第十二話 人の上に立つうえで必要とされるもの
大尉は突然、二人の間に割って入った不遜な生徒に非友好的な一瞥をくれる。
「君は何者かね?」
親子ほども年の離れた上官に険しい視線を向けられたその生徒は背筋を綺麗に伸ばして強張った顔を上げた。
「王立士官学校一回生のドルレアックと申します!」
「ふむ、ドルレアック君か。それで何用かな? 我々は今、軍務に関わる大事な会話をしているのだが」
口調こそ丁寧だが、半人前の小僧に関わっている時間などないとばかりに大尉は鋭い眼光でドルレアックを威圧した。
この大尉は後方勤務が主で戦闘経験が豊かであるというわけではなかったが、それでも長年戦場暮らしを続けてきた男特有の危険な匂いを感じさせるし、何よりも生徒たちにしてみれば上司でもあり、年の離れた大人である。ドルレアックは思わず気後れしてしまう。
「あ、あの我々はまだ士官学校に入ったばかりでして・・・く、訓練も十分ではありません。て、敵と戦う準備が整っていないのです。こんな状態で我々が戦闘に加わっても、手助けに成るどころか、むしろ足を引っ張るばかりではないかと思うのですが」
思いは同じなのか、生徒たちのうちの多くの顔がドルレアックの言葉に無言で頷いて同意を表す。
「ほほう・・・なるほど。戦う訓練をまだ十分に受けていない。そう言いたい訳だな」
「そ、そうです」
「ならば君は将来、敵が攻めてきたとしても準備が整っていないと言って、戦場で味方が撃たれているのを尻目に横で指をくわえてただ眺めているつもりなのか? それが軍人としての正しい姿だとでも言うのかな?」
大尉に己の見識違いを鼻で笑われたドルレアックは顔を赤くして一瞬口ごもるが、それで黙ってしまっては、なし崩しに危険な戦場へと投入されかねないと思い、別の切り口から議論を進めようとした。
「こ、今年度の一年には公爵家のご令嬢もいらっしゃるのです、ご存知ですか?」
「公爵家の子女か・・・ほほう、なかなかの大物だな」
「で、ですよね。訓練もそこそこに未熟な彼女たちを戦場に出して、その中から死人でも出たら大尉殿も社会的に拙い立場になられるのでは・・・?」
ドルレアックのその身分制度を逆手に取ったような絡め手の攻めにも大尉は鼻で笑うだけだった。
「ならば訊こう。敵兵は兵の一人が公爵家の子女だからといって、避けて攻撃してくれるのかね?」
「それは・・・ありえないことです」
「その通り。兵にしてみれば相手が平民であれ貴族であれ全てが等価値な倒すべき敵でしかない。地位も身分も何の意味も無い、真の平等が支配する無慈悲な場所、それが戦場なのだ。ひとたび軍人となったからにはたった一発の銃弾で落命することもある。彼女たちも、そして彼女たちを士官学校に入学させた親も戦場に出るということの意味、死ぬ可能性があるということは十分に知ってのことであろう。そのような斟酌は無用だ」
ドルレアックだけでなく、その場にいたヴィクトールを含む全ての生徒たちが思わぬ成り行きに息を呑んだ。
それはそうだろう。なるほど確かに大尉の言葉は正論であり、それに真っ向から反論することは誰にもできそうになかったが、建前だけを押し通せるほど世界は単純明快に優しく作られてはいないのである。
公爵家という大貴族の令嬢がもし戦死でもしたら、例えその死に対して一片の過失が無かったとしても司令官に厳罰が下される、それが貴族制と言う社会の在り様ではなかろうか。
いや、例え法的に裁かれなくても、遺族があらゆる手段を用いて罪を贖わせようとするだろうし、そして社会もその行為を是とすることくらいは彼ら学生ですら考えつく。それが怖くないのであろうか。この目の前の中年の強張った髭の持ち主は処罰や報復など恐れぬ豪胆な男なのか、それとも年若い生徒たちですら考え付くそのことを思いつかないほどの愚か者なのであろうか。理解しがたい思考に困惑し、そして前線行きの話はどうやっても取り消せないことに恐怖し、生徒たちは俯いたままひっそりと目線だけを左右に走らせ他の生徒の顔色を窺った。
かつての士官学校一回生であった自分も同じ経験をしただけに、その生徒たちの困惑を我が事のようにノルベールは十分に理解した。
十分に理解したうえで同情するのではなく、喉下にこみ上げるおかしさを押さえつけることに必死になる。何故ならこれもまた、ハプニングを装ったあくまでも予定調和の行動であったからだ。
前線で敵兵の動きがあったことも嘘、攻撃があったことも嘘、輸送隊と連絡がつかないことも嘘、そもそも輸送隊など送り出してもいないのだ。
ここまでの出来事は命じられたことを命じられたとおりに行えば予定通りに終了するといったものであったが、戦場ではあらゆる出来事が複数の思惑をもって同時に進行し、想定外の事態がどうしても発生する。軍の指揮官は呆然とすることも狼狽することもなく、泰然自若し瞬時にそれに対処しなければならない。それを教え込ませることも今回の教練の重要な目的の一つである。であるからわざとハプニングを演出して見せて生徒たちの心理に圧力をかけたのである。
そもそもラインラント駐留軍勤務といえば将官の出世コースから外れ、赴任先として望まれぬ場所であるとはいえ、五十年戦争から今に至るまで戦闘が続いているほとんど唯一の場所なのである。
学問としての軍事学がまだまだ手探り段階の状況であり、データの蓄積や分析といったものがあまり重んじられていなかったこの時代では実戦が何よりもの軍人育成の場となる。なにしろいつまで経っても成長しない軍人は死ぬのだ。つまりラインラントで生き残っている将官は精鋭揃いと言って良い。この大尉からメグレー将軍に至るまで判断を過つことなどありはしない。
もし本当に前線で戦闘が起きたのならば、大貴族の子女が死んだ場合に起こるあれこれを煩いと思うからで無く、単に戦闘をスムーズに進めるために、士官学校の生徒といったあらゆる意味で戦場で足手纏いになる存在などすぐさまラインラントから御退去願ったことだろう。
だがそんな内実は露ほども知らない生徒たちは突然の成り行きに大きなプレッシャーと戦闘に対する恐怖心とを感じて怯え、顔面を蒼白にさせるばかりである。
「何を陰気な顔をしているのよ。空元気でもいいから元気を出しなさい!」
そのような中で一人、大言壮語して気を吐くのはラウラである。
「でも前線に出るんだぜ・・・もしかしたら死んじゃうかもしれないんだぜ・・・」
目も合わせようともせずに俯いたままぽつりと同級生が呟くのをラウラは聞き逃さなかった。
「軍人を志して士官学校に入ったからには、誰しもいつかは戦場に出る日が来るってものよ。少しばかりそれが早くなっただけよ。戦闘に巻き込まれても別に死ぬって決まっているわけじゃない。だいたい私たちがこれから就くのは輸送任務よ。戦闘があるとさえ決まってはいない。それなのに地獄の蓋が開いたかのような絶望を顔に浮かべるほどのことじゃないわ。そんなんじゃむしろ死神が好んでやってきちゃう。昔から戦場で真っ先に死ぬのは恐怖に心臓を掴まれた者と言われているの。己の内なる恐怖心と戦って追い払うのよ!」
内向きな同級生たちの気持ちを奮い立たすようにラウラはそう鼓舞した。
だが勇ましい言葉とは裏腹にラウラの固く握り締めた拳は僅かに震えていた。ラインラントに並ぶ紛争地帯である辺境地域の出であるとはいえ、そこは伯爵家の総領姫、傷つかないように蝶よ花よと大事に育てられたに違いないのだ。銃弾の音が聞こえるようなところには足を踏み入れたことなど無いに違いない。瞼を閉じれば自分の死が形となって眼前に現れて恐怖が湧き上がってきたのであろう。
それでもその内心を押し殺して、周囲に気を使って明るく振舞う姿勢は立派だとヴィクトールは思った。
軍隊という組織であっても所詮は人間の集団である。人間は機械じゃない。どんなに訓練や修練を積もうが雰囲気や空気、感情に行動は左右される。
半分暴論ともいえるラウラの言葉であったが、言われてみればそうかもしれないぐらい程度ではあったが生徒たちの感情を揺さぶるものはあった。
ラウラの言葉にお通夜みたいな陰気な空気は吹き払われ、場の雰囲気は先程よりはいくぶんマシになった。
それはどちらかというと命令拒否が出来ないことから来る、やけくそ気味の空元気ではあったが、少しばかり良くなった周囲の雰囲気を感じて、大したものだとヴィクトールはラウラのことを大いに見直した。
ラウラはヴィクトールなどからしたら本来は口を利くのもはばかられる高貴な身分の人間である。さぞかし我侭一杯に育てられたのであろうと勝手に想像していたが、将来、人の上に立つことを考えてしっかりとした教育を受け、本人もそれを自覚して己を律しているのであろうことを垣間見させた。
士気が落ちた人間はややもすれば間違いを犯しがちだし、作業効率も落ちる。組織と言うのは集団にまとまることで個人の得手不得手を均一化して効率化を行い、一人では不可能な事業を為しえるためにあるものだが、そんな人間ばかりいては組織としても十分な結果を出すことは出来ないのだ。軍隊とて例外ではない。
このような状況に陥った時に士官までもが兵と同じように不満や愚痴を垂れ流しているだけでは士気は落ちる一方だ。
もちろん士官としては最悪の状況を想定するというネガティブな思考も持ち合わせることは絶対に必要なことだが、少なくとも兵士たちの前では極めてポジティブに、例え負けると分かっていても勝てると笑ってみせることもまた必要なのであろう。
望まれる士官の姿とはかくあるべきなのだとヴィクトールは初めて肌で感じた。
だが人事ではない。自分もいずれ士官になる身なのである。見習わなければいけないと思いを新たにもする。
ラウラの言葉で気を持ち直した生徒たちはノルベールの指示に従い出立の準備を始めた。
再び倉庫に行って、相変らず仏頂面の倉庫番から必要な物資をそれぞれ受け取り、背嚢に詰め込み荷を整える。
「妙だな・・・」
自分の準備を終えたヴィクトールが背嚢を担ぎ上げるのに一苦労しているエミリエンヌを手伝うその横でアルマンは一人で考え込んでいた。
あくまで通常の女子と比べたらであるが、エミリエンヌは見かけによらず足腰が頑強だ。全体的な筋力の不足と荷物と身体の重量比から立ち上がることこそ苦労するものの、立ち上がってバランスを整えさえすればそれ以上の手助けは必要無い。エミリエンヌを立ち上がらせ手が空いたヴィクトールがアルマンのその言葉に反応する。
「何がだ?」
「激しい戦闘が今も断続的に行われているのなら、物資を送るだけでなく余剰兵員も投入して戦況を好転させようとすべきだと思うんだけどな」
「予備戦力を投入しなければならないほど戦局が激化していないんだろう。俺たちを怯えさせるために多少大げさに言ったとか」
「現状で五分の戦いをしているのだとしても、あの口振りでは決して敵の攻撃をはねつけたというわけではない。敵が戦力を追加で投入してくるという可能性を考えていないのだろうか? 物資だけあれば敵を撃退できると? それは甘い考えじゃないかな。速やかに敵を排除し、攻撃の意図を挫くには兵力の増強こそが手っ取り早いと思う。いくらなんでも僕たちを兵士として前線で使うことを本気で考えているとは思えないけど。なら僕らが前線に行くことは単なる足手纏いでしかない」
そんな事態が起きたならば、士官学校の研修旅行みたいなことを続けている場合ではなく、他にすべきことがいくらでもあるのではないかとアルマンは言いたいらしい。
言われてみれば確かにその意見にはヴィクトールも頷くしかない。
だけれども現実に行われていることはそうではない。別にアルマンの言うことに無意味に反論しようといった反発心からではなく、ラインラント駐留軍が何を持ってこのような行動を行おうとしているのか、その理由らしきものを探ることも有益かもしれないと思い、ヴィクトールは検証する意味でもアルマンに反対意見をぶつけた。
「今回の攻撃は陽動で、我が軍の眼がそこに集中した時に敵主力が他に攻撃をかけるのが敵の本当の目的ではないかと上の方が判断したんじゃないかな」
何度も言うようであるがラインラントの最果て、部隊の展開もしにくく、補給にも困難がつき物だ。当然、戦略的要地でもなければ、万が一オストランコニアの領土内に兵が足を踏み入れれば厄介なことにもなる。
名目無く兵が国境を踏み越えれば外交的に大きな問題となる。その失点を周辺諸国も一斉に責め立てるだろう。
それに五十年戦争で敗北したとはいえ未だオストランコニアはパンノニアの強国の一つである。人の家に土足で踏み込んできた泥棒をみすみす見逃すとは思えない。戦争になるに違いない。
ブルグントにしてもフランシアとオストランコニアの二国を一度に相手にしたくはないだろう。
以上の理由からラインラント方面軍はこの作戦が陽動ではないかと考えたのではないかとヴィクトールは思ったのだ。
「・・・そういう考えもあるか・・・」
確かに大きな穴は埋めたようではある。でもまだまだ理解しがたい点は残っていた。
完全に納得できる話とは言いがたかったが、現実にアルマンの理解できない範疇の出来事が眼前で展開されている以上、ヴィクトールのそういった考えもないわけではないかと半ば強引に己の心を納得させた。
それにあれこれ考えても士官学校の一生徒では現状を受け入れる以外に出来ることはない。どうしようもないことなのである。
それは賢明なことであった。アルマンもヴィクトールも賢明な性質ではあったが、いくら時間を費やして検討しても、それでもまさかブルグントの侵攻もそれに付随して必要となった輸送計画も全ては偽者の、壮大なドッキリのようなものだという結論にはたどり着けなかったに違いない。
時間を無駄にせずにすんで良かったというものである。




