第二十三話 クロード・アシル・ガヤエ
生徒たちは稜線から陽が僅かに顔を覗かせた午前六時半頃、モゼル・ル・デュック城に辿りついた。
夜半に起きた時ならぬ爆発、生徒たちに話した作り話ではなく、本当に昨日から前線からまったく連絡の来ないという異常事態にモゼル・ル・デュック城を預かるメグレー将軍にもラインラントで何か良からぬことが起きていることが分かっていた。
だからといってむやみやたらに兵を動かすわけには行かない。敵がどのような動きを行っているのかメグレーにはまったくといっていいほど情報が入ってきていないのだ。
敵の動静と位置を把握しようと部隊を分散させれば各個撃破の対象となりかねないが、逆にひとつにまとまって行動したとするのも問題がある。
それこそが敵の狙いなのかもしれない。つまり本隊を派遣して手薄になったモゼル・ル・デュック城を一気に落とすという狙いがあるのかもしれない。
もちろんモゼル・ル・デュック城は堅城で数倍の敵で囲んだとしても一朝一夕には陥落はしないし、周辺地帯を全て制圧せずにモゼル・ル・デュック城だけを手に入れても、周囲は全て敵地。孤立することになり補給もままならない。よって城郭の永続的な保持は難しいから、そのような手段を選ぶことはまず有り得ないとメグレーも十分理解はしていたが、どうしても積極的な行動に打って出る気にはなれなかった。年が年だけに慎重になるものなのである。
だから前線の生の情報を携えてヴィクトールらが自力で城まで引き返してきたことに一番喜びを見せたのはメグレー将軍であったかもしれない。
生徒たちを代表したラウラから一通り話を聞いたメグレー将軍はここでようやく今ラインラントで何が起きているのかを断片的ではあるが把握した。
「敵はラインラント最南部に兵力を増強させ、前線にいる我が軍とは戦わずに奥地に進軍しているということか・・・そんな無茶な戦い方は聞いたことが無い。それに前線との中間にあるあの基地はありふれた物資集積所に過ぎん。さほど戦略的に重要な拠点とも思えぬのだが・・・・・・とはいえ敵の動向が分かれば我らも動けるというものだ。対策も立てようがある。よくぞ生き延びて知らせてくれた。礼を言うぞ」
「閣下のお役に立てて光栄です」
ラウラは姿勢を正してメグレーに敬礼した。メグレーに報告を行ったラウラの言動は既に一端の軍人ででもあるかのような完璧なもので、これぞさすがに歴史ある軍人貴族の子女であるというところを遺憾なく発揮していた。
メグレーはラウラに返礼すると厳しい表情を柔和に変え、ヴィクトールのところに近づいた。
「よくやった。君こそまさにフランシア軍人の鑑である。火薬庫を吹き飛ばそうという発想も、その後の数々の対処法も歴戦の士官であってもなかなかに思いつくようなことではない。君のような青年が将来、我が軍に加わるかと思えば心強い。フランシアは二十年・・・いや三十年は安泰だな」
と言うと笑いながらヴィクトールの肩を強く掴んで揺さぶった。
ラインラントが戦場となれば前線近くに派遣された生徒たちは厄介なお荷物になる。かといって大貴族の子弟が多い以上、見捨てるわけにも行かない。
作戦を遂行しながら、同時にいかに戦場から安全に脱出させるのかと言う頭の痛い問題を予め解決してくれたことに対する感謝の気持ち、勲功者を褒めることで軍には信賞必罰が存在するということを教えるという将軍としての心構え、そして単なる世辞である一面は否定できないが、それでも素直に褒める一面もあるのではないかと思ってヴィクトールは悪い気はしなかった。
「夜通し走っていたのだ。疲れているだろう。諸君らはゆっくりと休んでくれたまえ。部屋と食事を用意しよう。後の始末は我々に任せるがいい」
メグレーは情報を聞き出して用の無くなった生徒たちに丁重に部屋からのお引取りを願った。一刻も早く軍務に専念したかったのだ。
これまでのところフランシア側は後手後手を踏んでいる。やられっぱなしのフランシア軍を立て直すために、彼にはやるべきことが多く待ち構えていたからである。
さてラインラントの視察に派遣された士官学校一回生は三つに班分けされ、それぞれが別々の道を通って前線へと向かった。
敵と本格的に交戦しなければならないほど運が悪かったのはヴィクトールが所属した班くらいのもので、他の班は敵と接触しないか、したとしても遠方にいるところを早くに視認できたために、士官や教官の適切な判断をもってほぼ無傷で退却することが出来た。
彼らがヴィクトールたちよりもモゼル・ル・デュック城に戻ってくるのが遅れた理由は、慎重に斥候を出し周囲を警戒しながら与えられた補給物資を放棄せずに通常の行軍体勢で戻ってきたからである。
生徒たちは違う班の中に見知った顔を見つけては互いに無事に帰還できた喜びを分かち合った。
その頃にはヴィクトールたちと同じ班であの絶望的な退却行の中ではぐれた者たちも僅かではあったが遅れて帰還してくる者もちらほらと姿を見せた。
存外被害は少ないのかもしれないと全員を救えなかったことに気落ちしていたラウラはほっと安堵した。
メグレー将軍の命を受けてモゼル・ル・デュック城の駐屯部隊も動き出す。
生徒たちにはメグレー将軍がいかなる方策を持って敵と戦うのかは窺い知ることなど出来ないことだったが、少なくとも今も敵兵に終われて逃げている生徒たちに対していい影響があることは疑いないことだった。
「味方を救い出すぞ!」
足をそろえて行軍する兵士たちに手を振るもの、敬礼をするもの、生徒たちの反応は様々だった。
生徒たちの歓呼の声をくぐり抜けて、兵士たちは靴音も高く城外へ、敵の待つほうへと向かう。
なだらかな丘陵に沿って吹き抜けていく風に少しくすんだ金色の髪が揺れる。
絵画から抜け出たような一人の凛々しい青年が風を浴びながら小高い丘の上に立っていた。
彫刻のような端整な顔立ち、均整の取れたすらりとした長身い適度な筋肉のついた身体、傷一つ無い軍服の美しさはいにしえの英雄の姿のようである。
彼こそが今回のこのラインラント侵攻作戦を立案・指揮したクロード・アシル・ガヤエ将軍である。
一軍を指揮する将軍にしては明らかに若すぎる。もちろんブルグント軍もフランシアと同じ病気を抱えており前線指揮官の不足には甚だしいものがあった。
だが一軍の指揮官にその辺のぽっと出の若僧を据えなければならないほど困るようなことは何も無い。
しかも彼は別に国内で大きな力を持つ大貴族の出というわけでは無かった。若いだけでなくそういった出自の面からもボードゥアン将軍をはじめとする多くの者に彼は嫉妬されていた。
彼がこの作戦を国王に提示して採用され、さらには作戦の最高司令官に任じられたのは、ブルグント王が長く続くラインラント紛争を憂いており、彼が示した作戦が少しばかり突拍子が無いところがないわけではないが論理的で、その作戦の説明をする弁舌が素晴らしかったということもあるが、何よりも彼を推薦した枢機卿がブルグント国王に絶大に信頼されているからである。
もっともそのおかげで彼は面従腹背の徒を抱えて軍隊を指揮しなければならない苦労を背負い込むことになった。枢機卿にケツを差し出して地位を買ったなどという下品な陰口まで叩かれる始末である。
彼はそんな陰口など気にしない。嫉妬する奴らには嫉妬させておけばいい、俺は実力で奴らの口を塞いでやるとそう思っていた。
彼は眼前に展開する一万のフランシア軍の一挙手一投足を見下ろしていた。何か動きがあればすぐ横に展開する自分の直接の指揮下にある一万のブルグント軍を動かすのだ。
国境沿いにはブルグント軍の侵攻に備えて柵だとか見張り台だとか堀だとかが設置されている。そこに積極的に攻勢をかけて待ち受けるフランシア軍を撃破するのは難事である。幾人もの将軍がそれを試み、そして失敗し大勢の兵士を骸へと変えた。
そこで彼は自分の一万の兵を持って前線に攻勢を掛け、フランシア軍が終結したのを待って、戦場から離れた位置にある手薄になった地点をボードゥアン将軍指揮下の別働隊に突破させて後方に回りこませたのである。
一万もの大兵と総司令官である自身の身を囮として用いたのだ。
敵が後背に回り込んだボードゥアン将軍の部隊へと矛先を向けないように、適宜攻撃を加えながら絶えず意識をこちらへと向けさせるのだ。
ただそれだけであるが、それは言葉にするよりもずっと難しいことである。それを難なくこなすところに見る人から見ればこの青年の非凡さが見えるであろう。
ガヤエ将軍は最初から惜しみなく携行して来た弾薬をありったけ消費して大攻勢を掛けた。
とはいっても犠牲を省みないような決死の総攻撃を行ったわけではない。
別にブルグント軍に戦場を一変させるような新兵器があるわけではないのである。同数の兵で防備の調った陣営地に籠る敵を攻撃しても惨敗するのは目に見えている。
銃撃戦に終始したのだ。攻撃はあくまでこちらに気を惹くためなのである。
だが銃弾の大量消費はすなわち国家財政への圧迫でもある。それまで立ててきた補給計画が大きく狂うことにもなる。
後方へ物資の搬送を手配しなければならない補給士官はもちろん大きく抗議をしたが、ガヤエはそれを黙殺した。一つの狙いがあったからだ。
敵の銃撃と砲撃がもたらす轟音が兵士たちに与える心理影響は計り知れない。必中距離ではないもののそれい近い距離で一方的に打ってこられて我慢できる精神の強さを持つ兵士たちばかりではないのである。それにフランシア軍の誰もがブルグント軍がまさか銃撃戦だけで終わるなどと言う内部事情を知る由も無い。
フランシア軍はブルグント軍が近づかないように当然のこととして銃撃で応戦することとなった。
しかも戦闘が激しければ激しいほど兵士も将校も頭に血が上り、理性的な判断がなかなかし辛くなる。
それだけに激しい銃撃戦は敵の気をボードゥアン隊から逸らす役割だけでなく、フランシア軍にも弾薬を通常よりも遥かに消費させる効果をもたらすこととなった。
しかも広域に展開していた兵を急激に一箇所に集めたフランシア軍はその弊害として兵糧が足らない。
本来ならば足らない軍事物資は輜重が補充するが、その通り道はボードゥアンが後方に回って塞ぐことになっている。
つまりこの作戦は敵軍を正面から撃破するのではなく、敵の脆弱点を狙って混乱させ戦力として無力化させることを目的とした戦法である。
ボ-ドゥアンがフランシア軍の連絡と補給を絶ち、要地に陣を構築してモゼル・ル・デュック城から来るであろう敵の本軍を食い止めると同時に一部の部隊を背後に回しガヤエの部隊とフランシアの前線部隊を挟撃し、敵物資を枯渇させ降伏させるのだ。
ラインラントという見通しが利かずに大軍の展開も迅速な移動も補給もままならず、防御側に圧倒的に有利な地形であるという限定的な条件がなければ成り立たないとはいえ、まるで後の電撃戦の萌芽のようなものが見られる優れた作戦であった。
そこまでは思惑通りにことを進めていたガヤエ将軍の下に喜ばしくない知らせが飛び込んでくる。
「なに? ガキどもを逃がしたのか? ボードゥアンめ・・・目標を発見できなかったとでもいうのか? あるいは元々存在しなかった士官学校の教練という偽情報を枢機卿が掴まされてでもいたと言うことか・・・?」
「いえ、目標は情報通りに存在したようです」
「ではボードゥアンがしくじったか。拠点を攻略するだけでなく、大きく迂回して水も漏らさぬ包囲をしても十分なだけの兵力を与えたはずだがな」
「いえ、ボードゥアン将軍は対象を発見し、包囲も万全に行ったそうです。ただそこで予想外の出来事が起きてしまったとかで・・・」
「何が起きた?」
「生徒たちが逃げ込んだ敵の拠点を占拠した時に火薬庫が不意に爆発して、その混乱のドサクサの中で生徒たちを見失ったということのようです」
「火薬庫が爆発・・・なぜだ?」
戦場ならば火薬も野積みだが、普段は地下室などの冷暗所、石積みで立てられたしっかりとした場所に保管されるのが決まりである。
物資を集積する拠点とだけ聞いたガヤエは火薬庫といえばしっかりとした建物であるとばかりに思ったのだ。まさか掘っ立て小屋に毛が生えた程度の建物に乱暴に押し込まれていたとまでは想像できないであろう。
それは報告したボードゥアンも同じである。なにしろあの拠点近辺にいた兵はほとんどが爆発に巻き込まれて死亡したか重傷を負った。あの小高い丘も地形が変わるほどで建物など跡形も無く吹き飛んだ。事情を探ろうにも探りようが無いのである。
「原因は目下調査中で不明です」
「・・・・・・すんだことを蒸し返しても無駄か。まぁいい。ならば部隊の被害はどの程度だ? 命じた作戦は継続できそうなのか?」
彼にとってはそちらの方が重要だった。今回の作戦は膠着状態に陥った現状を一気に打開することを目的に、前線にいる敵主力部隊を味方の主力部隊で牽制している間に、一部部隊を敵後方へと回りこませ、敵司令部との連絡と補給を絶つことである。
もしボードゥアンがモゼル・ル・デュック城と前線との連絡や補給を妨げられなければ作戦は失敗だ。それだけでなく敵中深くに進入したボードゥアン隊は包囲され殲滅させられる危険がある。
ブルグント軍は敗北し、ガヤエは笑いものになり、枢機卿の面目は丸潰れになるということだ。
そう考えると中入り軍の指揮を任せるという重要な役目を割り振っただけガヤエはボードゥアンを買っていたということでもある。
「包囲陣形を強いていたことが幸いして、直接の被害はさほど大きくないとのことです。軍の建て直しに少し時間はかかるそうですが、必ず命じられたことは遂行するとボードゥアン将軍はおっしゃっています」
「ならばこれで十分だ。例の『アイリスの三公女』とやらを捕らえることができなかったことは枢機卿には悪いがな」
もともと『アイリスの三公女』とやらを捕まえることに彼は乗り気ではなかった。恩人である枢機卿の顔を立てる形で作戦内に組み込んだだけだ。
おそらく政治的にあるいは外交的になんらかの利用でもするのであろうとは彼も理解していたが、彼はそんなことに興味は無かった。
彼は生粋の武人だった。そして上昇志向の強い男だった。女を捕らえて出世するよりは敵を撃破して出世したいと願うタイプの男だったのだ。
「今後も連絡を密にするようボードゥアン将軍に伝えておけ。それからそろそろ飯の準備をさせろ。腹が減っては戦は出来ないからな」
「はっ!」
モゼル・ル・デュック城を発したメグレー将軍の部隊はボードゥアン隊と接触したものの、結局その堅陣を突破することができなかった。
ガヤエがフランシアの前線部隊を釘付けにし移動を許さなかったこと、ブルグント軍の補給士官が計算に計算を重ねて補給を行ったこともあるが、何よりもボードゥアン将軍が奮戦したということが第一の理由に挙げられよう。
三日後、包囲され全ての食料と弾薬を使い果たし戦闘能力を失ったフランシアの前線部隊は降伏を申し出た。
当初の目標を失ったメグレー将軍としては下唇を噛み締めて諦めてモゼル・ル・デュック城に帰還するしかなかった。ぐずぐずと戦を長引かせてもいいことは何も無いのである。
結局、フランシア軍は八千もの捕虜を出し、八万アルパンもの土地を失い、国境を西に十五キロも移動した
ラインラントにおける歴史的な大敗北である。
ちょっとした後日談
生き残った生徒たちは教練の中止を言い渡され、教官に従って早々にモゼル・ル・デュック城を後にする。これ以上最前線に留まっても邪魔になるだけなのである。
生き残った嬉しさと敗北感、あるいは知人を失った喪失感、全てが失敗した徒労感とがない混じった複雑な感情だった。
あの饒舌なエミリエンヌでさえ口数が少ない。陰気な帰還の旅だった。
士官学校にたどり着くと、背負ってきた武器や道具などの荷物を倉庫にしまいこむ。
もっともそのほとんどを棄ててきたヴィクトールたちにはその作業をする必要すらなかった。
本来ならば大事な備品を放棄したことを責められてもおかしくないが、今回は珍しく堅物の教官がたもなに一つ文句を行ってこなかった。
教官も死亡する非常事態であったのだから無理もない。
疲れた体を引き摺って男子寮に戻ろうとしたヴィクトールにさっとラウラが近づくと耳元で小さく呟いた。
「ちょっと、顔貸しなさいよ」
「後にしてくれないかな。本当に疲れているんだ。今は一刻も早くベッドで泥のように眠りたい」
初めての戦闘に眠らずの強行軍、そして野宿の連続。初めて尽くしのことばかりで極度に張り詰めていた精神が緩んだことで今はただひたすら眠りたかったのだ。
「すぐ終わるから。それに文句を言える立場じゃないでしょ? 貴方は私に貸しがあることを忘れないで!」
一瞬、なんのことか分からなかったヴィクトールだが、よくよく考えることで皆の助命と引き換えにラウラの身を敵に渡そうと提案したことかと思い当たる。
「ああ・・・ラウラの身を敵に引き渡すことを提案したことか?」
「そうよ! だから貸しがあるの! わかって!?」
「・・・わかったよ」
男にだって面子や誇りってものがあるのにも関わらず、人前で一発頬を張られたのだ。それでチャラではないかとヴィクト-ルなどは思うのだがラウラはそれでは許せないらしい。
女性ってのは実に執念深い。ヴィクトールはウンザリした。
ヴィクトールはラウラに引っ張られて校舎の階段の踊り場にまで連れて行かれた。一年の校舎は今は無人である。だから確かにここならば人目にはつかないであろうが、ここでなくても近場に人目に付かない場所はあるだろうにと、一刻も早く寝たいヴィクトールは迷惑この上ないと言った表情でラウラを恨めしそうに見た。
「誰もいないわね」
「いないよ」
とにかく早くことが終わってベッドに急行したいだけのヴィクトールは返事もただただそっけない。
「いやエミリちゃんあたりが付いて来てないか確認しないと・・・」
確かにエミリはどんなことにも首を突っ込みたがるし、見たことを面白おかしく吹聴しまくるから、見られることに警戒する理由は分かるが、今はそこまで警戒する理由はないはずである。
「エミリなら今頃寮で爆睡してるよ。行軍中もまぶたが半分閉じてたじゃないか」
「そ、そうだけどさ。念には念を入れないとね、あ、あはははは」
ラウラは変な笑い声を上げたかと思うとくるりと振り向き急に真顔になった。
「目を瞑って」
「・・・大丈夫、覚悟はある」
「いいから目を瞑りなさい」
ラウラは何故か据わった目でヴィクトールを睨んだ。
この場で必要なことは嫌な事は一刻も早く終わらせて、寮に戻ってベッドに潜り込むことだ。ヴィクトールはそう考えると、言われるがままに目を閉じる。
右か左か平手か拳か、ヴィクトールはとにかく衝撃に備えて奥歯を強く噛み締める。
衝撃は無かった。何か暖かく柔らかいものが右半身に接触したかと思うと、頬を吐息がくすぐり、次いでとてつもなく柔らかい何かがヴィクトールの頬に当たった。
驚いて目を開けると、真っ赤に顔を上気させたラウラが恥ずかしそうに目を伏せて半ば抱きしめる形でヴィクトールの傍に立っていた。
「・・・から」
「なんだ?」
「へ、変な誤解はしないでよね! こ、これは助けてくれたお礼よ、感謝なさい! ・・・本当は唇にキスしてもいいんだけど・・・わ、私を敵に渡そうなどと不埒なことを言った罰として差し引いて、今回は頬よ!」
「なんだそれ?」
ラウラの中では完璧にまとまっている理屈であろうけど、部外者にはまったく分からないその思考の着地点にヴィクトールは思わず噴出した。
「笑わないでよ! ヴィクトールが策を立て、それで私だけでなく皆を救ったことに感謝してるのよ! そしてそれだけ皆が私を引き渡そうとした流れになったときにヴィクトールが助け舟を出してくれたことは嬉しかったし、その前に私を敵に引き渡そうと提案したことがショックだったってことなのよ!!!」
「分かった・・・分かったよ」
そうは言うもののやはりどこか変な理屈である。ヴィクトールは意志の力で笑いを止められずに笑い続けたため、ラウラは頬を膨らましてむくれて見せた。
「私、頬であっても父上以外の男性にキスしたのは初めてなんだから!」
外見だけでなく中身も可愛いところがある。大貴族の総領姫と言えども市井の女の子と変わらない。ラウラもやっぱり女の子なんだなとヴィクトールは思った。




