第十五話 逃走行の中、少女と出会う。
犠牲を出しながらも生徒たちは必死の思いで己の命を守るため走り、迫り来る闇夜の中にその身を隠す。他人を振り返る心の余裕など誰にも無かった。
ヴィクトールは敵の攻撃を身を屈めて凌ぎ、適度に反撃して敵との距離を再び稼ぎ、走って逃げる生徒たちの隊列を追いかけ加わるという行動を幾度も行った。
どのくらい走って逃げたのだろう。ヴィクトールの周囲に当初はあれほどいた生徒たちの姿も今は疎らになっていた。
といっても手を伸ばした一寸先でさえも良く見えない闇である。息遣いや衣服と木々の擦れる音といった気配で感じ取れるだけである。
「安全な場所まで逃げ延びてくれたのか、あるいは・・・」
敵兵の手にかかって戦死したか。
ヴィクトールは慌てて頭を振って、その不吉な想像を脳内から追い払う。僅かな時間ではあったがヴィクトールらが時間を稼いだことで安全に逃げ延びてくれたと信じたかった。
言葉も交わしたことの無い生徒たちも中には当然いるが、それでも同じ釜の飯を食う仲間である。できることなら一人の死人も出ずに無事に一緒に帰りたいと強く願った。
いつしかヴィクトールの傍にはアルマンやラウラやエミリエンヌらの姿が見えなかった。完全に暗闇に閉ざされた山中の道なき道を走り続ける中ではぐれてしまったものと思われた。
「あいつらも無事でいてくれるといいんだけどな」
軽い言葉とは違い心中では大いなる不安が渦巻いていた。だが傍にいれば僅かではあっても手助けすることができるが、離れていてはいかなる助力も不可能である。
あまり真剣に祈ったことは無かったから、今ここで急に真摯に祈ったからといって願いを叶えてくれるとは限らないが、ヴィクトールとしては神様とやらの寛大さに期待してみるしかなかった。
今の自分に他に出来ることといえばただ一つ。とりあえず生き延びることだ。生き延びてこそあいつらが生きているかどうか確認することができるのだから。
それに自分が死んでしまったら、あいつらだって悲しむだろう。逆の事態がまた真であるように。
こうなったからにはただ生き延びることだけを考えようとヴィクトールは深く心に刻んだ。
周囲はことごとく闇の中である。頼りは木々の合間から微かに届く月明かりだけとなった。
何らかの明かりを灯したいところであったが、それでは未だ追跡してくる敵兵に格好の射撃の目印を与えるも同然であるから、出来ない相談である。
枝に額をぶつけ、木の根に躓き、鋭利な葉で肌にいくつも切り傷を創りながらもヴィクトールは休むことなく前へと進む。
夜の闇の中で前すら満足に見えないヴィクトールだが、敵も同様であるに違いない。その証拠に銃弾がまったくといっていいほど飛んで来ない。
後方から敵兵に追われているという切迫した状況で、まだ精神に過度の負担がかかった状況ではあるものの、銃弾を気にする必要がほぼ無くなったことで少し、そうほんの少しであったが余裕が出たヴィクトールはおかしなことがあることにようやく気が付いた。
最初の攻撃でこそ激しく銃弾が打ちかけられ、敵も真剣を抜いて斬りかかって来て殺気を感じたものだが、それ以降の攻撃は温い。
・・・そう、なんというか・・・目立って激しい攻撃が加えられていないような気がするのである。
敵を殲滅するのが目的ならば生徒たちが密集し、混乱していた初期にこそ総攻撃をかけるべきであったことを考えても、敵の動きは明らかにおかしかった。
かといって敵に対して攻撃を加減することが戦略としてどういう意味を持つかについては大いに疑問を感じるところではある。
最前線に兵力を集中配備している関係上、この方面は元々フランシア軍も平時は展開していない手薄なエリアである。
敵が全体としてどのような攻撃をかけてきているのかは一兵卒以下の立場、部外者であるヴィクトールにはまったく情報が入ってないから分からないが、常識的に考えると正面に展開するフランシア軍に主力を振り分けるはずである。それで単に敵も後方にまで回す兵力が足らなくて攻勢に出れないだけなのかもしれないと思い直した。
闇の中をヴィクトールは黙して進む。いつの間にか前方と側面から人の気配は消えていた。
森の中を手探りで進むうちに道なりに退いた味方とはぐれてしまったようである。月を目印にして移動したつもりだったが、どこかで間違いを犯したのかもしれない。ここはもと来た道に戻りたいところだ。
とはいえ厄介なことに後方からは微かに枝を軍靴で砕く音、草むらを掻き分ける音が聞こえる。
どういう理由か知らないが敵はヴィクトールを追跡することを諦めてくれない。
たかが一生徒、いや、あるいは敵は士官学校の生徒ということすら認識していない場合は一兵士ということになる、それを執拗に追いかける理由がヴィクトールには理解できない。
生徒たちは闇夜の中を四方に逃げ惑い、散開しているということは、それを追いかけている敵も散開しているということに他ならない。
兵力分散と言う誰にでも分かる愚を冒していることになる。
命欲しさに逃げ惑う生徒たちがその行動をするのは十分に納得できることだが、軍隊としての形態を保っているはずの敵軍が同じ行動を取るのはなぜだろうか?
そんなことを疑問に感じつつも、ヴィクトールは生徒たちの大多数が逃走に使ったと思われる街道のある方角へ進路変更を行った。
その時、暗闇の中、進行方向から小さな悲鳴が上がった。
声を発した人物は敵か見方か。ヴィクトールは足を止め前方の闇を凝視する。
ヴィクトールが足を止めた場所から約二十メートル斜め前方、木々の枝の隙間から漏れる月明かりの下でブルグントの兵服を着た歩兵が腰だめでマスケット銃を構えて、座り込んだ一人の生徒に銃口を突きつけていた。
兵士は生徒の手に武器が握られていないことを確認するとじりじりと無言のまま近づく。生徒は恐怖で心身が硬直したのか身動き一つ見せなかった。
二人の間の距離が縮まると更待月の弱い光に生徒の姿を朧げに浮き上がらす。兵士は生徒が丈の長いスカートを履いていることに気付いた。
「女か」
兵士が確認する意味もこめてそう訊ねたのも無理は無い。
女生徒はどうやら逃げる途中でスカートの裾を木に引っ掛けたとか、地面を覆う草に気付かずに根っこに躓いて泥濘にダイブでもしたのであろう、顔だけでなく胸辺りまで泥に覆われ、一見しただけでは性別の判別がつかなかったのだ。
顔を拭ったのか制服の両袖口は大きく泥で汚れていたが、それでも拭いきれなかった泥が顔にこびりついてもはや相好すら判別不明である。
泥の中、ひときわ大きな目だけが場違いな存在感をアピールしていた。
「フランシアの王立士官学校の生徒だな」
兵士は明確なブルグント語で女生徒にそう尋ねた。
といってもブルグント語とフランシア語は兄弟のようなもの、極めてよく似た言語である。通訳無しでも大まかな意味は通じる。
女生徒もその兵士の言葉は理解できたらしく兵士の問いに小さく頷いた。
「死にたくなければ質問に答えるんだ。抵抗せず素直に答えれば殺しはしない」
女生徒の手に武器は無くとも兵士は油断を見せない。女生徒が物を投げつけ攻撃してきたり、立ち上がって逃げ出したりする動きをしないか腕や足の動きに不審な点は無いかじっと目を離さない。
「士官学校内にアイリスの三公女というのを知っているな」
「知っているわ」
女生徒は綺麗な発音のブルグント語を用いてそう返事をする。発音だけでない。声も綺麗だった。少女の声は上質のガラスでできた小さなベルの音であるかのように涼やかに凛とした声をしていた。
今度驚くのは兵士の番と言うことになった。フランシア語とブルグント語は近く、国としても国境を接して言るとはいえ、そうそう両言語を使いこなせる人物がいるとは思わなかったのだ。上流階級や国を渡り歩く商人くらいのものであろう。
たとえ将来、軍の中枢を担うであろう士官候補生であってもそう必要とされるスキルとは思われなかった。
だがその兵士にとって相手が話せるとわかったことは望外の喜びであったろう。細かいニュアンスや両言語で異なる単語を伝えるのに困ることは無い。
「そいつらを探している。何処にいる? 特徴は? もしかして・・・お前か?」
もちろんその兵士に女生徒がアイリスの三公女の一人であると確信があって訊ねたわけではない。
なにしろ兵士は命じられた上官から個人の特定に繋がる一切の情報を得ていなかった。写真のない時代だ。どんなに有名人であろうとも余所の国の人間の容姿など知るはずも無かった。
ただ相手の性別が女であるから念のために聞いてみただけである。
その言葉に少女は返事をしなかった。瞬きもせずに大きな瞳で兵士を見返しただけだった。
兵士はそれを銃を突きつけられている恐怖の只中に、突然自分に関係ないことを言われたことで困惑して返答に困っているのだと決めてかかる。
「そんな不思議そうな顔をするな。俺もお前が公女だと思ったわけじゃない。ただこれも軍務だ。上官に命じられたからにはやらねばならない。それこそあらゆる可能性を考えてな。わかるな?」
兵士の言葉に少女は素直に頷いた。
「ではさっそく三公女とやらの特ちょ・・・ウグッッッツ!!!」
いや、少女が頷いたのは兵士の言葉にではなく、兵士の後ろに音も無く忍び寄ったヴィクトールが指を一本立てて黙っててくれとアピールしたことにであった。
ヴィクトールは小銃を両手にしっかりと握って振りかぶると、兵士の後頭部、神経の集中する首筋の急所を狙って振り下ろした。
「グワッファヴ!!!!!!!」
兵士は背後からの思いもよらぬ攻撃に膝から力が抜け、地面に転んで後頭部を押さえながら悶絶する。
「ふぁ・・・! な、なんだ!!? いったい何事だッ!!?」
痛みに耐えかねて悶絶し転がりつつも、兵士は後頭部を強打したことで焦点の合わぬ目ながらも首を回して周囲を懸命に見渡すと、そこに自分と女生徒以外の第三の人物の姿があることを認めた。
「き、貴様ッ!! な、何を!!?」
呂律の回らない舌で呻き声を放ちつつ兵士が小銃の銃口を向けるよりも早く、ヴィクトールもう一度、渾身の力をこめて首筋に冷静に銃床を叩きつける。
もう一度、鈍く重い音が響く。
先程よりもより力を込めて加えた攻撃に敵兵はぴくりとも動かない。
「やった・・・のか・・・?」
喧嘩には馴れているが、ヴィクトールはお日様の当たる真っ当な道を歩いてきたのだ。当然人を殺したことは無い。
長けているのはむしろ人を殺さずに抵抗不能にする術だ。どのくらいの力で人は死ぬものなのかといったことはまだ知らない。
だから敵兵が動き出さないかと内心恐れて、じっと凝視するだけだった。
「止めを刺さないのですか?」
少女の口から同じ年頃の若者には似つかわしくない矯激な一言が飛び出した。
敵を始末する。戦場では極自然に行われており、当たり前のことである。敵を殺さなければ自分や仲間が殺されるのである。
だがヴィクトールの脳裏にはちらりとも思い浮かばなかったことでもあった。
ヴィクトールと少女とは視線が合う。少女は真っ直ぐ濁りの無い眼をしていた。
少女は倒した敵兵に止めを刺す───すなわち人を殺すことになんの抵抗も感じていないようであった。
むしろヴィクトールが敵兵を始末することを逡巡することが理解できないようだった。
「ああ・・・そうだな。そのとおりだ」
ヴィクトールは銃口を倒れた敵兵の後頭部へと向け引き金に指をかけた。




