男だな、その少尉は。初陣で古参兵すら狼狽するような危機的状況に巻き込まれたにもかかわらず、冷静に対処して味方を僅かな損害で帰還させた。そして今回も僅かな情報で一瞬にして状況を把握し、対策を考え付いた。切れ者だとは思わんかね」
メグレーは目を大きく開いて子供のようなお道化た表情を作ると、実に楽しげにイアサントに同意を求めた。
「ですが一度や二度ならマグレということもあります。それにそうだとしても、かっとして士官学校内でターバート伯爵夫人に手を上げて放校処分になった。将来を考えて行動しているようには思えません。目先のことは見えてもその先のことは読めないのかも。将軍の買い被りではないでしょうか」
「ならば何故その少尉の考えを私に伝えようと思ったのだ? うん? 聞き捨てにできない、軽視できないと大佐もそう思ったからではないかね?」
「それは・・・・・・」
メグレーの言葉は正確にイアサントの考えを射抜いており、彼女としては口を噤むしかない。
「それにな、若い者はそれくらいでちょうどいい。名を何と言ったかな、その少尉」
「ヴィクトールです」
「ヴィクトールか・・・勝利に由来する名だな。まさに軍人になるにふさわしい名だ」
「その名の通り、我々に勝利をもたらしてくれればよいのですが」
用件が終わったイアサントが執務室を出ていった後、メグレーはしばらく窓の外の流れる雲をじっと見続けていた。そして誰もいない部屋で独り言ちる。
「ヴィクトールか・・・覚えておこう」
本体を前線に向け前進させていたガヤエの下に待ちに待った知らせが飛び込んできた。
「フランシア軍が動いたか。予定通りだな」
メグレー将軍が派遣したシモン連隊が前線に現れたとの報告にガヤエは満足げに首肯する。
「将軍のお考え通りにですがその数は一個連隊から二個連隊といったところではないかとの報告を受けています。想定よりも少ない」
「敵将は老将らしく手堅いな。我が方の作戦を陽動と見破ったということだ。あるいは見破っていないとしても、我が方の攻勢が始まってから城から援兵を出しても間に合うと考えたのだろう。軽率に大軍を動かすのを手控えたのだ」
「でしたら予定を変更し、この突出した辺り一帯に攻勢をかけてみてはいかがですか? 我が方は前進した分、敵の主力よりも先に前線に到達できます。兵力で上回っている間に我攻めで押し切ってしまいましょう」
「初手で上回っても、そのうちにモゼル・ル・デュック城より敵主力が駆けつけ、戦線は再び膠着する。この突出部周辺は険しい地形は防御有利で攻撃不利。大きな戦果は望めまい。むしろ敵が送った兵力は少なくて構わない。我が方の目的は双方の主力が正面衝突できる広範な土地で戦うことだ。我が方が敵の防御の薄い前線を突破しても、敵にあまりにも手持ちの兵力が少ないと応戦する気力を無くし籠城されかねない。野戦で勝てると手堅い老人に思わせるだけの兵力が残っていなければ困るのだ」
「はぁ」
だがそれでガヤエ将軍の思い通りに敵軍が出てきて野戦になったとしても、それをもって敵が罠にはまったと言えるかどうか。兵力はフランシアが上回るのである。野戦は数が多いほうが勝利するのは常識だ。野戦で負けてしまったら、ガヤエ将軍は敵が勝利するために熱心にお膳立てした愚将ということになってしまうのである。
そう心配する部下を他所にガヤエは自信満々だった。
「さてこれで前途に障害は無くなった。予定通りのコースを通って軍を動かすぞ!」
ガヤエはそう言うと木に繋いだ綱を解き放って、馬に飛び乗り大声で兵に命令を下す。
「出立だ! 前進せよ!!」
大地に寝ころび、木々にもたれ思い思いの格好で休憩を取っていた兵士たちはその声に飛び起きて隊列を形成した。
その後、ガヤエ率いるブルグント軍は前進し、難なくフランシアの防衛線を突破した。
これはフランシア軍が弱かったということではない。
フランシアはブルグント軍に突出部を奪われたことで、その周辺に兵を凹型に集中配備なければならなくなったのだが、先の戦で兵を失ったうえ、未補充のままで数が足らない。そこでモゼル・ル・デュック城から距離のある、さして重要性を感じられない前線に配備する中隊を回さねばならなかったのだ。
以前は双方長年に渡る陣地構築と適切な兵力配置にて、なまじのことでは前線が突破されるなんてことは無かったのだが、ガヤエが勝利したことで情勢が大きく変わった今回ばかりはそうはいかなかったのである。
だから敵襲のため至急援軍乞うとの救援要請を聞いた時もメグレーは慌てふためかなかった。
「全軍に通達、敵の襲撃だ。報告によると万を超える数だという。大物だぞ。定められたとおりに順次軍を進発させる。一時間以内だ。急げよ」
ラインラント駐留軍は志願兵と傭兵の混成部隊ではあるが、五十年戦争以降も実戦を経験しているフランシア一の精鋭部隊でもある。イアサント以下、各連隊長も手抜かりはない。メグレーの命令を違えることなく二万二千の駐留軍は武装し前線へと急行する。
一方、前線の一角を破ったブルグント軍は破断点から後背、あるいは側面に回り込み劣勢になっても健気に持ち場を死守しようとするフランシアの前線部隊を殲滅していたが、フランシア軍接近の報に、僅かな抑えの兵だけを残して平野部へと前進を開始した。
「ほう! 敵将は平野で大軍同士の決戦を望むか!!」
前回、フランシア軍を完全包囲し、連絡と補給を絶った上で部隊を枯死させたような手段を今回も選択するのではないかとメグレーは思っていただけに意外であった。
しかし、だとしたら敵将はとんでもない自信家と言わざるを得ない。
フランシア軍は兵力が優っているだけでなく、戦場でなるであろう一帯の細かい地形を詳しく知っている。だが敵はその周辺が大軍を展開させやすい地形だとおおざっぱには知っているが、詳細な地形は知る由もない。
長年、敵の占領下にあるのだから当然である。細かい起伏、丘、茂みや林、小さな崖、あるいは小川や沼地など戦術的に利用できるものはいくらでも存在するのだ。
劣勢なブルグント軍の兵力で野戦を挑もうなど勇気を通り越して無謀であるとしか言いようがなかった。
「若さとは自分に不可能なことがないと思わせる魔法にかかっている年頃なのかもしれんな」
ならば年を取るのも存外悪いことではないかもしれぬ。メグレーはその若さを十二分に利用させてもらおうと、少しでも有利な地形に陣を敷くべく軍の足を速めた。
ブルグント軍とフランシア軍は相手をその目で確認しても接近を続けた。先に足を止めたのはフランシア軍だ。
「さすがに名高いメグレー将軍だ。手堅い、いい布陣だ」
戦場に先に布陣したフランシア軍を見てガヤエはそう評した。
戦場を一望できる高所に本営があり、いくつかの戦列は回り込まれないためか、あるいは動かす気がないのか、騎兵の突撃を防ぐかのように直前や横に小川や崖を置いていた。全体の形は兵力の少ないブルグント軍を半包囲するかのように緩やかにたわんでいる。
自然の地形を利用しているため、教本通りの綺麗な一列に並んだ戦列とはいかなかったが、教官でなく実戦指揮官の立場から見るとほぼ満点に近い布陣である。
「布陣なら完璧に俺の負けだな」
今も戦場となるべきこの小さな平野に移動隊形の縦列となって入っているがため、ブルグント軍は敵兵の攻撃に備えて、少しでも早く横に広がって展開して陣を構築せねばならず、面白味のない一直線の陣形を形作っている真っ最中であった。
幸い、というか当然というべきか、敵は陣取った有利な地形を捨ててまで布陣途中のブルグント軍に襲い掛かってこない。
「敵は布陣中の我が軍目掛けて攻め込んでこようとはしませんね。これはついております。幸先がいいですよ」
「いや、敵はもっと狡賢い。あえて我が方の攻撃を誘い、移動して陣形が乱れたところを反撃して一気に勝負の片を付けるつもりだ」
「だとすれば我が方としても迂闊には仕掛けられませんな。しばらくこうして睨み合いが続くということでしょうか」
「いや、戦列を整え次第、開戦する。その心づもりをしておけ」
戦闘の常識をことごとく無視するかのようなガヤエの言葉に、その士官は理解ができずに目を白黒させるだけだった。




