第三十三話 巨漢
「あら? あれはヴィクトールさんじゃないかしら?」
校庭の端にある一際大きな古木の木陰にてカミーユとジュスタンに挟まれて座り昼食をとった後、昼休憩の時間いっぱい街から吹き上げてくる風に当たって優雅に涼んでいたソフィーは校舎の横を疾風のように駆け抜けていった影にどことなく見覚えを感じ凝視する。
「やはりヴィクトールさんね。それにしても・・・何があの彼をあれほど慌てさせているのでしょうか」
「相変らず騒がしい方のようですね」
踵を上げ背伸びをし、目の上に手庇を作ってヴィクトールの走っていった方角を見て浮かれた声を出したソフィーに対して、カミーユは少年の走る後姿にも冷たい視線を向けただけだった。
「軍事教練と緊急時以外は士官学校内で走ることは禁止されています。それを知らぬはずはないはずはないのに・・・細かいことに頭を回す精神的余裕がないと見受けられます。つまりまた何やら厄介ごとに巻き込まれているということでしょう。伝え聞く評判もあまりよろしくないし、そういう人物とお見受けします。お嬢様は近づかないほうがよろしいかと」
カミーユの言葉にソフィーは驚きで目を丸々と開き、くるりと振り返えると両手を腰に当てて抗議の意を表す。
「あら、私にとって彼は命の恩人よ。それに詳しい事情も調べずにそのように決め付けるのは良くないわ」
「お嬢様のお命を助けたことについては彼の者に大変感謝しておりますが、所詮は下賎の身、お嬢様とは身分も立場も違います。あまり深く関わりあいにならないほうがよろしいかと」
「そのようなこと言ってはいけないことよ」
「しかし本当のことです」
「真実が常に正しく、言うべきこととは限らない。上に立つものは口にしたことが周囲の者にどのような影響を与えるかをよく考えて話さなくてはいけない、貴女が教えてくれた言葉よ、カミーユ?」
「・・・確かにそうでした。これは失礼を」
「私、彼の力になって差し上げたいわ。受けた恩を返したいの。何でお困りになっているか調べてくださらないかしら?」
ソフィーは首を少し傾げてにこりとカミーユに微笑んだ。だがカミーユはソフィーのその頼みにも少しも心を動かされた様子を見せず、口を真一文字に横に結んで表情はこわばったままだ。
「お嬢様も私もラインラントで行われた一回生の研修スケジュールが何時どこから漏れたのかを調査中ではありませんか。もちろんあれが単なる偶然と言う可能性もないでもありませんが、場合によっては国家の安全保障にかかわる事態になるやもしれません。今はそちらを優先すべきではないでしょうか?」
「もちろん、それは重大な案件です。ですがそれがもし犯人が悪意を持って洩らしたのだとしたら、その相手に気取られないように慎重にゆっくりと、そろりそろりと暗闇を手探りで探るように調査しないといけない案件でもあるわ。どうせすぐに真実が得れるようなものじゃありません。その合間でいいの、調査してくださらないかしら?」
「そういうことでありましたなら・・・ですがあくまで調査のメインはラインラントの一件です。余った時間を使って調べるだけです。期待はしないで下さい」
その極めて平坦な、抑揚のない事務的な、やる気と言うものが一寸も見当たらないカミーユの返答にソフィーは嫌な顔一つ見せずに、逆に満面の笑みを返して見せた。
「いいえ、期待いたします。だって貴女の事ですもの、きっと二つともそつなく完璧に調べてくださいます。違いまして?」
「・・・・・・」
押し黙ることで言外に拒否を臭わせるカミーユに対して、ソフィーは怯むことなく更に押し込んでいくことで自身の希望を通そうとする。
「お願いね、カミーユ。彼に今、何が起きているのか調べてください。そしてもし必要ならば彼を手助けしてあげて欲しいの」
「・・・はい」
ようやく言質を引き出せて満足したソフィーは最初から押し黙ったまま背後に立っている、彼女のもう一人の『お友達』に同じ『お願い』をした。
「ジュスタン、貴方もお願いしますね」
「・・・御意」
巌のような巨人はカミーユと違ってソフィーの言葉になんら異議を唱えることなく、重々しく頷いた。
ヴィクトールはラウラやエミリエンヌが主に行動する一回生の校舎棟内を探し回ったが、彼女たちの姿はどこにも見当たらない。それどころか誘拐犯からの接触も、彼らの手がかりも見出すことはできなかった。
そこで上級生の校舎など普段なら足を踏み入れない場所も探し回る。
と、ある廊下を曲がったところで横一杯に広がって階段を下って来る大柄の男たちに出くわした。
心が急いているヴィクトールはそれを邪魔に思い、眉を少し上げるが、いったん脇に避けて道を譲ってやり過ごそうとする。
だが彼らはヴィクトールを見ると口元に嫌な笑みを浮かべてむしろ行く手を阻むように近づいた。
「探したぞ」
声を発した男は大男たちの中でも一際大きい。ヴィクトールが今まで見た一番の大男といえばジュスタンなのだが、あの大男よりも拳一個分は大きい。
しかも背が高いだけでなく、横幅、厚みともにかつて見たことがないほどに太く逞しい。目の前に立たれると巨大な熊やヘラジカを眼前にしたときのような圧迫感を感じるほどだ。
その巨体が自分の名前を友好的とは言いかねる声色で呼んだことにヴィクトールは身構えた。
対して大男はヴィクトールが右足を素早く引いて半身開き、警戒態勢に入ったことにも意に介さずに無防備に一歩近づいた。
「お前がヴィクトールとかいうガキか。仲間がずいぶんと世話になったようだな」
身長差から生まれる頭上から降り注ぐガスティネルの文字通り見下した視線にもヴィクトールは臆することなく睨み返す。
「・・・だとしたら・・・?」
「俺の名はガスティネル。この学校でテレ・ホート出身者の顔役のようなものをしている者だ。顔役って言ってもまぁ、面倒な仕事や厄介な仕事を押し付けられる小間使いのようなものなんだがな。で、だ。やられたらやり返すのがテレ・ホートの流儀でな。悪いが少しばかりつきあってもらうぞ」
喧嘩を売ってきて返り討ちにした三人組がテレ・ホート出身者だということをヴィクトールは今ここでやっと知ることになった。
彼らの郷土愛とその紐帯の強さは誰もが知るところである。少しばかり厄介なことになったかもしれないと思った。
だが今は彼らにかまっている場合ではない。誘拐犯の思惑がまだ完全に分からないのだ。もしかしたらラウラやエミリエンヌの身に万が一といったこともありうるのである。
「俺は今忙しいんだ! 後にしろ!!」
ヴィクトールは苛立ちを露わにそう叫んだ。
見らねぬ顔、そして服装から相手が上級生であることを見抜く余裕───いや、そもそも相手の服装を確認する余裕すらヴィクトールは無くしていたといったほうが正しか、ともかくもそういった心理的な余裕を一切完全に失っていた上での発言である。
「貴様!! ガスティネルさんにふざけた口を利くな!!」
よほど人望が篤いのか、それとも媚を売ろうと思ったのか、ガスティネルに対するヴィクトールの暴言に激高した一人の男が飛びかかってくる。
真っ直ぐ打ち込まれた鋭いパンチをヴィクトールは右前方にスウェーしてかわす。こめかみの少し上を拳が擦っていき、脳が揺れるのを感じながら、ヴィクトールは左腕をたたんで大きく弧を描くように動かし、相手の顎目掛けて叩きつける。
手応えは悪い。利き腕じゃなかったからか、あるいはインパクトの瞬間、相手が顎を引き後方に仰け反ったためか、振りぬいた手に残った感触は確かなものではなかった。
それでもまったくのノーダメージというわけにはいかないはず。身体的、あるいは精神的に少しでもダメージを与えることができたのではないかとヴィクトールは期待するが、肝心の相手は口の中を切った程度で、唇から流れ出た一滴の血を拭い、ヴィクトールにニヤリと笑いかける余裕すらある。
この間の三人組のように簡単にはいかない相手のようである。といってもこの間の三人組ですらヴィクトールにとってはなかなかに骨の折れる相手ではあったのだが。
「やってくれたな・・・! だがお前のパンチなど、この俺には効かねぇぞ!?」
再び挑みかかろうとするその男をガスティネルの巨大な掌が肩を掴んで制止した。
「やめろ。そいつの相手は俺だ」
自身の身体よりは小さいとはいえ、ガスティネルはその大男の身体をいとも容易く左手一本で脇に押しやりヴィクトールと正対する。
「ルイ相手に互角に渡り合うとは・・・大したものだ。噂どおり少しはやるようだな」
「何度も言うが、俺はお前らに係っている時間はない!!」
「ふふん・・・!」
ヴィクトールの余裕の無さをガスティネルは鼻で笑った。
「お前が何にそんなに慌てているか分からないが・・・だが一つ言えることがある。お前が望みを果たすには俺を倒さねばならないということだけは確かだということだ。理由は分かるな?」
「貴様・・・ッ、まさかラウラを!?」
「・・・なんのことかな?」
ガスティネルは意味深げな笑みを浮かべる。
「・・・どうやら戦わねばならないようだな」
だが相手は一対一でも勝てるかと言われれば難しいと答えざるを得ないような怪物どもである。十二対一ではどう考えても勝ち目はない。
しかし意地を見せるために、いや、少なくともなんらかの情報を聞き出すためにもここは相手の挑発に乗って喧嘩を買うべきだとヴィクトールは判断した。
ヴィクトールを殴ってすっきりすれば案外、簡単にラウラやエミリエンヌを解放してくれるかもしれないし、そうでなくても派手に乱闘騒ぎになれば、いずれ教官が乗り出して問題の解決を図ろうとするはずである。
いくら煙たい存在で、普段は教官といえども関わりを持ちたくないガスティネルらであっても、そこまで騒ぎになれば見て見ぬふりはできないであろう。
ならば殴られることもまったくの無意味ではないはずだ、と覚悟を決めてヴィクトールは拳を構える。
その深刻な顔を別の意味と捉えたか、ガスティネルは愉快そうに笑った。
「安心しろ。一対一だ。こいつらには手を出させない」
「そりゃ、どうも」
「複数対一だから負けた、一対一ならば負けなかったなどと、後で糞生意気な口を開かれたら鬱陶しいのでな。この俺が正々堂々叩きのめしてくれるわ」
ガスティネルは余裕綽々で、もはや勝利を確信しているかのような態度だった。だが無理もないとヴィクトールすら思った。
現代風に言うならばボクシングのミドル級とヘビー級・・・いやヴィクトールの未完成な身体もあいまって、この体格差はそれ以上のハンデを二人の間にもたらすことは間違いなかった。しかもウドの大木というわけではないだろう。荒事で知られるテレ・ホート出身者をまとめ上げているからには、それなりの腕前であるはずだ。体格差がそのまま実力差となってもおかしくない。
だが相手は一見、人食い熊のように馬鹿でかいが人間である。一対一で同じ人間であるなら、まったく勝ち目がないというわけではないだろう。
そのヴィクトールの内心を見透かしたのかガスティネルは薄ら笑いを口元に浮かべて挑発する。
「なに、俺にやられたからって悲観しなくてもいいぞ。なにしろ俺は産まれてこの方、殴り合いで負けたことがない。それどころか五分と保った奴すらいない」
そのガスティネルの言葉に先ほどヴィクトールに挑みかかってきた男が素早く反応する。
「一番保ったのは俺ですよ、ガスティネルさん。なにしろ三発防いだんですから」
「でもルイさん、次に二発立て続けに喰らって大の字に倒れ込んだじゃないですか」
「しかたねぇ兄貴の拳は恐ろしく重い。一発でも喰らえば意識が吹っ飛んじまうんだ」
僅か五発で沈められたなど、普通ならば恥ずかしく思うべきことなのだが、ルイはどこか自慢げだった。それだけ彼らの間にガスティネルの凄さが広まっているということだろう。
「残念だなルイ、お前は二番目だ。俺の兄貴は七発叩き込まなければ沈まなかった」
「へえぇ! そりゃすげぇ! 兄弟そろって化け物だ!」
「おい! 俺たちを化け物扱いするな! 失礼な奴だな!!」
「こいつは失礼しやした」
ルイとガスティネルのやり取りにテレ・ホートの者たちは軽妙な笑い声を立てた。ヴィクトールのことなど眼中にないようだった。
余裕の表れなのかガスティネルは外していた視線をここでようやくヴィクトールに戻すとニヤリともう一度不敵に笑う。
「というわけだ。なに、死にやしねぇさ。何週間か病院へ行ってもらうことになるだけだ。じっくりと休暇を楽しんでくるがいい」
「あいにくと俺は入学したばかりでね。休暇に飢えてはいないんだ」
この期に及んでも人を食ったように返答するヴィクトールをガスティネルはほう、と興味を持った視線を向けた。
「そう遠慮するな。軍隊に入ったらなかなか休暇など貰えないんだぜ」




