第三十一話 シメオンが企むもう一つの陰謀
ヴィクトールは気が付かなかったが、高らかに勝利の靴音を鳴らしながらその場を立ち去るその姿をじっと遠くから見つめていた目があったのである。
彼らをけしかけてヴィクトールにぶつけたシメオンと彼を監視する目的で近づいた一回生ふたりの成り行きを見守っていた目であった。
「またも失敗したじゃないですか。いったい次はどうするんですかね」
その一回生は期待に反してヴィクトールが勝利する姿を見ると溜息をついて目線をそらした。次いで顔を横に背けたまま、シメオンに対して呆れ気味に言った。
無理もない。シメオンが計画したことで巧く行った例がここまでひとつもないのである。
彼の見るところシメオンという男は、自信満々で巧みな口振りとは裏腹にどうやら考えることは杜撰で、希望的観測が多く先行きの見通しが甘い、所謂口先ばかりの男であるというのが実像のようだった。
シメオンが余人の考え付かぬ奇策をもってヴィクトールを出し抜くことを恐れた、その多大勢を代表して(といってもジネディーヌの取り巻きの中で立場の弱い彼が押し付けられた形になるのだが)わざわざ張り付いた自分が馬鹿みたいであった。
だがそんな冷たい視線に晒されても、シメオンは意に介さないのか取り澄ました顔で笑んでみせるだけの余裕を見せる。
「いいや失敗などしていないさ。テレ・ホートの連中は|面子≪メンツ≫と男気で世の中を渡っているんだ。仲間がやられたのにこのまま黙っているなんてできるものか。誇りにかけても他の連中・・・なによりもガスティネルが必ずヴィクトールを倒すために出てくるさ。一度や二度負けてもそれで勝負を諦めるなどありえない。必ず勝利を得ようとするだろう。それこそどんな手を使ってもな」
シメオンは自信満々に言い切ったが、その一回生にはシメオンお得意の負けず嫌いが発動した単なる減らず口にしか聞こえなかった。
流石に上級生に対する態度は彼とて弁えている。黙ったまま疑わしげな目付きでじっとシメオンを眺めるだけである。
そんな彼の内心を見透かしたかのように返答代わりにシメオンは見せつけるように嫌味な笑いを口元に軽く浮かべた。
だがシメオンの現状分析はまったくの間違いと言うわけではなかったのである。
ちょうどその頃、先程ヴィクトールに手加減無しで殴り倒された三人の男たち一行は、殴られてできたばかりの腫れ上がっり変色した痣をさすってガスティネルのところに泣きつきに来ていたのである。
だがそんな彼らにガスティネルが浴びせた一言は彼らが期待していたものとは大きく異なる言葉だった。
「それで殴られて尻尾巻いて逃げてきたというわけか! なさけねぇ!!」
ガスティネルは唾を飛ばして怒鳴りつけると同時に、真っ二つにしようかといった勢いで机に拳を叩きつけた。
「やられっぱなしで黙るとか貴様、それでもテレ・ホートの男か!」
彼らはテレ・ホートに対して誰もが出身地に等しく抱く郷里愛を持つと同時に、フランシアにおいて化外の地扱いされ、ややもすれば人ではなく獣のようにさえ見られることから劣等感をも彼らは併せ持っていた。だからこそなおのこと強い仲間意識があるのだが、腕っ節の強さが何よりもの誇りであるテレ・ホートの男たちが一対三で敗北したという現実に、ガスティネルはねぎらいの言葉に変えて罵声を放たずにはいられなかった。
「そうはいいますがね、あのヴィクトールってやつ相当な手練でして二回生を五十人ばかしのしたとかいう噂もひょっとしたら・・・と思わせるだけのものはありやすぜ」
痛む箇所をさすり、眉毛を八の字に描いた顔をする彼らに対してガスティネルも憐憫の情を催し、少し平静を取り戻す。
「む・・・」
「兄貴ィ、仇取ってくださいや」
その無言を同情と見て取ったのか、愛想笑いを浮かべ、媚びるような目つきで言う彼らに対してガスティネルは黙して語らず、ひと睨みするだけだった。
「・・・」
「あ、兄貴?」
「お前、まさかとは思うがシメオンの口車に乗って自ら喧嘩を売ったわけじゃないだろうな?」
ガスティネルはぎろりと大きく目を剥いて威嚇する。
「・・・ま、まさか!」
三対一という必勝態勢を取って自ら喧嘩を売ったなどという真実を告げるわけにはいかなかった。みっともないし、そもそもそんな不格好な話では仇を取ってもらえない可能性だってある。
「分かった。ならば敵を討とう。傷の手当をしてベッドの中に潜り込んで寝てるがいい。明日には良い知らせが届くだろう」
「へへへ・・・ありがとうございます!」
喜色を顔に表してガスティネルに何度も頭を下げてその場を離れる男たちに対してガスティネルは最後まで苦虫を噛み潰したような顔を崩さなかった。
「ガスティネルさん、あいつ・・・この前来た細目の甘言に乗って自ら喧嘩を売りに行ったのじゃないんですかね?」
「・・・・・・おそらく、そうだろうな」
確かに跳ね上がりの一回生が己の腕っぷしを誇ろうと学内で一定の勢力を持つテレ・ホートの者たちに喧嘩を売って名を上げようと考えることは考えられなくもない。
何年かに一回、そういった腕に覚えのある者が、そして少し頭のねじが外れた馬鹿が彼らに挑みかかってきた歴史がある。もちろん彼らはその都度、懇切丁寧に死なない程度に可愛がって叩き返してきたが。
だがそういった跳ね返りは入学早々に喧嘩を売ってくるのが常である。
ヴィクトールは何かと騒ぎを起こしてきたが、ここまでの期間一切、彼らに接触がなかったことを考えると、そういった輩の類であるとはガスティネルにはあまり思えなかった。
となると喧嘩はこちらから売りに行ったと考えるのが当然であろう。
「ではわざわざガスティネルさんが出張ってケツを拭いてやる必要は無いのでは? 殴られたのも自業自得ってもんですぜ」
「だが、あれでも俺たちの仲間であることには変わりがない。仲間がやられたことは事実、今頃は一回生の間ではヴィクトールとやらの新たな武勇談が声高に語られているだろう。それを座して見逃したままでは俺たちテレ・ホートの者が他の生徒にまで舐められる。俺たちの次の代の連中の肩身が狭くなる。ジヌディーヌやあの男の思惑通りになることは気に食わないが、この一件はもはや俺がヴィクトールとやらをぶちのめさなくては納まりがつかんだろう」
「なるほど」
そう言うとその男は顎に手を当てて少し考え、ガスティネルに対して意味ありげな笑いを浮かべた。
「・・・ならば急いで人数を集めますか?」
だがガスティネルはその提案を鼻で笑い飛ばす。
「なめるなよ。一対一で正々堂々とぶちのめしてくれるわ。ヴィクトールという男、少しばかり腕が立つかもしれんが、俺の敵になるはずがない。それとも貴様、まさかあの男がこの俺の相手になるとでも思ったか?」
それを大言壮語と言い切ることはできないだろう。百九十八メートル、百五十二キログラムという現代においても恵まれた体躯と言えるガスティネルは栄養状態の貧しいこの時代においては怪物と称するに相応しい存在であり、全身が筋肉の塊であるガスティネルは物心がついてこの方、喧嘩で負けたことなど一度として無かった。
ガスティネルが荒くれ者揃いのテレ・ホート出身者をまとめているにはそれなりの理由があるのだ。
「そ、それもそうですね」
「ですがガスティネルさんが本気で戦うとなると相手の身の方が心配だ。さすがに士官学校内で死人を出すのはヤバいんじゃあ・・・」
「手加減はするさ。死なない程度に可愛がってやる」
ガスティネルは産まれてこの方、どのような男であっても一撃で粉砕してきたその自慢の右拳を左掌に叩きつけて、小気味よい音を一帯に鳴り響かせた。
やがてテレ・ホート一派の慌ただしい動きはシメオンの知るところとなる。自身の思惑通りにいったことを悟り、シメオンは満足げにほくそ笑んだ。
「さてとこれで下拵えは済んだ。ジヌディーヌ様に伝えてくれ。計画通りに行ったとな。ついでにお前のお仲間にもこの私の手並みを報告してやるんだな」
急展開な事の成り行きに、その一回生は先ほどまで馬鹿にしていたことなどすっかり忘れ去り、全てがシメオンの思惑通りに動いているかのように錯覚に陥った。
よくよく考えれば、ガスティネルに協力を断られ、代わりに焚き付けた男たちは三対一にもかかわらず敗北した以上、シメオンの計画とやらが全て上手くいった訳ではないのである。
つまりそう思い込んでしまうほど思いもかけぬ展開だったということである。
だからそのシメオンに自身の思惑を見抜かれていたことに、一回生は心臓を掴まれたかのような衝撃を覚え、大いに狼狽えた。
「・・・・・・自分で報告に行かないのですか?」
冷や汗を流しながらどうにかこうにか発言するその一回生に対して、シメオンはそれをも見透かしているかのような薄ら笑いを浮かべ返答した。
「こちらにはこちらの都合ってものがあるのさ」
そう言うと一回生をその場に残しシメオンは高笑いを上げて立ち去った。
彼にはこの学園内でジヌディーヌに頼まれたこの他愛無い用件の他に、某司教猊下から命じられた真に重要な秘められた使命を実行せねばならないのだ。
だがそれはこの士官学校内の他の誰にも知られてはならぬことなのだ。
「これは好機だ。今回の事件を利用してテレ・ホート出身者とそうでないものの間に不和を振りまけば、ラインラントにおいてフランシアに対する住民感情は悪化する。地元民の協力を得れなくなったフランシア軍は苦戦するだろう。ブルグントに心寄せる者も出るに違いない。先の敗戦で大きく針が傾いたラインラントのパワーバランスをさらに傾かせることになるはずだ。フランシアはラインラントを失陥することさえありうる。そうなればブルグントはラインラントだけでなくテレ・ホート全域を手に入れることも不可能じゃない」
同時に自分のブルグントに対する功績も比類ないものになるに違いない、とシメオンはニヤリと笑みを浮かべた。
だが、とすぐに考え直して表情を引き締める。
例えシメオンの考え通りに物事が進んだとしても、この一件でテレ・ホート出身者とそうでない者の間に感情的な対立が引き起こされるとしても、あくまでそれはこの士官学校内の出来事に過ぎない。それを喧伝し、事態を大きくするのはシメオンの力では無理だ。他のものがそれを担うことになるだろう。つまり一石を投じる役目は果たしたが、殊勲は別の者に掻っ攫われたということもありうるのである。
それに最終的にラインラントを手に入れるには軍が動いて、そこに駐留するフランシア軍を追い出さなければならない。そして外交や謀略など影働きよりも、戦場での働きのほうが評価されるのは世の常である。
常々、自分の都合がいいように考えがちなシメオンであっても、この働きが正しく評価されるかどうかといえば口ごもるしかない。
ならばもう少し手柄となるような何かをする必要があるとシメオンは思った。そして幸いにしてそれには心当たりが大いにあった。
それはこの士官学校内で今現在、燻っている問題である。つまり貴族のテリトリーである士官学校に平民が入ったことによる貴族階級の不満、また入学した平民たちが感じている疎外感といったものである。
この対立する双方が抱いている感情的対立をエスカレートさせることはできないかということだ。
解放の象徴である士官学校で貴族と平民との間で事件が起き、それが圧倒的に貴族に非があるようならば・・・いや、貴族に非があるように宣伝し、市民に信じさせることができれば、士官学校の解放政策は逆効果になる。
そらみろ、貴族の平民との融和政策など名ばかりのものだ。開明派などと言っても貴族はどこまで行っても貴族、平民はいつまでたっても何も持たぬものなのだ、と。
フランシアにおいて高まりつつある貴族に対する平民の不満は爆発寸前にまでなる可能性がある。
開放政策に内心反対している保守派貴族たちも、平民と貴族とを同列に並べることなど不可能である、それ見たことかと大いに声を上げるに違いない。
となれば開明派の領袖として宮廷内で声望を保っているサウザンブリア公爵の顔に泥が塗られ、その権威は失墜することになるだろう。
宮廷内の大派閥の一つ、それも血縁的に王家に近い大貴族が力を失えば、派閥の均衡を足場として国家に君臨しているフランシア王とて無事ではおられまい。
政治的な大きな動きはフランシアの力を内向きにし、対ブルグント、ラインラント方面への興味と関心を失わせることにも繋がるだろう。
「それには・・・もう少し事件を大きくしてやる必要があるな」
ジヌディーヌは言わずと知れた大貴族だし、ガスティネルもヴィクトールも曲がりなりにも貴族である。
この三者が絡んでいるうちでは事態はこれ以上広がりようがなかった。事件を大きくする取っ掛かりとなる何かが足らないのだ。
と、悩むシメオンの目に格好のターゲットとなる人物が映ったのである。




