第四十二話 意外な結末
傷の手当よりは、とにかくまずは逃げることを優先したのであろう。赤い色が石畳をところどころ彩って逃げた先を指し示していた。
大きな血だまりになっておらず、なおかつひとつひとつの血の間隔は広い。シメオンは立ち止まらずに走り続けているということだ。
ファビアン警部とのごたごたで結構な時間が潰れた。どれだけ遠くへ行ったことかを考えると焦りも心に浮かぶ。
とはいえ深手を負った身、そうそう全速力で長時間走り続けることなどできないだろう。ヴィクトールが粘り強く追いかければ、いつかは追い付けるはずである。ヴィクトールは走り出した。
血の跡を辿って幾度目かの角を曲がった時だった。円を描くように人が集って道を塞いでいた。
ヴィクトールは速度を緩めずに大回りすることで脇をすり抜けようとした。背後を駆ける足音に円の内側を向いていた人々も何事が起きたのかと振り返る。
その中の一人、ゆったりとした法衣を身にまとった人物がヴィクトールらの姿を見ると喜びを露わにし、大きく手を広げて前に立ちふさがって、ヴィクトールらの行く手を塞いだ。
「ああ! もし! その服、あなたたちは士官学校の生徒ではないですかな?」
前方を塞がれ、声を掛けられたことでヴィクトールとしても渋々ながらも対応しなければならなくなった。
「そうですが・・・何か御用で?」
「やはり! それは重畳。まさに神のお導きです!」
ヴィクトールの都合など無視したかのように喜びに顔を輝かせ宙を見上げて祈りを捧げる司祭にヴィクトールは付き合いかねるものを感じた。
「申し訳ございませんが、急いでいるんです。なにがあったかは知りませんが、このまま行かせてくれませんか?」
「いやいや、そう言わずに。人助けと思って。実は大変なことが起きてしまって困っているんです。あなた方の協力がぜひとも必要なのです」
随分と腰が低いことにヴィクトールは驚いた。その華美な法衣を見る限り、相当高位な司祭であろうに一介の学生相手にこの物腰、なかなかあることではない。
新旧両教徒の争い、社会制度の発展に伴う迷信の打破、教会の汚れた実態が知れ渡るにつれて、教会の権威は大いに損なわれたものの、各地の司教領、積み上げられた莫大な財産、無垢な民からの盲目的な信仰によって支えられた教会はまだまだ巨大な権力組織であった。
だから司祭といえば基本的には上から目線で大物ぶった、いけ好かない奴らが多いのが実情であった。
だが人の良しあしはこの際、ヴィクトールにとってはさしたる問題ではない。相手がどのような人物であるか関係なしに余計なことに係って時間を浪費したくなかったのだ。トラブルならば十分すぎるほど間に合っている。
「・・・とはいえこちらも急いでいるんです」
遁辞を言って、その場から退散しようとするヴィクトールだが、その司祭は人のいい笑顔を浮かべたままヴィクトールの裾を掴んで離さない。
心は急いているが、その人のいい笑顔を見ていると袖を払って、無下にこの場を離れることもできかねぬ思いだった。
「お時間は取らせません。ただこれを見て欲しいのです」
司祭に手を引かれ、ヴィクトールはしぶしぶ人垣の中へと向かう。司祭が立つと前に立った人々は次々と脇へと避け、スペースを譲ってくれた。
人垣を抜けると真ん中には馬車があり、その横には鮮やかな真っ赤な液体が大きな水たまりを形成していた。
血だまりだった。そしてその血だまりに人が、いや、かつて人だった物体が倒れ込んでいた。頭部が陥没し、右足はちぎれてぶら下がり、片手は切れてどこかへ飛んで行っていた。
陰惨な光景が広がっていた。だがヴィクトールの視線を釘付けにしたのはその死体の左肩にある銃創である。
頭部の変形と流れ出た血で一見では判別できなかったが、よく観察するとその才子ばった顔には見覚えがある。ヴィクトールが追っていた男、シメオンの変わり果てた姿だった。
「こいつは・・・・・・!!」
「見ての通り士官学校の生徒です。それで貴方に声をかけたのですが・・・ひょっとしてお知合いですか?」
司祭は両方の眉で八の字を描き、悲しそうな、そして済まなそうな顔をした。
「いや、知り合いじゃない。だが探していた男なんだ」
知り合いというほどの深い仲ではないが、身柄を確保して罪に問わせようと追ってきた相手である。この結末の意外さにヴィクトールはどう反応していいのか分からず、複雑な感情を抱いて立ち呆けるばかりだった。
「いったい何故こうなったんだ・・・?」
「申し訳ない。相手が突然飛び出して来て・・・避けようとしたのだが、馬が言うことを聞かなくてこのようなことに・・・」
司祭は祈りの言葉を小さく唱えながら、神に祈りを捧げる。
ショッキングな光景に視線が集中していたため気が付かなかったが、よく見ると馬車も大破していた。二頭の馬車馬のうちの一頭は足が折れたのか立ち上がれず苦しそうにもがいていた。もう安楽死させるしかないであろう。
よほどの勢いで正面から衝突したということか。
「このようなことをしでかしてしまったのですから警察に届けるだけでなく、彼の死を家族の方や友人たちに告げ、謝まらなければなりません。ですがこの方とはこの場で偶然出会った単なるゆきずりの身、どこにどう連絡したらよいのか分からないのです。ここにいるこの近辺に住んでいる方々も彼のことは知らないと言っておられます。困り果てたところに運よく、同じ制服を着た貴方が通りかかったので声をかけたというわけです」
「そうですか。それで警察にはもう連絡されたのですか?」
「それはもう。御者に命じて警官を呼びにいかせました。そのうち来ると思います」
「わかりました、では学校への連絡は私が受け持ちましょう。学校から家族へ連絡してもらえばよいかと思います」
「ああ、そうしていただけると大いに助かります。ありがとう」
実際に色々と動くのは学校であってヴィクトールではないのに、幾度も軽く頭を下げて感謝してくれる司祭に面映ゆい思いを感じて謙遜する。
それにしてもじつに後味の悪い終わり方だった。
シメオンの死体を眺めながら、これで全てが片付いたとヴィクトールは思いつつも、心の奥底では何か違和感のようなものを感じ、戸惑っていた。
違和感の原因の一つは司祭の横に立つ幼い侍者の態度かもしれない。
子供にとっては衝撃的な光景であり、吐き出したり泣き叫んでもおかしくない光景である。だがその少年はこの凄惨な現場にも取り乱すことなく落ち着き払っていた。年齢に似合わぬ、あまりにも無表情なその童形の侍者がヴィクトールには薄気味悪くさえ感じた。
だが教会ならば葬送の儀式で死体も見慣れており、多少のことでは動揺しないのかもと思い直すと興味を失い、再び視線をシメオンの死体へと戻して考え込む。
たかが生徒同士のいざこざに過ぎなかったのに、何を考え何を目的としてラウラとエミリエンヌを誘拐したのであろうか。
真相を知りたいところだが死体は黙して語らない。
「ヴィっくんありがと! ちゅっちゅちゅっちゅ!」
警察に現場を任せ、司祭と別れてヴィクトールとアルマンらが士官学校に戻ると、校門のところで待ち受けていたエミリエンヌに猛烈な歓迎を受ける。
優しくキスされるのではなく、感情に任せて勢いだけでキスしようとするものだから、その歓迎を真っ先に引き受けることになってしまったヴィクトールにしてみればたまったものではない。
身長差があるから無理にでもキスをしようとするためにエミリエンヌはジャンプせねばならず、ヴィクトールにしてみればガンガン頭をぶつけられている感じだ。
キスした跡も少しベトベトしてるし、これでは大型犬に舐められているも同然だ。まったくもって嬉しくない。
「よかったなぁヴィクトール、可愛い子に熱烈に感謝してもらえて」
それを見たアルマンが全く心の篭っていない言葉を吐く。
そこで「お前もしてもらえよ」と被害担当艦の役割をアルマンに押し付けようとするが、「いや、いいよ」と呆気なく一言の下に断りを入れられ目論見はつぶされる。
「大丈夫だよ! アーちんにも後でしてあげるから!」
「遠慮しとくよ」
「なぁに? ヴィっくんばかりにキスするもんだから焼いてるの?」
エミリエンヌは恐怖感から解き放たれた解放感と自分が話題の中心にいることとで嬉しそうだ。
「あ~もう帰って来てたのね! 帰って来るみんなを出迎えようと思っていたんだけど・・・ごめんなさい!」
ラウラはぴっちりと折り目のついたぴかぴかの制服を着て小走りで駆け寄った。一旦、寮の自分の部屋に戻って、破れた制服から違う新しい制服に着かえていたようだ。
ラウラはエミリエンヌがヴィクトールの首筋に噛り付いている姿を見ると、アルマンに対して微笑み、頭を軽く下げて礼を述べた。
「アルマン、危ないところを助けに来てくれて有難う。嬉しかったわ」
「どういたしまして」
「ヴィクトールも、そして私のことを探してくれたみんなも有難う」
ラウラはソフィーに対抗したわけでもあるまいが、両手でスカートを軽く掴み、足を斜め後ろの内側に引き、右側の足の膝を軽く曲げてお辞儀をして感謝を表す。
ラウラも帯剣貴族の出、それも歴史ある名家である以上、淑女として十分な教育を受けているはずなのだが、ソフィーに比べるとどこかぎこちなく感じるのは、活発なラウラが宮廷作法などというものを退屈なものとして性根を入れて覚えようとしなかったか、ソフィーがあまりにも見事にお辞儀をするせいなのか、あるいはソフィーがフランシアで屈指の高貴なる存在で、美人すぎるばかりに男の欲目がそう見せているだけなのか。
だがたどたどしい仕草で慣れぬお辞儀をする姿はそれはそれで本心から感謝の気持ちを表しているようにも感じられ、人の心を惹きつけるだけのものがあった。
皆の顔に笑顔が浮かぶとラウラもそれまでの作った笑顔でなく、いつもの人懐こい笑みを浮かべた。
「さてと、まずはジヌをとっちめなくちゃ!」
「これで終わりじゃないんですか? まだやるんですか?」
「当たり前よ! 舐められたらずっと風下に立たなくてはならなくなるの、やられたらやり返す!! テレ・ホートではそれが当たり前なのよ!!」
「でもしらを切られたらどうするんです?」
これまでの話を総合するとジヌディーヌが直に誘拐犯たちに命じたわけではないようだ。シメオンは彼らに対してことあるごとにジヌディーヌの名前を持ち出していたらしいが、誘拐犯たちはジヌディーヌの口から命じられるどころか、話したことも会ったこともないのだ。
主犯であるシメオンが死んだ以上、彼らとジヌディーヌとを繋げる確かな証拠は何一つないのである。
「状況証拠はそろってるじゃない!」
「それに相手はダルリアダ公爵家の一員。いくらラウラさんがナヴァール辺境伯家の出とはいえ、後々のことを考えると揉めると色々と面倒なんじゃないですか?」
「ジヌがいくら名門の出だからってやっていいことと悪いことがあるわ!! 辺境伯の出だろうが平民だろうが女の子を攫って人質に取ろうなんて許されないことよ!!」
言ってることは確かに正論なのだが、世の中は建前だけがまかり通るような生易しい世界じゃない。身分や立場が上ならば無理を押し通せる世界なのだ。
ジヌディーヌとラウラとの間で揉めた結果、騒動がさらに発展したとしても、本人たちは毛ほども気にしないかもしれないが、それに巻き込まれるのは、後ろ盾など持たない多くの生徒たちにとっては願い下げにしたいところであった。出世や将来に大きく影響するかもしれないし、下手をすれば命すら失いかねないのである。
「そうですね。ラウラさんのおっしゃることは間違っていない、正しいと思います。特権を多く持った者にはその代わりに多くのものをその身に課せられているはずです。自分の感情のままに他者を虐げるなど許されることではありません。わたしはジヌディーヌさんがラウラさんが攫うのを命じたとは思えません。ですがこうなったのはジヌディーヌさんに責任の一端はあると思います。二度とこのようなことが起こらぬようにジヌディーヌさんに釘をさしておく必要があるのではないでしょうか」
横合いからラウラを支持する声を発したのは、にこやかに微笑んだ気品ある少女、ソフィーだった。
事件の報告をするために一足先にあの場を離れて教師の下へと足を運んでいたのだが、ヴィクトールらが帰って来たのと時を同じくして用が済み、偶然通りかかったのである。
「公女殿下にご挨拶申し上げます!」
ソフィーの言葉が終わるや否や、生徒たちは次々と先を争うように彼女の前に立ち、胸に手を当て頭を下げて敬意を表した。
「ここは宮中ではありません。士官学校です。しかもわたしとあなた方とは教官と生徒との関係、あるいは上級生と下級生の関係ですらありません。机を並べて学ぶ、普通の同級生の間柄です。わたしに会うたびにいちいちそのような挨拶をされては身が持たないわ。ですからもうおよしになって」
「しかし・・・! 恐れ多いことです」
さすがに正体を明かした時のように跪かれまではしなかったが、ヴィクトールやアルマン、エミリエンヌたちまでから形式ばった挨拶をされてソフィーはいささかうんざりしたようだった。
「やはり身分を明かさないままの方がよかったわ」
頬杖をつき溜息をついて嘆くソフィーとは反対に、カミーユは目を細め嬉しそうだった。
「でもこれでヴィクトール殿もお嬢様に対して、今までの無礼な態度ではなく、敬意をもって礼儀正しく接することになりました。好ましいことです。お嬢様にはお嬢様のお立場というものがございます。将来、国を背負う立場になられるのですから、それに相応しい扱いを受けてしかるべきなのです」
「貴方はそう言いますけれども、カミーユ。わたしは士官学校の皆様方と身分に関係ない真の友人関係を築きたかった。父上のサロンの人たちのように」
今まではジヌディーヌとラウラ、一部の教官たちなど極一部の人間に緘口令を敷けば秘密は守られたが、さすがにこの人数に知られてしまっては緘口令を敷いていも、いずれどこからか漏れ、隠しきれないだろう。
ヴィクトールのあの場で解放するためであるから後悔はないが、残念なことには変わりがなかった。
「さあ、マリアンヌ様もそうおっしゃることですし、ジヌのところへ行って、あの分厚い面の皮をひっぺがしてやりましょう!」
ソフィーとは反対にラウラは何故か楽しそうだった。
自分をあんな目に遭わせたことに対する怒りよりも、高慢なジヌディーヌに一泡吹かせられるということが嬉しくてしょうがないのである。




