第四十五話 イアサント・ド・ミュルジュールという女
軍の本部へ行き、官僚然とした横柄な士官から命令書を受け取って、軍の手配した馬車に揺られてラインラントへとヴィクトールは向った。
情けない話だがヴィクトールは馬に乗れないのである。いや、正確には乗ったことがないのだ。馬を買って飼うにはとにかく金がかかるのだ。
士官学校では砲兵科であれ歩兵科であれ、授業で乗馬訓練もあれば、馬の世話もあるのだが、ヴィクトールは授業がそこに入る前に士官学校を出なければならなくなったため、経験することが出来なかった。
ちなみにヴィクトールが士官学校に在籍した期間は僅か百四十六日。この日数での実戦配属は士官学校開校以来の最短記録である。
といっても成績優秀のための期間短縮での卒業ではなく、放校処分も同様の実戦配属なのであまり誇れることではなかった。
ともかく士官としての教育もほとんど受けずにいきなり実戦部隊に配属されたのだ。ヴィクトールが不安だらけだったのは言うまでもない。
さて、これにて物語の舞台はラインラントへと移ることになる。
そしてヴィクトールにとってこのラインラントでの出来事が未来に羽ばたく切っ掛けとなることとなる。
そういう意味では士官学校を追い出されるきっかけを作ったジヌディーヌこそが、皮肉なことにソフィーよりもラウラよりもヴィクトールにとって恩人であるとさえ言うことができる。
もちろん、この時のヴィクトールはそのことを悟ることもなく、ジヌディーヌに対して恨みにも近い気持ちを抱いていた。
ところで後世に書かれたヴィクトールについての伝記、物語だけでなく、革命にまつわるいくつもの物語でもこのラインラントでのヴィクトールについて多くのページを割いている。それは何故であろうか。
それはこのラインラントでこの後、起きたことが歴史的な大事件であったからではない。それは五十年戦争以来続いていたラインラントという狭い地域をめぐる、長年に渡って行われた二国間の紛争の続きでしかなかった。
もちろん巨視的に見れば紛争が長期間に渡って続けられたことが後のフランシア革命が勃発する要因の一つとなったことは事実であるし、革命は革命戦争へと繋がっていったこともまた事実であったから歴史的に全く無意味な事件であったわけではない。
だが革命が複雑に他の要因が絡み合って起きたことを考えると、やはりとても歴史的事象であるとは言い難いレベルの出来事だった。
それにもかかわらず、多くの歴史家や作家がここで起きたことをことさら取り上げるのは、歴史的な軍事的天才二人が初めて部隊を率いてぶつかったからだ。
『この戦争ドラマの二人の英雄グスタフ・アドルフとヴァレンシュタインがこうして舞台から消えた今、三十年戦争史の筋の統一は失われた』と三十年戦争史の中であのシラーが筆を折りそうになったと述懐していることからもわかる通り、やはり英雄二人が正面から戦うという構図は世の文筆家たちのロマンチズムをかき立てて已まないのであろう。
モゼル・ル・デュック城に着いてヴィクトールが提出した書類は、回り回ってラインラント方面軍司令官であるメグレー将軍の下へと辿り着く。
メグレーは二人の連隊長から丁度、昨日今日のブルグント軍の動きに関する定時報告を受けていたところだった。
三万人という小規模の軍団であるラインラント方面軍は、師団や旅団を形成せずに軍団の下に連隊が直轄するという形態を取っていたため、彼らはメグレー将軍の直属の部下ということになる。
早馬ではなく馬車、しかもそれをもたらしたのは士官ではなく少年かと見間違う若い男という通常とは違う連絡手段であったが、間違いなく軍令部の封印が押された書簡であったので、急を要する要件かもしれないと報告を中断させ、彼らをその場に立たせたまま、届いた書簡の封を開ける。
メグレーはヴィクトールの着任の命令書と同封されていた事件のあらましの経緯とが書かれた書類とに代わる代わる目を落としたと思うと、やがて諦めたように溜息をついた。
「定められた連絡ではなかったので、どんな急を要する要件かと思ったら、実にくだらない用件だった。新人の士官を一人送るからよろしくとのことだ。しかし猫の手も借りたい、素人でもいいから士官をよこせとは言ったが、本当に半人前を送り込んでくるとはな」
メグレーの反応に、精悍な顔つきの三十代の男がメグレーが机の上に乱雑に投げだした書類に興味ありげな視線を向ける。
「半人前?」
疑問を口にしたのはもう一人の連隊長、短く肩口で切り揃えた栗色の髪を後頭部で一括りに纏めた、目付きの鋭い女性であった。
立ち居振る舞いや目元口元は戦場往来の古強者を配下に組み敷く迫力を持ち、女傑の雰囲気を漂わせていた。
「なんと基礎教練もまだ終わっていない、士官学校の一回生だ。学校で問題を起こしていられなくなったらしい」
「それは・・・素人みたいなものですね。どんな問題を起こしたので?」
「詳しくはわからないが、どうやらターバート伯爵夫人と揉めて、顔をはり倒したという噂だ」
王都とラインラントとでは距離があるが、既に士官学校で起きた大事件のことは断片的ではあるがメグレーの耳にも届いていた。同じ軍の内部に属する組織とはいえ、噂というものは広がるのは早いものである。
「ターバート伯爵夫人・・・ああ、例の有名なアイリスの三公女の一人ですか」
「それはまた無鉄砲な男ですな。ダルリアダ公爵家は只の大貴族ではないのに。代々、大臣として国政に与り、官吏の人事を握ってきた。軍部にも息のかかった者は少なくないと言うのに」
士官候補生で最低限の頭を持つのならば、どんな目に会ったとしても、ジヌディーヌに敵対するなどありえないことだと普通なら考える。将来の出世に響く。愛想笑いをして卑屈に靴でも舐めていればいいというのが一般的な考えだった。
「だからどこの部隊も引き取りを渋ったというわけでな。で、こちらに押し付けられた」
「ここはゴミ捨て場じゃない。ブルグントと生死を懸けて戦う国防の最前線です」
メグレー将軍の自虐気味な言葉に不満そうに反応したのは先程の女性連隊長である。
「もちろん、その通りだ。だが机にしがみついている臆病者どもがそう考えているのは間違いないようだがな」
女連隊長は芝居っぽくしかめっ面を作って抗議の意を表したが、ここで上層部の文句を言っても不満の解消にはなるだろうが、事態の改善にはつながらない、諦めたのか話題を変えた。
「こんな男、使い物になりますか。足手まといになるだけでは?」
「使い物になるかならないかではなく、使えるようにしろ。選り好みしている余裕は無いぞ」
「はっ」
メグレーはヴィクトールをラインラント駐留軍に派遣するという指令書を眺めてしばらく考えていたが、やがてその指令書を女性の連隊長に突きつける。
「ミュルジェール、こいつはお前が面倒を見ろ」
「え!? 小官が、ですか?」
ミュルジェールと呼ばれた女連隊長はメグレー将軍の命令に声だけでなく顔全体を使って不服を申し立てる。
「なんだ? 常々、士官が足りないと嘆いておったであろう? 不服か?」
「もちろん命令とあらば従いますが・・・不服です。欲しいのは有能な即戦力の士官です。話を聞くにどうやら上下関係を弁えぬ輩ではないですか」
「そういった連中の扱いはお手の物だろう? 貴官のところには色々と問題児が多いではないか。ほら、あの・・・テレ・ホートの奴ばらとか」
「だからといって厄介ものばかり押し付けられても困ります。小官の部隊はこのラインラント駐留軍のゴミ溜めではありません」
軍本部にラインラント駐留軍がゴミ捨て場と思われているように、自分の部隊もメグレー将軍はゴミ捨て場と見做しているのではないかと抗議した。
それに対してメグレー将軍は目を剥いて厳めしい顔をして威圧した。
「これは命令だ。貴官に拒否権はない」
「そんなぁ~」とミュルジェールは天を見上げて嘆息し、情けない声を出した。
「大変だと思うが頑張れよ」ともう一人の男の連隊長が肩を叩く。明らかな貧乏くじを引かされなくて嬉しそうな表情を隠そうともしない同僚をミュルジェールは恨めしい目で見た。
「あ、姐さん。今日の報告は手間取りましたね。何かあったんで?」
定例報告である。敵軍に目立った動きがない以上、報告は数分で終わるはずだった。だがミュルジュールは三十分近くも彼らのところに戻ってこなかった。
しかも部隊詰所に戻ってきたミュルジュールは声をかけた中隊長たちに機嫌の悪さを隠そうともしない険悪な目を向けると、目についたカップを手にし、八つ当たり気味に力一杯に地面目掛けて投げつける。
「ふざけんなッ!!!!」
「姐御、どうしたんで」
ミュルジュールの時ならぬ激高に中隊長たちも訳が分からず、目を丸くして驚くばかりだった。
「どうしたもこうしたもないよ! 貧乏くじを引かされた!! 士官学校で大貴族に対して喧嘩を売った問題児をうちが預かることになった! そいつの処遇次第では、その大貴族から目をつけられてしまうっていうのにさ!」
「なら厳しく扱ってやりゃいいじゃないですか。苛めてやりゃいいんですよ。自分から逃げ出すくらいに」
「そんな陰険なことはあたしの信条に反する! それにそういうわけにはいかないんだよ! 宰相閣下直々の、その男の教育を頼むという書簡がメグレー将軍宛に届いているんだ! 粗略に扱えば今度は軍令部から睨まれるという問題物件だよ!! まったく冗談じゃない!!」
「拒否ったらいいんですよ。そんな奴、他の連隊に押し付けりゃいい」
「うちの親分は怖えんだよ! そんなこと言えるか!!」
頭髪も薄くなり髭ももう真っ白になってしまった、本来ならば退官して悠々自適に暮らしている年齢のメグレーは、たとえ女とはいえ働き盛りのミュルジェールならば簡単に腕力で圧倒できるだろう。メグレーは出世街道から外れており、権力階梯の一端ですらない。組織という権威もメグレーの背後にはない。
だが長年、第一線で敵と戦い続けたことで得た自信と矜持、相手を上回ろうとする強い気持ち、敵を粉砕しようとする殺意などが体の表面まで滲み出たメグレーの迫力はミュルジェールだけでなく、ラインラント駐留軍の士官全てから大層恐れられていた。
恐れられているからこそ、この曲者ぞろいのラインラント駐留軍を率いていられるとも言える。
もっともメグレーがラインラント駐留軍が求める将軍像として完璧すぎるが故、跡を継ぐ者のハードルが高すぎて代わりがなかなか見つからず、メグレー将軍がいつまで経っても引退できないということもあるのだけれども。
その頃、ミュルジュールらと入れ違いにヴィクトールはメグレー将軍に会っていた。
「このたび、モゼル・ル・デュック城に配属になりましたヴィクトールと申します」
いかに士官学校からの実地研修という名の配属であっても、最前線における配属だ。命の保証はない。この前のようなお客さん扱いではなく、頼りなくても戦力として、そして士官候補生という組織の一員として加わるのである。
ヴィクトールは最高司令官に正式に挨拶をしなければならないし、メグレーもそれを受けねばならぬ立場にあった。
とはいえメグレー将軍としては気乗りしない仕事である。
「ああ、頑張れよ」と、軽く声をかけただけで椅子から立ち上がることもなく、やりかけの書類仕事に戻ろうとした。
一度、書類に目を落としたメグレー将軍だったが、何かに気付いたのか首をもう一度持ち上げヴィクトールを二度見した。
「・・・どこかで見た顔だな。見覚えがある。どこかで会ったか?」
「この間のラインラントでの士官学校の演習時にブルグント軍と予期せぬ遭遇戦を行った時に、逃げる時に取った行動をお褒めいただいたことがあります」
背筋を伸ばして答えたヴィクトールの言葉にメグレー将軍は大きく喜びを顔に表した。
「ああ! 機転を利かして火薬庫を爆発させ他の生徒を脱出させた青年か! よく見れば確かにそうだ! そうか、それならば即戦力じゃないか!! いやいや、君なら大歓迎、大歓迎だよ!」
「え・・・歓迎されていなかったんですか? 俺・・・小官は」
「ターバート伯爵夫人という貴人を殴ったのだ。一般社会における身分の上下は軍隊の階級の上下に相当する。上官の命令を聞かぬ問題児だとばかり思っていたからな」
自分がしでかしたことだから自業自得ではあるものの、こんな辺境地に来てもジヌディーヌに手を上げたことが影響するとはヴィクトールとしては苦々しい顔をせざるを得なかった。
「しまったな・・・だとしたら失敗したな」
「何がです?」
「君をミュルジュ-ルの連隊に配属してしまった。君だと分かっていたのならもっと別の連隊という手があったのだが・・・」
「はぁ。その連隊に配属されることに何か問題でも?」
「あの連隊は色々とな・・・かといって今更変更はできぬ。ま、気を付けるんだな」
どうやらジヌディーヌに手を上げたことは士官学校を追い出されたことですべての片が付いたわけではなく、しばらくヴィクトールに厄介な問題となってついて回ることになりそうだった。
「この部隊に今日付で配属されたヴィクトールです。連隊長殿に挨拶に参りました!」
ヴィクトールはメグレー将軍に着任の挨拶をした後、案内役の兵士に案内されて、さっそく配属の決まった部隊の連隊長に挨拶に向かった。
無視したいところでもあるが、上役であるメグレー将軍の決めたことだ。歓迎できないから入るなとも言えないのが中間管理職であるミュルジュールの辛いところである。
「入れ」
ドアの外から聞いても機嫌の悪そうな声である。気難しい性格なのかな、とヴィクトールは身構えながら頭を下げつつ部屋の中に入った。
「本日付でこの部隊に配属になったヴィクトールです。理由あって士官学校卒業前に実地研修で配属されたため士官としては未熟者で足手まといとは思いますが、一兵卒とでも思ってなんでもお言いつけください。よろしくご指導ご鞭撻のほどをお願いします」
「ああ」
「よろしくお願します」
ターバート伯爵夫人に手を上げたのだ。上官に逆らうようなどんな問題児かと思ったが、話をした感じでは案外素直な態度である。ミュルジュールは興味を覚えて、ここで初めて振り返りヴィクトールをしげしげと眺めた。
ヴィクトールとミュルジュールの目があった。体形と声から既に女性であることは確認済みだったが、どんな女ヘラクレスが出てくるかと思えば意外や意外、すらりとした肢体の、目鼻の整った美人である。
もっとも周囲の男たちが筋骨逞しいからそう思うのかもしれない。ガスティネルを前にすればヴィクトールが小柄に見えるのと同じ理屈である。
義姉より少し年上かな。身内びいきかもしれないが容姿では義姉の方が一枚上だ。でも薄い化粧でこの顔ならば割と美人の方であるなどとヴィクトールは女性に対して失礼にも値踏みをした。
「ほお・・・思ってたのと違うな。いい目をしている」
「・・・・・・」
それは褒め言葉であろうかそれとも侮りの言葉であろうか。にわかには判断が付きかねてヴィクトールは即答することができない。
「あたしはイアサント・ド・ミュルジュール。この傭兵と志願兵の混成部隊である第三十四歩兵連隊の連隊長だ」
ヴィクトールが見たイアサントの第一印象は自信に満ち溢れた顔をした、魅力的な女性だった。
後書
さてさて当初四章の予定だった士官学校編も不評のため二章に圧縮して、今回からやっと軍人(見習い)編が始まります。これまでの二章は主に主要人物の顔見世編的な意味合いもあり、歴史的に大きな動きはありませんでしたが、今章から少しづつ歴史の歯車が軋みつつも回り始めます。
ちなみに前二章では結構重要な人物が目立つ人物としてだけでなく、とるに足らない端役としても出ており、後から読み返すと面白いんじゃあないかとこっそり思っていたりもして。
圧縮されてシメオン君が活躍しなくなったのと革命の息吹みたいなものを書けなかったことだけが心残りです。
とはいえようやく戦争シーンが書けて、戦記と言うタイトルに偽りがなくなるのが何よりも嬉しかったり。




