第二十五話 司教と侍者
「司教殿、今のが例の男、ヴィクトールです」
馬車の中で若い男が歩いている男女四人組のうちの背の高い男、つまりヴィクトールを指差してそう言った。
指差した男も士官学校の制服を着ている。袖口の色を見る限り二回生であるらしい。士官学校の生徒にしては痩せ型の、鋭い目をした才気走った───というよりは小狡そうな釣り目を持つ青年である。
その言葉を聞いて少し年嵩の、といっても四十前くらいだが、僧衣を着た人物が馬車の狭い窓に顔を近づけて外を見る。
「・・・あれがか。あの切れ者のガヤエ将軍の思惑を打ち砕き、ボードゥアン将軍を痛い目に合わせたとか言うフランシアの若き勇者、そして君と私の目論見を無に帰した張本人と言うわけだ」
僧衣を着た男の言葉に学生は苦々しく口の端を曲げて笑い、吐き捨てるように言った。
「単に運がいいだけですよ。あてずっぽうで立てた作戦が上手くいったに過ぎません。あんな幸運がそうあるものですか。司教殿ほどの人物が気にかけることなどありません」
「嫉妬か? 見苦しいぞ」
それまで二人の会話に一切口を開かずに司教と呼ばれた男の横に行儀よく座っていた子供が口を開くや痛烈な一言を吐いた。
僧行をしていることを見ると侍者ででもあろうか。この時代、少女の侍者はいないから少年と言うことになるのだが、鈴の音のような高く美しい声、背中にかかるまで伸ばした流れるように美しい金髪の髪、整った顔に長い睫毛を有した眼、年不相応に妙に色気づいた紅く膨らんだ唇、少年といえば少年であり、少女といえば少女に見える。どこまでも中性的な子供である。
とにかく初対面で話もしたことがない少年に、その美しさに似合わぬ毒舌をいきなり吐かれてその生徒は怒りよりもまず途惑いが浮かんだ。
「こらオージェ、客人に対して失礼だぞ。謝りなさい」
「・・・」
司教が手で押さえて少年の頭を下げさせ形だけは謝らせるが、謝罪の言葉は一切、オージェと呼ばれたその少年の口から出てくることはなかった。
さすがに子供相手に怒るのは大人気ないと思っても、その生徒も気分を害さずにいられなかった。
「すまんな。口の悪い子でな。後で十分にしかっておく。気を悪くしないでくれ」
「こ、子供のすることですから気にしておりませんよ、アハハ」
その生徒にとって司教は上役であり、金をくれるパトロンであり、将来の出世の種である。
生意気な子供に対する怒りは容易には収まるものではなかったが、司教に下手に出られてはそれ以上怒ることも責めることも得策ではないと計算するだけの冷静さは保っていた。
「すまんな」
司教はもう一度軽く頭を下げた。目の前の相手に汚い言葉を吐いたことを反省することは無かったが、自分の行動が原因で司教が頭を下げたことには侍者は悪いと思ったのか少し悲しそうな顔をした。
「それにしても先程の傍にいる女生徒、ああ、背の高いほうさ。あの顔・・・どこかで見た記憶があるな・・・確かナヴァール伯のお嬢さんではなかったか?」
「ああ、確かにそうです。アイリスの三公女の一人ラウラ・ルイーズ・ド・ナヴァールですね。さすがに何でもよくご存知で」
「一度見た顔は忘れないのが私の特技でね・・・ナヴァール伯が連れてきているのを宮中の舞踏会で見た記憶がある」
司教がやけにヴィクトールに興味を抱くことがあまり気に入らないのか生徒は口の端を引きつらせていた。侍者の少年が言った言葉は案外確信をついていたのかもしれない。
「ヴィクトールという男、入学早々、彼女と決闘騒ぎを起こしたんですけどね・・・いつの間にか取り入って今や彼女のお気に入りだとか。実に小ざかしい奴ですよ」
「なるほど立ち回りが上手いというわけか。頭は回るようだな」
そこでようやく司教は生徒の表情が不快そのものといったふうに変わっていることに気付き、笑みを作ってフォローを入れる。
「むろん君には劣るだろうがね」
人目の無い場所で生徒を下ろして分かれると、司教は御者に命じて裏道を選んで馬車を走らせる。
出立時、生徒を道端で拾った時、そして会話しながら馬車を走らせている間も常に尾行されてはいないか、あるいは周囲に目を光らせている不審者はいないか確認させ、怪しい眼は無いと判断したというのに、さらに念には念を入れて警戒したというわけである。
とにかく何事にも慎重なのが性分なのであろう。
馬車の中では珍しくオージェが饒舌に彼の敬愛する司教様に熱弁をふるっていた。意に沿わず頭を下げさせられたことに怒りを覚えたわけではない。ただずっと疑問に思っていたことをこの場でぶつけたかったのだ。
「何故、あのような男をいつまでもお使いになるのですか? 器量も乏しく、才覚も無い。工作員として使えるわけでもなく、諜者としても今回のようにあやふやな情報ばかり持ってきます。極めて頼りありません」
「オージェは彼に厳しいな。嫌いかい? 彼みたいな人間は?」
「はい。私は無能な者は嫌いです。いえ、無能なのに自分は有能だなどと思い上がって自惚れている奴が嫌いです。あいつは自分がプレシー様と五分の人種だと思っているのでしょう。たまに言葉の端々に不遜な態度が見え隠れします。許せません。どうせ味方にするのならば同じ士官学校の生徒でもヴィクトールとか申す者の方が良いのではないですか? 無能な味方は味方に益をもたらすどころか害を及ぼします。無能な者は切り捨てるにしかずです」
「才能だけを考えるのならばまさにオージェの言うとおりであろう。多士済々たる士官学校の生徒の中から将来の剣としてあの男を選ぶ余地などありはしない。だがな、賢く才能ある者は味方にすると頼りになるが、プライドが高く自己を過信し、己の判断で動き、簡単には指示に従わぬ。こちらの想定外の行動を取り、そのフォローを常に行わねばどのような破局が訪れるやもわからぬ。つまり手駒として使いこなすのは難しい。上の者の器量がまさに試される」
「そんな・・・! プレシー様ほどの器量の持ち主はフランシアやブルグントだけでなく、このパンノニアには一人もおりません!」
「随分と不敬な発言だな。陛下が私に劣るとでも言いたいのか?」
「あ・・・! こ、これは失礼を申し上げました。お許し下さい!」
「ははは、からかっただけだ。許せ。それに私を買いかぶるなよ、オージェ。私はガヤエという癇馬を既に一匹飼っていて、それで手一杯だ。その程度の男なんだよ私は。だからこれ以上の苦労は背負い込みたくないのさ。なるべく楽をして最大の利益を得たい。だからあえて有能な者は間者としては使わない。何より、こちらの不貞な真意に気付いて裏切られても困る。有能な者は自分が利用されたと気付けば、屈辱を感じて敵に回るだろう。有能なだけに敵に回すと極めて厄介だ。つまり手駒として利用するだけならば、ああいった自分が誰よりも才能があると思い上がっている無能なやつの方が実は使いやすい。おだててやれば言う通りに動くし、いつ切り捨てても惜しくないし、事が露見した時に容易く始末が出来る。極めて合理的だとは思わないか?」
「さすがはプレシー様。お見事です」
「オージェに褒めてもらえるなんて光栄だな」
「プレシー様のような器量ある御人の侍者になれて・・・本当にこちらこそ光栄です」
「器量・・・か。オージェは将来、私のようになりたいか?」
オージェにとってプレシーは尊敬でき敬愛する特別な存在である。そういう言い方をされれば答えはひとつしかなかった。
「はい」
「ならば私の言うことをよく聞いて心に留めておいてほしい。さて、このように侮蔑すべき人間であっても利用価値はあることは理解できたかな?」
オージェは司教の言葉に頷いた。
「つまり大業を成し遂げたいのならば、敵であれ味方であれ、その人を美醜や人柄や才能や能力の高下で判断してはいけない、考えなければいけないことはただ一つだけ、利用できるか出来ないか。そして利用できるのならば、どうすればより利用できるかを考えるのだ」
「・・・はい」
オージェは幼く、まだまだ世の中の汚さと言うものを見ていない。この世には真っ直ぐに正しいものが確実にあると信じていける精神を所持している年頃であった。
だから敬愛するプレシーの言葉にも納得がいかないのか少し躊躇を見せる。
そんなオージェの態度もプレシーにとっては微笑ましいものである。自分にもこのような真っ直ぐに生きることが許された時代があった。
懐かしい失われたはずの感情が心にこみ上げてくるたびに、自身のような生き方でなくこのままのオージェであって欲しいとも願わないわけでもない。
だが綺麗なままで生きていくには、この世界は過酷過ぎる。生きていくには手を汚す方法を覚えなければならないのだ。
そうでなければ誰かに利用されるだけ利用され、哀れな最期を迎えることになりかねない。
だから少年にはまだ早いと思いつつもプレシーはオージェに言い聞かせずにはいられなかった。
「そしてもう一つ覚えておくんだ。人というものは地位や身分の高下があり、賢愚や美醜の差がある。一部の啓蒙主義者とやらが主張するような平等などないのだ。だがそれらにどんなに格差があろうと同じ一個の人間でもある。ひとりひとりに感情があるのだ。無闇に馬鹿にしたりして相手の感情を傷つけて怒らせたりしてはいけない。怒りはやがて怨みに変わり、最後には憎悪へと変質する。負の感情に捉われた人間は危険だ。利害も法律も理性も彼の行動を止めることはできない。自分の何かを犠牲にしてでも粘着質に相手の邪魔をし敵対する。時には命を奪おうとさえするだろう。その相手をするのは時間と労力の無駄というものだ。だから賢い人間は他人を馬鹿にしても、それを心の中に押し止めて決して表には出さないものなのだよ。他人の批判をし、他人の誤りを指摘し、他人の愚かさを笑うのは気分がいいだろう。実に痛快なことだ。愉悦であろう。だが他者への愛情無くそれを行ったところで相手が改心することはありえない。単に反感を買うだけなのだ。それは自身の賢しさを誇り、他者へ喧伝したいだけの行為なのだ。それでは真の賢さとは言えぬ。他人を愚かであると笑うことは実は笑っている対象の相手よりも自身が愚かであると世間に示している様なものなのだ」
「・・・・・・」
「知者とは他者の愚かさや醜さを見ても別のことを考える。これをどうやって自分の目的の役に立つように利用できるかを。つまりどんな無能な部下であっても使い道を考えて組織の中で役割を与え、どんな性格の悪い部下でも御して組織の歯車のひとつとする。それこそがお前が先程口にした器量ある人物と言うものだ」
プレシーの言葉が理解できても飲み込めないのか、オージェは顎に手を当てて、しきりに首を捻っていた。
「お前は若い。いや、幼い。まだまだ私の言うことを心から理解することはできないとは思うから、今は言葉を覚えていてくれさえすればいい。いつかきっと私の言葉がお前の心に響く日がやってくるだろう」
「はい」
「私はお前に誰よりも器量のある男に育ってもらいたいと思っているのだよ。もちろん、私よりもだ」
「はい!」
「オージェは本当に真っ直ぐないい子だ」
濁りけの無い真っ直ぐな返事にプレシーは微笑んで、素直に頷いたオージェの頭を撫でる。金色の柔らかな髪がプレシーの指の間を掻い潜らすと、オージェは恋する少女のように頬を染めた。




