第十三話 予定外
低木と草地に覆われた丘陵が広がる、一見するとのどかな田舎とまでいえるほどの光景だったこれまでと打って変わって、一行の視界は遠くは山で、近くは高く伸びた木々で塞がれることとなった。生徒たちは閉塞感がもたらす極度の緊張感に包まれながらそんな足場の悪い道を一歩一歩踏みしめるようにしながら前へと進んだ。
そんな生徒たちと対照的に引率者の教官たちやノルベールら随行の兵士たちが見せる暢気さは勇者の豪胆さを持った、まさに別世界の人間であるかのように見えるほどだった。
それは全ての裏事情を知っている、つまり敵の来襲などありはしないと分かっているからこそ有り得る余裕だった。
「おかしいな」
だがそんな余裕の表情を浮かべるノルベールも内心では小さな不安が渦巻いていた。
「そろそろ迎えの部隊と接触してもいい頃のはずなのだがな・・・」
予定では先日、前線への補給に出たが連絡が途絶えた(ということになっている)輸送隊が補給を終えて帰還するところと偶然出会い、残りの行程を引き継いでもらって、生徒たちはお役御免になるという茶番劇が起きるはずなのである。
ここから先は急坂が続き、舗装も無い山道は足場としても劣悪な状況となる。体力的に問題のある士官候補生たちでは輸送するのも困難を来たすことだろう。なにしろここに来るまでの僅かな距離の間にも既に若干の行程的な遅れが発生しているくらいだった。
本来ならば体力的にも日程的にも余裕のある向こうの部隊が先に到着していなければおかしい。どうやらどこかで手違いか連絡ミスでもあったということだろうか。
困惑しつつも、ノルベールはとりあえず一旦休憩と言うことにしておいて行軍を止める。ここから先に連れて行くのはさすがに危険でもあるからだ。
いや、それどころかここに長時間留まるだけでも危険である。ここは少しばかり前線に近すぎるのだ。
まだまだ前線からは距離があって離れているし、味方の勢力範囲内ではあるのだが、敵の前線から何マイルも離れているわけでもないのだ。軽兵であればその気になればその日のうちに到達できる。敵が威力偵察を目的として敵地深くに進入しないとは誰が言い切れようか。万が一と言うこともあるとノルベールは思った。
そんなノルベールの不安は残念なことに的中することとなる。
自分にとって都合のいい、願望通りのことが本当に起こることはまずありえ無いが、残念なことに自分にとって都合の悪い不安な想像はしばしば現実となって起こりうるのがどうやら世界と言うものの仕組みであるようだった。
ノルベールの行軍停止の合図を聞くと、慣れない輜重の真似事をやらされた生徒たちは嬉しそうにやれやれと重い荷物を背中から下ろした。
次の瞬間だった。『パァン』とも『ターン』とも形容つかぬ乾いた軽い音がその場に木霊した。
「伏せろ!!」
事態がどれほど切迫しているかを示すかのように、その叫びと同時にノルベールはまずその身をもって大地に伏せ実践してみせた。
だが何が起きたのかその意味を理解できた兵士たちだけがその場に伏せただけで、多くの教官や生徒はただ呆然と立ち尽くすだけだった。
手元で発射される時の耳元で鳴り響く銃声と、遠くから響き渡る銃声とではかなり違いがあるから、生徒たちはその音の正体がなんであるか咄嗟には判断できなかったし、教官たちも戦場から離れて久しく、勘が失われていたことでこれまた理解できなかった者が多かったのだ。
結果、多くの者が立ち尽くして事態が把握できずに立ち尽くし、左右に顔を向けて周囲を見回すだけだった。
この時代の歩兵銃の有効射程距離は短い。弾は百メートル飛ぶのだが、実際の有効射程は五十メートルほどである。
幸いなことに敵との距離はもう少し開いていたらしく、第一射と次いで行われた第二射、第三射ともに部隊に有効な打撃を与えたとはいえず、むしろノルベール隊に敵の存在が近いという警報装置の役割を果たしただけだった。
しかし有効射程外から飛んできた玉といえど、それでも十分殺傷能力を有したまま飛んでくるのである。
一旦、行軍陣形を解いて休憩させていた為、気を抜いた生徒たちが互いにおしゃべりをしようと集まって塊となっていたのも敵にとっては格好の的に見えたことだろう。
幸いなことに急所に命中することは無かったが、生徒たちの中には怪我をしたものやかすり傷を負った者が数人出た。
部隊の被害としては軽微を通り越して無傷とも言える状態だったが、その攻撃が生徒たちの心理に与えた影響は計り知れないものがあった。
腰を抜かすもの、悲鳴を上げるもの、混乱のあまりに無秩序に走り出すものなど、現場は混沌の巷と化した。
ヴィクトールは混乱して叫び声をあげ立ち尽くす女生徒の袖の裾を掴んで地面に引き倒す。多少、乱暴なようだが彼女の命を救うためにも、敵に味方のいる場所と距離をこれ以上教えぬためにも必要なことだった。
見ればラウラも同じようにして砲兵科の級友たちをまずは座らせ落ち着かせようと声をかけていた。
同じようにして、事態が逼迫していることに気付いた一部の生徒たちと教官たちがパニックに陥った大多数の生徒たちを、宥めて場の落ち着きを取り戻させようとしていた。
戦うにしろ逃げるにしろ、一つの意思の下で統一した行動を取ったほうが犠牲が少なくなるのは自明の理であることを考えると、これは正しい行動であっただろう。
ヴィクトールら冷静さを保った生徒たちや教官のそのような行動が功を奏したのか、生徒たちはやがてなんとか集団としての形を取り戻す。
もっとも理性でそう判断して彼らがむやみやたらな行動をしなくなったというよりは、恐怖のあまりに萎縮し、パニックを通り越して自らの判断で騒ぐことも動くこともできなくなったというのが正解に近かったかもしれない。
「まさか本当に敵と接触するとは・・・! 貴官、これからどうする!?」
匍匐して近づいた教官が声を低くしてノルベールに当面の方針について相談を開始した。
「研修は中止するしかないでしょう。生徒たちを連れて早急に後退してください。荷も棄てていってもらって結構。とにかく一刻も早く戦場を離脱するべきです。我々が援護します」
「しかしそれでは貴官らの部隊が困るのではないか」
ノルベールらが生徒たちと行動を共にしたのは、前線で活動する兵士たちと自分たちとの体力や行動力の差を知らしめるためと、兵士が傍にいることで自分たちが戦場の近くにいると自覚させ精神を引き締めさせるためである。敵がどれほどの規模で攻撃をかけようとしているのか分からないが、とにかく戦うには数が少ないことだけは確かであった。
つまり生徒たちは手放せない戦力であるはずだ。半人前の生徒であっても猫の手を借りるよりはマシである。
「安心していただきたい。少なくとも貴方がたが退くまでは持ちこたえて見せますよ」
「しかし目の前に敵がいて、不利な状況下で交戦している友軍を見捨てるというのはどうだろうか」
あとあと友軍を見捨てて逃げたと言われるのが嫌なのであろう。その感情は分かるが、ノルベールにしてみればもう少し大局的に物事を考えて欲しいものだと教官を見る目に少し侮蔑の色合いを浮かべた。
「敵の姿を見たわけではありませんが、こんなところまで進入してきたからには、敵の攻撃は大規模で計画的なものであると考えるべきです。前線の部隊が孤立する恐れもあります。ここは一刻も早くメグレー将軍に知らせて、ラインラント駐留軍全てを挙げて対応しなければどのような窮地に陥るとも限りません。些細な感情に捉われてこの場に留まるよりも、貴方がたはその大事な任務を行うべきなのです。こちらの兵力の少なさに気付かれて、敵に包囲される前に早く!」
「・・・わかった・・・すまない!」
教官は一瞬躊躇いの表情を見せたものの、ノルベールに促されて生徒たちの集まっているところに戻っていった。
教官が戻るとすぐさま指示を仰ごうと生徒たちが取り囲んだ。
「この場から離れる支度をせよ。武装と最低限の荷物以外は放棄することを許可する」
「敵が近くにいるのに戦わないんですか?」
教官の言葉に一部の、もちろんごく一部ではあったが少数の男子生徒たちの一部から不満の声が上がる。
いたって血の気が多い性質なのか、女子がいる前だからいい格好をしたいのかは微妙なところだ。戦場の真の恐ろしさを知らないが故の行動である。
「銃を取って戦っても助けになるどころか足手纏いになるだけだ。翻って考えると前線での変事はまだ我が軍全体に知れ渡っていない。軍全体のことを考えれば我らは戦わず退き、敵が我が方の領域深くまで侵攻してきたことを知らせることこそが何よりも重要である」
「補給物資を放棄してかまわないのですか?」
今回の作戦の第一目的は前線への物資の確実な搬入であったはずだ。それを成し遂げてもいないのに、あっさりと放棄するのは理解できないとアルマンは疑問を口にした。
だがその当初の目標そのものが偽りであったことを知る教官はアルマンの言葉を一言の下に退ける。
「かまわない、急げ! 戦場を脱した後に隊列を組む。今はこの場を離れることだけに専念せよ!」
命惜しさといったこともあるだろうが、なんだかんだ言ったが生徒たちが最終的には教官の命令に従って大人しく退却するのを見て、これでよいとノルベールは大いに安堵した。
確かに襲ってきた敵部隊の規模が不明である以上、味方は一兵でも多いに越したことは無いが、士官学校の生徒たちは入学したてでまだ兵士としての最低限の戦闘訓練すら受けていない。兵力としてはあてにはならないことを自身の一回生の時を思い出すことで士官学校出身のノルベールは知っている。
それにその生徒たちを無理に戦力として活用してもよいことはない。勝利したとしても、多大な犠牲を払うことになるだろう。
失われる命の中に大貴族の子弟がいたならば大変なこととなる。ノルベールは首尾よくこの戦いに勝利し凱旋したとしても、褒められるどころか逆に重い処分が下ることは間違い無しだ。
ならば逆転の発想で生徒たちを戦力として当てにせずに、率先して逃がしたほうが得策ではないかと考えたのだ。
生徒たちを逃がすことをまず第一に考えて行動したと抗弁すれば、物資を放棄して後退してもそれほど責められる事は無いはずである。それが本当は己と部下の生存を第一に考えた行動であったとしても、である。
例え軍上層部から罪に問われる動きになろうとも、巧く立ち回れば生徒たちの親の貴族たちから圧力をかけることによって無罪放免を勝ち取ることはそう難しいことではないと計算したのだ。
つまりノルベールはトータルで生き延びる可能性が高い方策を頭の中で素早く、そしてしたたかに計算したのだ。
「無闇に撃ってこちらの兵数を悟られるような馬鹿な真似はするんじゃないぞ。兵力が少ないということを悟られないように、あえて隙を見せ誘い込もうとしているんじゃないか、余裕を持って応対していると相手に思わせて警戒させることで時間を稼ぐんだ」
ノルベールは小隊の兵に敵が至近に接近するまで発砲を禁じる。
敵もこちらの兵力を把握しきれてないはずだ。遠くから奇襲をかけてきたのが何よりもの証である。もしこちらの兵の半数以上が士官学校入学したての素人で、実数よりも兵力が小さいということが分かっていれば有無を言わさず力攻めしてくるはずである。何故ならそれでノルベールらは簡単に全滅してしまうのだから。
そうしなかったということは敵は多く見積もっても、ノルベール隊と生徒たちを合わせた数よりもそう大きな数ではないはずだ。
ならばノルベール隊の兵力であっても生徒たちを逃がす時間くらいは稼げるはずとノルベールは判断した。
「あのひよっこどもが逃げる時間を稼ぎ出すまでの辛抱だ。いいな生きて帰るんだ。敵を倒そうなどと余計な欲を出すんじゃないぞ」
とはいえ十分に骨を折る展開になるだろう。兵たちの手前、余裕の表情を作ってみせるノルベールだったが、額には僅かに汗がにじんでいた。
ノルベール隊が踏みとどまることでその場を犠牲者を出すことなく脱出した生徒たちだったが、銃弾の届かぬところまで落ち延びても一息つくことは出来なかった。
実は遭遇した敵軍は今回の攻勢において一局面でしかなく、敵軍の攻勢はノルベールの想像を遥かに越えて壮大で大規模であったのだ。僅かな荷物を担いで街道を早足で後退する生徒たちを狙う目は他にもあったのだ。
再び銃の音が響き渡った。先程と違い、複数同時に、そして先程よりも近くでその音は起きた。
だが生徒たちはその音にピクリと反応し、先程の教訓を生かして、いや、先程の恐怖が甦ってか、ほとんどの生徒たちが一斉に地面に伏して倒れた。
幸い、木々の生い茂った渓谷を抜けるような道だった。太い幹、生い茂った木々の葉などで跳弾することで生徒たちに犠牲者は出なかった。
だが一発の銃弾が不幸にして一人の教官の眉間を射抜いた。
血と脳漿を撒き散らしつつ、教官の頭部は空中にて四散した。




