第四十一話 Iris de Southermbria
「でば陛下の命令書があればヴィクトールさんたちを解放していただけますか?」
「もちろん! 本当に陛下の命令書があればな」
小娘ができもしないことを言う。ファビアン警部は露骨に笑いはしなかったが、自慢の口髭を鼻息で震わせる。
「そうですか、分かりました・・・とはいえ今は時間がありません。仕方がありませんね」
ソフィーはしずしずと歩き、ファビアン警部に近づくと掌を開いてそっと差し出した。
「何だ?」
見てくれと言わんばかりの態度にファビアン警部もしぶしぶといった風情でソフィーの掌に目を落とす。
「・・・このネックレスがどうしたというのだ」
広げられた掌の上には綺麗にハンカチに包まれた銀のネックレスが輝きを放っていた。
金を使った凝った装飾、薄給のファビアン警部にしてみれば珍しく、大層なぜいたく品に思えるが、士官学校には大貴族の子弟も多いと聞くからには、彼女たちにとってそれが珍しく、何か意味があるものであるとは思えなかった。この小娘は何が言いたいのであろうかとファビアンは片眉を吊り上げ怪訝な表情を浮かべた。
「よくご覧になって」
「そう言われてもな。俺は美術品は詳しくないんだ。・・・ん? こ、これは・・・!?」
ソフィーの手からペンダントを無造作に掴み取りひっくり返すとそこにあるものに気が付き、息を呑んだ。
「フルール・ド・リス! まさか・・・まさか・・・!!」
フルール・ド・リスとはアイリスの花を様式化した紋章のことである。 様々な時代の文明において共通的に見られる普遍的な図形であるが、フランシアやブルグントにおいては極めて特殊な意味を持つ図式だ。フランシア王とブルグント王の共通の祖先が神から王権と共に授けられたという伝説によって知られている。つまりフランシアとブルグントにおいては王家が独占的に使用する特別な紋章であった。個人が許可なく使うことは許されていない。不敬罪に匹敵する大罪である。
そのアイリスが三つ、楕円形のペンダントの裏側に三角に配置されていた。
フルール・ド・リス一つならば王が褒美として寵臣に与えた例もあれば、あるいは他国から(その場合は往々にして色彩が違うのだが)婚姻によってもたらされたということもありうるのだが、三つとなればそれらの例とは一線を画する。それの意図するところは明確だった。このペンダントの持ち主は王家の血を引いているということである。
「まさか貴女は王家の関係者・・・いや、そんな馬鹿な。王族の方々がこのような場所にいるはずが・・・! なら、これは偽物!?」
「王家の血を騙るなど死罪をも恐れぬ行為。そもそも士官学校に入るような者が身分を偽ることなどありましょうか。わたしはマリアンヌ・アデライード・ソフィー・ド・サウザンブリア。父は先王陛下の弟にて前の摂政、そして今の宰相であるサンザンブリア公、紛れもなく王家の血を引いております。警部さんのおっしゃることは至極当然であるとは思いますし、本来ならば陛下にご命令を下していただくのが筋だとは思いますけれども、ここはわたしと父の顔に免じてヴィクトールさんの非礼、許してはいただけませんか」
その場にいたもの全てが凍り付いた。野次馬、警官、ヴィクトールにアルマンも驚きを隠せない。あの能天気なエミリエンヌですら真面目な顔をして瞬き一つしない。
ファビアン警部や警官たちは目の前の非現実的な出来事に思考を停止しているのか、呆けた顔をしていた。
平静を保っていたのはソフィーの正体を知っていたラウラだけである。
「何をしているの。マリアンヌ様の御前よ。それともイス警察は犯罪者を追ううちに礼儀というものを忘れたのかしら?」
ラウラに言われてファビアン警部は慌てて首を垂れ膝をついた。警官たちも額に汗を浮かべながら次々と膝をつく。
「ご尊顔を拝し奉り、恭悦至極に存じ上げたてまつります。殿下にはご機嫌麗しゅう───」
「ありがとう。でも気分はあまり麗しいとは言えませんわね」
「ははっ。まことに汗顔の至り。これまでの非礼の数々、平にご容赦ください」
先王の弟の一人娘という高貴な産まれのみならず、彼女は王子が産まれるまでフランシアの推定相続人であり、父と国王に深く愛され、幼いころから公式行事に顔を出し、オストランコニア出身の評判の悪い王妃に代わって王家のファーストレディとして国民に広く認知され敬愛されていた。その存在の重みはこの国においては王とサウザンブリア公、王妃そして幼い王子に次ぐ・・・いやあるいは王妃や王子、場合によっては父であるサウザンブリア公を凌ぐかもしれないほどの存在であった。
一警部の首など一瞬で飛ばすだけの権力は所持しているし、そんな彼女に不敬を働いたとあらば、法で裁きを受けなくても、民衆から私刑されかねないほどのものがあるのだ。
しかもその凶行はいつどこで行われるか分からない。イス警察の警部という身分を持っても防げない。警察の威信がかかる事態となっても、警察長官はきっと黙殺するであろう。
そこらの士官学校の貴族やナヴァール辺境伯の娘には屈しなかったファビアン警部もその威光にはひれ伏さざるを得ない。
「身分を隠していたのですもの。あなた方の態度は非礼には当たらないわ。ところで一つ訊ねたき議があるのですけれども・・・」
「は! なんなりとお申し付けください!!」
「先程のわたしのお願いは聞いていただけるのでしょうか?」
「もちろん・・・もちろんでございますとも!」
顔を上げたファビアンは振り返ると、自分が出した命令を忠実に実行し、ヴィクトールとアルマンを地面に押さえつけていた部下たちを叱って、二人の身体を自由にする。
「さ、これで君は自由の身だ。手荒な真似をしてすまなかったな」
ニコニコと気持ち悪い作り笑いを浮かべ、ファビアンはヴィクトールを立ち上がらせる。ご丁寧に服についた埃や土まで直々にその手で払ってくれる有様だった。
「警部さん、ありがとうございます。感謝しますわ」
ソフィーは例の、今時珍しい古式ゆかしいお辞儀を完璧に披露する。なるほど、それほどの身分の女性であればこそ完璧なお辞儀をして見せようし、またその様がしっくり来るのであろうとヴィクトールは納得の面持ちだった。
「そんな・・・私ごときにもったいない・・・」
「もう一つ、お頼みしたいことがあるのですけれども」
「なんなりとおっしゃってください!」
まるでご主人様の前に出た忠犬である。ファビアンはこれまでの失点を少しでも埋め合わせようと必死だったのだ。
「この先の通りを三つ戻って左折、二つ向こうの区画、二本目の裏道の一番奥、そこに件の馬運車があり、ラウラさんを誘拐した犯人がおります。わたしの付き人と父の手の者が見張っておりますので、警察が代わって引き取っていただけますね?」
「はっ!」
「よろしくお願いいたします」
「はっ!! それでは早速・・・失礼いたします!」
ファビアンはソフィーに深々と頭を下げた後、手を振って背後の警官たちに移動を指示する。
「行くぞ!!」
ドタドタと慌ただしく警部たちが去っていく姿にソフィーはお道化た表情でラウラと目を見合わせ小さく笑った後、ヴィクトールの方に顔を向けて語り掛ける。
「さあ、ラウラさんたちを見つけ出せましたし、ヴィクトールさんたちも警察から解放されました。これで終わりです。全てがうまくいきましたね」
ヴィクトールは返答しない。ソフィーは言い方が悪かったのかともう一度、今度は相手の名前を入れ、緩やかに優しく語りかけた。
「どうしたのですヴィクトールさん。お返事してください。わたしが誰の子供であろうとわたしはわたし。あなたが命を救ってくださったお友達のソフィーです。今まで通りでよろしいんですのよ」
だがヴィクトールどころか誰一人返答をしない。それもそのはず、去った警官以外の皆もソフィーを崇めるように道に跪いていたのだ。
野次馬、通行人、いつのまにか来ていたのか、馬運車を探すためにあちこちに散っていた士官学校歩兵科の一回生たちも、皆一様に跪いていた。ヴィクトールすら首を垂れて顔すら上げない。立っているのはラウラただ一人である。
「無理です、マリアンヌ様、これが王叔サウザンブリア公爵の一人娘、王位継承権第三位の人物に対する世間一般の態度というもの。ヴィクトールとは今までのようにフランクな関係とは行きませんわ」
ラウラの言葉にソフィーは右手を頬に当てて溜息をつく。
「・・・これが嫌だったのです。同じ学生として時間を過ごし、苦楽を共有したかったの。だから士官学校に入学するにあたって身分を隠したのですけれどもね」
「でもヴィクトールやアルマンを救う為に身分を明かしてくださった。このラウラ、マリアンヌ様のご配慮に本当に感謝しております」
そう言って腰を折ったラウラは、さすがは宮廷人という、これまでヴィクトールが見たこともない優雅な姿をしていた。
「とりあえず立ってください。お友達を道に跪かせるのはわたしの本意ではないわ」
ソフィーはヴィクトールに近づくと腰を屈め、両手をもって立ち上がらそうとする。だが貴族と言っても名ばかりのヴィクトールはこの場合、儀礼的に素直に立っていいのか分からず戸惑うばかりである。
「しかし・・・」
「立ってください、お願いです」
「は・・・」
にこやかに笑いかけるとソフィーはヴィクトール、アルマン、エミリエンヌと自ずから手を取って立ち上がらせる。
緊張していることを隠そうともしないそのヴィクトールの姿を見て、ラウラはふくれっ面をする。
「それにしてもヴィクトールも一応礼儀ってものを知っているのね。初めて知ったわ」
「失敬な。俺だって貴族の端くれ、少しくらいは弁えているさ」
「それならマリアンヌ様の十分で一でいいから私にも礼儀ってものを示して欲しいものね。私もそれなりの家柄のお嬢様なんだから!」
「ソ・・・マリアンヌ様とラウラとじゃ産まれ持ったものが違うからなぁ・・・黙っていても滲み出る気品とか優雅さとか」
「なんですって!?」
ようやくいつものヴィクトールに戻ってくれた。ソフィーはラウラとヴィクトールの会話に朗らかに笑った。
「本当に二人は仲がいい。ヴィクト-ルさん、わたしにもその調子で話してくださいね」
「はっ・・・!」
ファビアン警部が乗り移ったかのような返答、身体を小さく縮こませて頭を下げるヴィクトールのぎこちない仕草にラウラはぷっと噴出した。
「ところでヴィクトール、ひとつ忘れてないか?」
「何をだ?」
「俺たちが追っていた奴のことを。あいつが逃げたままだ。どうする?」
実にうっかりな話だが、シメオンのことはごたごたに紛れてすっかり記憶から消えていた。ヴィクトールは今更ながら考え込んだが、一拍の間をおくと顔を引き締めて返答した。
「探す。一発は殴らないと気が済まない」
「そう言うと思っていたさ」
「確かこっちに逃げたはずだ。手分けして探そう」
今にも駆け出しそうなヴィクトールの袖を掴むと、アルマンが地面を指さした。
「見ろ。血が点々と歩道に滴り落ちている。これを伝っていけば難なく相手を追うことができるぞ」
「こいつはいい」
ヴィクトールの顔にはいつものような自信溢れる独特の笑みが浮かんでいた。ソフィーの正体を知って、狂わされた調子もすっかり元に戻ったようだった。




