第十六話 合流
だが指先が震え、うまく力が入らない。
ヴィクトールは引き金を引くことが出来なかった。遠くにいる射的の的とさして変わらない程度のものならば人として認識せずにすみ、まだ躊躇無く撃てるが、目の前にある人の形をして厳然と横たわり呼吸しているものに対して発砲することに大きな抵抗感を感じたのだ。それが敵であると十分に認識しているしてもである。
「くそっ!!」
軍人を志したからには他人を殺すことは十分に覚悟していたはずなのに、いざその瞬間が来るとなるとこれである。自身の覚悟の足らなさに苛立ちつつ、迷いを振り切ろうと首を横に二、三度ふり、もう一度銃口をぐったりと地面に伸びて身動き一つしない敵兵に向けるが、やはり今度も引き金を引くことは出来なかった。
ヴィクトールはピクリとも動かない敵兵をもう一度見ると溜息をついて銃口を外へと向けた。
「・・・銃声が近くの敵兵を引き寄せるかもしれない。それにこいつはもう戦闘力を失っている。放置しておいても害は無いさ」
少女はヴィクトールのそのあからさまな言い訳じみた言葉に反論の言を挙げようとはしなかった。ただヴィクトールの甘さを見透かしたかのように僅かに目を細めた。
「・・・・・・そうですか。そういうものかもしれませんね」
言葉を持って責められたわけではないが、自身の覚悟のなさを揶揄されたようでヴィクトールの心は傷ついた。
だが敵兵を始末しないという大事であっても一度決まったからにはどうでもいいとばかりに興味を無くしたのか、少女はヴィクトールを無視して周囲をキョロキョロと見回していた。
「カミーユとジュスタンは何処かしら? はやく合流しないといけないのですけども」
「カミーユとジュスタンとは?」
「おつき・・・いえ、同じクラスのお友達です。二人とも腕利きで、このような時は大変頼りになります」
どうやらこの少女もヴィクトールと同じく友人たちとはぐれたようだ。
友人たちを探そうとする気持ちも、合流したいという気持ちも同じ境遇のヴィクトールにはよく理解できるが、今はそういったことをしている時間的余裕は無い。
「君の友達も無事さ。ここに留まって探すよりも後方で合流することを考えよう。きっと君の友人も後方へ退避して君が追いついてくるのを待っているはずだ。だのに君がいつまでもやって来なければ友人たちも心配して、危険を冒して後方へと舞い戻ることになりかねない。そうなれば君も友人も共に命を落とすことになるかもしれない。ここは味方に合流するために立ち止まらず前に進もう。その方が君も君の友人も助かる確率は高くなる」
「・・・そうですね。それが正しい考えだとわたしも思います」
「他の敵兵に見つかる前に早くこの場を離れよう。それにこいつがいつ目を覚まさないとも限らない。騒がれては厄介だ。怪我は無いか? 立てるか?」
「まぁ、紳士ですわね」
立ち上がる手助けになればと差し出したヴィクトールの手を掴んで少女は立ち上がるとにこりと微笑んで見せた。
例え本来の顔がどのようであっても今現在の顔は泥だらけでみっともなく美人とはとてもいえない。だから微笑まれてもヴィクトールとしてはそれほど嬉しくなかった。
「そう言えばまだ助けていただいたお礼を言っていませんでしたね。大変失礼いたしました。わたしの名はソフィーと申します。危ないところを助けていただきまして、たいそう有難うございました」
少女は左足を斜め後ろの内側に引き、右側の足の膝を軽く曲げ、両手でスカートの裾をつまみ、軽くスカートを持ち上げて優雅に形式ばったお辞儀を行った。
貴族の淑女が行う正式の礼であったが、宮廷の舞踏会で行うのならばともかくも、このような戦場で、それも完全に部隊の統率が失われた敗走中の状態の今、行うこととはとても思えなかった。
名ばかりの貴族であるヴィクトールにとってはこのような礼ははじめて行われたことであったから、とりわけ奇異さを感じたのかもしれない。
こんな時であっても貴族の礼節を忘れないその行動に少女の豪胆さを感じたヴィクトールだったがすぐさまその考えは間違いではないかと頭の中で打ち消した。あまりの恐怖に少女の頭のネジが緩みでもしたのではないかと思い直したのである。汚泥で化粧した顔が威厳も優雅さも微塵も感じさせなかったせいかもしれない。
面食らい、少しの時間戸惑いで硬直したヴィクトールだったが、やがてそれが一風変わったその少女の挨拶であり、少女がヴィクトールが挨拶を返すことをじっと見つめて待っていることに気が付き、慌てて返答した。
「俺の名前はヴィクトール。歩兵科の生徒で・・・」
するとヴィクトールの言葉を遮るように少女はくすくすと可愛らしい声で笑い始めた。
「知っているわ」
「・・・・・・!?」
「ふふふ、御自身の事を御自分ではご存じないのですね。入学早々あれだけの騒ぎを起こしたのです。騎兵科でもしばらくはその話で持ちきりでしたのよ。士官学校で貴方のことを知らない一回生はまずいないんじゃなくって?」
どうやら自分は悪い意味で目立ちすきたようである。他科の見たこともない生徒にまでその名と顔を知られているとはとヴィクトールはウンザリした。
それも良い評判ならともかくも、この反応を見る限りどちらかというと良い評判とはいえない評判であろう。自らが蒔いた種というならばまだ我慢もしなければならないだろうが、どちらかというと原因の多くは相手にあるとヴィクトールは考えているだけに大いに不満があることである。
しかし同時に会話の中身から少女が騎兵科である情報を得て、ヴィクトールは納得する思いだった。
先程から気になっていたのだ。少女は規定よりも長いスカートを履き、そこから僅かに覗き出た足には乗馬ズボンと乗馬用の靴をはいていたからだ。もっともこれではさぞ逃げにくかったことだろう。
少女が手を口元に当てて笑うと場が華やぐ。このような姿に拘らず、立ち居振る舞いからどことなしに気品を感じる。顔立ちも整っており大きな目とさらにひときわ大きな睫毛が人目を惹く。
化粧をしたら・・・いや、顔から泥を落とすだけでも相当に化けるんじゃないかなとヴィクトールは思った。
「とにかく移動しよう。他の敵兵がやってきては面倒だ」
ヴィクトールがこの場から早く逃れようと少女の手を引くが、少女はその手を振り払い拒絶を示す。
「そうしたいのは山々なのですが・・・」
何故手を振り払われたのか分からずに自分を不思議な顔で見つめるヴィクトールに少女は左足の足首を指差し理由を告げる。
「痛いのです。先程転んだ時に足を挫いてしまったのかもしれません。走れるかどうか」
少女の足の負傷がどれほどであるかは医学の心得のないヴィクトールには分からない。軽いかもしれないし重いかもしれない。
ただ少女の足の痛みに付き合ってゆっくりと歩いていては敵兵に追いつかれてしまう。今回はなんとか撃退できたが次も巧くいくとも限らない。
かといって少女をこの場に一人置き去りにして逃げるほどヴィクトールは薄情じゃない。少しばかり係わり合いになったことで僅かな情のようなものを少女に対して感じていたのだ。見捨てていくのは忍びなかった。
「わかった。なんとかしよう」
ヴィクトールは手に握っていた小銃をベルトで肩にかけ両手をフリーにすると、少女に対して首を突き出し顔を寄せた。
突然ヴィクトールの顔が目の前に近づいたことで少女はびっくりして目を瞑る。キスされるとでも思ったのかもしれない。
「俺の首に手を回して」
「こ・・・こうですか?」
少女は恐る恐るといった感じで遠慮がちにヴィクトールの首に手を回した。だがあくまで手を回しただけといった状態である。
「もっと強く。それでは貴女を抱き上げてもちょっとしたことで落ちてしまう。今は恥ずかしがってる場合じゃないだろ」
ヴィクト-ルの言葉に少女は覚悟を決めたのか腕に力を入れ強く抱きしめて体を密着させる。首元に息がかかってくすぐったい。衣服越しながら少女の胸にある、筋肉とは違う柔らかな物体がヴィクトールの胸筋に当たるのを感じた。軍人には不釣合いな豊満さである。存外着やせするタイプらしい。
ちょっとした役得であったが、命が係っているからか今はあまり嬉しいとは感じなかった。
ヴィクトールは少女の腰と膝の後ろに手を回すと力を入れ抱きかかえ上げた。
「きゃっ・・・・・・!!」
緊急時とはいえ、さらに異性に密着したことに少女は気恥ずかしさを感じたのか小さく叫び声をあげた。
「わたくし、お父様以外の男性に抱き抱えられたのは、産まれて初めてです」
「そりゃどうも。実に光栄なことだな」
女性を抱いてこんな言葉を言われるのは男冥利に尽きるというやつである。もちろん、その女性が泥で化粧した顔をしていなくて、事態が切迫したこんな状況じゃなければの話だ。
だからヴィクトールの言葉は心というものがまったく籠っていなかった。
しかしこの少女の言動はヴィクトールの理解をいちいち越えている。命がかかっているこのような状況なのにそのようなことをまず気にするとは・・・肝が太いというか浮世離れしているというか・・・とにかく変な女に関わってしまったというのがヴィクトールの偽らざる本心だった。
もっともこの士官学校に入学以来、エミリエンヌといいラウラといい、変な女に関わるのはどうやら宿命であるのかもしれない。だとしたらこれから先もことあるごとに次々と変な女に関わることになってしまうのであろうかとヴィクトールは深くため息をついた。
「しっかり掴まっていてください。走ります」
少女は頷くと腕に一層力を入れてヴィクトールにしがみつく。泥の匂いの中に仄かにいい匂いがした。
ヴィクトールは下半身に力を込めて闇の中駆け出す。もっとも少女は信じられないくらい軽かったが、激しい運動をしたり長時間抱えていたりするには当然重過ぎる。
早足で、できる限りの速度でと言うことになった。
一方、ヴィクトールからはぐれた、いや、ヴィクトールが彼らからはぐれたというのが正しいか───ともかく別行動を取ることになったアルマン、ラウラ、エミリエンヌはその頃、他の生徒たちと一塊になって集団となり、敵の弾の届かぬ中、秩序を持って後退することに成功していた。
ラウラが逃れ行く途中途中で会う生徒たちに共に行動するように声をかけて少しずつ集団を形成したのだ。
恐怖による混乱で他人に関わらずに逃げることだけを優先していた生徒たちも、そのころには若干の落ち着きを取り戻し、脳内でも集団行動こそが生へ繋がることはなんとなく理解できるようになっていた。
それにやはり一人でいると恐怖感だけに捉われてしまう。隣に他人がいるだけで、いざとなれば互いに助け合えるという考えだけで安心感が湧き、落ち着きを取り戻すことが出来るのである。
とはいえ集団になればそれだけ個人の体力状態に応じた勝手な進軍は出来なくなる。体力の弱いものに合わせて時々休憩を入れなければならない。
行軍途中で時々休憩を入れるついでに逃げ遅れた仲間を待つ。
そんな中でもどうやら敵も追撃を諦めていないことはなんとなく察知していたから、円陣を組み、周囲に見張りを立てて警戒を行うことも怠らなかった。
「それにしても・・・ヴィクトールは遅いわね」
ラウラは集団の後方で体力に余力のある若干名と共に弾を込めた銃を手に所持し敵の襲来に備えつつ、後続の兵、何よりもヴィクトールが追いついてくるのを待っていた。
「ヴィっくん無事だといいケド・・・」
エミリエンヌも心配そうである。
「大丈夫さ。二、三度殺しても死ぬような玉じゃない」
アルマンだけは無担保で無条件にヴィクトールの無事を信じているようだった。それほどまでにヴィクトールの腕前などを信じているのか、それともあまり興味などないのか、その飄々とした表情からは容易には窺うことができない。
「しっ!! 黙って!!」
木と夜空の境、僅かな梢が揺れるのを見つけたラウラが声を発して警戒するように周囲に告げた。
生徒たちは一斉にしゃがんで姿を隠し、自分たちが歩いた道を凝視する。森の深い闇の中、影が集まって人型となった。
無防備に姿を晒していることを考えると精神的に余裕のない逃走中の生徒、すなわち味方である公算が極めて高いが、まだ敵か味方か分からない。長時間の追撃戦に集中力の切れた敵兵である可能性だってないわけではない。ラウラは木立に身を潜めたまま火種の付いた銃をしっかりと影に向けて構える。
と、エミリエンヌが例の頭のてっぺんから出したような甲高い声で叫んだ。
「あ! ヴィっくんだ!! ヴィっくんだよ!!! よかったぁ! 無事だったんだ!!!」
他人より視力が良いのか、闇夜でものを見る術にでも長けているのか、はたまた仕草が仔犬に似ているから嗅覚ででも察知したのかは分からないが、エミリエンヌは誰よりも早く近づいてくる影をヴィクトールだと認識した。
やがてラウラの目にも近づいてくる人物の顔がヴィクトールであることが見て取れた。
「よかった、無事だったのねヴィクトール! 姿が見えないから心配した───」
ラウラは構えていた銃を下ろし、憂いを含んだ顔をぱっと明るくさせてヴィクトールに近づいた。
だがそのヴィクトールが知らない女生徒をお姫様抱っこして抱きかかえているのを見て目を見開き、素っ頓狂な声を上げる。
「のよっ!!!!?」
人一人抱いて移動するのである。早足程度であっても肉体的負担は相当なものだ。少女は振り落とされないように、そしてなによりもヴィクトールに負担をかけないように首元を指一本入る隙間すらないほど強く抱きしめていた。
傍から見るとその姿はまるで恋人同士である。いや違う。それ以上だ。そしていかな時代背景が違うとはいえ、この時代においても人前で公然とこのような行為をすることはあまり褒められたことではない。いやむしろ現在よりも奇異の目で見られることは受けあいだ。宗教のくびきはいまだ人民の心を全て解き放ったわけではないのである。
「呆れた!! 敵に追われているのに見知らぬ女を引っ掛けてイチャイチャしているなんていい気なものね!! こっちは死んだかと思って心配していたのに!!」
ラウラはヴィクトールにつかつかと靴音を立てて近寄ると不満を露にむくれた顔を突き出した。
「その言い方はないだろ。こっちだって死ぬ思いでここまで逃げてきたんだ。それにこの人は足を挫いたらしい。放って逃げてくるわけにも行かないじゃないか」
「だからってそんな持ち方をすることはないでしょ!」
負傷兵を一人で運ぶならば背中に背負うのが基本である。その方が運ぶ方も運ばせる方も体力を使わずにすむのは誰が考えても常識だ。もし前に抱えたほうが楽であるならば背嚢は背中に背負う道具として進化しなかったはずである。
ラウラにしてみればヴィクトールがこの状況を利用して女生徒と体を密着させたいといういやらしい目的を抱いて、わざわざ行ったしたとか考えられない。
「気配はないから距離はあるかもしれないが、後方からはまだ敵兵が迫ってきているんだ。背負っていては銃撃されたら弾が当たるかもしれないだろ?」
「あら、わたしの身を案じてくれたのですか。貴方って本当に紳士ですこと」
少女がそう言ってヴィクトールの頬に軽く感謝のキスをしたことはラウラの怒りの火に油を注ぐ結果となった。
「ちょっと! 貴女もいつまでベタベタしてんのよ! ここは戦場よ! 不謹慎だわ!!」
ラウラにしてみればヴィクトールやアルマンなどは既に自分の所有物のようなものなのである。
とはいえ異性として意識しているという側面はあまり無い。ラウラは貴族にしては極めてフランクな存在だが、異性として意識するには二人との間には厳然たる身分の壁と言うものが存在するのである。付き合いも短く、彼らとの関係はその壁を越えるほどまでには成長していないのだ。
無いのだが、それでもその所有物であるはずのヴィクトールに他の女がちょっかいを出してくることにいい気はしない。
何よりもヴィクトールが他の女に優しくしていることが我慢できなかった。
少女の肩を掴んでヴィクトールから引き剥がそうとする。ラウラに強い力で引かれた少女はその顔を力の源泉へと向けた。
振り向いた少女の顔を見てラウラは固まった。




